異教寛容の風土が育てた唐代文化

 正倉院には、聖武天皇の遺品や東大寺大仏の開眼供養献納品を中心にした宝物が伝世されている。調度品、仏具、遊戯具、楽器、文房具、服飾品、武器など、その数は9000点を超える。
この正倉院宝物は、中国唐代の美術を反映している。西谷正・九大文学部教授(考古学)は「宝物は、遣唐使などが利用した鴻臚館を経由して、正倉院に運ばれたと考えて間違いない」と指摘している。鴻臚館は、唐や新羅などの外国使節を迎えた大宰府政庁の外交施設(旧名称は筑紫館)で、跡地は福岡市の平和台球場付近。
唐代には、美術・建築だけでなく文学や音楽など、さまざまな文化が花開いた。日本の雅楽にも大きな影響を与えた中国伝統音楽の基礎ができ、才能のある女性たちを集めて楽器や歌、踊りも学ばせるための教坊ができたのもこの時代である。
鴻臚館跡地
http://www.port-of-hakata.or.jpより
 ただし、日本文化に大きな影響を与えた唐代文化は、中国的というより、むしろ国際的、普遍的な文化であった。唐の都・長安が当時の世界最先端の都市として栄えた理由もそこにある。
唐には、インドの僧があふれていた。こうした中で、李世民(太宗)の時代には、玄奘が国外旅行禁止を破ってインドに趣き、多くの仏典を中国に持ち帰っている。
また、長安にはアラビア、ペルシャからの商人があふれていた。胡姫すなわち酒場で働くペルシャ女性の姿は、李白の詩「少年行」にも描かれている。

 まさに、この唐代の国際性は、異教寛容の精神の賜物であったろう。岡倉天心は、『東洋の理想』で次のように書いている。
「この時代、印度精神の滲透せる所に於ては何処に於ても常に予期し得る如く、異教寛容の時代であつた。この時代は、支那に於ては儒者、道教徒及び仏教徒が同等の尊敬を受け、又長安の碑碣が証明する如く、景教(キリスト教ネストリウス派)僧はその教義を拡めることを許され、?教徒は帝国内の重要な都市に於て拝火教(ゾロアスター教)を創立することを許可せられて、支那の装飾美術にビザンティン及び波斯の影響の痕跡を留めた時代であつた」(村岡博訳)
国、民族の隔てなく、より優れたものを学ぼうという姿勢は、普遍性における宗教の一致という哲学に支えられていたのかもしれない。 

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