「日本こそが中国だ」と叫んだ山鹿素行─「明日のサムライたちへ」

『月刊日本』の新連載「明日のサムライたちへ 志士の魂を揺り動かした十冊」の一冊目(山鹿素行『中朝事実』)の第一回冒頭です。

「日本こそが中国だ」と叫んだ山鹿素行⇒[PDF]

連載にあたって
わが国では、国難に直面したときには、必ず原点に戻って国を立て直そうという運動が起こってきました。大化の改新、建武の中興、明治維新など、いずれもそうであり、そこには、常に「怒れるサムライ」の存在がありました。
江戸幕府を倒したものは、万世一系のご皇室を戴き共存共栄の道義国家として永遠に続いていくという、わが国の国体の理想から逸脱する幕府の政治への不満であり、同時に対外的な危機に備えることをせず、危機を深刻化させ、しかもその責任をとろうとしない幕府への強い憤りでした。
現在の危機は、幕末の危機と共通する部分が少なくありません。ところが、領土問題や資源問題など目に見える問題に対する危機感は高まっていますが、欧米のリベラル・デモクラシーの問題点に対する認識は十分ではありません。例えば、国家の根幹である農業を破壊し、様々な分野の制度改革を促し伝統を破壊するTPP(環太平洋経済連携協定)を進めようという勢力が権力を維持しています。消費増税をめぐって、民主党・自民党の増税賛成派と公明党が手を組み、新たな幕府体制を形成しようとしています。それは、日本の国体の理想を忘れ去ってしまっているからではないでしょうか。
日本人全体が、本来の理想的な姿を見失い、利己主義、個人主義、効率万能主義、競争主義、物質至上主義に陥ってしまっているのです。これを深刻な問題として受け止めている人もいますが、全く意識していない人も少なくないのが現実です。
今日の日本人の堕落は、欧米を模倣して近代化を進めた結果であり、敗戦・占領にはじまるアメリカへの追従の結果でもあります。自らの力で国を守ろうという考え方が否定され、アメリカへの依存に安住しようという勢力による体制が続いています。
筆者は、本誌において「日本文明の先駆者」を連載し、幕末から明治、大正を中心に活躍した志士の伝記を書いてきました(『維新と興亜に駆けた日本人』展転社)。そこから浮かびあがってきたのは、国体の理想、日本人の生き方の理想を示し、志士たちの魂を揺り動かした本の存在でした。それらの本は、まさに座右の書であり、聖典とも言いうるものでした。
かつて、明治維新はごく一握りの志士が目覚め、果敢に行動したところから、突破口が開けました。現在の体制を倒すのも、ごく一握りのサムライの出現によるのかもしれません。この連載を通じて、若き日本人が、幕末の志士を奮い立たせた書の真髄に触れて国体の理想を認識し、自ら立ち上がろうと決意してくれることを願ってやみません。
まず、四回に分けて山鹿素行の『中朝事実』(一六六九年)を取り上げます。続いて、浅見絅斎の『靖献遺言』(一六八四年~八七年)、山県大弐の『柳子新論』(一七五九年)、本居宣長の『直毘霊』(一七七一年)、蒲生君平の『山陵志』(一八〇一年)、平田篤胤の『霊能真柱』(一八一二年)、会沢正志斎の『新論』(一八二五年)、頼山陽の『日本外史』(一八二六年)、大塩中斎(平八郎)の『洗心洞箚記』(一八三三年)、藤田東湖の『弘道館記述義』(一八四七年)を紹介したいと考えています。以上の著者は、国学、崎門学、陽明学、古学、水戸学に大別できます。
これらの本は、幕末の志士の魂を揺り動かし、明治維新の実現に重要な役割を果たしました。残念ながら、明治維新の理想は、やがて藩閥支配によって歪められ、再び国内の矛盾が深まっていきました。そこで、第二の維新として昭和維新運動が高揚していったわけです。その運動の先頭に立った志士たちもまた、右に挙げた書を座右の書としていたのです。昭和維新のイデオローグたちもまた、独自の著作を著していますが、そのベースになったのが、江戸時代に書かれた国体論でした。
ところが現在、愛国者を自任する人達であっても、頼山陽の『日本外史』など、限られた本しか読んだことがないのが現実かもしれません。かつて、これらの本は、日本人の必読文献として扱われていた時期もあったのです。例えば、昭和十一年に刊行された『国体明徴国民読本』に、『古事記』、『日本書紀』、『続日本紀』、『神皇正統記』などとともに収められていました。
日本の国体の理想に目覚め、維新に立ちあがる明日のサムライの登場を願って、この連載を始めます。ほとんどの書の原文は漢文で、やや難解な本も少なくありません。これらの書の真価を、若い世代の人たちに理解してもらうために、先人が残した訳や大意を用いて、できる限り平易に説明しようと思いますが、十分に説明し尽くせない部分もあるでしょう。できれば、『古事記』、『日本書紀』について、まず基本的な知識を身につけていただきたいと思います。

裕仁親王殿下の仁政を願って伝授された『中朝事実』
いまから百年前の明治四十五(一九一二)年七月三十日、明治天皇が崩御され、九月十三日青山の帝国陸軍練兵場(現在の神宮外苑)において大喪の礼が執り行われました。
午後八時、明治天皇の柩が、神宮外苑絵画館裏口に当たる臨時駅から、京都桃山御陵に向かってご発引の砲声が轟きわたると同時に、乃木希典将軍は赤坂の自邸で、静子夫人と共に自刃し、明治大帝の御後を慕っていったのでした。
その二日前の九月十一日、乃木は東宮御所へ赴き、皇太子裕仁親王殿下(後の昭和天皇)だけにお目にかかりたいと語りました。当時、乃木は学習院長、御年満十一歳の皇太子殿下は学習院初等科五年生でした。以下、そのときの模様を大正天皇の御学友、甘露寺受長氏の著書『背広の天皇』に基づいて紹介します。
乃木は、まず皇太子殿下が陸海軍少尉に任官されたことにお祝いのお言葉をかけ、「いまさら申しあげるまでもないことでありますが、皇太子となられました以上は、一層のご勉強をお願いいたします」と申し上げた。続けて乃木は、「殿下は、もはや、陸海軍の将校であらせられます。将来の大元帥であらせられます。それで、その方のご学問も、これからお励みにならねばなりません。そうしたわけで、これから殿下はなかなかお忙しくなられます。──希典が最後にお願い申し上げたいことは、どうぞ幾重にも、お身体を大切にあそばすように──ということでございます」
ここまで言うと、声がくぐもって、しばらくはジッとうつむいたきりでした。頬のあたりが、かすかに震えていました。
顔をあげた乃木は、「今日は、私がふだん愛読しております書物を殿下に差し上げたいと思って、ここに持って参りました。『中朝事実』という本でございまして、大切な所には私が朱点をつけておきました。ただいまのところでは、お解りにくい所も多いと思いますが、だんだんお解りになるようになります。お側の者にでも読ませておききになりますように──。この本は私がたくさん読みました本の中で一番良い本だと思いまして差し上げるのでございますが、殿下がご成人なさいますと、この本の面白味がよくお解りになると思います」
自刃を決意し、乃木が最後の仕事として是非とも皇太子殿下に伝授しておきたかったのが、山鹿素行『中朝事実』だったのです。乃木は、その三日前の九月八日には、椿山荘に赴いて、山縣有朋(枢密院議長)に自ら中朝事実を抜書した「中朝事実抜抄」を手渡し、大正天皇に伝献方依頼しています。
さて、乃木の様子がなんとなく、いつもと違った感じなので、皇太子殿下は、虫が知らせたのでしょうか、「院長閣下は、どこかへ行かれるのですか」とお尋ねになりました。
すると、乃木は一段と声を落して、「はい──私は、ただいま、ご大葬について、英国コンノート殿下のご接伴役をおおせつかっております。コンノート殿下が英国へお帰りの途中、ずっとお供申し上げなければなりません。遠い所へ参りますので、学習院の卒業式には多分出られないと思います。それで、本日お伺いしたのでございます」と、お答えした。
それから六十六年を経た昭和五十三年十月十二日、松栄会(宮内庁OB幹部会)の拝謁があり、宮内庁総務課長を務めた大野健雄氏は陛下に近況などを申し上げる機会に恵まれました。大野氏が「先般、山鹿素行の例祭が宗参寺において執り行われました。その際、明治四十年乃木大将自筆の祭文がございまして、私ことのほか感激致しました。中朝事実をかつて献上のこともある由、聞き及びましたが……」と申し上げると、陛下は即座に、「あれは乃木の自決する直前だったのだね。自分はまだ初等科だったので中朝事実など難しいものは当時は分からなかったが、二部あった。赤丸がついており、大切にしていた」と大変懐しく、なお続けてお話なさりたいご様子でしたが、後に順番を待つ人もいたので、大野氏は拝礼して辞去したといいます。

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