「池尻茂左衛門」カテゴリーアーカイブ

久留米尊攘派・池尻茂左衛門(葛覃)─篠原正一『久留米人物誌』より

 池尻茂左衛門(葛覃)は、高山彦九郎と親密な関係にあった樺島石梁に師事し、久留米尊攘派として真木和泉とともに国事に奔走した人物である。大楠公一族、真木一族同様、池尻も一族挙げて国事に奔走して斃れた。権藤成卿の思想系譜を考察する上で、父権藤直が池尻に師事していたことに注目しなければなない。
 以下、篠原正一氏の『久留米人物誌』を引く。
 〈米藩士井上三左衛門の次男として庄島に出生。母方の池尻氏が絶えたので、その跡を嗣ぎ池尻を姓とした。兄は儒者井上鴨脚。本名は始また冽ともいい、字は有終、通称は茂左衛門、号は紫海また葛覃、樺島石梁に学んだのち、江戸留学九年、先ず昌平黌に学び安井息軒・塩谷宕陰と交わり、転じて松崎慊堂の門に入った。天保九年十一月、藩校明善堂講釈方となり、嘉永ごろから池尻塾を開いて門弟を育てた。安政六年十二月、明善堂改築竣工の際は、特に命ぜられて「明善堂上梁文」を草した。
 早くより勤王攘夷の思想を抱き、特に攘夷心が強かった。天保十五年七月、和蘭軍艦「パレンバン」が入港し人心動揺すると、秘かに長崎に行き、その情勢を探り、事現われて譴責を受けた。これより真木保臣の同志として国事に奔走し、特に京に在っては公卿の間に出入し、三条・姉小路などの諸卿や長州藩主毛利敬親の知遇を受け、また朝廷と米藩との間の斡旋に力を尽くした。 続きを読む 久留米尊攘派・池尻茂左衛門(葛覃)─篠原正一『久留米人物誌』より

久留米天保学派分裂の真相─真木和泉・木村三郎と村上量弘

 幕末の久留米藩士として先駆けて水戸に遊学したのは、木村三郎だった。天保12(1841)年、彼は水戸に遊んで「南街塾」で学び、久留米に戻ると私塾「日新社」を開いて子弟の教育に当った。この木村と刎頸の交りがあったのが、真木和泉である。
 真木は木村から『新論』を示され、正志斎の真価を聞くにおよび、水戸遊学への思いを募らせ、弘化元(1844)年7月に水戸に赴いた。 実は、真木に先立つ天保13(1842)年に水戸に学んだ久留米藩士がいた。それが、村上量弘(守太郎)である。木村、村上、真木の三人は天保学の三尊とも称せられていた。ところが、村上と真木は対立するに至り、嘉永5(1852)年には久留米の水戸学派は弾圧されるにいたる。いったいに何が起こったのか。
 『久留米人物誌』の「村上量弘」の項を引く。 続きを読む 久留米天保学派分裂の真相─真木和泉・木村三郎と村上量弘