頭山満─維新・興亜陣営最大のカリスマ

南洲の魂を追い求めて─終生の愛読書『洗心洞箚記』

大正十年秋、後に五・一五事件に連座する本間憲一郎は、(とう)(やま)(みつる)のお伴をして、水戸の那珂川で鮭漁を楽しんでいた。船頭が一尾でも多く獲ろうと、焦りはじめたときである。川の中流で船が橋に激突、その衝撃で船は大きく揺れ、船中の人は皆横倒しになった。そのとき、頭山は冬外套を着て、両手をふところに入れていた。
「頭山先生が危ない!」
本間は咄嗟に頭山の身を案じた。川の流れは深くて速い。転覆すれば命にかかわる。
ところが、本間が頭山を見ると、頭から水飛沫を被ったにもかかわらず、ふところに手を入れたまま、眉毛一つ動かさず悠然としている。驚きもせず、慌てもせず、いつもの温顔を漂わせていたのである。「これが無心ということなのか」。
この体験を本間は振り返り、頭山が大塩平八郎の心境に到達していたものと信じていると書き残している。大塩は天保三(一八三二)年、中江藤樹の墓参の帰り、琵琶湖で暴風に遭い、転覆の危機に直面した。このときの教訓を大塩は、その講義ノート『洗心洞箚記』に記している。
「あわや転覆か」と思われた瞬間、大塩は不覚にも、慄き、恐れの気持ちを抱いた。だが、次の瞬間、「日頃学んだことは、一体どこにいってしまったのか」と思い直し、王陽明の言う「良知」(万人の心の内に備わっている先天的な道徳知)を覚醒させたのである。すると、大塩は「自己の何たるか」さえも忘れ、逆巻く波の事さえも忘れ、心の平静を取り戻した。いつしか、つむじ風は止み、大塩は難を逃れたのだった。
大塩は、この自らの体験を、北宋時代の儒学者、程伊川が、やはり転覆の危機に遭ったとき、「誠実な、敬虔な心映え」を保持することによって平静を保つことができたという教訓に擬えて紹介し、「良知」=「誠実な、敬虔な心映え」の重要性を説いたのだった。
頭山が終生愛読した『洗心洞箚記』を初めて手にしたのは、その四十二年前の明治十二年、二十五歳のときである。西南戦争で斃れた西郷南洲の魂を探して、頭山は鹿児島に赴き、西郷邸を訪れた。出迎えたのは、沖永良部島時代からの南洲の盟友で、南洲の遺族の世話をしていた川口雪篷であった。白髪頭で、恰幅の良い威厳のあるこの人物は、大塩の養子格之助であるという説もある。
「もはや鹿児島には何もない。南洲のような人物はもう現れない」と語る川口に対して、頭山は南洲の愛読書を見せてほしいと迫った。このとき川口が出してきたのが『洗心洞箚記』であった。そこには南洲の書き込みがあった。頭山はまた、丁重に掛けられていた大塩の書幅を見逃さなかった。南洲は簡素な生活を旨とし、決して華美を追求しなかった。ところが、大塩の書幅の表装は驚くほど立派なものだったのである。頭山は、南洲がいかに深く大塩に傾倒していたかを思い知ったのである。
こうして、頭山は南洲精神の体現者になるとともに、大塩の思想的影響を強く受けることになったのである。また、頭山の国士としての志操は、永富(どく)(しょう)(あん)の『独嘯(のう)()』によって養はれたとも言われる。さらに、彼は青年期に『靖献遺言』、『和論語』、『水滸伝』、『三国志』、『漢楚軍談』、『太閤記』などを愛読していた。

「大和魂を磨くだけでいい」
頭山満は、安政二(一八五五)年四月十二日旧福岡藩士筒井家の三男として生まれ、乙次郎と命名された。兄弟のものでも欲しいと思うものは容赦なくもぎ取り、真昼間から近所の寺の柿の木に登って手当たり次第に食い散らかすような、無鉄砲でやんちゃな「乙しゃん」に、母はほとほと手を焼いた。一日でも半日でも普通の子供であってくれたらと歎いたほどである。
ただ、乙しゃんは物に動じない子供だった。着物が汚れていようが、下駄が切れていようが、怪我をして出血していようが、全く気にもしなかった。盟友の杉山茂丸の長男、杉山泰道(夢野久作)は、そんな乙次郎を、「ヌーツとして、ボーツとしていた」として「ヌーボー」と表現した。
さて、慶応元(一八六五)年、福岡藩では勤皇派のリーダー加藤司書ら百四十人以上が一斉に弾圧された。世に言う「乙丑の獄」である。もともと福岡藩は平野國臣に代表される「勤皇の志士」を数多く輩出していたが、この弾圧によって勤皇派は壊滅的な打撃を受けたのである。
その頃、乙次郎は(ちん)西(ぜい)(はち)(ろう)(ため)(とも)にあやかり、八郎と改名した。さらに十四歳のときに大宰府の天満宮に参詣した際、神殿の上に掛っていた「天満宮」の額を見て、「満」と改めることにした。周囲は「満つれば欠くる世の習ひぢやから、元の八郎の方がよからう」と制したが、「己は性来人に屈せぬ奴ぢやから、名負け等する男ぢやない、己が選んだ『満』の一字が、果して凶なれば、早く禍に罹つて死ぬ方が己は好きぢや」と言って聞き入れなかったという。
満に改名してから、彼の行いにも変化が生じた。つまらない欲は捨てようと考え、兄弟のものを奪い取るようなことはしなくなった。
十七歳になって、福岡藩の勤皇派の流れを汲む、男装の女医高場(たかば)(おさむ)の興志塾に入門してからは、さらに著しい成長を見せる。
高場は、亀井南冥の孫の亀井陽州門下に属する。後に満は、亀井の漢学について、「日本中は天子様と人民だけであり、その人民は大和魂を磨けばいいという、実地専門の勤皇一点張りの漢学」だと評している。この独特の教えを受け、満は「命も金もいらない、日本のために働き日本男児らしく死ねばいい」と考えるようになっていく。
満が仙人修行をはじめたのもこの頃だ。福岡に亡命した高杉晋作を匿った女性勤皇家、野村(ぼう)(とう)()が隠棲していた平尾山荘に籠り、飯と梅干だけで暮らしたり、一週間に及ぶ断食をしたりと、禁欲修行に打ち込んだのである。福岡・雷山の千如寺という山寺の和尚になった旧友とともに明道和尚のところに行き、数週間飲まず食わずの座禅を競い合ったりもした。
太宰府天満宮神域に連なる霊峰宝満山にも籠った。ここは、天真正傳神道流七代、夢想権之助が籠り、神道夢想流を生み出すことになる、「丸木をもって水月を知れ」との御神託を得た場所として知られる。
ある晩、満が深い山奥へ行き、道のないところを歩いていたときのことだ。二、三匹の狼が出てきて、後をついてきた。ところが、満は全く気にすることなく山を分けて歩き続けた。すると、狼は近付いてきて、満の腓に噛みついてきた。それでも平気で振り向きもせず歩き続けたのである。狼たちは張り合いをなくし、どこかへ行ってしまったという(『頭山満言志録』書肆心水、平成十八年、三百四頁)。ちなみに、こうした満の山奥での体験が、手塚治虫の『ジャングル大帝』の着想にも影響を与えたとも言われている。
満は興志塾で尊皇の心を強めるとともに、独自の修行によって、断食しても平気でいられる自己制御力を身につけた。

引き継がれた南洲の文明観
満が母方の頭山家の養子となったのは十九歳のときのことである。その三年後の明治九年、明治政府に対する反乱が各地で勃発する。十月二十四日に熊本県で神風連の乱が、同月二十七日に福岡で秋月の乱が、さらに山口で萩の乱が起こった。頭山も反乱に呼応しようとした。進藤喜平太、箱田六輔らとともに蜂起を準備したのである。だが、家宅捜査を受け、「大久保を斬れ」と書いた一札が発見され、投獄されてしまう。その結果、頭山らは西南戦争勃発を獄中で知ることになる。頭山らが釈放されたのは、皮肉にも南洲の死の翌日であった。
生き残った頭山は、自らの人生を、維新の貫徹を目指した南洲の思いを引き継ぐことに捧げようと誓ったに違いない。門下の鈴木善一は『興亜運動と頭山満翁』において、「藤田東湖、西郷南洲亡きあと、その道統を継いで、国体を護持し国脈を長養せしものは浪人頭山満であり、浪人内田良平ではなかつたか」と書いている。また、頭山は萩の乱を率いた前原一誠を非常に尊敬していた。前原が事破れたときに同志に与えた書簡を終生記憶し、常々青年に読み聞かせたという。
明治十一年五月に大久保利通が暗殺されると、頭山は板垣退助への期待を高め、高知に飛んだ。頭山は自由民権派との連携も進めていたのである。すでに、板垣や植木枝盛らが創設した立志社に倣って、明治八年に武部小四郎が組織した矯志社にも参加していた。明治十一年末に頭山が結成した向陽社は、植木の思想的影響を強く受けている。
翌十二年、向陽社は玄洋社と改称され、社則として「皇室を敬戴すべし」、「本国を愛重すべし」、「人民の権利を固守すべし」を掲げた。もともと、向陽社・玄洋社は、国権、民権といった対立軸ではとらえ切れない。
「敬天愛人」に集約される南洲の思想自体、決して民権と矛盾するものではなかった。南洲は、「忠孝仁愛教化の道は、政事の大本にして、万世に亘り、宇宙に弥り、易ふ可からざるの要道也。道は天地自然の物なれば、西洋と雖も決して別無し」とも語っている。この南洲の言葉について、頭山は『大西郷遺訓―立雲頭山満先生講評』において、「お釈迦様のような大きな心」だと評している。
南洲の志は、維新の貫徹を通じて、西洋近代文明を乗り越えることにあったかに見える。「文明とは、道の普く行はるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言ふには非ず。世人の唱ふる所何が文明やら、何が野蛮やら、些とも分からぬぞ」という言葉に、それは明確に示されている。頭山はこの言葉を受けて、「英米なんぞの世界に対する仕打ちはどうぢや。我儘勝手なことばかりして、未開後進国の為めに、手を引いて教へてやるやうなことは、塵一つでもして居らぬ」と語っている。

「敬神、尊皇、一以貫宇宙」
つまり、南洲の思想と同様、頭山の思想は国家主義、国権主義という狭い発想を超える、宇宙の真理に基づく普遍的な思想であった。詩聖タゴールとの深い共鳴も、頭山の思想の普遍性を示すものである。タゴールは頭山について「インド古来の聖者を目の前に見るような感じである」と語っている。大正十三年六月に実現したタゴールと頭山の会見の模様を、随行していたイギリス人アンドリューは次のように記録している。
「並み居る会衆は恰も礼拝の行はるゝ前に跪づけるが如く、荘厳なる沈黙に引き入れられた。その光景たるや恰も東洋に於ける二つの国がこの儀式に依つて、慈愛の絆で結び付いたかの如く思はれたのである」
タゴールは、次第に日本政府に対して厳しい批判を展開するようになっていったが、頭山に対する信頼は揺るがなかった。昭和四年六月の来日の際には、頭山に宛てた書簡で「親愛なる友よ。……人道の大義のために尽されつゝある貴下の使命と、同じく人道のために人類の同胞愛を、彼方より此方へと押し拡めつゝある予の使命との一致することを知つて、予は限りなき喜悦を感ずる」と伝えている。
チャンドラ・ボースも、頭山が常に地上の人間を相手にするよりは天上の神、自然そのものを相手に話しかけ、行動していることに心から感銘を受けていた。
だからこそ、頭山の尊皇は決して教条的なものではなく、根源的な心である「敬神」と不可分であった。「敬神、尊皇、一以貫宇宙」という言葉にそれは如実に示されている。頭山の敬神の行動は人を感動させるに十分なものであった。例えば、昭和四年に諏訪神社に参詣したときのことである。頭山は社前でまず下駄を脱ぎ、足袋だけになると、直ちに土下座し、額を社頭の砂利にすりつけんばかりにして礼拝し、暫くの間頭を上げようとしなかった。このときの光景を目の当たりにした鈴木善一は「並居る人々は翁の敬虔厳粛なる礼拝振りに痛く感激し、少時が程は皆電気に打たれた様に森閑と固唾を飲んだ」と回想している(藤本尚則編『頭山精神』葦書房、平成五年、六十九頁)。
実は、「満」と改名した十四歳のとき、母の大病の平癒を箱崎八幡宮で必死に祈り、母は回復した。頭山の敬神はそのときからはじまっているのかもしれない。大島酸素療法研究所長を務めた大島(なみ)()は、「頭山翁の皇室尊崇は、崇敬を通り越して畏怖の情である。……宇宙を包容されたる広大無辺の親心の権化であらせられる 天皇の大御親心への感激」こそが、頭山の人生を支配していると書いている(前掲書九十三頁)。
頭山の無私の心、命をも惜しまない達観は、南洲や大塩の思想の吸収、精神修養の実践によって養われた敬神の心に支えられていたのである。
彼は、「天子様は宇宙第一の尊い生神であらせられる。一切の万物、悉く 天子様の物でないものはない。わけても、一番大切な御宝は、我々一億の日本臣民である。此の 天子様の大御宝である我々の生命は、自分の生命であつて而も自分のものでない、皆大いなる生命の分子である」とも語る。
頭山の孫の頭山興助氏は、昭和に入ってもなお、頭山家には「サムライの家」という気風が色濃く残り、頭山家では「生き死ににかかわること以外では『大変だ』という言葉を使うな」と教えられてきたと語っている。
また、興助氏は、頭山には「陛下のこと以外は何でもよい」との信念があり、それが物事を白か黒かで割り切ろうとしない特異な生き方にも表れているという。その交友関係は、時としてイデオロギーを超え、伊藤野枝などのアナーキストにまで及んでいた。だからこそ、彼は厳しく対立する二つのものを包み込むことができたのだ。興助氏は、「三男秀三が、掛け替えのない盟友だった犬養毅暗殺に関与したときにも、頭山は微動だにしなかった」と明かす。

カリスマ性の源泉─精神性と実業の才覚
普通選挙法案の成立は断じて黙視できないとして、敢えて頭山が立ち上がったのも、普選が西洋流の個人主義の思想に基づくものであり、それがわが国体の基礎であり、尊皇と不可分の家族主義を破壊するものだと判断したからにほかならない。
だが、政界の大勢は普通選挙法案に賛成で、法案通過阻止は極めて困難な情勢にあった。内田良平は、見込みなき運動を推進して成果なく終わった場合に、「先生の御名に関する様なことになっては困ります」と案じたが、頭山は国家のためにならないと思う事に直面したとき、成否を問わず力の限り努力することが、君国に報ずる吾人の任務だと説き、反対運動は開始された。頭山らは、家長に対して選挙権を与えるべきとの主張を「純正普選」と称し、果敢に運動を展開した。
結局、普通選挙法案阻止はできなかったが、頭山を中心とする運動は、多くの場合に時の政府を動かすほどの力を持った。列強との不平等条約改正問題、日露開戦、そして宮中某重大事件でも、頭山らの主張は事態を大きく動かした。
夢野久作は、頭山を「上は代々の総理から、下は日本中の生命知らずの壮士や無頼漢からまでも恐れ、敬はれながら、自分がソレ程のエライ人間であることはチットモ知らないまんまに、普通の人間と同様に親孝行をして、老人や子供を可愛がつて、チツトモ威張らないで弱い者の味方になつて来た人である」と書いている(『頭山満言志録』二百六頁)。
明治四十三年には、『冒険世界』が発表した「現代豪傑」ランキングで、頭山は一万千五百三十八票を獲得、三浦観樹(八千七百三十一票)、乃木希典(七千三百七十七票)らを抑えて一位に輝いた。このランキングに付された頭山評には「その人気一世を籠蓋し、その人格蒼莽方物すべからず、ある時は深沈大度の英雄の如く、ある時は深山大沢の魔物の如く、また山師の如く、国士の如く、万金を抛って志士を養ふ。その着眼非凡にして一種奇異の人物たり」とあった。
頭山は維新・興亜陣営で最大のカリスマ性を発揮したのである。ただし、そのカリスマ性は、仙人の如き、真のサムライの如き人間性にのみ基づくものではなかった。彼には、運動に必要な財政的基盤を整えられる、実業家の才覚があった。明治十九年、玄洋社の結城虎五郎を介して筑前山の炭鉱を入手、その後次々と炭鉱を手に入れていった。どんな山師よりも炭鉱をうまく売り買いできたと言われる。筑豊で四百万坪、夕張で千五百万坪の炭坑を所有していた時代もある。いわば「オイル・キング」になれるほどの才覚を備えていたのである。
頭山は自分で金を作ることができたから、金に頭を下げることがなかったのである。しかも、頭山は成金になれるだけの力を持ちながら、自らのために使うことなく、孫文への支援をはじめ、常に天下のため、大義のために使ったのである。興助氏は、満の書「運用の妙は一心に存す」(『宋史』岳飛伝)に注目し、満が天下のために使うという志と、それを裏づける経営的才覚の両立を重視していたことを示唆している。

貫かれた興亜の理想
維新の貫徹を目指した国内での運動とともに、興亜の理想に基づいたアジアの志士たちへの支援は良く知られている。その足掛かりとなったのが、朝鮮開化派の指導者、金玉均に対する支援であった。以来、孫文やビハリ・ボースだけではなく、ウ・オッタマ、クォン・デ、プラタップ、クルバンガリー、リカルテなど数多くの志士たちを献身的に支援した(拙著『アジア英雄伝』展転社、平成二十年)。この実績は、わが国の宝である。
確かに、興亜論は列強のアジア進出に対する対抗措置という側面を持っていた。しかし、興亜論の本質は、「高天原を地上につくる」というわが国体の理想を国際社会に適用することなのではなかろうか。それは、八紘為宇の精神によって、世界文明の在り方を転換させることでもある。頭山は西洋近代の超克という志を抱きつつ、国内維新と興亜を両輪として推進した。それは、「真の亜細亜民族の兄弟相和する時代が来りかくして初めて文明と云ふ分野における新しい何物かを世界に示すこととなるのである」という言葉に端的に示されている(『頭山精神』百十五頁)。
興亜論においてもまた、頭山は南洲の真髄を引き継いでいた。「正道を踏み、国を以て斃るるの精神無くんば、外国交際は全かる可からず」という南洲の発言に、頭山は「正しい道をさへ踏んで行くならば、国を以て斃るゝとも、決して恥ずべきことぢゃない」と呼応した。頭山の興亜論は、かくも崇高な理想に支えられていたのである。
さらに頭山は「広く弱小国をくんで、それぞれ文化を進めしむるのが、之が国を為すの理想といふものではないか。たゞ人の国を征服して、之を掠奪し、苛斂誅求して他の弱小国民を苦しめる丈ならば、何も国家を作つてゐる必要はないのぢや」とさえ語っている。
頭山の興亜論は、南洲の精神を体現しようとして志半ばで斃れた荒尾精の影響によって確立されたものだろう。大川周明は、「荒尾の雄渾高明なる精神は、至深の感銘を頭山翁に与へたに相違ない」と書いている(大川周明著、中島岳志編『頭山満と近代日本』春風社、平成十九年、百二十五頁)。

頭山の興亜の理想は、孫文が大正十三年に「連ソ・容共」を打ち出し、日本人がその「変節」を批判するようになってからも揺らがなかった。彼は「己を空しうし、ただ道を行ふを以て天職としたならば、支那印度の如きも、数千年前の古賢の教に還るに相違ない。何も切り取り強盗の真似をして領土を広うすることはいらぬ」とひたすら説き続けたのである。
内田良平は、愛国の立場から、孫文の「変節」を野放図にしておけば日本が危ういと警告し、孫文から離れていった。これに対して、頭山は孫文の「変節」を愛国心の表れだととらえ、それを包み込もうとしたのではなかろうか。
頭山は、溥儀を擁立する形での満洲国建国に必ずしも賛成していなかった。だが、事態の進展はいかんともしがたかった。支那事変の勃発により、頭山が抱く興亜の理想は遠のいたかに見えた。頭山は、この事態に直面し、日本と支那の戦争は最も不幸だとした上で、そうなった以上「息の根の止るほど手厳しくやつつけて、将来二度と斯様な事態を惹き起さぬよう、禍根を徹底的に絶滅せねばならぬ」と述べている。しかし、それに続けて「此試練を経て後、支那軍を将来一層強いものにして、日本と支那とは軍事同盟を結んで行かにやならん」とも語っている(『頭山精神』五十七頁)。
対米英開戦、緒戦の優勢によって、興亜の理想は再び近づくかにも見えた。しかし、やがて戦局は悪化、昭和十九年十月五日、頭山は静岡県御殿場の富士山を臨む山荘で、大東亜戦争の結末を見ることなく、九十年の生涯を閉じた。
生前、『巨人頭山満翁』を著した藤本尚則が、頭山が二十五歳のときに初めて手にした『洗心洞箚記』を持参して、頭山を訪ねたことがある。そのとき、頭山は同書冒頭にある「人の危難を救う時、吾が霊淵に一波動くや否やを験せよ。一波わずかに動かば、則ち既に欲情の有る在り。天体(天に通ずる真心)に非ず。天体に非ざれば則ち之を救はざるに如かず」の言葉を引いて、今日の我が対支政策にあてはめて考えて見よと語り、次のような言葉を残している。
「真に亜細亜共存の大義から支那を助けるといふのであれば、仮令支那が日本の厚意に対して忘恩の行為ありとするも、我は我だけの心を尽したものとして、愚痴などはいはぬものぢや。愚痴をいふ了見では、初めから他を世話する資格はない」

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