『GHQが恐れた崎門学』書評5(平成28年10月28日)

 作家・書評家の浦辺登氏に、拙著『GHQが恐れた崎門学』の「hontoレビュー」(平成28年10月28日)を書いていただいた。以下、転載させていただく。

崎門学とはなんぞや。
 なぜ、GHQが恐れるのか。
 唯一、「明治維新を導いた国体思想とは何か」という副題に、明治維新に影響を与えた「何か」ということが理解できる。
 読了後、最も強い印象に残ったのは『靖献遺言』という浅見絅齋が著わした書物である。「あとがき」にも記されているが、頭山満、杉浦重剛、来島恒喜、荒尾精は崎門学の影響を受け、『靖献遺言』を読んでいたという。
 玄洋社生みの母と呼ばれる高場乱は『靖献遺言』を熱情込めて人参畑塾で講義したという。それを頭山や来島、平岡浩太郎、月成功太郎(元首相廣田弘毅の岳父)、進藤喜平太、奈良原至ら、玄洋社の主だった青年たちが受講していた。
 さらには、ご一新前、太宰府天満宮の延寿王院におよそ三年、三條実美を始めとする五卿が滞在した。この五卿警護のために土佐脱藩浪士、水戸脱藩浪士、久留米脱藩浪士などが従ったが、その警護役の志士たちは、毎月三日、『靖献遺言』の講義を受けていた。まさに薩長同盟、明治維新を画策した延寿王院において国体思想の『靖献遺言』が読まれていたことは感慨を新たにする。
 この五卿警護には久留米水天宮宮司であった真木和泉の子息、真木外記も含まれていた。さらに、この五卿の住居である延寿王院に近い場所には、真木和泉の弟が養子に行った小野家があった。今も、太宰府天満宮境内に小野家の邸跡には「定遠館」が残っているので、容易に場所を特定できる。
 本書でさらに驚くのは、239ページに登場した岡次郎である。同ページにも記述があるが、岡は上海に荒尾精が開いた日清貿易研究所に学び、日清戦争では通訳官として従軍もしている。この岡の師匠は長崎・平戸藩の楠本碩水だが、平戸藩からは岡の他に浦敬一、岡幸七郎という若者が荒尾のもとに結集した。いわば、崎門学つながりであり、『靖献遺言』つながりである。
 蛇足を承知で記せば、日清貿易研究所に学んだ鐘崎三郎の父は太宰府天満宮の社僧であり、平戸藩主お抱えの絵師でもあった。鐘崎も太宰府天満宮の小野家とは縁戚関係にあり、真木和泉との関係性も薄からぬものがある。
 ここに、ひとつの大きな流れが見えてくる。
 崎門学、『靖献遺言』というキーワードでありながら、西郷隆盛が目指した「東洋経綸」にすら行き着くのである。玄洋社の平岡浩太郎が西南戦争勃発の報に、急ぎ薩軍陣地に向かったのも頷ける。
 果たして、「征韓論」とは何だったのか。
 話が大きく飛躍していると思われるが、歴史というものは百年、千年のスパンで俯瞰しなければ見えてこないものがある。その一本の支柱ともいうべきものは思想しかない。その原典が崎門学であり、『靖献遺言』であるということが本書を読み進みながら見えてきた。
 明治維新百五十年とマスコミは持て囃すが、私たちは何か、本当に重要な「何か」を見落として現代ににまで至ったのではないか。
 そう内省させる一書だった。
 願わくば、巻末に人名録があれば人間相関図を描くのに便利と思った。

『GHQが恐れた崎門学』書評4(平成28年10月28日)

 日本国体学会機関雑誌『国体文化』平成28年11月号(11月1日発行)で、拙著『GHQが恐れた崎門学』の書評をしていただいた。原田伊織・大宅壮一の両氏を批判した補論について、以下のように評していただいたことが、特にありがたい。
 〈…「近代日本が道を誤った根本原因は、明治維新だった」と書き連ねる原田伊織の『明治維新という過ち』『官賊と幕臣たち』『大西郷という虚像』といった一連の著作がブームのようだ。「長州テロリスト」と「徳川テクノクラート」の対決図式に基づき、倒幕勢力の暴力・残虐性を殊更に強調したあげく、明治維新を「大義なき権力奪取」と全否定する。
 近代化の歩みには批判すべき点もあるが、原田は何故かくも「日本」の正統を恢復しようとした先人を敵視し、悪しざまに罵るのか。〈原田伊織『明治維新という過ち』批判序説〉を〈補論〉として掲げた著者は、原田と『実録・天皇記』の筆者である大宅壮一の心理を重ね合わせ、原田伊織を「大宅壮一の亡霊」と位置づけている。今後も出て来るであろう「原田伊織的なるもの」に対する根本的な批判にもなり得る。…〉

近藤啓吾先生の御指導と『GHQが恐れた崎門学』

 拙著『GHQが恐れた崎門学』発売直後の平成28年10月上旬、崎門学正統派を継ぐ近藤啓吾先生のお宅に、同書上梓の御報告と御礼に伺いました。崎門学研究会代表の折本龍則氏にも同行していただきました。
 近藤先生の研究の蓄積と御指導なくして、到底本書を書くことはできませんでした。拙著「あとがき」でも次のように書かせていただきました。

 〈…『靖献遺言』の理解においては、崎門学研究会を主宰する折本龍則氏とともに、近藤啓吾先生の『靖献遺言講義』をテキストとして、平成二十三年から一年以上に亘って輪読会を継続いたしました。そのきっかけを作ってくれた折本氏には、今回「いま何故、崎門学なのか」と題してお書きいただきました。心より感謝いたします。
 平成二十四年十月中旬に、輪読会、勉強会で解決できなかった不明点、疑問点を整理して、近藤先生に書簡を出させていただきました。同年十二月五日、先生は小生の訪問をお許しくださいました。その際、『靖献遺言』を読む際に重要な「厳かな気持ち」「謙虚な気持ち」について教えていただきました。
 その後、書簡、訪問を通じて先生からは、誠に貴重なご教示を繰り返し頂戴するのみならず、平成二十五年五月二十三日に訪問させていただいた際には、「崎門の学を学ぶには」と題して、七枚に及ぶ丁寧な手引き書を賜りました。近藤先生の研究成果なくして、到底本書を書くことはできませんでした。
 近藤先生に出版の報告をさせていただいたところ、有り難くも、以下のような書簡を頂戴することができました。
 「貴編再読三読致しました。出版される書物数限りないものの、古人を論ずるもの、古人を自分と同列に引き下げ、中には却て自分以下に見降して勝手に評論するもの多くなるを歎いてをりましたところ、高文の古人に敬虔なるを拝見し、洵にうれしく思ひました。その上これを出版して下さる書肆のあること、よろこびと感謝の限りです」〉

 御礼に伺った際、近藤先生は書名に聊か驚かれ、「思い切った書名をつけましたね」と仰いましたが、その後全体に目を通された上で、「よく書いてくれました」とのお言葉を賜ることができました。これほどありがたいお言葉はありません。
 本書を通じて、崎門学の説く日本國體の真髄、明治維新の本義が、一人でも多くの国民に理解されることを望むのみです。
 以下に、筆者が繰り返し学び続けている近藤先生の主要著作を紹介しておきます。 続きを読む 近藤啓吾先生の御指導と『GHQが恐れた崎門学』

【書評】 『続平泉澄博士神道論抄』

 日本の自立と再生には、日本人が自らの歴史と思想を取り戻すことが不可欠である。その際、GHQによって封印された國體思想を解き放つことが重要な課題だと思われる。
 著者の平泉澄博士は、昭和45年に刊行した『少年日本史』の前書きで次のように書いている。
 「正しい日本人となる為には、日本歴史の真実を知り、之を受けつがねばならぬ。然るに、不幸にして、戦敗れた後の我が国は、占領軍の干渉の為に、正しい歴史を教える事が許されなかった。占領は足掛け8年にして解除せられた。然し歴史の学問は、占領下に大きく曲げられたままに、今日に至っている」
 実際、平泉の重要論文「闇斎先生と日本精神」を収めた同名の書籍(昭和七年)は、GHQによって没収された。本書には、この因縁の論文も収められている。
 平泉隆房氏が「序」で的確な紹介をされている通り、本書は『平泉澄博士神道論抄』の続編として、平泉の著述の中から、主に神道論に関わる論文を集録したものである。「序論」には、「神道と国家との関係」を、「前篇 神道史上の人物論」には、菅原道真、明恵上人、北畠親房、山崎闇斎、遊佐木斎、谷秦山、佐久良東雄、真木和泉についての論文を収録している。闇斎を論じた論文が「闇斎先生と日本精神」であり、崎門の真髄を次のように描いている。
 「君臣の大義を推し究めて時局を批判する事厳正に、しかもひとり之を認識明弁するに止まらず、身を以て之を験せんとし、従つて百難屈せず、先師倒れて後生之をつぎ、二百年に越え、幾百人に上り、前後唯一意、東西自ら一揆、王事につとめてやまざるもの、ひとり崎門に之を見る」(本書125頁)。 続きを読む 【書評】 『続平泉澄博士神道論抄』

『GHQが恐れた崎門学』書評3(平成28年10月8日)

 反ジャーナリストの高橋清隆氏に「高橋清隆の文書館」(平成28年10月8日)で、拙著『GHQが恐れた崎門学』の書評をしていただいた。

『GHQが恐れた崎門学 明治維新を導いた國體思想とは何か』(展転社) 畏友の坪内隆彦氏が新著を発表された。山崎闇斎(あんさい)を祖とする崎門学(きもんがく)が、いかに明治維新の原動力となったかを、幕末の志士たちの生き様、いや死に様を通して明らかにしている。
 坪内氏は自身が編集長を務める『月刊日本』で、平成24年7月から「明日のサムライたちへ」と題する連載記事を書いた。明治維新とその後の昭和維新運動にも影響を与えた10の國體思想の重要書を紹介されたが、同書はそのうちの5冊を軸に再編収録している。
 具体的には、浅見絅斎(あさみ・けいさい)の『靖献遺言(せいけんいげん)』、栗山潜鋒(せんぽう)の『保健大記(ほうけんたいき)』、山県大弐の『柳子新論』、蒲生君平(がもう・くんぺい)の『山陵志(さんりょうし)』、頼山陽の『日本外史』を指す。
 「これらの書物なくして、明治維新はなかったと言っても過言ではないと考えています。これらの『聖典』には何が書かれていたのか、そして、志士たちの魂をいかに激しく揺さぶったのか、それを本書で解き明かしていきます」と始めている。
 崎門学は、万世一系の天皇による親政を理想とする。闇斎は「徳を失った天子は倒していい」とする易姓革命論を否定する形で朱子学を受容し、さらに伊勢神道、吉田神道、忌部神道を吸収し、自ら垂加神道を樹立している。
 闇斎は、皇政復古の志を出処進退によっても暗に示している。仕えていた会津藩主の保科正之が死去すると、会津藩の俸を辞し、亡くなるまで京の地を出なかった。弟子の浅見絅斎も「世は既に終身関東の地を踏まず、食を求めて大名に事(つか)へずと誓へり」と語っていた。 それにしても、武士の生き方は壮絶だ。収録の志士たちの最期も多分に漏れない。その1つとして、梅田雲浜(うんぴん)の例を挙げておく。小浜藩士の雲浜はペリー来航に危機感を抱き、藩主の酒井忠義(ただあき)に「藩政の得失と外寇防御」の上書を提出するも、怒りに触れて藩籍を奪われる。
 雲浜は外国の打ち払いと、京都御所の警備を固めるため勤皇の志篤い十津川郷士の指導訓練に乗り出す一方、危険覚悟で条約反対と慶喜擁立、井伊直弼排斥を主張し、朝廷に入説。彼の行動は大きな成果を上げる。
 しかし、危機感を抱いた井伊は弾圧に乗り出す。京都所司代に就いていた酒井忠義が雲浜逮捕に踏み切った。そうして拷問を受けながら節を曲げず、1年後に牢屋で生涯を閉じる。
 雲浜は吉田松陰から「『靖献遺言』で身を固めた男」と呼ばれていた。この書には中国の忠孝義烈の志8人が紹介されているが、特に方孝孺(ほうこうじゅ)に影響を受けた可能性を坪内氏は指摘する。建文帝の側近として活躍していた方孝孺は、反乱を起こして権力を簒奪(さんだつ)した燕王・朱棣(しゅてい・永楽帝)に最後まで従わず、刀で口を裂かれ、獄門死している。
 今の日本でも、国策逮捕と隠密殺人、それをごまかす偽報道は健在だと思っている。しかし、ほとんどの国会議員は死への恐れより、出世や欲得で本心に背く法案成立に従事しているように映る。議場の押しボタンロボットと化して。
 天皇の「お言葉」を契機に皇室と政治の関係が再び問われている中、同書の出版に宿命を感じる。題名にある通り、GHQは崎門学やそれに続く水戸学の書籍流通を封じた。米国言いなりの政権が終わるかどうかは、捨て身の志士たちの生きざまを国民がどう捉えるかにかかっている。

アルテミオ・リカルテ生誕百五十年記念祭のお知らせ

 以下、大アジア研究会の「アルテミオ・リカルテ生誕百五十年記念祭のお知らせ」を転載する。

謹啓
 時下益々ご清祥の事とお慶び申し上げます。
 さて、今年はフィリピン独立の闘士、アルテミオ・リカルテ将軍の生誕百五十年です。リカルテは、今から百五十年前の一八六六年十月二十日、ルソン島最北端のバタックという町で生まれました。当時のフィリピンはスペインの植民地支配に苦しんでおりましたが、やがてスペイン本国の衰退に伴い、独立の気運が昂揚し、ついに一八九六年には最初の革命蜂起が勃発します。リカルテはアギナルド将軍率いる革命軍と共に戦い、米西戦争によってアメリカが新たな侵略者となるや、アメリカとの戦争を指導しました。
  この米比戦争の結果、アメリカは百万人ものフィリピン人を虐殺し、一九〇二年にフィリピンを軍事制圧して以降は、過酷な植民地支配を行いました。捕らわれの身となったリカルテも、長きに亘る牢獄生活を強いられましたが、一九一四年、宮崎滔天や犬養毅、頭山満といった有志たちの計らいによって我が国に亡命し、横浜山下町に居を構えて静かな余生を送っていたのです(この縁にちなみ、戦後、横浜山下公園の一角にリカルテ将軍の記念碑が建立されました)。
 ところが、一九四一年に大東亜戦争が勃発すると、星条旗に唯一屈しなかったリカルテ将軍のフィリピン帰還を求める声が高まりました。当時のリカルテは七十五歳の老齢に達しておりましたが、意を決してフィリピンに帰還し、山下奉文大将率いる我が軍と共に戦いました。しかし我が軍の戦況が悪化し、山岳地帯での過酷なゲリラ戦を強いられるなかでついに病を発し、一九四五年七月三十一日、八十年の崇高な生涯に幕を閉じました。
 かくしてリカルテが、その悲願であったフィリピンの独立を見届けることはありませんでしたが、戦後フィリピンは独立を果たし、リカルテは祖国独立の英雄として讃えられております。またフィリピン解放のために、我が軍とリカルテが共に戦った歴史的事実は、日比両国にとってかけがえのない絆として記憶されるべきであり、将来における日比永遠の友好関係を約する偉大な歴史遺産であります。 続きを読む アルテミオ・リカルテ生誕百五十年記念祭のお知らせ 

『GHQが恐れた崎門学』書評2(平成28年10月6日)

 中田耕斎氏が拙著『GHQが恐れた崎門学』のアマゾン・レビュー(平成28年10月6日)を書いてくれた。
 「親から子に、師匠から弟子に脈々と國體思想の大義は継承、発展され、ついに明治維新に至った。
 本書はこれを証明するために維新志士を鼓舞した5冊の本を取り上げ、その本の内容ばかりではなく、周辺の情報を織り交ぜながら、大義の継承の歴史を描いている。
 補論として書かれた原田伊織批判、大宅壮一批判も秀逸で、大義からではなく権力闘争と利害関係からしか歴史を見れない不毛さを論じている。」

フィリピンの志士リカルテ将軍と山下町の拠点

 かつて山下町南京街の一角(山下町149)に「ハリハン」というフィリピン・レストランがあった。
 この場所こそ、日本での亡命生活を送っていたフィリピンの志士アルテミオ・リカルテ将軍の拠点だった。多くの者がフィリピン独立の日を待ち望むリカルテ将軍を訪れて励ました。
 「人々は争つて将軍の亡命の心をなぐさめるためにやつて来て、将軍の健かな顔をとりまひて、過去の追憶や、現在の祖国の悲運や、悲観すべき未来のことなどを語りあふのだ。涙多き青年は、そこでフィリピンの独立の歌を唄ひ、慷慨悲憤の士は、拳で机を叩きながら叫ぶのだ」
 中山忠直『ボースとリカルテ』(昭和17年)には、「ハリハン」前でアゲタ夫人と娘たちと映る写真が掲載されている。

『GHQが恐れた崎門学』書評1(平成28年9月29日)

 宮崎正弘先生にメルマガ「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」(平成28年9月29日)で、拙著『GHQが恐れた崎門学』の紹介をしていただいた。

いまの皇室典範論争はまったくの不毛
山崎闇斎から開始された崎門学が現代日本に蘇る


坪内隆彦『GHQが恐れた崎門学』(展転社)

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『GHQが恐れた崎門学 明治維新を導いた國體思想とは何か』(展転社) いま、こういう正統な著作が世に問われるということが時代の変化。世論の激変を象徴していると言える。
 想えばGHQが発禁図書として日本精神を鼓舞し、皇室伝統を尊ぶあらゆる思想書を日本人の目に触れさせないようにした。およそ七千余もの名著が日本の書庫から、書店から消えた。
 完全に消滅してしまったと想われていた正気の書物は、時を経て、ちゃんと復活するものなのだ。
 とりわけ忘却の彼方にあったのは水戸学の源流とも言える「崎門学」派の人々。錚々たる学者、知識人、維新行動家の列伝ともなって、本書は思想書でありながら、一般啓蒙書でもある。本書を丹念に読めば、いま論じられている皇室典範議論など不毛の論争、基本を抑えない浅学なひとたちが侃々諤々したところで、結論もまた不毛であろう。そもそも国会議員風情が皇室典範を云々するとは歴史の錯誤である。
 さて本書で坪内氏は、明治維新を導いた国体思想の系列を現代風に追求しつつ、国体の本義に迫る。中心に置かれるのは次の五冊である。
  浅見絅斎『靖献遺言』
  栗山潜鋒『保建大記』
  山県大弐『柳子新論』
  蒲生君平『山陵志』
  頼 山陽『日本外史』
 一般的に維新回天の思想的原点として扱われてきた藤田東湖、会沢正志斉らは、崎門学の中継を担った学者としての位置づけがなされ、源流は山崎闇斎、その系統から輩出した山鹿素行、そして国学としての本居宣長、平田篤胤、賀茂真淵らと流れるわけだから、ちょっと出だしの毛色が違う。
 山崎闇斎の崎門学の源流は北畠親房にまで遡及する。
 七生報国、君は君たらずとも臣は臣足らざるべからずという忠君思想は北畠親房がはじめて体系化した。北畠は茨城に引きこもって著作に専念した。神皇正統記である。
数百年の歳月を経て、水戸学へ流れ込んだ。
 浅見絅斎が著した『靖献遺言』は貞亭四年(1687)に書かれ、後に『勤王の志士の聖典』と呼ばれる書物、義烈英雄らの列伝を中国の英傑にもとめて徳川政府を暗喩し、その影響を受けたひとりが梅田雲濱だった。
 雲濱は小浜藩士だったが、国防強化を説いて藩主の怒りに触れ、版籍を剥奪された巣浪人。柳川星厳、頼三樹三郎らと交わり天下国家のために奔走し始める。やがて安政の大獄で捕縛され、獄死した。
 西郷隆盛は雲濱の獄死に際して、
 「いまに生きながらえていたら、我々は執鞭の徒に過ぎない」と慨嘆した。
 栗山潜鋒という学者は水戸光圀『大日本史』の編纂に関わった。今日まであまり名前が知られなかった。
 栗山潜鋒の著作『保建大記』とは後西天皇の御子、尚人親王のご学友となった栗山が、後白河天皇の践祚から崩御までの38年間に皇室の衰微と武家の萌葱をもたらした戦国動乱の原因を遡及し考察したものだった。
 長らく埋もれていたが、竹内式部が見いだし、浅見の『靖献遺言』とともに講義テキストに使って、志士の間に知られるようになったという。
 ともかく維新前夜、草莽の志士らは、何を読んで何処に刺戟を受けて、国体明示のために立ち上がったのか。いのちをかけるほどの価値が、なぜそこにあるのかを、思想書を基軸に多くの志士の逸話をあつめて体系化した労作である。