小島玄之のクーデター必然論

クーデターの必然性
戦後民主主義において、テロやクーデターといった実力行使による維新、国家改造の言説はタブー視されてきた。こうした中で、戦前から維新運動を展開してきた小島玄之は、昭和三十五年一月に「クーデターの必然性」(発表時は「クーデターの合理論」、その後『クーデターの必然性と可能性』に収録)を発表、その後半で以下のように主張した。
 「自衛隊では、若い隊員が、一朝有事にそなえ、国の安全を守るという目的から、優秀な兵器で武装し、身命を捧げて戦う訓練をうけている。その中から、違憲の疑義の投げかけられるような自衛論に、いつまでも甘んじておれず、国民の信頼を失うような議会政治の在り方や、そのうえにたつ政治指導に全幅の信頼をかけられず、信頼のおけない政権の命令のままに動くよりも、むしろそうした政治指導を刷新することこそ、国運開顕に貢献する所以であるとの自覚をもつものが、絶対にでないと誰が保証できよう。
武装兵団にクーデターを起せというのではないし、それを期待するわけでもない。無計画な、そして国民の支持をえられないクーデターが、政治的、社会的混乱を起すことはあきらかである。だから、それはあくまで避けるべきであろう。しかし、クーデターがいけないからといって、いつまでもだらしのない政治指導を許しておいてよいという理由にはならない。
議会をめぐる政治指導の実態が、あまりにもだらしなく、政党、政治家が、国の将来の運命を憂えず、国民生活を想わず、利権、疑獄と派閥抗争の醜状に明け暮れておれば、やがて社会不安をひき起すことは避けられないであろう。そうした政治情勢をそのままに、議会主義を守れ、平和革命の可能性云々と、いかにクーデターを否定する殺し文句をならべてみても、革命的・憂国的ジェネレーションは、その埓をのりこえて爆発せざるをえないだろう。
また、武装兵団の中で、国家、国民のため身命を捧げる覚悟と決意をもつほどのものなら、武装兵団を動員して、治安を維持しなければならないようなときまで事態の悪化することを、座視傍観しておれないとして、憤起するものがでないとはかぎらない。

いちじの出血をおそれ、いかなる病状にも、外科手術を施すことに反対し、内服薬だけに頼ろうとするのは、健康体への回復、長い生命の維持という観点から、正しいといえない。
生命が危いという場合には、いちじの出血をしのんでも、あえて外科手術をやらなければならないことがある。国家の運命と政治指導の関係においても、それと同様のことが認められてよいのではなかろうか。
政治指導の怠慢、拙劣さ故に、生活難から親子心中をするものがたえず、不況産業の労務者の中には栄養失調で命を失うものがおり、危険率の多い産業体では死傷者が続出するというように、年々その犠牲者は相当の数におよんでいる。善良な庶民のそうした犠牲には、政治指導さえよろしきを得れば、防止できる性質のものが少なくない。
その犠牲にくらべれば、クーデターにより、いちじ少数の特権支配者を、政治指導の舞台から退去させるために、たとえ犠牲者をだすとしても、その出血なぞ微細なものである。また、国運を将来測り知れぬ不安な事態においこむ危険と、そのときの混乱による犠牲に想いおよべば、その危険性を未然に防止するために、国運をあやまらしめるような少数の政治指導者を排除する出血は、国家、国民にとり、あながち反対すべきことでもない。その出血を、一個の原水爆の被害や、一機のロケットによる攻撃の犠牲にくらべれば、物の数ではなかろう。
政治指導をあやまり、もし原水爆やロケット攻撃をうけるような事態に国運をおいこむくらいなら、そうした政治指導をあらためるため、少数の犠牲者をだすとしても、それはやむをえないだろう。その出血をいたづらに危険視したり避けようとするのは、それこそ近視眼的偏見である。
要は、それが、マルクス・レーニン主義的共産理論により、政治的に方向づけられるか、日本独自の民族主義理念にのっとって方向づけられるかにある。故に、民族主義運動として、日本の新しい進路をきりひらくため、クーデターの合理論を含む革命綱領がうちだされなければならないときである。
以上に述べたようなクーデターの起る必然性を認め、それが起るのには起るだけの理由があり、民族の独立と民主革命を達成するうえ、そこに合理性を認めるとしたら、その起ることを、いたづらに危惧しないで、その目的をヨリ合理的に達成させるように努力すべきでなかろうか。ただ外科手術を施す場合には、それにふさわしい万善の準備と措置をとらないと、出血多量により生命を危険におとしいれることにもなりかねない。でなければ、目先きの出血をおそれて外科手術に反対し、生命をなしくづし的にちぢめるようなやり方に組みするものを説得することもできない。」

小島玄之の歩み
 明治四十一年八月に大阪で生まれた小島玄之は、和歌山、名古屋と転居した後、岐阜に移り岐阜金華小学校、岐阜中学(現・岐阜高校)で学んだ。昭和二年四月に早稲田大学専門部政経科に入学したが、昭和四年五月に雄弁会解散反対運動に加わり、三年で退学した。
その後、学生運動、農民運動の指導者として活動していたが、昭和六年に検挙され拘留され、昭和十五年保護観察中に維新派に転じた。
昭和十八年九月には、直接行動による国内革新を画策したとして毛呂清輝らとともに検挙されている。昭和二十年に岐阜県揖斐郡に疎開し、終戦後は青年指導にあたった。昭和二十九年四月には、井上日召、佐郷屋嘉昭らと護国団を結成している。昭和四十一年二月八日に五十七歳で死去した。


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