反省懺悔と精進辛苦─度会延佳『陽復記』

 
 伊勢神道を再興した度会延佳の『陽復記』に次のような言葉がある。
 「神とは鏡といふ和訓を一字略せしなれば、かの明徳を鏡にたとへ侍るに替る所もなし。誰も誰も心をかゞみのごとくせば、吾が心則ち天御中主命・天照大神に同じからんか。其上、心は神明の舎といへば、もとより人々の心中に神はやどりましませども、くらましたる心は、舎の戸を閉ぢたるがごとく、又鏡にさびうき塵積りたるに同じ。急ぎ神明の舎の戸をひらき、鏡のさび塵を去るべし。古はしらず、近頃の仏氏の中に、鏡にうつる影もまよひぞ、影もさるべし、と教ふる方も有りとなん、僻事と覚へ侍る。その故は、鏡のさびを去りては、万像の影をのづからうつる。いよいよ磨けばいよいよすなほに影うつる物なり。さびをさるこそ修行ならめ、影をさらんとおもふは、是れぞまよひなるべき」
 近藤啓吾先生の「度会延佳を思う」で、この言葉を「尊く思ふ」と書かれ、次のように述べられている。
 「彼れは『神代巻』と『中臣祓』との間の相通ずるものを最も深きところに於いて把握し、それを反省懺悔と精進辛苦として、その神道説の根本に置いた。延佳のこの神道把握こそ、後年、闇斎をして神道に開眼せしめる契機であり、そして闇斎より若林強斎へと継承せられた垂加神道の根幹をなしてゆく」