TPPは「平成の日米修好通商条約」だ!─出でよ、平成の梅田雲浜!

 大老・井伊直弼が強行した日米修好通商条約締結に対して、命がけで抵抗した幕末の志士たち。中でも『靖献遺言』で固めた男と呼ばれた梅田雲浜の抵抗は凄まじかった。
アメリカ基準への屈服・国体の破壊に直結するTPPは、まさに平成の日米修好通商条約である。平成の梅田雲浜よ出でよ!
以下に、『月刊日本』平成24年12月号に掲載した「『靖献遺言』で固めた男・梅田雲浜」浅見絅斎『靖献遺言』第1回(明日のサムライたちへ 志士の魂を揺り動かした十冊 第5回)を転載します。

皇国への思いが招いた安政の大獄
安政五(一八五八)年九月七日、勤皇志士の巨頭、梅田雲浜は体調を崩し、京都烏丸池上ルの自宅で休んでいました。そこに、ドンドンと表戸を叩く音がしました。「誰か」と問うと、
「町役人ですが、今先生の御門弟が、そこの町で抜刀して喧嘩をしております。私どもがいくら止めようとしても、どうにもなりませんので、先生に出てきていただいて、取り鎮めてもらいたいのですが」
雲浜は、即座に町役人の言葉が嘘だと見ぬき、ついに補吏の手が伸びたと悟ったのです。このとき、大老・井伊直弼の指示により、伏見奉行、内藤豊後守正綱(岩村田藩主)は与力・同心以下二百人を率いて出動、雲浜を逮捕するため家を包囲していました。雲浜は、梁川星厳、頼三樹三郎、池内大学とともに、「尊攘四天王」として警戒され、弾圧の対象となったのです。
雲浜が門人に書類の始末を命じ、悠然と立ちあがって戸を開けると、十人ほどの補吏が即座に雲浜の周囲を取り囲み、口々に、「御上意」「御上意」と叫んで、雲浜に縄を打とうとしました。
内藤豊後守から同行を求められた雲浜は、「少々御猶予を願いたい」と言って、髪を結い直し、鬚を剃り、衣服も着替えた上で、硯を引き寄せました。そして、
契りにしそのあらましも今はただおもひ絶えよと秋風ぞ吹く
君が代を思ふ心の一筋に吾身ありとも思はざりけり
と二首の歌を短冊に認めました。最初の歌には、身を殺して、できる限りのことを全てやり尽くし、後は全て天命に委ねるという清々しい気持ちが詠われています。
与力は雲浜を駕籠に乗せて連行しようとしましたが、雲浜は「すべて皇国のためになれかしと考えてした事であるから、俯仰天地に恥じる必要はない。どうかこのまま連行を願いたい」と言って、縄付のまま堂々と市中を濶歩して、西町奉行所に至りました。吉田松陰から「『靖献遺言』で固めた男」と呼ばれた梅田雲浜の人生がここに集約されています。
『靖献遺言』は、浅見絅斎が貞享四(一六八七)年に書き上げた書物で、勤皇の志士の聖典とまで呼ばれてきました。中国の忠孝義烈の士八人(屈平・諸葛亮・陶潜・顔真卿・文天祥・謝枋得・劉因・方孝孺)の事跡と、終焉に臨んで発せられた忠魂義胆の声を収めています。
さて、雲浜逮捕(逮捕の日時については諸説あり)によって、安政の大獄が開始されるわけですが、雲浜らの抵抗運動の直接的原因は、外圧に対して卑屈な対応に終始する幕府への強い反発にありました。
ペリー提督率いるアメリカ東インド艦隊の軍艦四隻が浦賀沖に現れたのは、雲浜逮捕の五年前の嘉永六(一八五三)年六月三日のことでした。危機感を抱いた雲浜は、梁川星巌、頼三樹三郎らと日夜対策を討議するようになります。その前年の嘉永五年七月、雲浜は小浜藩主・酒井忠義に「藩政の得失と外寇防御」について上書を提出しましたが、怒りに触れて藩籍を剥奪されました。藩の束縛から自由になった雲浜は、同志を増やし、連日連夜論じ合うようになったのです。
こうした中で、嘉永七年一月十六日、再びペリーは来航します。約一カ月にわたる協議の末、幕府は日米和親条約を締結して下田、箱館を開港しました。朝廷はこれに同意したものの、このまま推移すると国家は疲弊し、将来不安だという天皇の憂慮を伝え、「神州の瑕瑾」なきよう指揮せよと指示しました。
軍備を充実した雄藩の力によって朝威を伸張させようと志した雲浜は、水戸や福井に遊説に赴きます。また、外国の打ち払いと、京都御所の警備を固めるために、勤皇の志篤い十津川郷士の指導訓練に乗り出します。その矢先、九月十八日にプチャーチンを乗せたロシア軍艦が突如大坂湾に現れます。雲浜は十津川郷士と共に、露艦撃攘に赴こうとします。ところが、当時妻信子は結核で病床にあり、幼い子供たち(竹と繁太郎)は飢えに泣いていました。それでも振り切って出陣する雲浜は、その胸中を詩に託しています。
妻臥病牀児叫飢 妻は病床に臥し児は飢えに叫ぶ
挺身直欲當戎夷 身を挺して直ちに戎夷に当らんと欲す
今朝死別與生別 今朝死別と生別と
唯有皇天后土知 唯皇天后土の知る有り
これを示された信子は、雲浜を励まして送り出したと伝えられています。大東亜戦争中に雲浜の伝記を著した北島正元は、わが国の親子、兄弟、夫婦の愛情の深さを称賛しつつ、一度君国の大事に臨めばその境地は飛躍し、家族愛からさらに重要な祖国愛の中に没入し得るのだと指摘し、「我々後人は、雲浜のこの断腸の苦痛を、唯『皇天后土』のみ知つてくれよと絶叫した心を今こそ改めて玩味し、三省しなければならない」と書いています。
ところが、雲浜らが着いた時には、すでにロシア艦は退去した後でした。雲浜が戻ってまもなく、信子の病はさらに重くなり、翌安政二年三月二日朝、「お国のために、この上ともお尽くし下さいますよう。また二人の子どもをよろしくお頼み申します」との最後の言葉を残して、儚くも二十九年の生涯を閉じました。十歳の竹と四歳の繁太郎が残されました。
信子は十八歳の春に雲浜に嫁いで以来、十一年間、まさに赤貧洗うがごとき生活の中で、雲浜を支え、子供を愛育しました。頻繁に転居を余儀なくされ、時には大切な客をもてなすために、自分の着物を質に入れて酒肴をしつらえたともいいます。雲浜は、信子の並々ならぬ生前の苦労を思い、それ以後信子の位牌を常に携帯していました。
不幸は続きました。安政三年二月、繁太郎もまたわずか五歳で亡くなったのです。悲惨の一語に尽きます。だが、雲浜は国事に奔走し続けます。安政三年七月には、アメリカから総領事ハリスが来日し、わが国との通商を要求してきました。同年末、雲浜は長州藩の有力者、坪井九右衛門に次のように自らの意見を開陳しました。
「今は御存じの如く、外夷交々到って開国を強要し、皇国空前の危局に面している。幕府は外交の衝に当たっているが、事毎に外夷の武力に屈せられ、譲歩ばかりしている。朝廷の御方針はあくまで攘夷にあるのに、幕府はその御旨に背いて開国に傾こうとしている。皇国の尊巌はまさに泥土に委ねられようとしている」
ところが、幕府は日米修好通商条約締結を進め、安政五年三月十二日には、関白・九条尚忠が朝廷に条約の議案を提出します。これに攘夷派の少壮公家が抵抗、孝明天皇は条約締結反対の立場を明確にし、参内した老中・堀田正睦に対して勅許の不可を降しました。
しかし、四月二十三日に大老に就いた彦根藩主井伊直弼は、六月十九日朝廷の勅許なしに日米修交通商条約に調印してしまいます。関税自主権がなく、治外法権を承認する不平等条約です。
さらに幕府は、七月十四日にロシアと通商条約を締結したこと、また、イギリス・フランスなどとも締結する方針であることを、朝廷に通達してきました。しかも、将軍家定(七月六日死去)の継嗣をめぐる対立も熾烈になっていました。島津斉彬や徳川斉昭ら一橋派は一橋慶喜(徳川慶喜)を推していましたが、井伊ら南紀派は紀州藩主の徳川慶福(後の徳川家茂)を推していたのです。七月には、井伊を詰問した徳川斉昭や尾張藩主徳川慶恕が謹慎を命じられるに至ります。

節に死するの人

このとき、わが身を捨てて井伊の方針に真っ向から挑んだのが雲浜でした。その対極には、大義を忘れて井伊に追従し、わが身のことだけを考える人々がいました。森田節斎が「節に死するの人なり」と評した雲浜は、幕府の弾圧を畏れることなく果敢に行動しました。

『靖献遺言』には、死をも恐れぬ行動が随所に登場します。例えば、唐代の代表的な書家でもあった顔真卿(七〇九~七八五年)は、宰相の命令で、反乱を起こした李希烈の宣慰に派遣されることになりました。洛陽の領主は「行けば李希烈に殺される」と留めましたが、真卿は「殺されるとわかっていても、これが君命である以上、避くべきところはない」と答えて出発しました。

雲浜は、危険を覚悟で条約反対、慶喜擁立、井伊排斥を主張し、青蓮院宮尊融親王を通じて朝廷に入説したのです。そして、彼の行動は大きな成果をあげます。

日米修好通商条約を調印しそれを事後報告したことへの批判と、御三家および諸藩が幕府に協力して公武合体の実を成し、外国の侮りを受けないようにすべきとの命令を含む勅諚が、八月七日の御前会議において、降されることが決まったのです(「戊午の密勅」)。朝廷から、幕府に対してだけではなく、水戸藩に対して直接渡されたことに意義があります。さらに、幕府に同調していた関白・九条尚忠が辞職に追い込まれました。

危機感を抱いた井伊は、ついに弾圧に乗り出します。皮肉にも、旧主酒井忠義が再び京都所司代に就いて、雲浜逮捕に踏み切ることになるのです。しかし、雲浜は旧主が朝敵の立場になることを恐れ、忠言したのです。勅諚が降された八日、雲浜は小浜藩士、坪内孫兵衛にその事情を報告して次のように書いています。

「お国太守公(酒井忠義)は、かねて彦根侯(井伊)とは無二の御合体に候えば、如何にも甚御危き事と恐察し奉り候。…御一同に御覚悟をお立てにされ候様存じ奉り候」

旧主忠義に対する雲浜の態度について、北島正元は「『君君たらずとも、臣臣たらざるべからず』の倫理は、まさに雲浜に於て遺憾なく実践せられたものであり、崎門学者の真面目と、更にそれを裏づける偉大な人間愛とに、感嘆せざるを得ないのである」と書いています。

だが、皮肉にもこの手紙は雲浜の罪を示す証拠として用いられることになります。井伊の参謀役の長野主膳は、宇津木六之丞に宛てた手紙の中で、「梅田は正邪分明の大本にて、第一関東(幕府)を朝敵とし、御大老も同様、これに組なされ候ては朝敵と申すものと、正しく手紙に認めこれあり──」と書いています。

主膳は京都所司代に就いた忠義に対して、雲浜逮捕が急務だと繰り返し勧告し、同意を得ようとしていました。 それでも、雲浜は旧主忠義に忠言を続けたのです。逮捕直前の九月三日、忠義の行列が京都の三条蹴上に差しかかりました。そこにあった旅宿で一時休息することになっていたのです。それを待ち構えていた雲浜は、忠義の前に進み出て、「この際、断然御心をひるがえし給いて、朝廷へお付き遊ばし、御忠勤をおはげみ遊ばされるのが当然でございますが、せめては、このまま京都へは入られず、ただちに道をかえて小浜へ御帰城遊ばし、御病気と称せられてお役を御辞退遊ばしまするよう、切にお願い申し上げ奉ります」と説得を試みたのです。

だが、雲浜は説得の途中で下がるよう命じられ、忠義は出発してしまいました。この直後、忠義は主膳に従うことを決め、冒頭の雲浜逮捕となります。

逮捕された雲浜は西町奉行所に拘束され、まもなく伏見の獄に投ぜられ、次いで京都の六角牢獄に移されます。そして、安政五年十二月二十五日、六角牢獄から江戸に送られました。当初、町奉行の取り調べは寛大でしたが、主膳はそれを知って強く非難、それ以来苛酷な取り調べが行われるようになりました。雲浜は「箒尻」という打撃力の強い棒で何度も打たれる拷問を受けるようになります。肉は裂け、血がほとばしり、息が絶える程の苦痛にも耐え、何一つ口を割りませんでした。

「拙者は何も知らぬぞ。知っていることは、ただ尊皇の二字だけだ」と叫んで、全く屈しなかったのです。尊皇攘夷の大義を役人に説き、彼らの迷夢を覚ましてやろうということ以外に、彼は何も考えていなかったのです。

このとき雲浜は、『靖献遺言』に収められた、大義を貫くために、生命の危機に耐えて全く屈さなかった義烈の士を思っていたのかもしれません。例えば、明代初期の学者、方孝孺(一三五七~一四〇二年)です。彼は建文帝の側近として活躍していましたが、反乱を起こして建文帝から権力を簒奪した燕王・朱棣(永楽帝)は、孝孺を助命する代わりに、彼に即位の詔を書くように命じたのです。

そのとき、孝孺は「燕賊簒位」(燕王は皇帝の位を奪った賊だ)と大書し、筆を地面に投げつけ、「殺すなら、殺せ」と泣いて罵ったのです。激怒した棣は、「貴様の一族を滅ぼしてやる」と言って、一族八百四十七人を殺してしまいました。それでも、孝孺はびくともしませんでした。そこで、棣は孝孺の朋友、門人までも捕えて殺し、その上で孝孺を磔の刑に処したのです。刀でその口の両側を切り裂いて、耳まで切りひろげ、七日間にわたって拷問しましたが、死の瞬間まで孝孺は棣を罵り続けました。

雲浜は、一年近くの期間、牢屋に閉じ込められ、一切の運動を禁じられました。その結果、彼の身体は急速に蝕まれていったのです。安政六年八月二十三日には、全身に腫気が出て、脚気症と診断されました。九月十四日、雲浜は『靖献遺言』の精神で貫かれた人生を閉じました。

そして、雲浜の同志たちも大獄で命を落としました。しかしその九年後、明治維新は実現、雲浜はその魁として顕彰されるようになり、明治二十四年四月には特旨をもって正四位を贈られました。西郷南洲は「雲浜今に生きながらえていたならば、我々は執鞭の徒に過ぎないであろう」と述べています。

『靖献遺言』にある次の言葉を、雲浜は心に刻んでいたに違いありません。

「そもそも士たるもの、我が志のままに行動する時、それが後日、人に知られるか知られないかは考えるべきことではない。しかしながら、万人の承認する是非の正、論議の公は、天地とともに存して滅ぼすことができぬものであるから、必ず後世、正しく評価されることとなる。しかもその何をすべきかという根本の把握とその取捨は、自分自身で決すべきことであって、他人に求むべきものではない」(『靖献遺言』現代語は近藤啓吾先生の訳に基づき、適宜仮名遣い等を改めた)

生前、雲浜は同志の鵜飼吉左衛門に宛てて、「事成らずして倒るるも、その志は長く世に伝はり、勤皇の魁と相成り候へば、又是れ男子の大幸ならずや」と書いていたのです。

雲浜が逮捕された際に「…おもひ絶えよと秋風ぞ吹く」と詠んだ境地は、まさに『靖献遺言』に収められた諸葛亮(孔明)「後出師表」にある「臣、鞠躬して力を尽くし、死して後已まん。成敗利鈍に至りては、臣の明よく逆じめ睹るところあらざるなり」と同一のものであり、また陶潜(陶淵明)の「帰去来辞」の最後の一句「かの天命を楽しみ復たなにを疑はん」を髣髴とさせます。

浅見絅斎の学問─大事に処して一身の誤りなきを期す

篤い勤皇の精神を抱き、外国に屈しない民族の尊厳を貫き、いかなる状況でも節義を貫き、大義のために命を捨てた雲浜の人生は、まさに「『靖献遺言』で固めた男」と呼ばれるにふさわしいものでした。

『靖献遺言』の精神に雲浜は幼い日から触れていたのです。文化十二(一八一五)年六月七日、若狭国小浜城下で矢部義比の次男として生まれた雲浜は、文政五(一八二二)年、藩校・順造舘に入学して、崎門学を学びました。順造館は、小浜藩九代・忠貫の時の安永三(一七七四)年に開校されました。従来、古学派の学問も教えられていましたが、これ以後藩学は、絅斎の師・山崎闇斎(一六一九~一六八二年)に始まる崎門学に統一され、順造館では『靖献遺言』を必須科目として採用しました。

雲浜は、十六歳になると江戸に遊学、崎門の正統を継ぐ山口菅山に入門しました。やがて、天保十四(一八四三)年、雲浜は絅斎の弟子・若林強斎が起こした望楠軒の講主(塾長)も務めました。まさに、彼は崎門の正統を受け継ぎ、『靖献遺言』の精神を自らのものとしていたのです。門人の東久周は「雲浜先生が『靖献遺言』を講じる時には、慷慨悲憤、声涙倶に下った」と語っています。

もちろん、『靖献遺言』によって魂を揺り動かされた志士は雲浜に限りません。吉田松陰は野山の獄の中で『靖献遺言』を読了し、その感動を「詠史八首」と題して、『靖献遺言』の人物八人を詠じた古詩を作っています。有馬新七は、十四歳の頃から『靖献遺言』を研究していました。橋本左内に至っては、外出の際に『靖献遺言』を懐中にしていたと伝えられています。

『靖献遺言』を著した浅見絅斎について、平泉澄先生は、「君の御為には、一身を捧げ奉らなければならないといふ道理を、空理空論で説いては、人の精神に浸みわたるといふことは出来ない。寧ろ実際の実例を示して、それに依つて考へさせるが宜しい。斯ういふ考へ方からして、此処に歴史の具体的な事実を通じて説かれたのであります。而してそれも、一生を貫くものでなければならぬ。即ち一言にして申しますならば、忠死、之を大切也とされたのであります」と書いています。

絅斎自身、「空言によって義理を説いても、人を感動させることは薄い。事跡を挙げて示し、読む者を奮然とさせ、感憤興起させる方が愈っている」と述べています。

闇斎・絅斎・強斎と引き継がれた崎門学は、皇道に醇化した「日本的朱子学」と表現できるかもしれません。崎門直系の内田周平先生は、次のように崎門学の果たした役割を強調しています。

「王政復古の大業は、水戸藩の『大日本史』並びにその学風、国学の三大家、賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤及び高山彦九郎・蒲生君平・頼山陽諸氏の唱道鼓吹したもの、相合し相聚り、これを馴致醸成したるが如しと雖も、その間にあつて、京都を根拠となし、一脈相伝えて、勤皇の始終を成したものは、実に朱子学の最硬派たる山崎闇斎先生の学派であつたと、余は断言するのである」

『靖献遺言』の理解に欠かせない『靖献遺言講義』(図書刊行会)を著された近藤啓吾先生は、絅斎の説く学とは、功利のための学ではなく、趣味のための学でもなく、大事に処して一身の誤りなきを期する道義のための学であったと書いています。この指摘の通り、絅斎は『拘幽操附録』(元禄四年六月)の跋に「平常に於て大義の何たるかを講究し、大節に臨んで、自己の立場を択ぶのに、惑うことなからしめん」とする思いを綴っています。

我々が直面する大事大節の中で最も重要な問題は、正統の問題です。正統についての正しい認識があってこそ、君臣の義を貫くことが可能になります。そして、正統と並ぶ最重要問題は、「内外の別」、つまり自国と他国の区別の問題です。次回以降、これらの問題について考察しながら、何故『靖献遺言』が勤皇の志士の聖典となったかを、さらに考えていきたいと思います。

近藤啓吾先生は、内田周平先生に師事されるとともに、平泉澄先生の指導を受けられた崎門直系で、九十二歳の現在もなお健在です。

今回、近藤先生からは、筆者が折本龍則君(呉竹会青年部)と継続している『靖献遺言』勉強会で生じた疑問点に、誠に丁寧なご回答をいただくとともに、崎門の真髄に関わる重要なご教示を賜りました。これは次回以降に紹介します。さらに、平泉門下で、日本学協会常務理事を務める永江太郎先生から大変貴重な示唆を与えていただきました。

敢えてこうしたことを書き添えたのは、理論展開よりも人間としての完成を目的とする崎門の精神は、それを引き継ごうと志した一人ひとりの生きた足跡とともにしか学べないと信ずるからです。


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