修験者・山本秀道の奉還思想

秘法「恵印三昧耶法」と精神障害治療
 大石凝真素美が36歳の時に弟子入りした修験者・山本秀道とは、一体いかなる人物だったのか。
 秀道は、文政10(1827)年2月16日に美濃国不破郡宮代村で正寿院秀道として生まれた。山本家は、江戸時代までは鉄塔山天上寺と称し、南宮山の一画に坊を構え、院号を正順院または正寿院と号する醍醐三法院に連なる修験の家であった。修験道は、寛政11(1799)年に光格天皇より「神変大菩薩」の諡号を受けた役行者、役小角(えんのおづの)を開祖とする。伝説によると、役小角は摂津国の箕面山の大滝で、インドの僧ナーガールジュナ(龍樹菩薩)の「大いなる法」を授けられたという。
 役小角入滅後、醍醐寺開山の聖宝・理源大師(832~909年)が、大峰山を巡歴し、霊的相承によって役小角の秘法を受け、醍醐派修験道の秘法として後世に継承したとされている。この秘法は「恵印三昧耶法」(「恵印法流」)と呼ばれ、7段階の修法によって構成されている。
 父正寿院秀詮は、83歳にして弟子数十名を率いて寒中の養老の滝に浴する事30日という強の人であった。彼は、「狂人を祈祷し至当乃道理を説得して其親祖兄弟姉妹親戚に至るまでを感伏せしめて前非を改良し将来を慎ましむ全快を得る者千有余人」と伝えられた。彼は、「山本救護所」の名称で加持祈祷による精神障害者収容施設を運営していたのである。
 「伝統治療の豊かさと危うさ:滝、祈祷、温泉、迷信」もまた、「山本救護所」に注目している。梅村貞子氏によると、秀詮が精神病治療に用いたのは、修験道の中心的修法である「加持祈祷」と、山本家内の複雑な対人関係から生み出された家族調整の手段としての「説得」であった。

 しかし、神仏分離令によって神仏習合の色合いが強い修験道は変容を迫られた。明治3(1870)年6月、鉄塔山天上寺は廃寺となり、山本家の宗教的基盤も修験道から神道へと移った。この結果、「山本救護所」の精神病治療も加持祈祷から生活上の実践へと変化した(梅村貞子「精神障害者収容施設山本救護所の歴史」『郷土研究岐阜』1976年12月、13~17頁)。
 大石凝真素美は慶応末年に秀道に弟子入りし、俵佐村の勝宮(勝神社)で、鎮魂帰神法を実践していたとされる。山本白鳥氏は、大石凝の天津金木学は秀道との霊的な共同作業として、神人合一によって成就されたと指摘している。この作業には、太玉大観と名乗る木村一助が参加していたが、途中で木村が脱落したことで、「神業」は全体として未完に終わったという(山本白鳥「大石凝翁ゆかりの地を訪ねて」(大石凝真素美全集刊行会『大石凝真素美全集 解説編』1981年)、84頁)。
 さて、秀道の思想として注目すべきは、その奉還思想である。彼は、明治17(1884)年12月、「我が所有の地所はじめ金銀財貨の類残らず大君へささげ奉ってくれ」と郡役所を通じて、県令に申し出た。これに対して、役所側は狂人のたわ言として、取り合わず放置した。その2年後の明治19(1886)年4月1日、山本家が火事になり、貴重な古文書等が失われてしまった。ところが、秀道はなんら頓着することなく、この火事を「物を私有仕り候故の天遣」と受け止めていたという(前掲81頁)。秀道は、その6年後の明治25(1892)年5月に死去している。

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