「儒教を排することはわが神道を矮小化することである」─本居宣長 vs. 藤田東湖

 「現在も続く直毘霊論争」(『月刊日本』平成26年1月号)で、本居宣長に対する会沢正志斎の反論を取り上げたが、藤田東湖もまた正面から宣長を批判し、「儒教を排することはすなわちわが神道を矮小化することである」と言い切っている。
 以下は東湖の『弘道館記述義 巻の下』の一節である。

 〈…最近、古代の学問を唱えるものがあって、「仏教はすべて因果で説明し、儒教は天命によってすべてを解釈する。仏教の弊害は儒者がたくみに批判するけれども、儒教の間違いは世間にまだ説明するものがいない」(宣長『直毘霊』)などというものがある。このような人は口を極めて儒教を罵倒し、仁義の徳などというのは後世の法律命令のようなものであり、舜・禹は王莽か曹操と同じような簒奪者であるとなし、「人間の欲望もまた人間の道である」とか、「天命というのは簒奪を合理化する口実である」(同)などといっている。もし、わが国の神道があたかも氷と炭のように儒教とまったく相反するものである、とするならばそういってもいい。しかしもし、わが国の道と儒教が同じ気から生じた花と実のように共通したものであるとするならば、儒教を排することはすなわちわが神道を矮小化することである。そればかりでなく、忠孝仁義という実質は天地はじまって以来、人類の生れつきに備えたところのものである。思うに古代研究を唱える者たちは、俗流の儒者たちの説くところを先王の道と思いこんでいるのだから、なお許すべき点がある。しかし俗流儒者を罵倒するとともに、周公・孔子の真の教えをも抹殺しようとするのは、食物が喉につまって苦しみむせぶのを聞いて、自分も食うことをやめてしまうのと同じである。非常な誤りというほかはない。わが斉昭公は、この点を心配あそばされ、建御雷神を祭って斯の道の由来を明らかにしたまうとともに、あわせて孔子の廟を造営され、斯の道がますます大きく、かつ明らかとなったのは、何によるかというその根本に対して敬意を表したもうたのである。実に完璧な御配慮というべきである〉