『西海忠士小伝』例言

 以下は『西海忠士小伝』例言である。

一、西海忠士ノ称ハ、文久二年壬戌五月大原左衛督島津三郎両 勅使関東ヘ下向 勅問中、山陽南海西海之忠士既ニ蜂起密奏云々ノ語ニ基ツク。
一、忠士維新前後ニ渉ルモノハ、皆其志操意気相投合スル者ヲ採ル。
一、久留米藩忠士多シト雖モ、編中載スル所、家ヲ忘レ身ヲ捨テ譴責幽囚志操撓マス。或ハ決死報国ノ確著ナル者ヲ以て列叙ス。
一、忠士列序ハ死歿ノ前後ヲ以タス。
一、巻首五氏、忠士中ノ元老ナルヲ以テ特ニ編首ニ掲ク。
   以上諸件発起者ノ協議ヲ経テ之ヲ定ム。

明治新政府の屈辱外交─神戸事件の処理

 慶応四(一八六八)年一月十一日、岡山藩兵が神戸行軍中、英仏米の兵士と紛争を起こし発砲した。外国軍隊が一時神戸中心部を占領するまで発展したが、発砲責任者の岡山藩士・滝善三郎を切腹させて事件は解決された。
 内山正熊は『神戸事件―明治外交の出発点』において、次のように指摘している。
 「もしこの事件が幕末年間に起ったとしたならば、生麦事件のように外国人を殺傷したわけでもないこの事件は、単なる一渉外事件として片づけられたであろう。……
 しかし、神戸事件の場合には開国和親の新政府声明がだされる前に勃発したものである。そこで、仮に日本側が外国人を殺傷したとしても、維新政府は攘夷の国策をいまだ続けていたのであるから、備前藩兵を処罰する根拠がなかったわけであって、本件での責任者は切腹する必要はなかった。したがって、責任者瀧を新政府が処断したのは、いわば超法規的措置によったことになる。それは、維新政府が、理不尽な外国の要求の前に一も二もなく、ただ平身低頭して陳謝屈伏した屈辱的外交にほかならない。……
 明治維新は、対内的にこのような矛盾痛恨を包蔵した大変革であったが、対外的にもまたまさに鷲天動地の大改新であった。なぜならば、朝廷が倒幕の旗印であった尊王攘夷をすてて、開国和親へと百八十度の基本国策転換を行なったからである。その転拠の契機となったのが神戸事件であった。そして、その転換の過程で犠牲となったのが瀧だったのである」

明治四年の反政府運動の本質─影山正治塾長『明治の尊攘派』

 久留米藩難事件など明治四年前後に起こつた反政府運動は、その本質が不明確なまま忘却されてきた。こうした中で、以下に引く、大東塾の影山正治塾長の見方は、「新政府の文明開化路線に対する尊攘派の反撃」という本質を衝いている。
 〈明治二年十二月、長州藩諸隊による「脱退騒動」と呼ばれる反乱事件が勃発した。反乱諸隊の中心は、元治元年禁門の変以来赫々たる武勲を建て、藩の内外に勇名を轟かせた奇兵・遊撃の二隊で、その首領は大楽源太郎、富永有隣等であつた。
 直接的な原因は、兵部大輔大村益次郎によつて着手せられた諸隊解散を前提とする兵制改革に対する反感で、十一月、藩政府が諸隊に解散を命じ、新らたに常備軍四箇大隊の編成を布令した直後に爆発した。大楽直系の神代直人らによつて決行された明治二年九月の大村暗殺は、その前提だつたのである。しかし、その根本は新政府の変節的文明開化路線に対する長州尊攘派の総反撃にほかならなかつた。したがつて、その蹶起に当つては、単に藩兵制の改革に対する反対だけでなく、藩政全体に対する再維新の要求が強く主張されて居た。この意味に於ては、明治七年から十年にかけ全国的に続発した第二維新諸事件への先駆事件の一つであり、明治九年十月、前原一誠を中心として勃発した萩の変の前提でもあつた〉(『明治の尊攘派』)

明治天皇御即位宣命と近江朝制遵由の叡旨─権藤成卿『君民共治論』①

 慶應四年八月二十七日、明治天皇のご即位式が行われ、以下の宣命が発布された。

 「(アキツ)(カミ)()(オホ)()(シマ)(グニ)(シロ)(シメ)()(スメラ)(ミコト)()(オホ)(ミコト)()()()(ノリ)(タマフ)(オホ)(ミコト)()(オホキミ)(タチ)(オミ)(タチ)(モモノ)(ツカサ)(ビト)(タチ)(アメノ)(シタ)(オホミ)(タカラ)(モロモロ)(キコシ)(メセ)()(ノリ)(タマフ)(カケマクモ)(カシコ)()(タイラ)()(ミヤ)()御宇須(アメノシタシロシメス)(ヤマト)()(コノ)(スメラ)(ミコト)()(ノリ)(タマフ)(コノ)(アマツ)()(ツギノ)(タカ)(ミクラ)()(ワザ)()(カケマクモ)(カシコ)()(オホ)()()(オホ)()()(ミヤ)()御宇志(アメノシタシロシメシ)(スメラ)(ミコト)()(ハジメ)(タマ)()(サダメ)(タマ)()()(ノリノ)(ママ)()(ツカヘ)(マツル)()(オホセ)(タマ)()(サヅケ)(タマ)()(カシコ)()(ウケ)(タマ)()()()()()()()(オン)(サダメ)(アル)()(ウヘ)()()()(アメノ)(シタ)()(オホ)(マツリゴト)(イニシヘ)()(カヘ)()(タマ)()()橿(カシ)(ハラ)()(ミヤ)()(アメノシタ)(シロシメシ)()(スメラ)(ミコトノ)(オン)(ハジメタマヘル)(ワザ)()(イニシヘ)()(モトヅ)()(オホ)()()()(イヤ)(マス)(マス)()()()()()()(カタメ)(ナシ)(タマ)()()(ソノ)(オホ)()(クライ)()(ツカ)()(タマ)()()(ススム)()退(シリゾク)()()()()(カシコ)()()()()()(ノリタマ)()(オホ)(ミコト)()(モロモロ)(キコシ)(メセ)()(ノリタマ)()。……」☞[全文]

 権藤成卿は『君民共治論』において、この宣命について、次のように書いている。

 〈由来藤原氏の外戚摂関独制の時代より、幕府政治の武力専権時代の其間に於ても、全く善政なしとも限らないが、そのいづれも政理の基礎たる公同の大典を没却し、徒らに貴賤上下の差隔を設け来りしものが、王政復古の御大業に依り、こゝに君民共治を以て、新制創定の標準を樹て、大廓清(かくせい)の端緒を開かせらるゝことゝとなつた。彼の有名なる国典学者の福羽美静翁などは、当時の機務に参画せられたのであるが、翁と予が先人(名は直、松門と号す)とは、特別の交際ありし為め、是の宣命が近江朝廷即ち

天智天皇の()()()(のつと)らせ給ひ、而もその御聖旨が橿原朝廷御創開の御制謨に一貫し、我日本國體の基礎、確かに是に在りと云ふのであつたことを、()と通り聞かされて居る訳である。

 本と彼の大化廓清の御大業は、上 皇権の()(りん)を更張され、下万民の愁苦を(ふつ)(ぢよ)され、肇国の御制謨に遵由して、公同共治の政理を宣昭させられたるものにして、其後鴻烈(こうれつ)御偉業が、中宗皇帝の尊称を(たてまつ)れる訳である。併しながら、後世の学者、往々にして其厳正高明なる典範の紹続を推究することを忘れ、妄りに利害上より私説を立て、却て國體を曲解するは、実に不謹慎の至りである。

 御即位式宣命文の前段に於て、明らかに近江朝制遵由の叡旨が掲げられて居る〉

『日本のお米が消える』(『月刊日本』平成30年2月号増刊)

平成30年1月29日、『日本のお米が消える』(『月刊日本』平成30年2月号増刊)を発売しました。
モンサントなどのグローバル種子企業は、遺伝子組み換えイネやゲノム編集イネによる市場支配を目論んできました。安倍政権は、このモンサントの野望に手を貸すかのように、日本のおコメを守ってきた種子法を廃止してしまいました。このままでは日本のおコメは消えていきます。

  目 次

はじめに 日本のおコメが消える

第一章 日本のおコメが食べられなくなる
 山田正彦 イネの価格は10倍に跳ね上がります
 八木岡努 おコメの種類が確実に減ります
 中村陽子 害虫や気候の変動に対応できなくなります
 古瀬 悟 タネを作る県がどんどん減っていきます
 山田俊男 民間企業の参入が狙いです
 西川芳昭 種子は公共のものです
  タネを作るにはこんなに時間と手間がかかる! 生産現場ルポ
  種子法を廃止する理由はどこにもありません
  種子法廃止に歯止めがかけられていない
  種子法の父・坂田英一の理想を取り戻そう
  坂田英一が語った種子法への思い
続きを読む 『日本のお米が消える』(『月刊日本』平成30年2月号増刊)

自由民権派と崎門学

 明治の自由民権運動の一部は、國體思想に根差していたのではないか。拙著『GHQが恐れた崎門学』で、「自由民権派と崎門学」の表題で以下のように書いたが、「久留米藩難事件で弾圧された古松簡二は自由民権思想を貫いた」と評価されている事実を知るにつけ、そうした思いが強まる。
 〈維新後、崎門学派が文明開化路線に抵抗する側の思想的基盤の一つとなったのは偶然ではありません。藩閥政治に反対する自由民権派の一部、また欧米列強への追随を批判する興亜陣営にも崎門の学は流れていたようです。例えば、西南戦争後、自由民権運動に奔走した杉田定一の回顧談には次のようにあります。
 「道雅上人からは尊王攘夷の思想を学び、(吉田)東篁先生からは忠君愛国の大義を学んだ。この二者の教訓は自分の一生を支配するものとなった。後年板垣伯と共に大いに民権の拡張を謀ったのも、皇権を尊ぶと共に民権を重んずる、明治大帝の五事の御誓文に基づいて、自由民権論を高唱したのである」
 熊本の宮崎四兄弟(八郎、民蔵、彌蔵、滔天)の長男八郎は自由民権運動に挺身しましたが、彼は十二歳の時から月田蒙斎の塾に入りました。八郎は、慶應元年に蒙斎の推薦で時習館へ入学、蒙斎門人の碩水のもとに遊学するようになりました。
 一方、自由民権派の「向陽社」から出発し、やがて興亜陣営の中核を担う福岡の玄洋社にも、崎門学の影響が見られます。自らも玄洋社で育った中野正剛は『明治民権史論』で次のように書いています。
 「当時相前後して設立せられし政社の中、其の最も知名のものを挙ぐれば熊本の相愛社、福岡の玄洋社、名古屋の羈立社、参河の交親社、雲州の尚志社、伊予の公立社、土佐の立志社、嶽洋社、合立社等あり。此等の各政社は或はルソーの民約篇を説き、或は浅見絅斎の靖献遺言を講じ、西洋より輸入せる民権自由の大主義を運用するに漢籍に発せる武士的忠愛の熱血を以てせんとし……」
 男装の女医・高場乱は、頭山満ら後に玄洋社に集結する若者たちを育てましたが、乱の講義のうち特に熱を帯びたのが、『靖献遺言』だったといいます。乱の弟子たちも深く『靖献遺言』を理解していたと推測されます。大川周明は「高場女史の不在中に、翁(頭山満)が女史に代つて靖献遺言の講義を試み、塾生を感服させたこともあると言ふから、翁の漢学の素養が並々ならぬものなりしことを知り得る」と書いています。
 乱の指導を受けた若者たちの中には、慶応元年の「乙丑の変」で弾圧された建部武彦の子息武部小四郎もいました。建部武彦らとともに「乙丑の変」の犠牲となった月形洗蔵の祖父、月形鷦窠は、寛政七(一七九五)年に京都に行き、崎門派の西依成斎に師事した人物であり、筑前勤王党に崎門の学が広がっていたことを窺わせます。乱は、『靖献遺言』講義によって、自らの手で勤皇の志士を生み出さんとしたのかもしれません。また、明治二十年に碩水門下となった益田祐之(古峯)は、頭山満を中心に刊行された『福陵新報』の記者として活躍しました。〉

古松簡二・百九回忌と横枕覚助・百二回忌(平成3年6月10日)

 古松簡二の百九回忌、横枕覚助の百二回忌について、『西日本新聞』(1991年6月12日付朝刊)は次のように報じた。
〈幕末の志士・、横枕覚助しのび合同法要 筑後
 幕末から明治初期にかけての激動の時代に、民権思想の志を貫き通した古松簡二(一八三五-一八八二年)の百九回忌と同志の横枕覚助(一八四四-一八九一年)の百二回忌の合同法要が十日、出身地である福岡県筑後市溝口の光讃寺で行われた。
 医家の二男に生まれた古松は、勤王の志を抱き、水戸天狗党の筑波山挙兵に参加するなど活躍。維新後は、久留米に帰り、明善堂教官になったが、反政府運動家として捕まり、東京・石川島獄でコレラのため死去した。一方の横枕は、古松の影響を受けて、藩内農民でつくる殉国隊長などを務めるが久留米藩難事件にかかわり投獄。刑期を終えた後、山梨県北多摩郡長の時にコレラに感染して亡くなった。
 法要には、古松の子孫の清水肇さん(大野城市在住)ら遺族や郷土史研究家など約四十人が出席。筑後郷土史研究会の山口光郎副会長が「大楽源太郎と二人のかかわり」と題して、二人が生きた当時の時代背景などを説明。続いて、献句、献吟などがあり、二人の業績をしのんでいた。〉

権藤成卿生誕百五十年祭─平成30年4月14日(土)

 

平成30年4月14日(土)
■生誕祭
 午後3時 於 権藤家墓所(久留米市御井町)
■講演会
 午後4時 於 御井校区コミュニティセンター(久留米市御井町1600-4)
 講師 浦辺登(歴史作家・書評家)
 演題「権藤成卿と玄洋社・黒龍会」
 資料代 1,000円
*生誕祭に参加される方は、午後2時30分に久留米大学前駅(久大本線)改札に集合してください。緊急連絡先 090-5788-3851

・権藤成卿(ごんどう・せいきょう)
1868(慶應4)年4月13日、権藤松門(直)の長男として福岡県三井郡山川村(現在の久留米市)に生まれる。幼少時代には、明治4年の久留米藩難事件にかかわった人々と過ごした。権藤の曾祖父・壽達は高山彦九郎と交流、壽達の祖父・宕山は崎門学派の竹内式部と交流のあった田中宣卿の師だった。権藤が研究した家学「制度学」は祖先の勤皇運動と結びついていた。
1902(明治35)年、内田良平の黒龍会に参加、日韓合邦運動に挺身。1926(昭和元)年、『自治民範』を発表。社稷(国民衣食住、国民道徳、国民漸化の大源)と自治の思想を強調。『自治民範』は、拓殖大学出身の野口静雄、海軍青年将校の藤井斉、血盟団事件に連座する四元義隆らに強い影響を与えた。
1931(昭和6)年11月、下中弥三郎、長野朗、橘孝三郎らと農本主義者の共同戦線「日本村治派同盟」を結成。1934 年、「制度学雑誌」を創刊し、制度学研究会を発足させた。1937年7月9日没。
・浦辺登(うらべ・のぼる)
1956(昭和31)年、福岡県生まれ。福岡大学ドイツ語学科卒業。現在、読売新聞・福岡版に「維新秘話福岡」を連載中、月刊日本、西日本新聞等に書評を寄稿、近現代史の執筆及び講演活動を行っている。近著に『玄洋社とは何者か』

■主催 権藤成卿生誕150年祭実行委員会
 *申込 gondoseikyo150@gmail.com 090-5788-3851 FAX: 047-355-3770