「日満支の統一」は共通の原理で!─山田光遵『東洋国家倫理の原理と大系』

 山田光遵は昭和16年に刊行した『東洋国家倫理の原理と大系』(中文館)において、「興亜論」の一節を割いて、以下のように主張した。
 〈日満支三国が精神を同じうする事の為にはこの三国を通ずる精神の把握に先立つて、この三国を通ずる教の問題を考察せねばならぬ。精神は教から浸み出るものであるからである。日満支の文化の交流はすでに数千年の古に始まる所である。就中孔子教は支那をして支那たらしめたると共に日本をして日本たらしめた中枢的精神文化である事を思ふ時、日満支を通ずる精神を論ずるに当つて、先づ儒教に注目せねばならぬ。……然しながら現代我が国教学の中枢精神は儒教倫理そのまゝのものではなく、況んや全体主義の如き国家的利己主義ではなく、儒教倫理が中枢となりながら、而もそれが世界人類の不動の平和を目標とする所の八紘一宇の倫理にまで積極化、大乗化せられたものである事は刮目して見なければならぬ点であつて、アジヤの倫理は正にかゝる意味に於ける八紘一宇の倫理なる事を確信しなければならぬ。而してこの八紘一宇の同家倫理は結局興亜の原理として、日満支の統一原理として働くべきものであるが、それは各三国を離れた、或はそれらを超越してそれらを總括すると謂つたやうな原理ではなくて、各三国の内に内在し、それらを貫く枢軸であり、而もそれらに共通の原理たるべきでありて、彼の国際公法的な、外的強制的結合原理であつてはならぬのである。……即ち支那は支那として、満洲国は満洲国として、日本は日本として生々発展しつゝ而も一となつてアジヤ精神の中に活きて行かねば合体の意昧をなさぬのである。
 以上アジヤの倫理の精神的一面たる一心について概括したのであるが、次に身を一にするとは、精神的結合に対する肉体的結合を指すものであり、アジヤの倫理の重要なる他の一面であつて、本論に於て屡々力説した所の血液の繋りである。血液の繋りは即ち親子の関係である。興亜の原理は正にアジヤ全邦にこの親子の道を宣布する所にある。親子の道が単に精神のみならす、対自的並びに対他的に肉に於ても実現せらるる時、アジヤの各国は、民族本然の性格に復つて永遠の平和に生きる事が出来る。
 アジヤ全邦に此の親子の道が実現する時、それは八紘一宇の倫理がアジヤに於て実にせられた時である。……次に然らばアジヤの倫理実現の主体は誰か。言ふまでもなく、それはアジヤ五億の蒼生である。五億の民生が真に五億の同胞と呼びかけ得るやうにまで、アジヤの倫理はアジヤ全土を挙げて実現されねばならぬ。而して、そのアジヤ倫理の大運動の中心となり、先駆たるべきものは、八紘一宇を肇国の理想とし、民族の歴史として実践し来つた日本国民でなければならぬ。日本民族は進んで大陸の同胞に呼びかけて、真に同胞と呼び得るまでに、此の運動を実践化すべく真摯の努力を捧げねばならぬ。〉

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