頼山陽・三樹三郎墓参

 平成26年12月23日、頼山陽・三樹三郎墓参のため、円山公園(京都市東山区)の奥にある「長楽寺」を訪れた。ここには、鵜飼吉左衛門・幸吉ら水戸烈士の墓もある。
 『日本外史』「楠氏論賛」の一節を読み返した。
 〈楠氏あらずんば、三器ありと雖も、将た安くに託して、以て四方の望を繋がんや。笠置の夢兆、ここにおいて益々験あり。而るに南風競はず(南朝の気勢があがらない)。倶に傷き共に亡び、終古以てその労を恤むなし。悲しいかな。抑々正閏は殊なりと雖も、卒に一に帰し、能く鴻号を無窮に煕む。公をして知るあらしめば、亦た以て瞑すべし。而してその大節は巍然(高大なさま)として山河と並び存し、以て世道人心を万古の下に維持するに足る。これを姦雄(北条・足利)迭に起り、僅に数百年に伝ふる者に比すれば、その得失果して如何ぞや〉

梅田雲浜墓参(平成27年9月)

 平成27年9月19日から、崎門学研究会代表の折本龍則氏とともに、雲浜生誕200年、崎門学ゆかりの地巡りを敢行した。
 19日はひとまち交流館京都において「梅田雲浜生誕200年記念 生誕顕彰フォーラム」に参加。雲浜から5代目に当たる元大阪芸術大教授、梅田昌彦氏が記念講演された。
 20日は、雲浜の寓居跡、石碑がある葉山観音(左京区)を訪れた。この旧跡碑は、文学博士の高瀬武次郎の発起によって建てられることになった。大正12年11月23日に除幕式が挙行されている。碑の裏には、「雲浜翁嘉永三年葉山ニ寓シ、勤王諸同志ト国事ヲ議シ、或ハ四明山下一閑人石川丈山ヲ追慕シテ、閑ニ風月ヲ弄セリ。長岡監物ノ臣某ガ来テ、浅見絅斎ノ赤心報国刀ヲ求メ、山縣元帥ガ謁シテ教ヲ請ヒ、翁ノ夫人信子ガ「拾ふ木葉」ノ名歌ヲ作リシモ、皆此時ナリキ。故ニ今有志相謀テ記念碑ヲ建ツ」とある。
 長岡監物は肥後藩家老で、横井小楠らと藩校時習館の改革に当たった人物。「浅見絅斎ノ赤心報国刀ヲ求メ」とある通り、彼は崎門学を学び、絅斎に傾倒していた。
 
 葉山観音の後、山崎闇斎・浅見絅斎の墓参を経て、東山区・安祥院にある雲浜墓所を訪れた。
 安政の大獄で捕えられた雲浜は、安政6(1859)年9月14日に獄死した。しかし、未だ幕府の力は強く、雲浜の墓を建立することは憚らねばならなかった。このとき、京都を離れ小浜にとどまっていた、雲浜の姪登美子は、雲浜元服の際に下した前髪を実家で発見した。彼女はその前髪でお墓を作ろうと決意し、文久元(1861)年7月に京都へ戻った。
 そして、雲浜門人の北村屋台太郎らの賛同を得て、安祥院にお墓を建立したのである。安祥院には雲浜の先妻信子、長男繁太郎の墓所がある。墓石の文字は巽太郎が書いた。ただし、幕府を憚り「梅田」の姓は省かねばならなかった。

蒲生君平墓参

 平成25年12月27日朝、蒲生君平のお墓参りに行き、彼が完成させた『山陵志』に思いを馳せた。君平のお墓は、東京都台東区谷中の臨江寺にある。墓石の四面には藤田幽谷の撰文が刻まれている。
 「……君平は、経済的には全く恵まれることなく、しかも功業を当世にほどこすこともできなかった。けれども、その至大・至剛で屈せずたゆまぬ志気は、これを文章の上に遺して、卓然として無窮であるから、昔の聖賢と同列であるべきである。この人にして、その墓表のあることは、まことに故あることである。…私が聞くところでは、君蔵(君平)は最期に臨んで、なお天地の正気を称し、三宝の説を述べたという。すなわち、たとえ瞑没するとも、精神は天地の間にとどまって、その正気を意中の人に授けるであろうと。ここにおいて、古人が謂う『死して亡びない者』とは、君蔵のことをいうのであろうか。ああ、もはやこのような人傑とは、幽明境を距ててしまった。この私は、誰と語り、誰に従ったらいいのだろうか」(元は漢文、安藤英男訳)

内田周平先生墓参(平成25年8月4日)

 平成25年8月4日、崎門学研究会の折本龍則君とともに、東京雑司ヶ谷墓地にある内田周平(遠湖)先生の墓地をお参りした。
場所は都営荒川線雑司ヶ谷駅のすぐ近く(1─2号6側)。

安政4(1857)年浜松に生まれた内田先生は、明治19年に文科大学選科を卒業すると、井上円了らが設立した哲学館の講師となって、支那哲学と美学を講じるようになった。明治24年に学習院教授となり、翌25年には、熊本第五高等中学校(後の第五高等学校)教授に転じた。
明治28年4月に崎門学派の楠本碩水を肥後針尾島に訪れ、崎門学の継承へと進まれた。内田先生が崎門学者として生きる姿勢を鮮明にしたのが、明治40年12月15日に日比谷神宮奉斉会で挙行された山崎闇斎の正四位追贈奉告祭だった。

全勝寺の山県大弐墓所

 山県大弐の墓は、東京都新宿区舟町11番地の全勝寺にもある。大弐の遺骸は、妻の斉藤左膳姉が葬られている全徳寺に埋葬されたが、後に全徳寺が廃寺になり、現在の全勝寺に移された。そのため、墓所には「斉藤氏」と彫られている。
 全勝寺には大弐の記念碑もある。これは、市井三郎、鶴見俊介等が発起人となって造立されたもので、大弐の肖像レリーフは愛知教育大の近藤鎰郎の作品。「明治維新の思想的・実践的先駆者であった山県大弐の没後200年を祈念して明治100年の年大弐の命日にこれを建つ
1967年9月3日 日本人民有志」とある。

山崎闇斎墓所

平成24年8月、『月刊日本』の新連載「明日のサムライたちへ 志士の魂を揺り動かした十冊」の二冊目(浅見絅斎『靖献遺言』)の取材のために、金戒光明寺を訪れ、絅斎の師・山崎闇斎のお墓参りをした。
三重塔(国・重要文化財)を目指して階段を上り、塔の前を左に曲がり、最初の通路を右に折れてしばらく進むと、闇斎のお墓がある。

浅見絅斎墓所

 平成24年8月、浅見絅斎先生の墓参をした。
浅見先生のお墓は、京都市東山区の鳥辺山墓地(延年寺旧跡墓地)にある。ここは、大谷本廟墓地の管轄外で、清水へ至る道を登り、8区辺りから左方向に分かれる道を入っていく。(案内図、赤の辺り)
浅見先生のお墓にだけは屋根がついている。
墓の文字は、その書風から浅見先生の後継者、若林強斎によるものと、近藤啓吾先生は推測している。

下御霊神社御札─山崎闇斎の垂加霊社

 
崎門学研究会代表の折本龍則氏が平成28年9月に京都を訪れ、崎門学の祖・山崎闇斎先生縁の下御霊神社をお参りした。
神社境内には、闇斎が自らの心神を祀った垂加社がある。今回、折本氏より有り難くも、御札を頂戴した。
垂加とは伊勢神道の『倭姫命世記』にある次の言葉に由来する。

  神垂以祈祷為先(かみはたるるにねぎごとをもってさきとなし)
  冥加以正直以本(くらきはくはふるにしょうじきをもってもととなせり)

この言葉を記した御札が入っている。