玄洋社とムスリム

興亜論者とムスリム
世界の道義的統一を目指した日本人たちは、東アジアだけでなくイスラーム諸国に対しても特別な関心を払っていた。その中心にいたのが興亜論者であった。
彼らは、欧米に抑圧されるムスリムの惨状を我が事のように考え、欧米列強の植民地支配からの解放を目指して協力しようとしていた。 
だが、この歴史的事実は戦後歪曲されてきた。ムスリムに接近した者はみな、イスラーム理解者などではなく、ただ日本の占領地域の統治や、戦争遂行上の戦略としてムスリムに接近したに過ぎないのだと。確かに、1930年代後半以降にはそうした意図からムスリムに接近する動きもあった。しかし、興亜論者の多くは、そうではなかったのである。
たとえば田澤拓也氏は、『ムスリム・ニッポン』の中で、1938年の東京モスク開堂式に、軍部や興亜論者の大物が顔をそろえたことの不自然さを強調し、「イスラームと縁もゆかりもない軍部と右翼」と書いている 。果たして、頭山満はイスラームと縁もゆかりもなかったのか。それは大きな誤りである。興亜論者と来日したムスリムたちが、早くも1910年前後から交流していた事実をここで明らかにしておきたい。
1909年6月には、日本でのイスラーム布教とアジアの防衛を目的として亜細亜義会という団体が結成されている。ここには頭山満、内田良平、満川亀太郎らの興亜論者と、アブデュルレシト・イブラヒーム、A・H・ムハンマド・バラカトゥッラー、アハマド・ファドリーらのムスリムが参加していた。
亜細亜義会は、イスタンブールやメッカに書簡を送り、日本へのイスラーム指導者の派遣を要請したり、トルコ語の講習を行ったりするなど、日本人のイスラーム理解促進のために地道な活動を行っていた。そして、この当時から日本にモスク建設しようという議論をしていたのである。田中逸平ら日本人のメッカ巡礼を支援した若林半も、頭山に近い興亜論者であった。
頭山率いる玄洋社が、孫文や朝鮮独立党の金玉均らを支援したり、ビハリ・ボースほはじめとする多くのアジア人亡命者に手を差し伸べたことは比較的よく知られているが、そこにはムスリムもいたということである。
こうした事実は、日本人のイスラーム理解の出発点として、さらに実証すべき課題だと筆者は考えている。
こうした思いで、2001年12月、筆者は福岡の玄洋社記念館を訪れた。訪問前に館長の進藤龍生氏には「玄洋社とムスリムの交流について調べている」旨、お伝えしてあった。

前列右から古島一雄、頭山満、犬養毅、五百木良三、
後列右から足羽清美、在神戸回教僧正シャムグノーフ、
在東京回教僧正クルバンガリー、島野三郎
 展示された写真の中には、やはり頭山とムスリムたちの交流を示すものがあった。進藤氏は、その写真も収められいる藤本尚則編著『頭山滿翁冩眞傳』を確認し、筆者にその写真解説を見せてくれた。さらに、進藤氏はトルコ系の女性が来館したことを教えてくれたのである。
筆者が、機関紙『玄洋』を調べてみると、確かに1993年3月17日、福岡ユネスコ協会専務理事の竹藤寛氏の案内で、当時慶応義塾大学法学部助教授だったサルジュク・エセンベル女史が来館したとの記事が発見された(同年6月1日号)。

 エセンベル女史の訪問理由こそ、頭山と交流のあったイブラヒームの資料収集であった。その記事は、イブラヒームが1933年に再び来日したときのできごととして、「頭山翁は晩年に至るまで一貫してムスリム解放に献身した老闘士イブラヒム氏を国技館の夏場所に招待」と記して、そのときの写真を掲載している。
むろん頭山とイブラヒームの目的が完全に一致していたわけではないかもしれない。しかし、二人の間にはアジア解放という同じ志を抱く者同士の信頼感が存在したように、筆者には見える。
日本人のイスラーム理解を考えるとき、戦前の興亜論者とムスリムの交流にもっと光が当てられてもいいのではなかろうか。 

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