尾張の勤皇志士・丹羽賢②─荻野錬次郎『尾張の勤王』より

 荻野錬次郎『尾張の勤王』(金鱗社、大正11年)は、丹羽賢について、以下のように記している。
[①より続く]〈特筆大書すべき彼れの功績は、輦轂(れんこく)の下に於ける戦闘の開始を防ぎ、帝都をして砲煙弾雨の街とし流血淋漓(りんり)の衢とするの惨禍を避けしめたる一事である、今其事実を略記せむに、既に政権を返上せる旧将軍徳川慶喜は幕府の兵と共に尚ほ二条城に在り、会、桑二藩は依然旧将軍を擁護して滞京せるに依り、薩長連合の兵団は迅に之を撃退して皇政維新の実を挙むことを主張し、相互衝突の期危機一髪の間に逼るの刹那、丹羽は急遽岩倉、大久保に会し旧将軍会桑二藩と共に尚ほ滞城するも未だ反形の顕れたるものなし、今若し薩長の兵団より彼れに対し事端を開くに於ては、其勝敗の数は別とし輦轂の下に戦を開くの責は当然我に帰して曲即ち新政府に在ることゝなる、因て先づ旧将軍に退去を命じ若し之に遵はざる時、其罪を鳴らし之を撃退するに於ては名分正くして信を天下に得る所以であると説き、岩倉、大久保の之が決定に悩むの色あるを見、彼れは雄弁滔々その利害を痛論し遂に岩倉、大久保を説服し自巳の主張を貫きたるものである、其結果として旧将軍は会、桑二藩と共に任意大阪に退去することゝなり、新政府の成立に一進転を与ふるに到つた、他日伏見、鳥羽の衝突起り竟に戦端を開くの已なきに至りたるも、一旦武力を用ひずして平穏に旧将軍以下を退京せしめ、夫が為帝都の安寧を保ち得たるは之を丹羽賢の功績に帰せねばならぬ。
 又伏見、鳥羽衝突の日新政府の危惧一方ならず、為に帝座叡山移御の議を生じたる時、尾州側の参与は一斉に其不可を主張した、此時も亦丹羽は特に岩倉、大久保に対し今の時は元弘の時と異なる所以を力説し遂に衆論の帰一を見るに到つた、又此日単身二条城に突進して留守梅沢亮を圧迫し直に開城の事を実行した〉

尾張の勤皇志士・丹羽賢①─荻野錬次郎『尾張の勤王』より

 荻野錬次郎『尾張の勤王』(金鱗社、大正11年)は、丹羽賢について、以下のように記している。
 〈内には燃るが如き雄志を抱き、表には冷灰も啻ならざる静寂を粧ひ、竟に痼疾の為に殪れたる丹羽賢の薄命は、個人として深く之れに同情の涙を禁じ得ざるのみならず、国家又は社会としては彼れの早死を一大損失として歎惜せねばならぬ。
 丹羽賢は倜儻駿邁にして気節高く、時に或は慷慨激越の風あるも、而かも識見卓絶、実に忠誠愛国の士たりしこと、彼れを知るものゝ斉しく認むる所にして之が代表の讃とも見るべきは、その友鷲津毅堂が華南小稿に序する所にて明瞭である。
 嗚呼、英雄首を回らせば即ち神仙である、一位老公(尾張旧藩主徳川慶勝)が『回首即神仙』の句を彼れに与へられたるは、即ち彼れを英雄と認められたるに因るものであらう、然り彼れは実に天才的の人にして英雄の資質を具備せるものである、されど天彼れに年を仮さず、彼れをして大に英雄的手腕を振ふの機を与へざりしは、まことに遺憾である。
 丹羽は幼時国枝松宇に親炙して忠孝節義の薫陶を受け又文久二年父氏常の祗役に従つて江戸に出で幕府昌平黌に学ぶ(年十七)。松本奎堂の知遇を得たるは此時にして奎堂を名古屋に迎へ学塾を開きて国史を講じ、尊王攘夷の説を鼓吹せしめたるは即ち其後のことである、又松本暢等の志士と親善となりしも当時のことである。
 元治元年征長の役父氏常が総督に扈従するに方り丹羽は父に従つて広島表に出陣した(此時丹羽は白木綿にて陣羽織を製し其背に『肯落人間第二流』云々の一詩を大書して著用した、人皆其異彩に驚きたりと言ふ)其後丹羽は田中不二麿、中村修等と共に尾張勤王の巨魁田宮如雲の幕下に参し、東奔西走勤王の事に尽し明治維新の際田宮、田中等と共に徴士に選抜せられ尋いて新政府の参与と為り、明治維新の創業に貫献すること少なからざるものである〉

[続く]

「金鉄党」対「ふいご党」①─『愛知県の歴史』より

 尾張藩の金鉄党とふいご党について、塚本学・新井喜久夫著『愛知県の歴史』は、以下のように書いている。
 〈天保十年(一八三九)、一一代の藩主斉温(なりはる)の死去とともに、田安家の斉荘(なりたか)、実は将軍家慶の弟が尾張藩主をついだが、これは幕府からのおしつけ養子の感じがつよかった。
 将軍家における御三家のように、尾張藩にも支藩があつた。そのなかで美濃高須藩四谷家の義恕(よしくみ、のち徳川慶勝)が、ちょうど幕政における徳川慶喜に似た役割をもってきた。将軍家からのおしつけ養子に反発する一部藩士たちは、この義恕に大きな期待をかけたのである。そういう彼らのなかから金鉄党とよばれる党派が成長していき、それがやがて尾張藩の尊攘派になっていった。
 天誅組の松本謙三郎(奎堂)が刈谷藩家老の家に生まれたのにたいし、尾張藩の金鉄党はおもに下級の藩士たちを主体としていた。藩校であった明倫堂の学者・学生グループ、番士すなわち軍事専門家たちといった連中で、家格よりも自分の技能を自負している人びとのあつまりであった。彼らは斉荘の相続に反対し、江戸藩邸の執政、とりわけ幕府からの御付家老の一人で、犬山城主であった成瀬家の私曲を非難し、さらに嘉永元年(一八四八)には、米切手の引き換え問題をとりあげ、中・下屏藩士たちの利益を擁護するため陳情するなど、活発なうごきをみせていく。
 将軍家相続事件の場合とちがうのは、外国問題がからんでいたいかわりに、対幕関係とむすびついていることであろう。したがって金鉄党が成長していく過程は、そのまま幕閣にたいして尾張藩の自主独立をもとめるうごきこすなわち幕府独裁制にたいする批判的な勢力の成長となっていった。
 斉荘のあとをその弟慶臧(よしつぐ)がつぎ、嘉永二年(一八四九)、慶臧が病死すると、またしても幕府は斉荘の弟への相続をはかった。これにたいして、いまや一部の町人や村々の名望家たちをもふくんだ金鉄党の反対運動がおこなわれた。そして、慶臧が病没して二カ月たつと、彼らの待望する四谷家若殿の尾張藩襲封が実現する。一四代尾張藩主徳川慶勝であり、その動向は以後、中央政界に大きな影響をあたえていく。
 この慶勝の襲封は、徳川慶喜が将軍職につく一七年前のことである。慶喜が将軍となったときには、すでに安政年間に彼を推した勢力が尊攘派と公武合体派とにわかれていたのにたいし、慶勝は藩内の幕府独裁反対派の与望をになって登場することができた。尾張藩の藩内抗争がそれほどはげしいかたちをとらず、また下級藩士を主体とした金鉄党も、いわば微温的な勤王派として、慶勝の公式合体策をささえる態度をとるようになったのは、さしあたってはそうした事情によるであろう。
 だが、尾張藩に内部抗争がなかったわけではない。安政四~五年の幕政をめぐる争論では、慶勝は当然、改革派のがわにたち、井伊政権によって隠居・謹慎を命じられる。したがって、慶勝が名実ともに尾張藩主であったのは、一〇年にみたない歳月であった。そしてこの慶勝の引退は、ただちに藩内での金鉄党の勢力後退となってあらわれた。慶勝が藩主の地位をしりぞきながら、やがて実権を回復していったころ、〝金鉄〟をもとかすという意味をもたせた〝ふいご党〟と名のる一党が反対勢力として登場してくる。そして勢いのおもむくところ、尾張藩の二大名門で、ともに創業以来、御付家老としての権威をほこった成瀬・竹腰両家がこの抗争にまきこまれていく。はじめ、竹腰家とのむすびつきをはかった金鉄党は、竹腰家のそっけない態度に失望し、以後、成瀬家との接近をつよめていくのである。たよりとした重臣にみすてられた藩内改革派の中・下士が、一藩改革のわくをつきやぶっていくのが、他藩にしばしばみられる傾向であったのに、尾張藩ではもう一方の重臣とのむすびつきをはかるという方向をたどったのである〉

「依王命被催事」の継承─近松矩弘から徳川慶勝(文公)へ

 尾張藩初代藩主の徳川義直(敬公)の尊皇思想は、彼が編んだ『軍書合鑑』末尾に設けられた一節「依王命被催事(王命に依って催される事)=仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」に集約される。その詳しい内容は歴代の藩主にだけ、口伝で伝えられてきた。その内容を初めて明らかにしたのが、第四代藩主・徳川吉通(立公)である。死期を迎えた立公は、跡継ぎの五郎太が幼少だったので「依王命被催事」の内容を、侍臣・近松茂矩に命じて遺したのでる。それが『円覚院様御伝十五ヶ条』だ。
「依王命被催事」の精神は、尾張藩勤皇派に脈々と受け継がれ、維新に至る十四代藩主・徳川慶勝(文公)の活躍となって花開く。以下に挙げる近松矩弘の事跡(『名古屋市史 人物編第一』)には、その精神の継承が跡付けられている。
「矩弘、性質温克弁慧、世々軍学の師たり。其高祖茂矩、藩主吉通の遺命を蒙り、藩祖義直の軍書合鑑の末に「依王命被催事」とある一条、其他十一箇条に就いて勤王の主義の存する所を世子に伝へんとす。世子早世して其事止む。矩弘に至りて其遣訓を守り、之を慶勝に伝ふ。爾来田宮如雲・長谷川敬等と謀り、遺訓を遵奉して勤王の大義を賛し、力を国事に尽す

「人と為り剛毅権貴に屈せず、直言して憚らず」─荒川定英についての『名古屋市史 人物編 第一』の記述

 昭和9年に刊行された『名古屋市史 人物編 第一』(川瀬書店)は、「名門」「侯族」「執政」「勤王」「僚吏」「武勇」「忠烈」などに分類して、功績のあった人物について簡潔にまとめている。
「勤王」には、田宮如雲など32人の人物を収録している。その中に、荒川定英も収められている。
「荒川定英、旧称に弥五衛(初め弥五右衛門、又、昇)羊山と号す。尾藩大番の士坪内繁三郎の弟にして、弥五八と称せり。安政三年、荒川氏を継ぎ大砲役並となる。後使番並・東方総管参謀・岐阜奉行等に歴任し、足高を合せて廩米二百五十俵を給はる。明治二年七月、監察となり、尋いで名古屋藩権少参事に任じ、民政権判事・市政商政懸りとなる。三年、藩庁懸りとなり、翌年、聴訟断獄・市井商政科を掌り、廃藩置県に至りて罷む。
定英、人と為り剛毅権貴に屈せず、直言して憚らず。頗る材幹あり。然れども素不学なるを以て、維新の際、他藩の士と応接するに、貴藩といふべきを御弊藩といひ、当時藩中に笑話を遺せり。明治十一、二年の交、盛に民権自由の説を鼓吹し、後国会開設の請願に奔走し、愛国交親壮を起して庄林一正と共に之が牛耳を執れり。少より俳諧を嗜みしを以て、後黒田甫の門に入り、耳洗、軒羊山と号し、晩年世事を謝して専ら風月を友とす。明治三十九年一月九日歿す。享年七十八。常瑞寺に葬る」