尾張藩・徳川慶勝による楠公社造立建議

 幕末の尾張藩では、楠公崇拝の気運が高まっていた。こうした中で、文久二(一八六二)年、同藩の国学者である植松茂岳が、現在の中区天王崎町の洲崎神社境内に、楠公、和気清麻呂、物部守屋を合祀して三霊神社と称する社を設けた。
 一方、慶応元(一八六五)年九月には、尾張藩士表御番頭・丹羽佐一郎が、東区山口町神明神社境内に楠公を祀りたいと寺社奉行所に願い出て、許可を得た。こうして、神明神社に湊川神社が設けられた。慶応三年には、佐一郎の子賢、田中不二麿、国枝松宇等、有志藩士発起の下に改築されている。
 その勧進趣意書は次のように訴えている。
 「夫れ人の忠義の事を語るや、挙坐襟を正し汪然として泣下る。是れ其の至誠自然に発する者、強偃する所有るに非るなり。楠公の忠勇義烈、必ずしも説話を待たず、其の人をして襟を正し、泣下せしめるものは則ち、唱誘の力なり。今公祠を修し、天下の人と一道の正気を今日に維持せんと欲す。あゝ瓶水の凍、天下の寒を知る。苟も此に感有るもの、蘋繁行潦の奠、その至誠を致し、以て氷霜の節を砥礪すべし」(原漢文、『湊川神社史 景仰篇』)。
 こうした藩内の楠社創建を経て、慶應三年十一月八日、尾張藩藩主・徳川慶勝は、楠公社造立を建議した。将軍徳川慶喜が大政奉還を願い出てから二十日あまりのタイミングである。 続きを読む 尾張藩・徳川慶勝による楠公社造立建議

浅見絅斎の謡曲「楠」と尾張勤皇派

 慶應三年十一月、尾張藩の徳川慶勝は楠公社造立を建議した。その背景には、尾張藩における楠公崇拝の一層の高まりがあった。それを牽引したのが尾張の崎門学派である。森田康之助の『湊川神社史 景仰篇』によると、以下に掲げる浅見絅斎の謡曲「楠」は、崎門学派蟹養斎門下の中村習斎の家に伝わっていた。『子爵 田中不二麿伝』には、「楠」が掲げられている。
 正成、その時、肌の守りを取出だし、是は一とせ都攻めの有りし時、下し給へる令旨なり、よも是までと思ふにそ、汝にこれをゆづるなり、我ともかくも成ならば、芳野の山の奥ふかく叡慮をなやめ給はんは、鏡にかけてみるごとし、さはさりながら正行よ、しばしの難を逃れんと、家名をけがすことなかれ、父が子なれは流石にも、忠義の道はかねて知る、討ち漏らされし郎等を、あはれみ扶持し、いたはりて、流かれ絶たせぬ菊水の、旗をふたゝなびかして、敵を千里に退けて、叡慮を休め奉れ。
 この「楠」を習斎門下の細野要斎が写し、富永華陽に贈った。華陽はそれを田中寅亮(田中不二麿の父)に示した。寅亮は、楠公崇拝者で知られ、楠流兵法にも精通していた。寅亮の弟でかつ門下生の神墨梅雪(富永半平)は、「八陣図愆義」二十九巻の著し、熱田文庫に奉納していたという。寅亮はまた、楠公の旗じるしの文「非理法権天」の文字の意義を解説した刷物を知友に配ったこともあったらしい。
 そんな寅亮であったから、絅斎の「楠」に大変感動し、要斎に跋を請うた。安政三年に、名古屋市中区門前町にある長福寺は、この要斎の跋文を付して、絅斎の謡曲「楠」を一枚刷で発行している。要斎の随筆『葎(むぐら)の滴』には、以下のように書かれている。
 〈(安政三年)五月十四日午後、田中寅亮来臨して曰く、往時君が蔵せし浅見(絅斎)先生作の楠の謡曲の詞を写して珍玩せしが、音節に伝写の誤りありて謡ひ難かりしを、甲寅の年(安政元年)東武に官遊して金春秦安茂に改正せしめ、一本を写して高須(義建)少将の君へ呈せしに、御手つから鼓の手を朱書して賜へり。こゝに於て又先哲叢談中の先生の伝を後に加へて邦君(徳川慶勝)へも献りしに、邦君も殊の外賞し給ひ、御酒宴の時にはしばしば楠を謡へとて歌はしめ給ふ。この謡は世に流布せざれば人未だこれを学ばず、助音するものなかりきと、金春の声律を協(ととの)へし一冊を示し、又毎年五月二十五日は楠河州(正成)の忌日なれば、曽て長福寺に納めし楠氏の肖像(田中氏往年志貴山に蔵せしを、写して同寺に納む)を掲げて、同好の士相会して神前に楽を奏して遺徳を敬仰す〉

久留米尊攘派・池尻茂左衛門(葛覃)─篠原正一『久留米人物誌』より

 池尻茂左衛門(葛覃)は、高山彦九郎と親密な関係にあった樺島石梁に師事し、久留米尊攘派として真木和泉とともに国事に奔走した人物である。大楠公一族、真木一族同様、池尻も一族挙げて国事に奔走して斃れた。権藤成卿の思想系譜を考察する上で、父権藤直が池尻に師事していたことに注目しなければなない。
 以下、篠原正一氏の『久留米人物誌』を引く。
 〈米藩士井上三左衛門の次男として庄島に出生。母方の池尻氏が絶えたので、その跡を嗣ぎ池尻を姓とした。兄は儒者井上鴨脚。本名は始また冽ともいい、字は有終、通称は茂左衛門、号は紫海また葛覃、樺島石梁に学んだのち、江戸留学九年、先ず昌平黌に学び安井息軒・塩谷宕陰と交わり、転じて松崎慊堂の門に入った。天保九年十一月、藩校明善堂講釈方となり、嘉永ごろから池尻塾を開いて門弟を育てた。安政六年十二月、明善堂改築竣工の際は、特に命ぜられて「明善堂上梁文」を草した。
 早くより勤王攘夷の思想を抱き、特に攘夷心が強かった。天保十五年七月、和蘭軍艦「パレンバン」が入港し人心動揺すると、秘かに長崎に行き、その情勢を探り、事現われて譴責を受けた。これより真木保臣の同志として国事に奔走し、特に京に在っては公卿の間に出入し、三条・姉小路などの諸卿や長州藩主毛利敬親の知遇を受け、また朝廷と米藩との間の斡旋に力を尽くした。 続きを読む 久留米尊攘派・池尻茂左衛門(葛覃)─篠原正一『久留米人物誌』より

尾張の勤皇志士・丹羽賢③─荻野錬次郎『尾張の勤王』より

 荻野錬次郎『尾張の勤王』(金鱗社、大正11年)は、丹羽賢について、以下のように記している。
[②より続く]〈田宮、田中の二人を京都の新政府に止め一位老公を擁して帰藩せし以後の丹羽は、概ね田宮の規画に基くとは言ひ乍ら、藩中異論者の排斥処分を始め閣藩刷新のことを実行し、士気を振作し兵制を更め武器を改良して新たに壮兵を募り(新募壮兵隊の名称を磅磚隊、正気隊等と称す)急遽之を訓錬して直に征討軍に送る等一気呵成に之を遂行したるは彼れが断行力に富むの結果であらねばならぬ。
 固より上には成瀬の至誠と田宮の善謀とあり下には松本暢の能く新兵編成の事に当るあり、其他各種の便宜輔翼を得たるの致す所なるも、藩情紛糾乱の際兎も角も之を処理したるは丹羽にあらざれば企及し能はざる所である。而かも此時の丹羽は纔に二十三歳の若齢であつた。
 兵馬倥偬の間にも丹羽には別に閑日月ありて彼れが得意の風流は之を等閑に附せず詩酒悠々常に朱唱紅歌に親むだ、之れ彼れが英雄的資質の流露するものにあらざる歟而して彼れが此趣味より来れる戯謔(ぎぎゃく)なるや否を知らざる……
 丹羽は戊辰の首夏(閏四月二十四日)弁事に任じ東京府判事攝行を命ぜられたるに由り、一旦東京に赴任せしも藩地人才乏しく一位老公の政府に内請する所ありて忽ち藩地に帰り大参事として藩務に鞅掌せるものであつたが、廃藩置県(明治四年十一月十五日)の結果安濃津県参事と為り尋いて三重県権令と為り後ち、幾くもなく又中央政府に入り司法の丞となりたるものである〉

尾張の勤皇志士・丹羽賢②─荻野錬次郎『尾張の勤王』より

 荻野錬次郎『尾張の勤王』(金鱗社、大正11年)は、丹羽賢について、以下のように記している。
[①より続く]〈特筆大書すべき彼れの功績は、輦轂(れんこく)の下に於ける戦闘の開始を防ぎ、帝都をして砲煙弾雨の街とし流血淋漓(りんり)の衢とするの惨禍を避けしめたる一事である、今其事実を略記せむに、既に政権を返上せる旧将軍徳川慶喜は幕府の兵と共に尚ほ二条城に在り、会、桑二藩は依然旧将軍を擁護して滞京せるに依り、薩長連合の兵団は迅に之を撃退して皇政維新の実を挙むことを主張し、相互衝突の期危機一髪の間に逼るの刹那、丹羽は急遽岩倉、大久保に会し旧将軍会桑二藩と共に尚ほ滞城するも未だ反形の顕れたるものなし、今若し薩長の兵団より彼れに対し事端を開くに於ては、其勝敗の数は別とし輦轂の下に戦を開くの責は当然我に帰して曲即ち新政府に在ることゝなる、因て先づ旧将軍に退去を命じ若し之に遵はざる時、其罪を鳴らし之を撃退するに於ては名分正くして信を天下に得る所以であると説き、岩倉、大久保の之が決定に悩むの色あるを見、彼れは雄弁滔々その利害を痛論し遂に岩倉、大久保を説服し自巳の主張を貫きたるものである、其結果として旧将軍は会、桑二藩と共に任意大阪に退去することゝなり、新政府の成立に一進転を与ふるに到つた、他日伏見、鳥羽の衝突起り竟に戦端を開くの已なきに至りたるも、一旦武力を用ひずして平穏に旧将軍以下を退京せしめ、夫が為帝都の安寧を保ち得たるは之を丹羽賢の功績に帰せねばならぬ。
 又伏見、鳥羽衝突の日新政府の危惧一方ならず、為に帝座叡山移御の議を生じたる時、尾州側の参与は一斉に其不可を主張した、此時も亦丹羽は特に岩倉、大久保に対し今の時は元弘の時と異なる所以を力説し遂に衆論の帰一を見るに到つた、又此日単身二条城に突進して留守梅沢亮を圧迫し直に開城の事を実行した〉

[続く]

尾張の勤皇志士・丹羽賢①─荻野錬次郎『尾張の勤王』より

 荻野錬次郎『尾張の勤王』(金鱗社、大正11年)は、丹羽賢について、以下のように記している。
 〈内には燃るが如き雄志を抱き、表には冷灰も啻ならざる静寂を粧ひ、竟に痼疾の為に殪れたる丹羽賢の薄命は、個人として深く之れに同情の涙を禁じ得ざるのみならず、国家又は社会としては彼れの早死を一大損失として歎惜せねばならぬ。
 丹羽賢は倜儻駿邁にして気節高く、時に或は慷慨激越の風あるも、而かも識見卓絶、実に忠誠愛国の士たりしこと、彼れを知るものゝ斉しく認むる所にして之が代表の讃とも見るべきは、その友鷲津毅堂が華南小稿に序する所にて明瞭である。
 嗚呼、英雄首を回らせば即ち神仙である、一位老公(尾張旧藩主徳川慶勝)が『回首即神仙』の句を彼れに与へられたるは、即ち彼れを英雄と認められたるに因るものであらう、然り彼れは実に天才的の人にして英雄の資質を具備せるものである、されど天彼れに年を仮さず、彼れをして大に英雄的手腕を振ふの機を与へざりしは、まことに遺憾である。
 丹羽は幼時国枝松宇に親炙して忠孝節義の薫陶を受け又文久二年父氏常の祗役に従つて江戸に出で幕府昌平黌に学ぶ(年十七)。松本奎堂の知遇を得たるは此時にして奎堂を名古屋に迎へ学塾を開きて国史を講じ、尊王攘夷の説を鼓吹せしめたるは即ち其後のことである、又松本暢等の志士と親善となりしも当時のことである。
 元治元年征長の役父氏常が総督に扈従するに方り丹羽は父に従つて広島表に出陣した(此時丹羽は白木綿にて陣羽織を製し其背に『肯落人間第二流』云々の一詩を大書して著用した、人皆其異彩に驚きたりと言ふ)其後丹羽は田中不二麿、中村修等と共に尾張勤王の巨魁田宮如雲の幕下に参し、東奔西走勤王の事に尽し明治維新の際田宮、田中等と共に徴士に選抜せられ尋いて新政府の参与と為り、明治維新の創業に貫献すること少なからざるものである〉

[続く]

「金鉄党」対「ふいご党」①─『愛知県の歴史』より

 尾張藩の金鉄党とふいご党について、塚本学・新井喜久夫著『愛知県の歴史』は、以下のように書いている。
 〈天保十年(一八三九)、一一代の藩主斉温(なりはる)の死去とともに、田安家の斉荘(なりたか)、実は将軍家慶の弟が尾張藩主をついだが、これは幕府からのおしつけ養子の感じがつよかった。
 将軍家における御三家のように、尾張藩にも支藩があつた。そのなかで美濃高須藩四谷家の義恕(よしくみ、のち徳川慶勝)が、ちょうど幕政における徳川慶喜に似た役割をもってきた。将軍家からのおしつけ養子に反発する一部藩士たちは、この義恕に大きな期待をかけたのである。そういう彼らのなかから金鉄党とよばれる党派が成長していき、それがやがて尾張藩の尊攘派になっていった。
 天誅組の松本謙三郎(奎堂)が刈谷藩家老の家に生まれたのにたいし、尾張藩の金鉄党はおもに下級の藩士たちを主体としていた。藩校であった明倫堂の学者・学生グループ、番士すなわち軍事専門家たちといった連中で、家格よりも自分の技能を自負している人びとのあつまりであった。彼らは斉荘の相続に反対し、江戸藩邸の執政、とりわけ幕府からの御付家老の一人で、犬山城主であった成瀬家の私曲を非難し、さらに嘉永元年(一八四八)には、米切手の引き換え問題をとりあげ、中・下屏藩士たちの利益を擁護するため陳情するなど、活発なうごきをみせていく。
 将軍家相続事件の場合とちがうのは、外国問題がからんでいたいかわりに、対幕関係とむすびついていることであろう。したがって金鉄党が成長していく過程は、そのまま幕閣にたいして尾張藩の自主独立をもとめるうごきこすなわち幕府独裁制にたいする批判的な勢力の成長となっていった。
 斉荘のあとをその弟慶臧(よしつぐ)がつぎ、嘉永二年(一八四九)、慶臧が病死すると、またしても幕府は斉荘の弟への相続をはかった。これにたいして、いまや一部の町人や村々の名望家たちをもふくんだ金鉄党の反対運動がおこなわれた。そして、慶臧が病没して二カ月たつと、彼らの待望する四谷家若殿の尾張藩襲封が実現する。一四代尾張藩主徳川慶勝であり、その動向は以後、中央政界に大きな影響をあたえていく。
 この慶勝の襲封は、徳川慶喜が将軍職につく一七年前のことである。慶喜が将軍となったときには、すでに安政年間に彼を推した勢力が尊攘派と公武合体派とにわかれていたのにたいし、慶勝は藩内の幕府独裁反対派の与望をになって登場することができた。尾張藩の藩内抗争がそれほどはげしいかたちをとらず、また下級藩士を主体とした金鉄党も、いわば微温的な勤王派として、慶勝の公式合体策をささえる態度をとるようになったのは、さしあたってはそうした事情によるであろう。
 だが、尾張藩に内部抗争がなかったわけではない。安政四~五年の幕政をめぐる争論では、慶勝は当然、改革派のがわにたち、井伊政権によって隠居・謹慎を命じられる。したがって、慶勝が名実ともに尾張藩主であったのは、一〇年にみたない歳月であった。そしてこの慶勝の引退は、ただちに藩内での金鉄党の勢力後退となってあらわれた。慶勝が藩主の地位をしりぞきながら、やがて実権を回復していったころ、〝金鉄〟をもとかすという意味をもたせた〝ふいご党〟と名のる一党が反対勢力として登場してくる。そして勢いのおもむくところ、尾張藩の二大名門で、ともに創業以来、御付家老としての権威をほこった成瀬・竹腰両家がこの抗争にまきこまれていく。はじめ、竹腰家とのむすびつきをはかった金鉄党は、竹腰家のそっけない態度に失望し、以後、成瀬家との接近をつよめていくのである。たよりとした重臣にみすてられた藩内改革派の中・下士が、一藩改革のわくをつきやぶっていくのが、他藩にしばしばみられる傾向であったのに、尾張藩ではもう一方の重臣とのむすびつきをはかるという方向をたどったのである〉

「依王命被催事」の継承─近松矩弘から徳川慶勝(文公)へ

 尾張藩初代藩主の徳川義直(敬公)の尊皇思想は、彼が編んだ『軍書合鑑』末尾に設けられた一節「依王命被催事(王命に依って催される事)=仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」に集約される。その詳しい内容は歴代の藩主にだけ、口伝で伝えられてきた。その内容を初めて明らかにしたのが、第四代藩主・徳川吉通(立公)である。死期を迎えた立公は、跡継ぎの五郎太が幼少だったので「依王命被催事」の内容を、侍臣・近松茂矩に命じて遺したのでる。それが『円覚院様御伝十五ヶ条』だ。
「依王命被催事」の精神は、尾張藩勤皇派に脈々と受け継がれ、維新に至る十四代藩主・徳川慶勝(文公)の活躍となって花開く。以下に挙げる近松矩弘の事跡(『名古屋市史 人物編第一』)には、その精神の継承が跡付けられている。
「矩弘、性質温克弁慧、世々軍学の師たり。其高祖茂矩、藩主吉通の遺命を蒙り、藩祖義直の軍書合鑑の末に「依王命被催事」とある一条、其他十一箇条に就いて勤王の主義の存する所を世子に伝へんとす。世子早世して其事止む。矩弘に至りて其遣訓を守り、之を慶勝に伝ふ。爾来田宮如雲・長谷川敬等と謀り、遺訓を遵奉して勤王の大義を賛し、力を国事に尽す

「人と為り剛毅権貴に屈せず、直言して憚らず」─荒川定英についての『名古屋市史 人物編 第一』の記述

 昭和9年に刊行された『名古屋市史 人物編 第一』(川瀬書店)は、「名門」「侯族」「執政」「勤王」「僚吏」「武勇」「忠烈」などに分類して、功績のあった人物について簡潔にまとめている。
「勤王」には、田宮如雲など32人の人物を収録している。その中に、荒川定英も収められている。
「荒川定英、旧称に弥五衛(初め弥五右衛門、又、昇)羊山と号す。尾藩大番の士坪内繁三郎の弟にして、弥五八と称せり。安政三年、荒川氏を継ぎ大砲役並となる。後使番並・東方総管参謀・岐阜奉行等に歴任し、足高を合せて廩米二百五十俵を給はる。明治二年七月、監察となり、尋いで名古屋藩権少参事に任じ、民政権判事・市政商政懸りとなる。三年、藩庁懸りとなり、翌年、聴訟断獄・市井商政科を掌り、廃藩置県に至りて罷む。
定英、人と為り剛毅権貴に屈せず、直言して憚らず。頗る材幹あり。然れども素不学なるを以て、維新の際、他藩の士と応接するに、貴藩といふべきを御弊藩といひ、当時藩中に笑話を遺せり。明治十一、二年の交、盛に民権自由の説を鼓吹し、後国会開設の請願に奔走し、愛国交親壮を起して庄林一正と共に之が牛耳を執れり。少より俳諧を嗜みしを以て、後黒田甫の門に入り、耳洗、軒羊山と号し、晩年世事を謝して専ら風月を友とす。明治三十九年一月九日歿す。享年七十八。常瑞寺に葬る」