愛国交親社の設立経緯─庄林一正と興行撃剣グループ

以下、長谷川昇氏の『博徒と自由民権』に基づき、愛国交親社の動向を整理しておく。
 明治十二年三月、内藤魯一が中心となって、三河国碧海郡上重原村に「三河交親社」が結成された。内藤は、明治十三年三月に予定されている国会開設請願運動の母胎となるべく、愛知県有志の一本化を進めた。そのとき、内藤が頼りにしたのが庄林一正であった。内藤は庄林を仲介として興行撃剣組織に働きかけた。
 そして、明治十二年十一月十三日に名古屋大須の七ツ寺に有志を結集し、会談を開いた。集まったのは、庄林一正、荒川定英、近藤義九郎、西山蔵造、真貝虎雄、浜島重軌、太田当道、山内徳三郎、山田三平、浅井幸助ら十七名である。彼らは、興行撃剣の主導的メンバーであった。
 この会談の結果定められたのが、『御宸翰御誓文ニ基ク決議十七条」である。長谷川氏によると、決議の前文には、尾張・三河の有志が「結合親睦シテ文武会ヲ設クル」ことを決め、その主旨として「文武ハ車ノ両輪ニシテ国家ニ一日モ欠クベカラザル要具」であるのに、維新以来「人民武ヲ棄テテ之ヲ問ハザルニ至」ったのは「実ニ長大息ノ極ミ」である。だから「先ヅ第一着ニ武術ヲ開キ」それによって「愛国ノ主義」に達しなければならない。そして社員中に非常ノ災害ニ罹ったり「病死等ニテ家族ヲ養食スルニ術ナキ者」は社中で救助する、という主旨のものだった。
 武術の保存・振興による国力の伸張と武術家の相互扶助が目的として強調されているということである。
 この七ツ寺会議メンバーと「三河交親社」とを合体させて、「愛知県交親社」を作り、明治十三年三月の愛国社第四回大会に参加することになった。
 内藤家に保存されている「愛知県交親社(尾張組)人名簿」には百八名の人名が記載されている。長谷川は、以下のように指摘している。
 〈一、この一〇八名のなかには、明らかに興行撃剣に参加していたと思われる者が少なくとも七〇名はいる(私の手もとにある八枚の「興行撃剣番付」から拾い出すことができるものだけで)。
 二、この一〇八名のなかには、草莽隊出身者が約二〇名いる(もっとも多いのが磅礴隊の一〇名、ついで集義隊の五名、帰順正気隊の三名)。
 三、『壬申戸籍』で明治十二年現在の職業の判明する者三五名の内訳は、工(鼻緒職・指物職・桶職・綿打職など)一七名。商(菓子・焚味噌・煮売など)六名。雑業(人力挽・日雇渡世など)一二名。
 以上を総合してみれば、「愛知県交親社尾張組」は興行撃剣をその組織の末端にいたるまですっぽりと抱えこんだものと考えてよいと思われる。
 この「尾張組」 一〇八名のなかに、のちに名古屋事件の累連者になる者が七名いる。
 A、磅礴隊から興行撃剣に参加した山内徳三郎・安藤浅吉・鬼島貫一の三名。
 B、興行撃剣参加の都市細民層である鈴木松五郎・山内藤一郎・寺西住之助・加藤米三郎の四名。
 この七名は、興行撃剣を通じて庄林一正直系の輩下となり、その思想的影響下にあった分子と思われる〉

杉田定一関係メディア

 杉田定一は『評論新聞』の記者、『草莽事情』の編輯長を務めた。これらと同系統のメディアとして、『采風新聞』『草莽雑誌』『莽草雑誌』『湖海新報』等があった。以下、『遠山茂樹著作集 第3巻 自由民権運動とその思想』(岩波書店、1991年)にしたがって、各メディアの概要を整理しておく。

●『評論新聞』
 一八七五(明治八)年四月二十日発刊。一八七六(明治九)年七月十日発行停止を命ぜらる。編輯長として横瀬文彦・関新吾・小松原英太郎・東清七・中島富雄・高羽光則・田代荒次郎・鳥居正功・中山喜勢・高橋克、評者として山脇巍・田中直哉・中島勝義・満木清繁・岡本精一郎等がいた。発行所は集思社。

●『草莽事情』
 一八七七(明治十年)一月十九日発刊。同年七月発行停止。編輯長杉田定一・高橋克、印刷人鳥居正功、共に評論新聞関係者である。発行所は集思社分局。

●『采風新聞』
 一八七五(明治八)年十一月発刊。一八七六(明治九)年七月十日発行停止。編輯長矢野駿男。発行所は采風社。

●『草莽雑誌』
 一八七六(明治九)年二月発刊。同年七月十日発行停止。編輯長は木庭繁・馬城章造、社長栗原亮一、発行所は自主社。

●『莽草雑誌』
 一八七六(明治九)年八月発刊。同年九月発行禁止。社長は栗原亮一・波多野克己、編輯長は古庄簇一郎、発行所は自主社。

●『湖海新報』
 一八七六(明治九)年三月発刊。同年七月十日発行禁止。編輯長は山田精一郎・肥後司馬・倉本半太郎・福間清之・今井毅、評者に田代荒次郎。これまた評論新聞社系統である。発行所は参同社。

自由独立の気風を振起するためには「従来の大和魂を失ふ勿れ」─杉田定一の思想

 遠山茂樹は、杉田定一について次のように書いている。
 〈立志社周辺の自由民権の壮士達、例えば杉田定一の場合を考えてみよう。彼は本来の武士出身ではない。杉田家は越前随一の大地主で、藩の用達を務めた豪農・豪商である。しかし彼をして自由の闘いに身を挺せしめた意識は、庶民としてのそれではなく、あくまでも志士の気概であった。「国事の為に死生を度外に置き、天下を取るか、首を取らるるかは当年の理想なりしなり……獄中閑日月の間、書を読みて或は英雄豪傑の偉業を追慕し、或は志士仁人の艱苦を回想し」と述懐している。彼は自己の思想の系譜を次の如く説明している。「道雅上人からは尊王攘夷の思想を学び、東篁先生からは忠君愛国の大義を学んだ。この二者の教訓は自分の一生を支配するものとなって、後年板垣伯と共に、大いに民権の拡張を謀ったのも、皇権と共に民権を重んずる明治大帝の五事の御誓文に基づいて、自由民権論を高唱したのであった」と。すなわち尊王攘夷の帰結として、「内においては藩閥政治に反対し、外においては東洋の自由を主張した」闘いの実践がうち出されたのである。だからこそ西南の役勃発に際会し、「第二の維新を東北より起さん」とし、まず水戸に足を運んだ。何故水戸を第一に選んだか、明治維新の思想的根源である水戸学の発祥地であるからと、彼は説明している。もとより水戸では志をえず、転じて庄内に入った。蓋し庄内は幕末徳川氏に殉じて最後まで「義戦」した「純忠至誠の心」「尊王愛国の精神」を有した地、よって「東北諸藩を聯合し」薩長藩閥政府を打破せんというのが、彼の計画であったという。しかし庄内でも失意、三転土佐に赴き挙兵を勧説しようとし、そこで板垣に会い言論の闘いに翻意する。当時の自由民権論者の思想的遍歴を象徴するかのような行動であった。
 杉田が民権派の壮士となる機縁をなしたものは、彼が『評論新聞』の記者となったことであるが、その『評論新聞』、さらに彼が編輯長となった『草莽事情』、これらと同系統の『采風新聞』『草莽雑誌』『莽草雑誌』『湖海新報』等──これらの新聞雑誌こそ、過激派民権壮士の拠点であり、それに掲載された論説は、士族的精神に支えられている最も封建的な、と同時にその故に最も戦闘的な自由民権思想の典型であった。 Continue reading “自由独立の気風を振起するためには「従来の大和魂を失ふ勿れ」─杉田定一の思想” »

愛国交親社社則(抜粋)

 第一条 本社会議ハ政談、経済、文武、教育等ノ事ヲ討議シ精神ヲ研磨シ知識ヲ交換シ国家ノ利益ヲ計ルヘシ 但シ会議ノ期日ハ毎月十五日午後一時ニ始メ五時ニ終ル
 第九条 第一条政談経済文武教育等ノ題目ヲ設ケ演説シ又ハ新聞雑誌及ヒ古籍ノ講談ヲナスモノハ会席ノ上面ニ正立シ朗声ニ弁説スヘシ
 第十条 前条ノ場合ニ於テ会員ハ其論議又ハ講談ノ了解シ難キ処ハ丁寧ニ之ヲ質疑シ自己ノ意見ト差異スル事アラバ其ノ論説ヲ弁駁スヘシ
 第十一条 社中ノ議決ニヨリ実施アラン事糞望スル事項ニ限り成規ヲ履ミ其筋へ建言スル事アルヘシ
 第十二条 討論会ハ社外ノ者ト雖トモ集会条例ニ抵触セサル者ハ傍聴ヲ許ス、但シ、都合ニヨリ社長ヨリ之ヲ禁スル事アルヘシ

愛国交親社創立趣意書

 「夫レ人ノ世ニ在テ絶ツ能ハサル者ハ交際ナリ、欠クヘカラサル者ハ親愛ナリ、蓋交際親愛ハ人間ノ本性ニ出テ斉家治国ノ根柢ナリ、苟モ一家ニシテ父子夫婦兄弟ノ順序ヲ失ヒ相和セサル時ハ一日モ其幸福ヲ保ツヘカラス、一国亦然リ然則交際親愛ハ斉家治国ノ根柢ニシテ確然動スヘカラサルノ天制也、是ヲ以我明治天皇大統ヲ紹セ玉フ初ニ於テ御宸翰御誓文アリ、宣シク上下心ヲ一ニシ相互ニ盛ニ経綸交際親愛シ苦楽相倶ニ緩急相救ヒ以テ全国一致ノ体裁ヲナスヘシトアリ、然ルニ今日ノ勢ヒ大ニ慨歎已ム能ハサルナリ、今夫外ニシテハ欧米各国ヨリ圧倒ノ勢ヲ受ケ、対等ノ交際ヲナスコト能ハス、国権大ニ殺奪セラル、是真正ノ独立国ト称スヘケソヤ、内ニシテハ自治自衛ノ精神ニ乏シク、各人其方向ヲ異ニシ、支離分裂唯利惟走リ自国ヲ以他国視ナシ、毫モ痛悩感覚ナキカ如シ、国勢斯ノ如クニシテ独立ヲ維持シ同権ヲ皇張シ海外諸邦ト拮抗セソトス、是猶木ニ縁テ魚ヲ求ムルカ如シ、如此ハ我明治天皇ノ御誓文モ画餅ニ属シ立憲政体ノ勅詔モ遂ニ施スヘキノ地ナキニ至ントス、豈悲マサルヘケナヤ、是ヲ以テ今回有志協議本社ヲ創立シテ『愛国交親社』ト称シ交際ノ道ヲ開キ親愛ノ情ヲ厚シ信義ヲ重シ廉恥ヲ崇ヒ意見ヲ交換シ志操ヲ粋励シ勉強耐忍永ク其交誼ヲ失セス『人間本分ノ義務ヲ尽シ愛国ノ主義ヲ拡充シ終ニ以テ我明治天皇ノ叡旨ニ答へ我帝国ノ元気ヲ振作シ欧米強国ト対峙シ国権ヲ挽回スルノ外他志アラサルナリ、夫苟モ我国ニ生シ我国ノ衣ヲ衣、我国ノ食ヲ食スル者ニシテ誰カ斯志ヲ同フセル者アランヤ、誠ニ斯志ヲ同フセハ相共ニ結合シ以テ此旨義ヲ達セサルヘカラス、今其旨義ヲ達センカ為メ此ノ社ヲ創立スト云爾尓』」

杉田定一と愛国交親社②

 家近良樹・飯塚一幸編『杉田定一関係文書史料集 第2巻』(大阪経済大学日本経済史研究所発行、平成25年)には、杉田定一と愛国交親社との関係を示す資料が収録されている。内藤魯一が杉田定一及び村枩才吉宛てに送った書簡「北陸七州有志懇親会欠席及び庄林一正・村松愛蔵へ出席」(明治16年2月5日)である。

 〈北陸懇親会ノ義ニ付御照会ノ趣ハ社会ノ為メ慶賀ノ至ニ候、然ルニ小生事ハ盟兄御承知ノ通り上京ノ都合ニも相成リ、殊ニ二月下旬三月上旬迄ニハ高知ゟ島地正存来訪ノ筈ニ有之、過日来態々中来候趣も有之、又且ツ三月上旬ニハ我地方ノ党員ハ岡崎ニ会シ候手筈ニ客年十一月中予テ申合有之、旁遺憾ナカラ此段御承知被下度、但シ庄林ハ是非ニ相拝候様申入置候、且ツ外ニ村枩愛蔵氏ニハ多分出席仕リ度旨拙者迄申越居候間、尚相勧可申候、実ハ過日当懇親会ニも遠路之気嫌も無ク御出会被下候、交義上ニ於テモ是非出会可仕筈ナレ共、如何セン前陳ノ通リニテ生義ハ繰合都合相兼候、御推察ヲ乞、尚御来会諸君ニ可然御通声是祈ル

追白、天下ノ事ハ只タニ表面上ノミノ働ニテハ遂ニ目的ヲ達ス可カラザル事ハ歴史ノ裁判ニ於テ明カナリ、故ニ以来ハ別テ御注意、神出鬼没兎角○○ノ意外ニ出テ秘々密々御計画アレ、嗚呼御互ノ任も亦大ナルカナ、書意ヲ尽サス否ナ尽サヽルニアラス、尽スコト能ハサレハ也〉