三上卓先生と真木和泉「大夢記」

三上卓先生は「大夢」と号したが、この「大夢」は真木和泉の「大夢記」に着想を得ていたと考えられる。

真木は、文化十(一八一三)年に久留米で生まれ、藩校明善堂で学び、弘化元年に水戸遊学を許されて、江戸に赴いている。四度、会沢正志斎を訪ねている。嘉永五年(一八五二)年に、藩政改革の建白をして執政有馬監物らを排斥する藩政の改革を企てるが失敗、以後十年の長い間、塾居生活を余儀なくされた。この時期に真木が書いた倒幕の戦略書が「大夢記」である。山口宗之氏は『真木和泉』において、次のように書いている。
「『大夢記』はこの年(安政五年=引用者)十月三日したためられたが、天皇みずから幕府親征の兵をあげて東征の途にのぼり、箱根において幕吏を問責し、大老以下に切腹を命じ、幼将軍(家茂)を甲駿の地に移し、親王を安東大将軍として江戸城に居らしめ、大いに更始の政を行なうということを骨子としたものであり、露骨に討幕の具体的経綸をのべたものとして注目される」(山口宗之『真木和泉』93頁)

三上先生は、高山彦九郎の志を「討幕の義軍を興し陣容堂々、建武未遂の偉業を完遂せんとするに在つた」と理解し(『高山彦九郎』65頁)、次のように真木に高山精神の継承を見ていた。
「この真木の巡つた足跡こそ、実に高山先生が七十余年前に辿つた足跡ではなかつたか。吾人は先生の事跡を調査し了つて、更に真木の一生を見る時、その暗合に喫驚するものである。
嗚呼、真木和泉守保臣は『よぢても見てん云々』の自作の和歌の文字通りに、彼の『生命』もて高山彦九郎を書き綴つたのだ」(9頁)
そして、三上先生は、「…大夢記には、攘夷の名を仮つた堂々たる討幕方略が明記されて居る」と高く評価していた。「大夢」の号には、自らの昭和維新運動を高山、真木の志の継承と位置づけようとする強烈な思いが示されているのであるまいか。
以下に、真木和泉「大夢記」を掲げる。


真木保臣先生顕彰会『真木和泉守遺文』伯爵有馬家修史所、大正2年、618~621頁。

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