原田伊織氏『明治維新という過ち』、『官賊と幕臣たち』徹底批判─維新の本義

 京都市では、「大政奉還150周年記念プロジェクト」が始動しました。いまこそ、明治維新の意味を日本人が見つめ直すときです。
 ところが最近、「明治維新という過ちを犯したことが、その後の国家運営を誤ることになった」という歴史観が流布されています。その代表的な著書が、原田伊織氏の『明治維新という過ち―日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』、『官賊と幕臣たち―列強の日本侵略を防いだ徳川テクノクラート』、『大西郷という虚像』 です。
 これまでも、「薩長による天皇の利用」や「薩長とイギリスの協力」という側面については、多くの論者が指摘してきたところであり、「薩長の権力奪取」という問題は、さらに探究されるべきテーマだとは思います。ただし、明治維新そのものを、大義なき権力奪取の物語として描こうとする史観が持て囃されることは大きな問題です。しかも、「七百年に及ぶ幕府支配を終わらせ、皇政復古を実現した」という明治維新最大の意義を無視した明治維新論が広がることは誠に憂うるべきことです。
 水戸義公の『大日本史』編纂事業は、國體思想発展に重要な役割を果たしました。その過程で、『保建大記』を著した栗山潜鋒が義公に招かれて水戸藩に出仕し、崎門学の真髄が水戸学に導入されました。『保建大記』に象徴される、皇政復古を目指す潜鋒の國體思想は、藤田幽谷に継承され、やがて東湖へと引き継がれ、水戸学発展を牽引しました。そしてこの水戸学から、多くの幕末の志士たちが強い影響を受けました。
 ところが、原田氏は水戸学を冒涜して憚りません。例えば、『明治維新という過ち』では、〈長州テロリストたちがテロリズムを正当化する論拠とした「水戸学」とは、実は「学」というような代物ではなかった。空疎な観念論を積み重ね、それに反する「生身の人間の史実」を否定し、己の気分を高揚させて自己満足に浸るためだけの〝檄文〟程度のものと考えて差し支えない〉と書いています。
 さらに、〈『大日本史』という「こうあらねばならない」という観念論による虚妄の歴史書編纂に血道を上げた。その元凶ともいうべき存在が水戸光圀…〉、〈水戸の攘夷論の特徴は、誇大妄想、自己陶酔、論理性の欠如に尽きる〉などと、言いたい放題のことを言っています。
 原田氏の吉田松陰に対する批判は、引用するのも憚られるほど酷いものです。
 〈ひと言でいえば、松陰とは単なる、乱暴者の多い長州人の中でも特に過激な若者の一人に過ぎない。若造といえばいいだろうか。今風にいえば、東京から遠く離れた地方都市の悪ガキといったところで、何度注意しても暴走族を止めないのでしょっ引かれただけの男である。…思想家、教育者などとはほど遠く、それは明治が成立してから山縣有朋などがでっち挙げた虚像である〉
 松陰は水戸学によって國體思想に開眼し、さらに浅見絅斎の『靖献遺言』をはじめとする広範な書物を読破するなど、獄中にあっても精進し続けました。
 原田氏の暴論は、國體思想に対する彼の無理解からくるのでしょうが、國體を守るために挺身した先人に対する畏敬の念の欠如を恐ろしく感じます。
 不断の実践によって國體が維持されてきた歴史を歪めるこうした原田氏のような言説が流布することは看過できません。(さらに詳しくは『GHQが恐れた崎門学』

スティーブ・バノン氏登場の意味─拙著『キリスト教原理主義のアメリカ』を読み返す

 トランプ次期大統領がスティーブ・バノン(Steve Bannon)氏を首席戦略官・上級顧問に指名した11月13日、拙著『キリスト教原理主義のアメリカ』(亜紀書房、1997年)を読み返した。その前年1996年11月、勝利宣言していたのは、共和党候補のロバート・ドールを破って再選を果たした民主党のビル・クリントンだった。
 ところが、1996年の議会選挙では共和党が多数を維持した。実は、これを受けて勝利宣言をしたもう一人の男がいた。キリスト教原理主義者と白人至上主義者の奇妙な連合に支えられたキリスト教徒連合のラルフ・リード事務局長だ。リードの勝利宣言は、「アメリカ政治を根底から揺るがす地殻変動の前兆に違いない」。そう確信して書き始めたのが、同書だ。それから20年、ついにキリスト教原理主義者と白人至上主義者の奇妙な連合に支えられたトランプが勝利した。
 トランプ勝利は、日本の自立の好機には違いない。しかし、それは新たな危機の始まりになるかもしれない。

明治維新の本義

『GHQが恐れた崎門学 明治維新を導いた國體思想とは何か』(展転社) 明治維新の本義について書いた、拙著『GHQが恐れた崎門学』のまえがきの一部を紹介する。
 〈崎門学に連なる志士たちは、このわが国本来の姿が容易には実現されないことを理解していました。多くの先覚者たちが天皇親政の理想に目覚め、その理想の実現を志したものの、それを阻まれ失意のうちに斃れたことに深い思いを抱いていました。
 遡れば、後鳥羽上皇、後醍醐天皇、楠正成らの忠臣、徳川幕府全盛時代に弾圧された竹内式部や山県大弐らの先覚者──。困難な状況において孤高の戦いを挑み、敗れてもなお、その志だけは歴史に留めようとしたこれらの先覚者に、自らも連なろうとしたのです。この思いこそが、幕末の志士たちの鉄のような意志を支えていたのです。本書では、この意志の継承の具体的事例を描きます。巻末に掲載した年表からも、斃れてもなお遺志を継がんとする志士たちの魂のリレーの歴史が浮かび上がってくると思います。
 例えば、崎門に連なる高山彦九郎の魂を継ごうとする強烈な思いこそが、蒲生君平の『山陵志』だけではなく、頼山陽の『日本外史』執筆の原動力となっていたようです。
 残念ながらいま、「天皇親政こそがわが国のあるべき姿だ」という認識は失われています。敗戦後、「天皇親政はわが国の歴史の例外だ」という主張が幅を利かせてきたからです。津田左右吉の「建国の事情と万世一系の思想」(『世界』(昭和二十一年四月)以来、「天皇不親政論」が流布し、石井良助氏らの研究によってさらに強化されていきました。これに対して、平泉澄は、昭和二十九年の講演において次のように語っています。
 「藤原氏が摂政、関白となつたこともありますし、武家が幕府を開いたこともありますし、政治は往々にしてその実権下に移りましたけれども、それはどこまでも変態であつて、もし本来を云ひ本質を論じますならば、わが国は天皇の親政をもつて正しいとしたことは明瞭であります。(中略)従つて英明の天子が出られました場合には、必ずその変態を正して、正しい姿に戻さうとされたのでありまして、それが後三条天皇の御改革であり、後鳥羽天皇倒幕の御企てであり、後醍醐天皇の建武の中興であり、やがて明治天皇の明治維新でありましたことは申すまでもありません」(「國體と憲法」『先哲を仰ぐ』所収)
 この立場に立たなければ、明治維新の意義を正しく理解することは到底できません〉(6~7頁)

志士の魂を揺さぶった五冊

『GHQが恐れた崎門学 明治維新を導いた國體思想とは何か』(展転社) 拙著『GHQが恐れた崎門学』では、浅見絅斎の『靖献遺言』、栗山潜鋒の『保建大記』、山県大弐の『柳子新論』、蒲生君平の『山陵志』、頼山陽の『日本外史』の五冊に焦点を当てた。
 この五冊の概要について紹介した箇所を引く。
①浅見絅斎の『靖献遺言』は、君臣の大義を抽象的な理論ではなく、歴史の具体的な事実によって示そうとしたものです。中国の忠孝義烈の士八人(屈平・諸葛亮・陶潜・顔真卿・文天祥・謝枋得・劉因・方孝孺)の事跡と、終焉に臨んで発せられた忠魂義胆の声を収めています。その一人、明の建文帝側近として活躍した方孝孺(一三五七~一四〇二年)は、建文帝から権力を簒奪した燕王・朱棣(永楽帝)に従うことなく節を貫き、壮絶な最期を遂げました。『靖献遺言』には、口の両側を切り裂かれ、耳まで切りひろげられ、七日間にわたって拷問されてもなお、死の瞬間まで永楽帝を罵り続けた方孝孺の姿が描かれています。『靖献遺言』は、梅田雲浜、有馬新七、橋本左内、真木和泉、吉田松陰らの志士に強い影響を与えました。

②闇斎門下の桑名松雲に師事した栗山潜鋒の『保建大記』は、後白河天皇践祚から崩御に至る、久寿二(一一五五)年から建久三(一一九二)年までの三十八年間を扱い、皇室の衰微と武家政治の萌兆をもたらした戦乱の根源を究明した書物です。もともと、同書は、潜鋒が後西天皇の皇子尚仁親王(一六七一~一六八九年)に献上した『保平綱史』を増補したものです。

③闇斎の高弟・三宅尚斎に儒学を、また玉木正英に垂加神道を学んだ加賀美光章に師事した山県大弐の『柳子新論』は、「正名、得一、人文、大体、文武、天民、編民、勧士、安民、守業、通貨、利害、富強」の十三編からなり、天皇親政の理想回帰を訴えました。國體の理想が武門政治によって踏みにじられてきた歴史を、大弐は次のように書いています。
 「わが東方の日本の国がらは、神武天皇が国の基礎を始め、徳が輝きうるわしく、努めて利用厚生の政治をおこし、明らかなその徳が天下に広く行きわたることが、一千有余年である。(中略)保元・平治ののちになって、朝廷の政治がしだいに衰え、寿永・文治の乱の結果、政権が東のえびす鎌倉幕府に移り、よろずの政務は一切武力でとり行なわれたが、やがて源氏が衰えると、その臣下の北条氏が権力を独占し、将軍の廃立はその思うままであった。この時においては、昔の天子の礼楽は、すっかりなくなってしまった。足利氏の室町幕府が続いて興ると、武威がますます盛んになり、名称は将軍・執権ではあるが、実は天子の地位を犯しているも同然であった」(西田太一郎訳)

④蒲生君平の『山陵志』は、山陵荒廃は、國體の理想の乱れ、衰えを示す一現象ととらえた彼が、自らの生活を擲って敢行した山陵(天皇陵)調査の結果をまとめたものです。君平は、『山陵志』のほか、『神祇志』『姓族志』『職官志』『服章志』『礼儀志』『民志』『刑志』『兵志』、あわせて「九志」の編纂を目指していました。國體の理想の衰えを嘆き、往古の善政を回復することが彼の志です。『山陵志』を編纂することによって、山陵を大切にする気風を取り戻し、正名主義を確立することが君平の願いだったわけです。

⑤全二十二巻から成る、頼山陽の『日本外史』は、『靖献遺言』とともに志士の聖典と並び称されてきました。特に楠公の事績の部分は、志士の心を強く揺さぶりました。平泉澄は「大義の為に万丈の気を吐いて、数百年の覇業を陋なりとするところ、読む者をして、國體の尊厳にうたれ、自ら王政復古の為に蹶起せしめずんばやまない力がある」と絶賛しています。
 山陽は、広範な読者を得るために、細かな考証よりも、一般の読者が面白く読めるように、文章に急所と山場を作ることに力を注ぎました。彼はまた、『史記』を書写し、音読することによってそのリズムを自分のものとし、見事な漢文を書いて、読者を感動させたのです。