天皇の火葬をどう考えるべきか─蒲生君平の主張を再考しよう

 『月刊日本』連載「明日のサムライたちへ」。2月号から蒲生君平の『山陵志』を扱っているが、君平の議論は、天皇の葬法の在り方を考える上で極めて示唆に富んでいる。
 以下、関係箇所のみ転載する。
 〈君平は『山陵志』において、持統天皇(在位:六九〇~六九七年)のときから火葬が行われるようになるなど、仏教の流入による大きな変化に注目しました。君平は、仏教の風習の蔓延によって、堂塔を山陵に見立て、僧徒が埋葬のことを司り、謐号を追贈することもなく、尊号を停止することになったと批判しました。そして、次のように厳しく仏教流入、僧徒の権力拡大の弊害を説いたのです。
 「…政治の大綱がゆるんで、官吏は職に勤めず、諸陵寮は廃され、山陵にたいする奉幣使は無くなった。こうした管理不在の結果は、山陵を掘り起こして、その蔵品を盗み去る者さえ出て、少しもおじおそれることさえなくなった。下って戦国乱世になると、その禍害は以上のごときに止まらない。いたるところの堂塔は、兵火にあって滅失し、塔中の蔵品も消亡した。ああ、何と慨嘆に堪えぬ次第ではないか。幸いにして完全に保たれているのは、ただ京都の泉湧寺諸陵、及びその他の二、三に止まっている」
 持統天皇以後、四代にわたって火葬が行われましたが、聖武天皇(在位:七二四~七四九年)以降は土葬が復活しました。ところが、一条天皇(在位:九八六~一〇一一年)から再び火葬が復活、以後歴代天皇の多くが火葬されるようになりました。君平が憤慨するこのような状況が改善されたのは、後光明天皇(在位:一六四三~一六五四年)が崩御されたときです。奥八兵衛という名の一市民が、命がけで火葬に反対した結果、朝廷は火葬をとりやめたのです。 幕末期の孝明天皇の際に、ようやく火葬の形式は廃止されました。歴代天皇のうち七十三人が土葬、四十一人が火葬、八人が不明です。
 平成二十五年十一月、天皇、皇后両陛下の「ご喪儀」の在り方を検討していた宮内庁は、葬法を火葬とすると発表しました。
 これについて竹田恒泰氏は、「ここ千三百年間、歴代天皇は常に自分の墓は質素にせよ、葬儀は簡素にせよと仰ってきた。もし陛下の仰せの通りにし続ければ、墓はどんどん小さくなり、最後はペット並の墓になってしまっただろう。しかし、国民は陛下のお言葉を有り難く受け取りつつも、陛下には少しでも立派なお墓にお眠りいただきたいと願い、立派な墓を作り続けてきた」との趣旨の発言をしています。君平もまた、『山陵志』において、「御陵の場所を選定し、土木工事の規模を定め、労役を始めるにあたっては、必ず天下諸国に命じて、人夫を召集された。この労役については、人民の何れもが、父母を喪った時のように、深く哀悼の意を抱いていたので、誰も彼も進んで課役に服し、それを強いられたと思うものは一人もいなかった」と書いています。 君平が明確に指摘した、仏教流入以後の山陵荒廃の歴史を思い起こし、葬法の問題は慎重に考える必要があります〉


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