「真木和泉」カテゴリーアーカイブ

真木和泉の真髄①

 いま、幕末の志士・真木和泉が、奇妙な歴史解釈を売り物にする書物の中で貶められている。そろそろ、本格的な反撃に出なければならない。
 「一切の私心なし! 一族ともども理想の為に殉ずる覚悟」。それが真木の真髄である。
 「とゝ様の打死悲しくは候へども、皇国の御為と思へばお互ひにめでたく……」
 これは、真木の天王山自刃の報に接した、真木の娘・小棹が発した言葉だ。真木が討幕運動に挺身した時代、畏れ多くも孝明天皇の御意志は揺らいでいたという説もある。それでも、真木は信ずる道を突き進んだ。それは、決して己のためではない。なぜならば、彼は自らの死、一族の死を覚悟して事に臨んだからである。拙著『GHQが恐れた崎門学』の一節を引く。
 〈真木が遺書として書いたのが、「何傷録」です。冒頭に「楠子論」を掲げ、さらに「楠子の一族、三世数十人、一人の余りなく大義に殉死せられしこと、大楠公の只一片の誠つき通りて、人世の栄辱などは、塵ほども胸中に雑らず」と、楠公精神を称えました。そして、十年の謫居を余儀なくされ行動できなかった自らの心情を吐露し、今や身を挺する覚悟を綴り、次のように一族に訴えかけたのでした。
 「ゆめ吾子孫たるもの楠氏の三世義に死して、心かはらぬあとな忘れそ」 Continue reading “真木和泉の真髄①” »

【書評】 『続平泉澄博士神道論抄』

 日本の自立と再生には、日本人が自らの歴史と思想を取り戻すことが不可欠である。その際、GHQによって封印された國體思想を解き放つことが重要な課題だと思われる。
 著者の平泉澄博士は、昭和45年に刊行した『少年日本史』の前書きで次のように書いている。
 「正しい日本人となる為には、日本歴史の真実を知り、之を受けつがねばならぬ。然るに、不幸にして、戦敗れた後の我が国は、占領軍の干渉の為に、正しい歴史を教える事が許されなかった。占領は足掛け8年にして解除せられた。然し歴史の学問は、占領下に大きく曲げられたままに、今日に至っている」
 実際、平泉の重要論文「闇斎先生と日本精神」を収めた同名の書籍(昭和七年)は、GHQによって没収された。本書には、この因縁の論文も収められている。
 平泉隆房氏が「序」で的確な紹介をされている通り、本書は『平泉澄博士神道論抄』の続編として、平泉の著述の中から、主に神道論に関わる論文を集録したものである。「序論」には、「神道と国家との関係」を、「前篇 神道史上の人物論」には、菅原道真、明恵上人、北畠親房、山崎闇斎、遊佐木斎、谷秦山、佐久良東雄、真木和泉についての論文を収録している。闇斎を論じた論文が「闇斎先生と日本精神」であり、崎門の真髄を次のように描いている。
 「君臣の大義を推し究めて時局を批判する事厳正に、しかもひとり之を認識明弁するに止まらず、身を以て之を験せんとし、従つて百難屈せず、先師倒れて後生之をつぎ、二百年に越え、幾百人に上り、前後唯一意、東西自ら一揆、王事につとめてやまざるもの、ひとり崎門に之を見る」(本書125頁)。 Continue reading “【書評】 『続平泉澄博士神道論抄』” »

坪内隆彦「幕末志士の国体観と死生観」

 『国体文化』平成28年4月号に拙稿「幕末志士の国体観と死生観」を掲載していただいた。誠にありがとうございます。
本稿は、平成27年12月19日に開催された「国体学講座 第七講」における同名の講演録。
崎門学、水戸学の国体観、死生観を概観した後、梅田雲浜、吉田松陰、真木和泉の三人を具体的事例として、幕末志士の国体観、死生観の意義について語ったものである。

天誅組総裁・藤本鉄石と黒住教、そして崎門

 吉村寅太郎、松本奎堂とともに天誅組総裁として維新の魁となった藤本鉄石は、黒住宗忠が開いた黒住教の影響を受けていた。天保十一年、鉄石は二十五歳のときに脱藩して、全国行脚の途についた。延原大川の『黒門勤皇家列伝』には、「この天保年間は、宗忠の説いた大道が備前の国を風靡した頃で、鉄石も早くより宗忠の教説人格に接触して、大いに勤皇精神を鼓舞されたものと思われる」と書かれている。
 さらに同書は「彼は常に自筆の天照大御神の御神號並に、宗忠七ヵ条の大訓を書して肌守となし、或は、宗忠大明神の神號を大書して人に与えし…」とある。宗忠七ヵ条とは、
「日々家内心得の事
 一、神国の人に生まれ常に信心なき事
 一、腹を立て物を苦にする事
 一、己が慢心にて人を見下す事
 一、人の悪を見て己れに悪心をます事
 一、無病の時家業おこたりの事
 一、誠の道に入りながら心に誠なき事
 一、日々有り難き事を取り外す事
   右の条々常に忘るべからず恐るべし 恐るべし
   立ち向こう人の心は鏡なり己が姿を移してやみん」
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三上卓先生と真木和泉「大夢記」

三上卓先生は「大夢」と号したが、この「大夢」は真木和泉の「大夢記」に着想を得ていたと考えられる。

 真木は、文化十(一八一三)年に久留米で生まれ、藩校明善堂で学び、弘化元年に水戸遊学を許されて、江戸に赴いている。四度、会沢正志斎を訪ねている。嘉永五年(一八五二)年に、藩政改革の建白をして執政有馬監物らを排斥する藩政の改革を企てるが失敗、以後十年の長い間、塾居生活を余儀なくされた。この時期に真木が書いた倒幕の戦略書が「大夢記」である。山口宗之氏は『真木和泉』において、次のように書いている。 Continue reading “三上卓先生と真木和泉「大夢記」” »