東亜同文書院卒業生と主体的外交思潮

 GHQによる占領、東西冷戦勃発を経て、わが国が対米追従外交を強めていく中で、主体的な外交や貿易を模索する思潮は辛うじて継続していた。
 それを支えた一因が、戦前派の指導者の存在だったが、東亜同文書院卒業生の活躍も無関係とは思えない。代表的な東亜同文書院卒業生を分野別に挙げる。

マスコミ
 田中香苗(毎日新聞社長)
 山西由之(東京放送社長)
 長岡村大(テレビ高知社長)
 伊藤喜久蔵(東京新聞論説委員)
 大西斎(東京朝日新聞論説委員室主幹)
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「梅田雲浜先生生誕200年記念墓参」、『レコンキスタ』に掲載

 崎門学研究会(代表:折本龍則氏)の主催により、平成27年11月28日(土)に東京都台東区の海禅寺で行われた「梅田雲浜先生生誕200年記念墓参」の模様を、一水会発行の『レコンキスタ』(平成28年1月1日号)に掲載していただきました。

「興亜の歴史を上海に見つける」①─『上海歴史ガイドマップ』

 
 「興亜の歴史を上海に見つける」。そんな願望に応えてくれる本を、ようやく発見した。首都大学東京教授の木之内誠氏が著した『上海歴史ガイドマップ 増補改訂版』(大修館書店、2011年12月)だ。
 「BOOKデータベース」には、〈上海の主要街区の過去と現在を地図に表した「地図編」と、歴史的建築や観光スポットなどの名所旧跡等、823項目を解説した「解説編」で構成される〉と書かれている。
 まずは、東亜同文書院の場所を確認した。
 地図編26「新華路」の交通大学駅南に「東亜同文書院 1937-1945」と表記されている。
 現名は黒、歴史的名称(1949年以前)は赤、歴史的名称(1949年以降)は緑で書かれているのだ。

筑前勤王党志士宛て平野国臣書簡

 
文久3(1863)年10月、平野国臣は筑前勤王党の志士(鷹取養巴、月形到、江上栄之進、浅香市作、筑紫守、森安平)に宛て、次のように蹶起を促した。
「各君御壮健奉賀候。天下の形勢定而御承知可被成、如何御因循被成候哉。
 臣子之忍ぶ所にては有之間敷候。君臣は天下の公道、主従者後世之私事歟と発明仕候。六親叛而大孝顕れ、大道廃而有仁義ものに御座候。
天朝立て各藩立、
神州有て各国有。何ぞ其末に泥みて其基本を助けざらんや。今日の急務、断之一つに在。鬼神も之を避ると謂はずや。区々として株兎の小計をなすは小人也。愚俗也。護而豪傑之実功を見給ふべし。
不日に一軍之兵勢を挙動し、天下之耳目を驚して可入貴覧候。能目を拭、耳を洗て十五日を待給へ。
再会難期。句句頓首謹言」

アジア主義の理想を再考するために①

 日本近代のアジア主義の理想を把握するために何を読むべきか。筆者はまず、興亜の先覚者荒尾精の伝記を挙げたい。その中でも、井上雅二著『巨人荒尾精』(東亜同文会)は、日本人が一読すべき著作だと信ずる。
 いま覇権主義を強める中国と、100年、200年、いや1000年単位で、どう共存するかを考えるために。アジア主義の理想を理解する必要があるのではないか。
 『巨人荒尾精』冒頭に載せられた、近衛篤麿公の「東方斎荒尾君の碑」を噛みしめたい。

「志士のみが志士を作り得る」(望月重信大尉)─フィリピン解放の瞬間

 大東亜戦争はアジア解放の聖戦だったのか。開戦後、米軍を駆逐したフィリピンの現状を直視した望月重信大尉が放った言葉は、大東亜共栄圏建設の理想と現実を抉り出す。
 皇道を体現した望月大尉のことを筆者が初めて書いたのは、『月刊日本』2006年12月号でアルテミオ・リカルテを取り上げたときのことである。
 2013年5月22日には、靖国神社正殿で「望月重信師永代神楽祭」が執り行われた。ここには、望月大尉の故郷長野の太平観音堂の藤本光世住職をはじめ、大尉とご縁の深い方々が参集した。その関係者から貴重な資料をお預かりした。望月大尉祖述(太平塾生・法子いせ謹記)の「死士道 国生み」である。そこには、アジア解放の持つ途轍もなく重い意味が示されていた。
 大東亜戦争開戦後、日本軍は米軍を放逐しマニラ市に上陸した。アメリカ陸軍司令官のダグラス・マッカーサーはオーストラリアに逃亡、1942年の上半期中に日本軍はフィリピン全土を占領した。陸軍宣伝班に所属していた望月大尉は、1942年末に、フィリピンを支える国士を作りたいと決意し、マニラ南方のタール湖周辺の保養地タガイタイ高原に、皇道主義教育の拠点「タガイタイ教育隊」を設立した。そして、1943年10月14日、フィリピンでは日本軍の軍政が撤廃された。この瞬間について、望月大尉は次のように述べている。
 「新比島の国旗がするすると掲げられた。如何に多くの志士がこの荘厳なる刹那の為に血を以て戦ひ続けた事であるか。又この為にこそ如何に甚大なる皇軍将校の尊い犠牲が支払はれた事であるか。
 吾等の眼は間隙の涙にむせんで最早国旗をまともに仰ぐ事が出来なかつた」 Continue reading “「志士のみが志士を作り得る」(望月重信大尉)─フィリピン解放の瞬間” »

近衛篤麿─東亜同文書院に込めた中国保全の志

文麿に引き継がれた興亜思想
 「……帝国の冀求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り。……この新秩序の建設は日満支三国相携へ、政治、経済、文化等各般に亘り互助連環の関係を樹立するを以て根幹とし、東亜に於ける国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり。是れ実に東亜を安定し、世界の進運に寄与する所以なり。……惟ふに東亜に於ける新秩序の建設は、我が肇国の精神に渕源し、これを完成するは、現代日本国民に課せられたる光栄ある責務なり」
 昭和十三年十一月三日、近衛文麿首相の東亜新秩序声明に国民は沸き立った。頭山満はこの声明を誰よりも感慨深く聞き、文麿の父篤麿が亡くなった日のことを思い起こしていたことだろう。東亜新秩序声明を書いたのは、大正四年に東亜同文書院に入学し、篤麿の盟友、根津一院長に可愛がられた中山優である。
 興亜陣営の強い期待を背負いながら、篤麿が四十歳の若さで亡くなったのは、明治三十七年一月二日のことであった。当時頭山は四十八歳、文麿は十二歳、弟の秀麿は五歳だった。
 『近衛篤麿』を著した山本茂樹氏は、「篤麿が存命で強力なリーダーシップを発揮した場合、支那保全論から一歩進んで、アジアの解放とアジア諸民族の結束を意味するアジア主義を新たな国家目標として設定できた可能性もあった。それというのも……篤麿こそは、数あるアジア主義者の中でも、強力な指導力と日本の朝野のアジア主義者たちを糾合出来る求心力を十分に持つほとんど唯一の存在であり、しかも天皇に最も近い立場にあって、将来の首相候補として真っ先に挙げられ、欧米だけでなくアジアの国々での知名度も高かったからである」と書いている。だからこそ、地方の抜け目のない金持ちたちは、篤麿がいずれ首相になる人物だと見込んで、彼に多額の献金をしていた。ところが、どういうわけか篤麿は受け取った献金に対して必ず借用証書を出し、個人の借金にしていた。これが祟った。 Continue reading “近衛篤麿─東亜同文書院に込めた中国保全の志” »

大倉邦彦と東亜同文書院

 大倉邦彦が県立佐賀中学校在学中の明治三十四年十月、上海の東亜同文書院の院長・根津一が来校して講演、清国情勢と我が国の政策について述べた。根津は、荒尾精の盟友として活躍した興亜思想の先駆者である。
 邦彦はこの根津の講演を聞き、興亜の志を抱き、東亜同文書院に進学することを決意する。
 ところが、母ヱツは「そんな遠いところに行かなくても」と、泣いて引き留めようとした。邦彦は、「単に東京の名に憧れて都の学校に入って職にありつくよりも、シナへ行って今に総督の顧問になる方が私に適っています」と母を説得、明治三十六年九月上海に赴き、東亜同文書院商務科に進んだのだった。
 上海での体験は、若き邦彦に強い影響を与えた。晩年の邦彦と交流した、平泉澄門下の村尾次郎は、邦彦が上海などで目撃した光景について、次のように書いている。
 「上海あるいは天津におります時分に、大倉邦彦は非常に深い悩みに閉ざされていたのです。当時の清国は列強の侵食するところとなっており、上海も天津も、大きな港は列強の利権の場所となっていました。(中略)大倉邦彦青年が散歩しながらつくづくと思ったのは、公園の入口に『犬と支那人は入るべからず』と書いてある、何と情けないことだ、自分の国の人間が犬以下に扱われるという清国の窮状、それはアジア全体の窮状であると思われました」(村尾次郎「創立者大倉邦彦の人と思想」『大倉邦彦と精神文化研究所』平成十四年、三十九頁)。

『岩井百年史』の中の川瀬徳男

 昭和39年2月に刊行された岩井産業編『岩井百年史』に祖父川瀬徳男の名前が出て来る。第6章「岩井産業株式会社時代」「海外よりの引揚事情」の漢口支店を扱った部分だ。
〈戦時中の同支店の主要取扱商品は塗料、顔料、写真材料、紙類、セメント、金物類、繊維類、建築材料等の移輸入、米、穀類、食油類、油脂類、胡麻、豚毛、獣骨、茶、皮革類、麻等の移輸出等であったが、大戦末期には移輸出入は不可能となり、官納の米雑穀、皮革、食油、油脂類の集買が主たるものとなって、武漢周辺、湖北省、湖南方、九江などに出張員を出し、これに当っていた。移入品も殆んど官が輸送に当り、統制組合を通じての配給版売となっていたのである。また戦災による製材不足のため、官民の要望により漢口支店は製材工場の経営に当り、原材の収集より製材まで実施していた。
 終戦当時、社員は遠く湖南省、朱河(長沙と衡陽の中間)、湖北省、天門、潜江及び九江等に蒐買のため出張しており、終戦後漢口へ集結した社員ならびに家族は一〇八名に及んだ。終戦後、中国側に日徳僑民管理処ができて在留民はここに集められ、居留民は夫々登録番号を貰い、「漢口市日徳僑民集中区日僑臂」と記された腕章をつけさせられたのである。
 昭和二十一年五月、三井、三菱、日綿、昭和通商、児玉機関等十三社の支配人が抑留せられたが、当社漢口支店長高岡光男もその一人であった。すなわち国民政府軍事委員会より経済戦犯容疑で起訴せられ、その結果、同市所在の戦犯拘置所に拘置せられたのである。当時残留してこの援護に当った漢口支店の川瀬徳男は生活費も尽き果して、最後まで居残ることはできなかった。結局各社十三名の戦犯容疑は晴れ、昭和二十二年三月無罪の判決が下り、一年近い冤罪の拘置生活をあとに高岡支店長も同六月無事帰国するを得たのである〉