有馬主膳と高山彦九郎─『高山正之寛政四年日豊肥旅中日記』より

 
●垂加翁伝来神道奥秘口訣を相伝許可される
 昭和18年、高山彦九郎先生慰霊会によって『高山正之寛政四年日豊肥旅中日記』が刊行された。日記原本は有馬主膳が所有していたものであり、その後、有馬秀雄が襲蔵していた。同書には、「有馬守居翁小伝」として以下のように書かれている。
〈別名 有馬守居、初め純次と称し、後主膳と改む 其の邸宅が久留米城内二ノ丸の東南隅なる傾斜路の辺に在つたので阪低窩と号し、剰水或は是誰とも称した。是誰の雅号は京都大徳寺の大順師の撰ひ所である
又書屋名を「虚受軒」と名づけ所蔵の文籍には、虚受軒蔵書又は虚受庫の印章を捺してゐた。「虚受」の語は、晋書礼志中の「君子虚受、心無適莫」に取つたので、これ「己を空うして、人言を容れる」の義である
守居が藩老として寛裕博く忠言を求めて、修省献替に努めたことが察知せらるゝ。
即似庵 篠山城東郊外─森嘉善宅の北方約二丁、現今久留米市東櫛原町久留米商業学校の北部─なる翁の別墅の廬舎を「即似庵」と称した これは寛政の初年、茶道の師たる孤峰不白の設計指揮によりて築造されたもので、園内に数百年を経て枝葉欝蒼として四辺を圧する一大樟樹があつたが、惜い哉近時柯葉次第に枯槁するに至つたので、此の名本も遂に伐斫された。
此の庵室は明治の中期、久留米藩番頭稲次家の後裔亥三郎氏が買収して、市内篠山町なる自邸に移したが今に現存してゐる
翁は皇室尊崇の念が篤かつたので、寛政の比尊皇斥覇の潜行運動に奔走した、上毛の俊傑高山彦九郎、芸州の志士唐崎常陸介等が、相前後して久留米に来た時は、此の別業を中心として、森嘉善・樺島石梁・尾関正義・権藤壽達・高良山座主伝雄等と交通往来し、雅雛に託して国事を談じたのである
(中略)
晩年深く山崎闇斎の垂加神道を信じて……唐崎常陸介に就いて、同神道の「三種神宝極秘伝」「神籬磐境秘伝」其の他垂加翁伝来神道奥秘口訣等、悉く相伝許可を得た人である。〉

高山彦九郎と久留米④─三上卓先生『高山彦九郎』より

 
●即似庵継承の精神
 『高山彦九郎』(三上卓先生)は、久留米藩国老・有馬主膳の茶室「即似庵」を「九州の望楠軒」と称した。同書には、即似庵遺跡の写真を掲載し、以下のような説明を付している。
 「高山、唐崎両先生が久留米の同志と密談した即似庵遺跡は久留米市東櫛原町久留米商業学校裏手にある。附近一帯の老樟欝蒼たる地は国老有馬主膳の別邸跡にして、即似庵なる茶室は左端の家屋(現住者は久留米新勤王党の同志の一人たる林田瀬兵衛守隆の子息峰次氏)の位置にありしも、維新後市内篠山町中学明善校裏門附近に移され、稲次亥三郎翁居住さる。翁は真木和泉守門下の高足たる稲次因幡の後嗣、因幡は佐幕派の弾圧に逢ひて憤死せし勤王家なり」
 林田守隆は、慶応4(1868)年正月、小河真文ら勤皇派の同志とともに、親幕派の参政不破美作暗殺に参加。久留米藩で組織された「応変隊」の小隊長として戊辰戦争に従軍し、箱館戦争で功を立てた人物である。
 明治4(1871)年の久留米藩難に際しては、藩知事有馬頼咸の命を受け、本庄一行とともに東京から久留米に派遣され、水野正名や小河真文らと交渉し、事態の収拾にあたった。晩年は真木保臣先生顕彰会会長などに推戴された。

高山彦九郎と久留米③─三上卓先生『高山彦九郎』より

 
●垂加神道の伝書を伝えた唐崎常陸介
 久留米への崎門学の浸透において、高山彦九郎の盟友・唐崎常陸介は極めて重要な役割を果たした。
 唐崎は、寛政二(一七九〇)年末頃、久留米に入り、櫛原村(現久留米市南薫町)の「即似庵」を訪れた。即似庵は、国老・有馬主膳の茶室である。主膳は崎門派の不破守直の門人である。不破は、久留米に崎門学を広げた合原窓南門下の岸正知のほか、崎門学正統派の西依成斎にも師事していた。
 即似庵は、表千家中興の祖と言われる如心斎天然宗左の高弟・川上不白の設計により、寛政元年に起工し、寛政二年秋に落成した。三上卓先生の『高山彦九郎』には、次のように描かれている。
 「主膳此地に雅客を延いて会談の場所とし、隠然として筑後闇斎学派の頭梁たるの観あり、一大老楠の下大義名分の講明に務め、後半世紀に及んでは其孫主膳(守善)遂に真木和泉等を庇護し、此別墅(べっ しょ)を中心として尊攘の大義を首唱せしめるに至つたのである。此庵も亦、九州の望楠軒と称するに足り、主人守居も亦これ筑後初期勤王党の首領と称すべきであらう。
 唐崎、此地に滞留すること五十余日、主人守居を中心とせる闇斎学派の諸士、不破(実通)、尾関(守義)、吉田(清次郎)、田代(常綱)等及国老有馬泰寛、高良山蓮台院座主伝雄、樺島石梁、権藤涼月子、森嘉善等と締盟し、筑後の学風に更に一段の精采を付与した。…唐崎より有馬主膳に伝へた垂加神道の伝書其他の関係文献は今尚後裔有馬秀雄氏の家に秘蔵されて居る…」
 有馬秀雄は、明治二年に久留米藩重臣・有馬重固の長男として生まれ、帝国大学農科大学実科卒後、久留米六十一銀行の頭取などを務めた。その後、衆議院議員を四期務めた。
 唐崎から有馬主膳に伝えられた文献のうち、特に注目されるのが、伝書の末尾に「永ク斯道ニ矢ツテ忽焉タルコト勿レ」とある文言と、楠公父子決別の図に賛した五言律の詩である。
 百年物を弄するに堪へたり。惟れ大夫の家珍。孝を達勤王の志。忠に至る報国の臣。生前一死を軽んじ。身後三仁を許す。画出す赤心の色。図を披いて感慨新なり
 さらに、唐崎は垂加流兵学の伝書も伝授したらしい。

☞[続く]