マハティール十番勝負 (1)ラーマンとの勝負

「連載 マハティール十番勝負 (1)ラーマンとの勝負」
『日馬プレス』265号、2004年1月1日

マハティール前首相は、壮大なビジョンを描き、それを果敢に実践してきた。その壮大さゆえに、様々な抵抗にも直面した。そうしたとき、彼はそのポリシーを貫くために対決も辞さなかった。たとえ相手がどんなに強大だろうと、自分の信念にしたがって行動してきた。
本連載では、マハティール前首相の歴史に残る十の名勝負を振り返る。ただし、それらはどれも単なる喧嘩などではない。どの勝負も、イギリス支配の秩序、マレー人の復権、ルック・イースト政策、アメリカ型民主主義、アジアの連帯、時代に適応できるイスラーム、弱肉強食の自由経済思想、超大国の力の政策、平和維持の方法等、いずれもポリシーとそれを支える哲学を巡る対立だったのである。
最初の勝負の相手は、マレーシア初代首相トゥンク・アブドゥル・ラーマンである。

ラーマン首相に宛てた書簡
いまから三五年前の一九六九年六月一六日の晩、マハティールは一通の書簡を書いていた。その相手こそ、「建国の父」と呼ばれ、絶大な権力を誇っていたラーマン首相であった。
マレーシアでは一カ月前の五月一〇日に総選挙が行われ、ラーマン体制に協力する中国系のマレーシア華人協会(MCA)は票を減らしたが、中国系野党の民主行動党(DAP)が一議席から一気に一三議席に勢力を伸ばしていた。この選挙でマハティールは落選していた。勢力拡大に気をよくした反体制中国系住民がデモを開始し、マレー人と衝突、多数の死傷者を出す惨事に発展した(暴動の原因については、多様な見解がある。金子芳樹『マレーシアの政治とエスニシティ』晃洋書房、二〇〇一年、二七六~二八八頁)。
このとき、マハティールは中国系に経済を牛耳られ、不満を抱える大多数のマレー人の地位を向上させなければ、民族間の真の協調は生まれないとの確信を深めたのである。彼は、ラーマンの政策が中国系との協調を重視するばかりで、マレー系の待遇改善を怠っていると見たのではなかろうか。
当初は、マハティールと意見を同じくし、ラーマン政権の軌道修正を目指そうとした政治家たちもいたが、ラーマンの圧力でマハティール以外は異を唱えなくなってしまった。マハティールは独りでラーマンに立ち向かったのである。ラーマンに宛てた書簡で、明確にその政策を批判した。マハティールは、ラーマンの中国系への融和策を「ギブ・アンド・テイク政策」と呼び、それによってどれほどマレー人たちが強い不満を持っているかを激しい言葉で書きつづり、「先の総選挙での大幅な後退と暴動事件の責任をとってラーマンは首相および党首を辞任せよ」と要求した。
もちろん、ラーマンは激怒した。そして、七月一二日に開催された統一マレー国民組織(UMNO)の緊急執行委員会で、マハティールを党から除名したのである。七月三一日には、マハティール支持者とされたムサ・ヒタム(後にマハティール政権の副首相)が停職処分に処された。
党を追放されたマハティールは、一旦は敗北した。後に彼は「私にとって人生で最も困難な時期は六九年に落選し、さらに党を除名されたときだ」と振り返っている(『日本経済新聞』一九八八年一月八日付朝刊)。しかし、彼はその思いを活字にして国民に訴えようとした。それが、『マレー・ジレンマ』である。
ここで、彼は「一九六九年の選挙までに、あらゆる分野の人々は政府に対して持っていた幻想を打ちくだかれていた。マレー人は幻滅を味わった。というのは、政府は引き続き中国人に対して有利な政策を行い、不均等な人種間の富と発展を是正することに失敗していたからである。マレー人は自分達の不満を現しつつ、非マレー人ことに中国人にたいする敵意をつのらせていった」(高多理吉訳)と主張している。
ラーマンは、直ちに同書を発禁処分にした。ちなみにラーマン退陣後も発禁は解かれず、マレーシア国民が同書を公然と読めるようになったのは、マハティールが首相に就任してからである。この瞬間こそ、この勝負においてマハティールが勝利を確実なものにした瞬間であったといえる。

欧米支配との闘いの序曲
マハティールが失脚してからも、マレー系学生の間で高揚した反ラーマンの声は衰えず、一九七〇年九月にラーマンは副首相のラザクに首相の座を明け渡した。
そして、ラザクが掲げた政策こそ、マレー人優遇を目指した新経済政策(NEP=New Economic Policy)であった。具体的には、(一)ブミプトラ(マレー人)と他の民族との所得不均衡の是正、(二)雇用構造の再編、(三)種族間の資本所有の再編、(四)ブミプトラ企業の育成である。
マハティールが、大きな犠牲を払って主張した「人種間の富と発展の是正」が政策として採用された瞬間である。彼は時代に求められて、一九七二年にUMNOへの復帰を許され、一九七四年の選挙で下院議員にも返り咲いた。この年教育相に就任、七六年一月のラザク首相死去に伴って首相に就いたフセイン・オンによって副首相に任命された。そして、一九八一年七月一六日、マハティールはフセイン・オンの引退に伴い、第四代の首相に就任したのである。
ラーマンとマハティールの争点は、マレー人優遇策をどこまで徹底してやるかという問題であった。しかし、複合民族国家の運営が決して単純な論理では間に合わないことはいうまでもない。
ビジネスにおける中国系の力は、マレー系にとって脅威であると同時に、マレーシアの経済発展には欠かせない力でもあるからである。マレー系と中国系の経済格差が埋まっても、国全体としての経済力が削がれては、国家運営は立ち行かない。微妙な舵取りを要求されているのである。ラーマンの人種間協調とマハティールのマレー系優先は、マレーシアにとってともに大切だということである。
むしろ、マハティールのラーマンに対する挑戦の隠された意味に注目しておきたい。それは、イギリスに対する態度の問題である。イギリスは、スルタンに代表されるマレー人の支配階級と結びつき、この地域を統治してきた。ラーマンは、クダ州のスルタンの一族出身であった。これに対して、マハティールは同じクダの出身だが平民の出である。ラーマンがイギリスで英語教育を受けたのに対して、マハティールは国内で学んだ。
エリート対庶民の対立を強調しようとしているのではない。マレー人行政官を占め、イギリス支配の補助者の役割を果たしてきた、英語教育を受けたマレー人王族、貴族の子弟の限界について、説明しておきたいのである。確かに、イギリス支配下で起こったマレー・ナショナリズムは複雑な様相を呈していた。スルタンに連なるマレー系名望家はマレー人の権利拡大の担い手であったが、彼らの運動とは別に、中東の影響を受けたイスラーム改革主義と、より急進的な反植民地主義を標榜するマレー民族主義の流れとがあった。これら三つのマレー人の運動は、あるときは融合してマレー・ナショナリズムを高揚させたが、マレー系名望家の運動はイギリスからマレー人の権利を闘い取るよりも譲り受けようとする傾向が強かったのではなかろうか。この傾向が、イギリスに対する妥協的態度とも解された。
マハティールのラーマンに対する挑戦の隠された目的とは、このイギリスに対する妥協的姿勢、親英的姿勢のシンボルとしてのラーマンのやり方を終焉させることだったのではなかろうか。それが、イギリスが利用してきた中国系エリートに対する態度の転換とも結びついていた。そして、それこそが、首相就任後のマハティールの外交路線に示された欧米支配の国際秩序の修正・アジア復権という試みの序曲だったに違いない。

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