フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士『中立の笑劇』⑥

 フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士の『中立の笑劇:フィリッピンと東亜』(堀真琴訳編、白揚社、昭和17年)「第五章 比律賓独立と亜細亜モンロー主義」を紹介。
 ピオ・デュラン博士は、「白人の重荷」という作り事を終焉させる為に、フィリピン人が日本の指導の受け入れれば、「東洋は自分たちのものだ」ということに目覚めるだろうと期待する。

 〈若し、全東洋諸国がモンロー主義の保護保証の下に連合するならば、右連合による勢力は、西洋諸国が日本に従つて又東洋諸国に対して、自治的に軍備を為さんとするを否定する共謀の手役に対して反対することが出来る。
 これ等の問題は、その影響する所は国境を越えるものであるから、比律賓人は狭い国民主義的見地からでなく、東洋民族の権威の観点より考慮さるべきものである。
 種族的の無礼の態度によつて與へられた傷は、心を傷ましめるもので、決して癒すことの出来ないものである。国民の精神は信実だからだ。しかして、東洋人が信実心を有する限りは、東洋の傷ける精神は生きてゐる。
 故に、「白人の重荷」といふ不正にして、尊大な作り事を終焉せしめんが為に、比律賓人が種族的誇りとして日本の東洋に於ける指導を受容れるならば、しかして又、米洲独立諸国が米国を保護の天使として認めたやうに亜細亜諸国が日本を東亜の平和を維持し得る国として、その卓絶し優先的なる地位を認めるならば、白人の剣が忍耐強い亜細亜人の前で抜かれる際は必ずや報復を件ひ、現在西洋諸国の支配下に在る幾百万の亜細亜人は、狡猾にして、貪欲な白人の為に幾世紀もの間誤認せしめられた劣等感をかなぐり捨てて、西洋人に属すると同じやうに、東洋は自分達のものであるといふ事実に目覚めるであらう〉(同書156頁2頁~157頁5行目)

フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士『中立の笑劇』⑤

 フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士の『中立の笑劇:フィリッピンと東亜』(堀真琴訳編、白揚社、昭和17年)「第五章 比律賓独立と亜細亜モンロー主義」を紹介。
 ピオ・デュラン博士は、白人の有色人種に対する差別を糾弾し、大東亜戦争に至る日本の歩みを擁護する。

 〈又、更に東亜に於けるモンロー主義を十分に検討する場合、忘れてはならないのは、種族的矜持の問題である。東洋のあらゆる国民は、白人が東洋の有色人種に対して、自己が優つてゐるといふ横柄な態度をとる為に、侮辱・屈辱を免れなかつた。西洋諸国の採用した移住及び婚姻法に於ける差別条項を見れぼ、彼等が東洋人を如何に待遇し、如何に考ヘてゐるかが最もよく解る。
 国際連盟規約の諸条款を討議する為に開催されたヴェルサイユ会議に於て、日本代表が全国家間に於ける種族的平等を保証する規定を挿入せんことを主張したが、右提案は一斉に反対され、出席の全欧諸国から拒否された。このことは世界の有色人種が、西洋人のいふ残酷な軍国主義に対して闘つた暗黒時代に、西洋諸国民と相携へて戦つたその直後に起こつたことを考へると、戦争を永久に法律の保護から奪はんとして組織された国際連盟の規約なる文書に於て、種族的平等を規定せんとする提案を拒否したことは、有色人種が仏蘭西戦線及び東亜水域に於て、白人との間に幾年か結んだ友情と兄弟の交りによつて作られた相互協力の方法に致命的打撃を輿ふるものである。この態度は西洋人が世界問題を解決せんとする場合に有色人種と同位に於て、協調するを拒むことをはつきり示したものである。今日に於ても、なほ彼等と手をとつて共に働かうとすることは、彼等が過去に示した無礼な態度を認め、これを永久化することとなる。
 アングロ・サクソン国が、日本の海軍比率に対する要求に反対し、一九二一年英米の威嚇手段によつて、日本に強制された華府条約の規定を背負はしめんと主張するのは、日本が、自治的に軍備を為すのを拒むのみならず、全東洋諸国に対する侮辱である。無力にして屈辱的状態にある吾々比律賓人は、日本帝国が全東洋諸国に対し国際会議に於ける相応の地位を與へんとする努力に対して、無組織無統一ながら、道徳的支持を與ふるものである〉(同書154頁3行~156頁1行)。

ピオ・デュラン博士と渡辺はま子─「あゝモンテンルパの夜は更けて」誕生秘話

 昭和26(1951)年12月24日、フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士が来日したことをきっかけに、108人の日本人兵士の命を救う奇跡の曲「あゝモンテンルパの夜は更けて」は誕生した。
 当時、フィリピン・モンテンルパ市のニュービリビット刑務所には、マニラ軍事裁判で有罪判決を受けた多数の元日本兵が収監されていた。博士は、収監されている日本兵の手紙を持って、日本を訪れた。
 戦前、博士は筋金入りの大亜細亜主義者、親日派として活躍したが、戦後、「対日協力者」として断罪され、ホセ・ラウレルらとともに1947年まで獄中生活を余儀なくされた。ロハス初代大統領によって釈放されると下院議員を志し、ついに1949年に下院議員選挙で当選を果たした。
 新井恵美子氏の『死刑囚の命を救った歌』には、博士が、収監されている日本兵たちの留守家族と対面する様子が描かれている。
 〈(一九五二年)一月十日、デュランは留守家族と懇談し、モンテンルパの様子を語った。その時、死刑囚の鳩貝吉昌の次女・礼子ちゃん(十二歳)がデュランに語りかけた。
 「おじさん、私が生まれてからまだ一度も会ったことのないお父さんが……」と話し始めて、声にならない。デュランは「お父さんに会えるよう努力しましょう」と礼子ちゃんに約束した。「皆さんの気持ちはきっとフィリピンに伝えます」と重ねて約束したのだった〉 Continue reading “ピオ・デュラン博士と渡辺はま子─「あゝモンテンルパの夜は更けて」誕生秘話” »

フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士『中立の笑劇』④

 フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士の『中立の笑劇:フィリッピンと東亜』(堀真琴訳編、白揚社、昭和17年)「第五章 比律賓独立と亜細亜モンロー主義」を紹介。
 ピオ・デュラン博士は、東亜モンロー主義を国家安全保障の観点から論じた上で、地理的、文化的な観点から論じる。スペイン来訪以前には、フィリピンは東洋大帝国の一部を構成していたと喝破する。

 〈国家安全の要求は別としても、なほ他に比律賓がこの地に於けるモンロー主義に讃意を表すべき他の隠れた理由が存在する。
 それは、地理的、文化的に見ても東亜の諸国民が一体となつたがいいのである。比律賓に於ける文明は、日本に於ける文明と同様に孔子や老子のやうな聖人の教及び仏教の原理に基いてゐた。西班牙人来訪以前に於ては、比律賓は仏教徒並に支邦人の連合勢力によつて、建設されたる大帝国の一部を構成してゐた。ジャバのカドー地方に於けるボロ・ブヅール及びアンコール・バットに於て十二世紀初葉スルヤバルマン二世によつて建てられた、素晴らしい霊廟は、今日に於ても幾百万の馬来人が、西洋諸国に対する闘争の最も暗黒な時代に於ても、自らを励ますために仰ぎ見る希望の信号火として立つてゐる。その均整のとれた美、素晴らしい壮大さは、西洋の最も活発にして肥沃な芸術的創造によつてもまだその概念に於て、又実際に於て匹敵するものがなかつた。人間文明の最も動揺したる三千年に互つて、壮大さと素晴らしさとが維持されたことは、馬来人の事業と文化の持続的性質を現すものである。かかる背景を考へれば、比律賓文明の基礎が三百五十年間の西洋支配の影響によつて、完全に蝕まれたとは思はれない。
 地理的には比律賓は、周囲の数々の異なつた東洋勢力を巻込むべき渦を為してゐる。支那及び印度の世界総人口の約半分を容れる亜細亜本土を別とすれば、比律賓は北は北海道から濠洲の北岸スマトラまで拡がる亜細亜大陸の海岸を囲む一連の島嶼の一部を為してゐる。比律賓人が好むと、好まざるとに拘らず、その国の生命は、東亜の諸国と固く結びつくことを自然は命じた。
 この自然の避くべからざる命令に背くことは種族的自殺を招き、東亜全体の平和と安寧むを危殆ならしめるものである〉(同書152頁5頁~154頁2行目)

スヴェン・マッティセン(Sven Matthiessen)氏とフィリピンの大亜細亜主義

 「日本の大東亜共栄圏とフィリピン」をテーマとした研究を行ってきたドイツ人研究者のスヴェン・マッティセン(Sven Matthiessen)氏の著作に、『Japanese Pan-Asianism and the Philippines from the Late 19th Century to the End of World War II. : Going to the Philippines Is Like Coming Home? (Brill’s Japanese Studies Library) 』(2015年11月)がある。
 フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン(Pio Duran)博士に関する、同書の記述をいずれ紹介する。

フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士『中立の笑劇』③

 フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士の『中立の笑劇:フィリッピンと東亜』(堀真琴訳編、白揚社、昭和17年)「第五章 比律賓独立と亜細亜モンロー主義」を紹介。
 伝統文化の保持の重要性を指摘し、「東洋に還れ」の運動を発足することがすべてのフィリピン人の義務だと説いている。

 〈しかしこれは如何なる犠牲に於て為されたか、比律賓人は現在彼等特有のものと誇らかに宣言し得るものを所有してゐるか。吾が近隣の東洋諸国は、吾々のことを何と思つてゐるか。西洋諸国の支配は我が国を東洋に合はないものとしたといふ考へで狼狽するやうなことはないのか。支那は現在純粋なる自己の文化及び文明を誇ることが出来る。我が国人の多くが、白人と同じやうに侮蔑感を以て眺める支那人は西洋の標準に従へば無智であるやうに見えるが、その祖先の高貴なる伝統を墨守したのは、称賛さるべきである。日本は西洋の軍国主義を学びこれを一度ならす西洋に対してうまく利用したが、その宗教、言語並に東洋及び自国自身の他の制度を捨てるやうなことはしなかつた。長年英国の支配下に呻吟した夥しく多数の印度人は、英国人がその支配を永久化せんとした為に分割されてはゐたけれども、彼等が大いに誇りとした彼等自身の文化を所有した。長年の極貧と外国の圧政下に在つて、ヒンヅー人は、その先祖から受継いだ制度に対する忠誠に動揺を来さなかつた。南方の泰人は、西洋のものよりも自分自身の習性特風及び生活方法を保持した。ボルネオ、スマトラ及びその他東印度諸島の六千万の馬来種の同胞は幾世紀かの間、西洋の支配下に在つたにも拘らず、シュリ・ビサヤス及びマダパヒットの帝王時代から譲受けた文明の特相を保持し続けた。
 東洋を訪れる旅行者は、雪に覆はれた日本の山の斜面にせよ、ゴビ砂漠の焦がすやうな砂にせよ、印度ヒマラヤ山の眩むるやうに高い所に於ても、又東印度度の颶風に暴された海岸等、あらゆる所に於て東洋文化の形跡を見る。しかしながら、一度旅行者が比律賓に達するや、東洋に於ては不似合な、さればとて西洋の背景をなすにも適当でない混ぜものの東洋的なものを見る。この嘆ずべき状態は本質的にくた著しく東洋的なるものの上に西洋文明を強制的に重ねたことに基くが、その非難は住民大衆に対して、為さるべきではなく、寧ろ東洋民族の一部を無気力にせんとして統治し、西洋諸国と自己を同列に置かんとした東洋主義の背教者に対して為さるべきである。
 今や比律賓は、幾世紀かの絶えざる闘争の後、喪はれたる自由を再び獲得せんとし居れるを以て「東洋に還れ」の運動を発足するは、すべての比律賓人の義務である。幾世紀かの如何とも為し難い服従の間に強制的に押附けられた、厚く塗られた西洋文明の上塗りは、これを引剥いで、現在及び将来永遠に東洋諸国住民の生命の中に根本的影響を残す古き東洋文化の栄光を明るみに出さればならぬ。〉(同書136頁9行目~138頁12行目)

『GHQが恐れた崎門学』書評8(平成28年12月13日、15日)

 哲学者の山崎行太郎先生に、ブログ『毒蛇山荘日記』(平成28年12月13日、15日)で、拙著『GHQが恐れた崎門学』の書評をしていただきました。心より感謝申し上げます。

平成28年12月13日
 〈江戸時代は「天皇親政」=「国体思想」は、反体制的革命思想だった。ーー『GHQが恐れた崎門学』(坪内隆彦著)を読む。
 坪内隆彦さんの新著をいただいたので、今、読んでいる。坪内さんには、『アジア英雄伝』という名著があり、私にとっては、たびたび読み返す愛読書の一つになっている。今回の新著は、テーマがテーマだけに、あまり期待していなかったが、予想外に面白い。江戸時代の尊王=国体思想というものが、よく分かった 。
 今、「尊皇思想」=「天皇親政」=「国体思想」というと、体制擁護、権力迎合の政治思想のように思いがちだが、少なくとも、江戸時代においては反体制的革命思想だった。「反体制的革命思想」で故に、江戸幕府によって逮捕、投獄され、多くの人が死んでいる。江戸幕府という権力によって殺されたのである。
 崎門学(きもんがく)とは、山崎闇斎が創始した尊皇思想を基盤とした反体制的な政治哲学である。崎門学は、万世一系の天皇による親政を理想とし、闇斎は「徳を失った天子は倒していい」とする易姓革命論を否定する形で朱子学を受容し、さらに伊勢神道、吉田神道、忌部神道を吸収し、自ら「垂加神道」を打ち建てる。
 崎門学は、明治維新を実現するのに貢献した尊皇思想の中心学派であった。崎門学の系譜に連なる梅田雲浜(うめだ・うんぴん)という思想家(イデオローグ)が、逮捕、投獄されるところから、本書は始まっている。 Continue reading “『GHQが恐れた崎門学』書評8(平成28年12月13日、15日)” »

坪内隆彦『GHQが恐れた崎門学』書評7(平成28年12月12日)

 米橋清治氏が拙著『GHQが恐れた崎門学』のアマゾン・レビュー(平成28年12月2日)を書いてくれた。心より感謝申し上げます。

 〈この崎門学は、朱子学の一流派であるが、大義(とりわけ尊王)を実に重んじている流派である。
 それは確かに、激変する時代においては、その原動力となり得たものであるのもうなづける。
 しかし、「太平の世」はもとより、これから国を築いていこうというとき、この思想はむしろ、刃となって権力者に向かってくる要素を持っていると言えよう。
 確かに利害得失で動く者は多い。
 ただ、それだけではないこともまた一面の真理ではある。
 明治維新を導くまでの間、長年の雌伏の時を経て、崎門学はついに、陽の目を見たかと思いきや、近代化に進む明治政府にとってそれはもはや、軸となる思想足り得るどころか、足かせになるものでしかなかったかのようである。
 とはいえ、あまりに私利私欲が目に付くきょうびの世の中、このような大義というものについて、少しは考えてみる必要もあるのではなかろうか。
 そんな思いで、本書を一気に読み終えた次第。
 巻末の補論で、原田伊織氏と大宅壮一氏の歴史観を批判しているのは、なかなか読みごたえがあった。
 崎門学の思想は、どんな世俗権力にとっても、「鬼門」なのかもしれない。〉

フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士『中立の笑劇』②

フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士の『中立の笑劇:フィリッピンと東亜』(堀真琴訳編、白揚社、昭和17年)「第五章 比律賓独立と亜細亜モンロー主義」を紹介。

 以下は、アメリカナイズされ尽くした現在の日本人に対する警鐘ともなっている。

〈多数の自国国民を覚まさしめ行動にまで奮ひ立たせた最大の理想家にして愛国者たる著名にして、尊敬すべき支那人政治家の口より出でたるこの助言は、貪欲にして残忍な恐るべき西洋物質主義に反対し、「王道」なる語に現されたる東洋の徳と正義の哲学への訴へを現してゐる。これは自分達が東洋人の血と肉とを所有してゐることを忘れ、種族的誇りを捨て、自己及び祖先の特性を有せず、又西洋人が與ふる一時的にして、皮相な物質的利益の為及び没利害的なりといふ偽善的申込と交換に、東洋を西洋化せんことを提唱し、又白人は有色人種を軽蔑の念を以て扱ふことをよく知つて居りながら、東洋の同胞よりも白人を好むが如き東洋人に対しよき反省の材料を提供するものである。幾世紀かに亘る西洋諸国の圧迫の結果、東洋の弱者をして最も激しい西洋主義者以上に、西洋化されんことを願ふ種族的裏切者と変へて了つた。かかる人々は白人が東洋文明の全機構を毀損し破壊せんとするの手段媒介となる。彼等は高い精神主義の東洋文明には相応しくないものであるが、かかる人々は白人の保護国に於ても蔑まれる。彼等は東洋に於ける白人が内蔵せる商業上に於て拡大強化せんとするの邪悪なる計画、表面上現す追従的尊敬の上に於てのみ繁栄するのだ。彼等は東洋に於ける西洋物質主義に結びついた金の光沢に目眩めき、西洋が支配する以前に於ける巨大な東洋の諸帝国の基礎となつた、東洋人の不屈の精神たる自己放棄の精神を失つてゐる。寧ろ彼等は西洋諸国の支持が無くなれば、その国は経済的、社会的、文化的に没落するものなりと恥もなく予言するのだ。彼等はその種族的誇りは西洋化された東洋人として名を揚げんとの思ひで窒息させられてゐるので、自国民及び自種族に対し、積重ねられた毎日の侮辱には気がつかない。このやうな孫逸仙の意味深き言葉は、前記の不幸なる東洋主義の裏切者を種族的に本来の地へ還らしめんが為に発せられた言葉であることは疑ひ無い所である。
この種族的裏切者は、比律賓に於けるが如く、夥しく多数存在する所は無いであらう。比律賓人は西洋人の眼を以て自国を眺め、誇らかに西洋の文化文明を吸収した唯一の東洋国家として自らを区別する。〉(同書134頁8行目~136頁8行目)