「田宮如雲」カテゴリーアーカイブ

近松矩弘による同志結集─『子爵 田中不二麿伝』より

 文久二年以降の近松矩弘の動きについて、『子爵 田中不二麿伝』は以下のように記している。
 「文久二年に至つて天下勤王の徒益(ますます)奮起した、我尾藩は佐幕党の為に擁蔽せられ正義の徒進むを得ず、矩弘等悲憤に堪へず、同藩角田久次郎、山崎總右衛門、間島万次郎、梶原小六等と計り奸臣を除き正義を挽回せんことを主張し熱田神宮文庫へ同志を招いた、会するもの八十余名前藩主慶勝をして国事に與らしめ姦を退け正を進めん事等を乞ふの書を裁し相伴ふて成瀬正肥の邸へ至り矩弘首として之を面珍し若し猶予あらば同志の者一同東下して斃而已までの周旋せんと言つた、正肥其過激を戒め且不日之が処分せんことを諾した、因て一同東下の義は暫く中止した、而して此ことを佐幕党の聞く所となつて、熱田文庫の使丁を拘引して、顛末を詰問した、使丁は侠気があつて只和歌の会ありしのみと告げて、其他は言はず久しく獄に繋がれた、又神官林相模守と云ふものは正義を賛助せしを以て謹慎せしめられた、この月正月江戸に至り数日ならずして竹腰等幽閉せられ如雲等は復職し慶勝が国事に與ることゝなつた」

尾張勤皇派・阿部伯孝─『子爵 田中不二麿伝』より

 幕末尾張藩の勤皇に功績のあった人物の一人に阿部伯孝がいる。『子爵 田中不二麿伝』には、阿部について以下のように書かれている。
 「阿部伯孝、通称八助、松園と号す、幼児元野恬庵に従ひて業を受け、長じて明倫堂に入りて学び、嘉永五年江戸に於て御側物頭格御儒者となり、弘道館総裁に進み、翌六年正木梅谷に代りて明倫度督学となつた。藩主慶勝の蟄居となるや、田宮如雲、植松茂岳等と共に伯孝も亦幽閉の身となつた。五年後免ぜられて復職し田宮如雲と共に王事に勤め藩政を釐革した、慶勝二年瀬戸陶祖碑文を選した、同三年七月歿す、年六十七、明治三十六年従五位を贈らる、伯孝慷慨にして気節を貴び学者と云ふよりも寧ろ志士であった」

徳川慶勝の隠居謹慎─『名古屋と明治維新』より

●「幕義に従っては叡慮に反する」
 嘉永六(一八五三)年六月のペリー来航からまもなく、慶勝は斉昭へ宛てた書簡で、異国船の即時打ち払いを主張した。
 しかし、翌七月に慶勝が幕府の諮問に応じて提出した建白書では、アメリカの要求に対しては、手荒な対応は避け、信義を正してほどよく断るべきだとの考えを示した。ただし、万一アメリカが承服せず、攻め寄せてきた場合には、国力を尽くして一戦を交えることも致し方ないとした。また、「ご決着」は「天朝」へ奏達した上でなされるべきだと説いた。
 斉昭は、安政元(一八五四)年三月十日、海岸防禦筋御用を辞任した。慶勝が江戸城へ登城し、老中阿部正弘をはじめとする幕閣に面会し、詰問状を突き付けたのは、その直後の四月一日のことであった。慶勝は、外国勢力に対する幕府の弱腰を痛烈に批判し、斉昭の登用を強く要求した。ところが、幕閣たちは慶勝の要求を受け入れようとはしない。そこで、慶勝は同月十一日、十五日と立て続けに登城し、幕閣を繰り返し詰問した。
 これに対して、幕府は、慶勝の幕閣への謁見謝絶、外様諸大名への面会遠慮を命じる内諭を報いた。これに対して、慶勝と幕閣の間を取り持ってきた若年寄の遠藤胤統(たねのり、慶勝の父方の叔父遠藤胤昌の養父)は、正論とはいえ「御激論」は避けるべきであり、自身が尾張藩の正統(生え抜き)ではないことを自覚すべきだと慶勝をたしなめた(「嘉永・安政期の尾張藩」)。
 同年七月、慶勝は国元に戻り藩政改革に取り組もうとした。そこで早期の帰国を幕府に願い出た。ところが、幕府はこれを認めず、慶勝は翌安政二年三月に帰国した。 Continue reading “徳川慶勝の隠居謹慎─『名古屋と明治維新』より” »

君山学派の真価

●孝経尊重の精神─君山学派の真価
 尾張藩初代藩主・徳川義直(敬公)は、亡くなる直前の慶安三(一六五〇)年五月に『初学文宗』を撰した。そこで強調されたのが、「孝を以て人倫の第一義」とすることであった。
 孝を重視した敬公の姿勢を受け、独自の学問樹立を目指したのが松平君山(くんざん)(一六九七~一七八三年)である。『徳川義直公と尾張学』は、「君山から初まつて連綿と孝経第一尊重の意を伝へてきたところ、学会の美事であるが、また尾張教学の面目を語るものといへよう」と記している。
 君山の学問は、岡田新川(しんせん)らの門人を経て脈々と継承され、幕末の徳川慶勝の活躍を支える勤皇志士たちが輩出した。「尾張学概説」を著した鬼頭素朗は「君山の此精神は後世永く裨益して維新の原動力となり、此学派より、日比野秋江・田宮如雲(じょうん)・国枝松宇(しょうう)・阿部伯孝(みちたか)・丹羽花南(かなん)・田中不二麿・長谷川敬(けい)・千賀信立(せんがのぶたつ)等の志士を多く出して居る」と書いている。
 君山は、元禄十(一六九七)年、尾張藩家臣・千村作左衛門秀信の子として生まれた。母は、初代藩主の敬公の師・堀杏庵(きょうあん)の孫である。君山は、幼い頃から母の薫陶を受けて育ち、十七歳頃から盛んに漢詩を作り始めている。
 宝永六(一七〇九)年、同藩家臣・松平九兵衛久忠の娘婿として松平家に入った。享保二(一七一七)年には、六代藩主・徳川継友(つぐとも)に拝謁を許されている。寛保二(一七四二)年に著した『年中行事故実考』などが高く評価され、翌寛保三年に藩の書物奉行に任じられた。
 延享四(一七四七)年、私撰地誌『岐阜志略』を著し、宝暦二年には八代藩主・宗勝の命を受けて千村伯済らと共に編纂した『張州府志』三十巻を完成させた。『張州府志』は尾張で初めての官撰地誌で、以降の地誌の模範となった。明和七(一七七〇)年には漢詩集『幣帚集』を刊行している。
 君山は博覧強記と呼ばれるにふさわしく、様々な学問に通じていたが、医薬の分野でも功績を残している。彼が安永五(一七七六)年に著したのが『本草正譌(ほんぞうせいか)』である。同書は、その後尾張藩で発展した本草学のさきがけを成した。
 君山は、朱子学・陽明学・古学・折衷学のいずれにも属さなかった。彼が儒学を受容したのは、わが国の「神皇の道」を強化するためにほかならない。鬼頭素朗は、次のように書いている。
 〈君山は常に門弟に、「我は日本人なり。曾て聖教を学び文字に通暁するは我国の為にこれを為し、他邦の為に之を為さず」と教へて居る。君山の国家観が窺はれるのみでなく、彼の精神が那辺にあつたかが想像される。元来君山は儒学を採用せるものゝ、わが国の神皇の道の羽翼たらしめる為であつた。たゞの漢学ではなく、わが国の史実、法制、典故に即した学だつたことは明白である。これ等の学派の人々の著述もその通りであつた。即ち漢文漢籍を主としたがそれは手段であつて、その目的はわが国家の学であつたことが明白である〉
 君山の門下からは、岡田新川をはじめ、優れた学者が出た。その新川の門を叩いたのが、後述する河村秀根の二男・河村益根である。そして、君山門下を特徴づけるものこそ、孝経尊重の精神だったのである。
 孝経は、孔子の言動を曽子の門人が記したものとされている。秦の始皇帝による焚書坑儒の煽りを受け、一時その所在が不明となったが、前漢に入り、二種類の系統の本が再発見された。その字体から、古文・今文と呼ばれた。後に古文には孔安国による、今文には鄭玄による注釈が付けられた。古文は二十二章、今文は十八章から構成され、各章末尾に詩経・書経の文句が引かれている。朱子は各章末尾の詩経・書経からの引用を後世の追加と見て、削っている。
 君山はこの孝経を教えの基本とした。『徳川義直公と尾張学』には、「常に孝経を以て治家の本となし、弟子に授けるにはまづ孝経を以てしたといふことであり、孝経直解の著もある」と書いている。一方、鬼頭もまた次のように記している。
 「彼(益根)の漢学の師岡田新川にしても亦その師松平君山にしても、孝経に意を注ぎ、而も実行に移して、何々学派と判然と区別することは出来ないにしても明治維新の原動力となり、殆んどこの思想の影響によつて、我が尾張に於ては勤皇の志士を多く輩出して居るのは豈に偶然ならんや」

●君山門下の岡田新川・恩田蕙楼・磯谷滄洲
 君山の門下のうち、岡田新川は「詩」で、恩田蕙楼(おんだけいろう)は「学」で、磯谷滄洲(いそがいそうしゅう)は「文」で知られた。
 新川が作った詩は、二万余首に上る。彼は、元文二(一七三七)年に生まれ、幼い頃から君山に師事した。天明年間(一七八一~一七八九年)に、藩校明倫堂の教授に就任、また同時期、藩の歴史編纂所・継述館の総裁にも就いた。寛政四(一七九二)年には、明倫堂の督学に就任している。その後、自ら督学の職を辞し、明倫堂教授の立場で教え続けた。寛政十一年三月に死去している。
 新川は、君山と同様に孝経を第一として弟子を指導した。彼が、孝経を自ら刊行したきっかけは、唐代の功臣・魏徵(ぎちょう)らが編纂した古代政治文献撰集『群書治要(ぐんしょちよう)』の刊行だった。
 『群書治要』は、中国では早くに失われてしまったが、わが国にのみ残っていた。元和二(一六一六)年正月、徳川家康は『群書治要』の銅活字を補鑄して開版するよう、林道春、僧崇伝らに命じた。しかし、家康は竣工を見ずして、同年四月に薨去。翌五月に版行事業は完成した。ただ、刷り上った書物は紀州家に保存されていたが、広く流布されることはなく、八代将軍吉宗がその一部を幕府へ収めた。
 そして天明七(一七八七)年、尾張藩九代藩主・宗睦が家康の遺志をつぎ、幕府から借り受けて、細井平洲に統督させて開板したのである。鬼頭素朗は、これを「尾張学芸史上不朽の業績」と評価している。
 この書の存在は、清国にも知られて、四庫未収書目にも採録された。新川は、寛政六(一七九四)年、『群書治要』から『鄭註孝経』を取り出して、別に刊行したのである。

 一方、「学」で知られた、君山門下の恩田蕙楼は、新川の弟であり、寛保三(一七四三)年三月に生まれている。藩主近侍などを経て、享和二(一八〇二)年、継述館総裁兼明倫堂教授に就任している。蕙楼は、『尾張略志』、『史記考』など多数の著作を残した。
 そして、「文」で知られた滄洲は、元文二(一七三七)年生まれ。君山に師事し、明和元(一七六四)年、朝鮮使節の南秋月と詩を唱和し、藩主宗睦に賞されて留書頭に任ぜられた。著作に『尾張国志』などがある。

●幕末の志士への影響
 岡田新川門下として注目されるのが、河村秀根である。彼の父・河村秀根は、前回紹介した天野信景門下で、十一歳にして七代藩主・宗春の嫡子国丸の小姓として召し出され、江戸に勤務した。三年後、国丸の早世により、宗春の表側小姓となった。
 秀根は当初、卜部神道を学んだが、やがてそれに疑問を抱き、有職故実家多田義俊に師事し、さらに吉見幸和の門に入った。そして、『日本書紀撰者考』『撰類聚国史考』『日本書紀撰者弁』『神学弁』『首書神祗令集解』などを書き上げた。彼は、神道、有職故実、和歌等に関する知識を総合して「紀典学」という学問を組織した。
 益根は、この父の学風を継ぎ、その遺業として『書記集解』を完成させている。また、寛政六(一七九四)年には、光格天皇まで百二十代の天皇について、諱や諡、院号その他の尊号や、系譜や改元、没年、山陵などについてまとめた『帝号通覧』を刊行している。
 新川に師事した益根は、孝経尊重の姿勢を鮮明にし、その随筆「偶談」冒頭では、「人の行実は孝悌の道より外なし、此道にかけたる人は万事一も成がたし」と書いている。
 しかも益根は、師の新川に先立つこと三年、寛政三(一七九一)年、『群書治要』から『鄭註孝経』を取り出して刊行している。盆根の『鄭註孝経』は当時それ程有名でなかったが、後に水戸の弘道館で会沢正志斎、藤田東湖らに師事した内藤恥叟(ちそう)によって見出されて有名になった。
 一方、新川門下から出た人物として重視すべきは奥田鶯谷(おうこく)である。鶯谷は、宝暦十(一七六〇)年五月に美濃不破郡笠毛村で生まれた。文化元(一八〇四)年に明倫堂教授に就き、その後右筆組頭を務めた。そして、鶯谷に学んだのが、幕末の徳川慶勝の活躍を支える田宮如雲である。
 そして、如雲の同門として活躍したのが、国枝松宇である。松宇は、寛政八(一七九六)年四月に生れた。少年時代の文化五(一八〇八)年には、「母に孝である」ことを賞され、銭三貫文を官から与えられている。彼は、赤穂義士を欽慕し、その遺聞を収集し、『義人録補正』二巻を著した。彼は、如雲らと尊攘運動で連携するとともに、丹羽花南や田中夢山らの勤皇志士を育てた。

尾張の勤皇志士・丹羽賢③─荻野錬次郎『尾張の勤王』より

 荻野錬次郎『尾張の勤王』(金鱗社、大正11年)は、丹羽賢について、以下のように記している。
[②より続く]〈田宮、田中の二人を京都の新政府に止め一位老公を擁して帰藩せし以後の丹羽は、概ね田宮の規画に基くとは言ひ乍ら、藩中異論者の排斥処分を始め閣藩刷新のことを実行し、士気を振作し兵制を更め武器を改良して新たに壮兵を募り(新募壮兵隊の名称を磅磚隊、正気隊等と称す)急遽之を訓錬して直に征討軍に送る等一気呵成に之を遂行したるは彼れが断行力に富むの結果であらねばならぬ。
 固より上には成瀬の至誠と田宮の善謀とあり下には松本暢の能く新兵編成の事に当るあり、其他各種の便宜輔翼を得たるの致す所なるも、藩情紛糾乱の際兎も角も之を処理したるは丹羽にあらざれば企及し能はざる所である。而かも此時の丹羽は纔に二十三歳の若齢であつた。
 兵馬倥偬の間にも丹羽には別に閑日月ありて彼れが得意の風流は之を等閑に附せず詩酒悠々常に朱唱紅歌に親むだ、之れ彼れが英雄的資質の流露するものにあらざる歟而して彼れが此趣味より来れる戯謔(ぎぎゃく)なるや否を知らざる……
 丹羽は戊辰の首夏(閏四月二十四日)弁事に任じ東京府判事攝行を命ぜられたるに由り、一旦東京に赴任せしも藩地人才乏しく一位老公の政府に内請する所ありて忽ち藩地に帰り大参事として藩務に鞅掌せるものであつたが、廃藩置県(明治四年十一月十五日)の結果安濃津県参事と為り尋いて三重県権令と為り後ち、幾くもなく又中央政府に入り司法の丞となりたるものである〉

尾張の勤皇志士・丹羽賢①─荻野錬次郎『尾張の勤王』より

 荻野錬次郎『尾張の勤王』(金鱗社、大正11年)は、丹羽賢について、以下のように記している。
 〈内には燃るが如き雄志を抱き、表には冷灰も啻ならざる静寂を粧ひ、竟に痼疾の為に殪れたる丹羽賢の薄命は、個人として深く之れに同情の涙を禁じ得ざるのみならず、国家又は社会としては彼れの早死を一大損失として歎惜せねばならぬ。
 丹羽賢は倜儻駿邁にして気節高く、時に或は慷慨激越の風あるも、而かも識見卓絶、実に忠誠愛国の士たりしこと、彼れを知るものゝ斉しく認むる所にして之が代表の讃とも見るべきは、その友鷲津毅堂が華南小稿に序する所にて明瞭である。
 嗚呼、英雄首を回らせば即ち神仙である、一位老公(尾張旧藩主徳川慶勝)が『回首即神仙』の句を彼れに与へられたるは、即ち彼れを英雄と認められたるに因るものであらう、然り彼れは実に天才的の人にして英雄の資質を具備せるものである、されど天彼れに年を仮さず、彼れをして大に英雄的手腕を振ふの機を与へざりしは、まことに遺憾である。
 丹羽は幼時国枝松宇に親炙して忠孝節義の薫陶を受け又文久二年父氏常の祗役に従つて江戸に出で幕府昌平黌に学ぶ(年十七)。松本奎堂の知遇を得たるは此時にして奎堂を名古屋に迎へ学塾を開きて国史を講じ、尊王攘夷の説を鼓吹せしめたるは即ち其後のことである、又松本暢等の志士と親善となりしも当時のことである。
 元治元年征長の役父氏常が総督に扈従するに方り丹羽は父に従つて広島表に出陣した(此時丹羽は白木綿にて陣羽織を製し其背に『肯落人間第二流』云々の一詩を大書して著用した、人皆其異彩に驚きたりと言ふ)其後丹羽は田中不二麿、中村修等と共に尾張勤王の巨魁田宮如雲の幕下に参し、東奔西走勤王の事に尽し明治維新の際田宮、田中等と共に徴士に選抜せられ尋いて新政府の参与と為り、明治維新の創業に貫献すること少なからざるものである〉

[続く]

「依王命被催事」の継承─近松矩弘から徳川慶勝(文公)へ

 尾張藩初代藩主の徳川義直(敬公)の尊皇思想は、彼が編んだ『軍書合鑑』末尾に設けられた一節「依王命被催事(王命に依って催される事)=仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」に集約される。その詳しい内容は歴代の藩主にだけ、口伝で伝えられてきた。その内容を初めて明らかにしたのが、第四代藩主・徳川吉通(立公)である。死期を迎えた立公は、跡継ぎの五郎太が幼少だったので「依王命被催事」の内容を、侍臣・近松茂矩に命じて遺したのでる。それが『円覚院様御伝十五ヶ条』だ。
「依王命被催事」の精神は、尾張藩勤皇派に脈々と受け継がれ、維新に至る十四代藩主・徳川慶勝(文公)の活躍となって花開く。以下に挙げる近松矩弘の事跡(『名古屋市史 人物編第一』)には、その精神の継承が跡付けられている。
「矩弘、性質温克弁慧、世々軍学の師たり。其高祖茂矩、藩主吉通の遺命を蒙り、藩祖義直の軍書合鑑の末に「依王命被催事」とある一条、其他十一箇条に就いて勤王の主義の存する所を世子に伝へんとす。世子早世して其事止む。矩弘に至りて其遣訓を守り、之を慶勝に伝ふ。爾来田宮如雲・長谷川敬等と謀り、遺訓を遵奉して勤王の大義を賛し、力を国事に尽す

尾張勤皇派・田宮如雲③

 尾張勤皇派として明治維新の実現に挺身した田宮如雲について、荻野錬次郎『尾張の勤王』(金鱗社、大正11年)は、以下のように書いている。
 [②より続く]〈爾後、長州再征の失敗、将軍大坂城の薨去、時局は更に一転して又復如雲の天地となつた、茲に於て如雲は前藩主慶勝を奉じ幾多の神算鬼謀を抱きて従容京郡に出でた、此時如雲の眼中には最早将軍なく幕府なく、只管宿昔の規画計図を秘め慶勝の帷幄に参し、苦心惨憺朝幕の間に斡旋し遂に幕府の政権返還、王政復古の大号令の実施を見、即ち維新々政府の職員として慶勝は議定、如雲は参与の職に任ぜられ維新創剏の鴻業を翼することゝなつたのである。
 如雲は丹羽、田中、中村等が曩に彼れの傘下に馳せ来れる時、君等年少者が余を援けむとするは余の深く喜ぶ所なるも、之と同時に余は『子』と事を共にする能はずして『孫』と事を共にするを悲むと言へりとぞ、蓋し其意は藩内に如雲と志を共にする老練恰好の輩少なく、孫の如き丹羽、田中、中村等の青年と事を共にするの窮境を吐露せしものにして、大に彼れの心事を諒とすべきである。
 田宮如雲は多年勇気を鼓して国事に尽瘁し意気壮者を凌ぐの概あるも、実は常時最早還暦に瀕し老境に入れるものにして若し尋常一様の生涯に在らしめば已に午睡を貪る一老翁なるべかりしも、学識経験に富み幾多の艱難困厄に堪へ老練円熟せる一事は参与十九名中一人も彼れと比肩すべきものなく、随つて咄嗟の間輦轂の下に民政を掌り安寧秩序を保たしむべきもの、彼れを除きて又他に適任者なく、為に彼れの固辞するに拘らず彼れをして京郡及伏見の民政総裁に補し、事実上彼れを皇城の鎮護に任じたたのである
(中略)
如雲の初めより永く参与の職に止るを欲せざりしも亦故ありである、されど維新々政府創建の際輦轂の下に騒擾を発生せしめざることは、慶勝苦衷の存する所にして如雲も亦深く之を憂慮する所なるのみならず自己が京都在留の間尾張城下の佐幕党を誅滅することは予て如雲の計画する所なれば此二事を全うしたる上初志に従ふことゝし、即ち暫く参与の職に止り後ち之を辞して徐ろに帰藩したのである〉

尾張勤皇派・田宮如雲②

 尾張勤皇派として明治維新の実現に挺身した田宮如雲について、荻野錬次郎『尾張の勤王』(金鱗社、大正11年)は、以下のように書いている。
 [①より続く]〈戊午の変に遭ひてより以来、如雲は厭迫の下に蟄伏して鋭気を養ひ、後ち綏宥を得て或は慶勝の側近に国事を議し、或は出でゝ朝幕間に遊説する等深く皇国の隆興に肝胆を砕き大に将来の活躍を考慮しつゝある折柄、遂に形勢は前項の如く推移して逾々長藩問罪の師を発せらることゝなり、即ち征長総督として前藩主慶勝を起用せらるゝことになつた。
 如雲は初め慶勝をして絶対に其召命を固辞せしめ尚ほ姑く天下の形勢を観望せむとする意志なりしが深思熟慮翻案幾回、此時に際し尾藩たるもの立つて手腕を振ふにあらざれば、慶勝多年の哀懐至誠を世に実現するの機なく又此時立たざるに於ては尾藩の鼎の軽重を問はるゝ怕あり、随つて自己積年の抱負も亦之を実地に行ふに由なきことを慮り、断然慶勝をして征長総督の大命を拝受せしむることに決定したのである。
 されど翻て藩の内情を顧れば、多年の疲弊に依り財用充実せず加ふに人物寥々如雲と志を同うするものに乏しく、其実極めて危殆の有様なりしが、如雲は是等情実の如何に関せず敢然策を決して立ちたのである、而して其策たる戦へは必ず勝ち、和すれは更に大功利を収め、和戦何れにせよ此一挙に由り国内の内訌を一掃し兄弟牆に鬩ぐの跡を絶ち、幕政を革新し政令一途、皇国を安全の地位に置き、外国の軽侮を防ぐを目的とするにあつたのである。
 既にして如雲は和戦両様の用意を蔵し総督慶勝を奉じて出征したのである、先是、吉田松蔭存生中如雲は屡々松蔭の来訪に接して防長の形勢を看取する所あるのみならず、其後の状勢に於ても亦大に得る所あり、這次長藩の進退に就ては一種の興味を有したのである、然るに長藩は大義名分を明かにし服罪の実を示し、大に誠意を披瀝して和を請ひ、総督は之を容れて帰東し速に勅裁を仰がむとせしに、図らずも中途幕府の抗議に遭遇したのである、此無謀なる幕府の処置は如雲をして竟に幕府の済度すべからざるを悟らしめ、最早此上は根本的に幕府を解体し、新たに日本国の政治機関を設くるにあらざれば皇国を泰山の安きに置く能はざることを確信せしめたのである。
 されど形勢は更に一変して長州再征の実行となり如雲は又幽閉の処分を受け新たに厭迫を受くることゝなつた、此時所謂佐幕党なるもの尾藩内に勃興して大に勢力を得、如雲は恰も俎上の肉の如き有様であつた、而かも此時丹羽(賢)、田中(不二麿)、中村(修)等の如き年少者が時事の非なるを慨して窃かに如雲の傘下に馳せ加り、勤王党は是等年少気鋭の輩に依り隠然其勢力を養ふことゝなつた〉

[続く]

尾張勤皇派・田宮如雲①

 
 尾張勤皇派として明治維新の実現に挺身した田宮如雲について、荻野錬次郎『尾張の勤王』(金鱗社、大正11年)は、以下のように書いている。
 〈田宮如雲は尾藩をして明治維新の鴻業を翼賛せしめたる原動力にして、尾藩の先覚者である。
 如雲が原動力となり尾藩をして明治維新の鴻業を翼賛せしめるに至る迄の間、彼れは幾回か迫害と屈辱とを受けたのである、若し尋常慷慨悲歌の士なりせば『君辱臣死』又は『一死報国』等の名の下に奮然死を決すべかりしも、彼れは士の死を決するは義の立つと立たざるとに在りとし、苟も義にして立つに於ては死生は天の命に委かせ義の為に苦楚を甘受するを当然とし、固く義を執りて動かず即ち隠忍自重万難を排して竟に所期の目的を遂行したのである。
 田宮如雲は夙に国家の為に心胆を砕き俗論を排斥し、正義を扶植し後進を誘掖する等、当時藤田東湖と其名声を埓うせしのみならす、如雲が慶勝を支藩より迎へ之を藩主として擁立し、慶勝の信認を得て能く之を輔佐したると、東湖が水戸家の為特に奔走して斉昭を立て、深く斉昭の信認を得て忠誠憂国善く斉昭を輔佐したると、其事蹟の偶然暗合するが如きも亦一の奇遇である。
 初め如雲は幕政の堕落を匡済し時患を拯はむとの大志を抱き、凡庸の藩主を戴きては其志を達成し能はざるを自覚し、支藩松平家より令聞ある慶勝を迎へて本藩の継嗣たらしめむことを企て、一とたびは其計画敗れて挫折したるも、彼れが不撓の努力は遂に再度の機会に於て成功し、即ち慶勝を本藩主として擁立したのである、幾くもなく米艦渡来、尊王攘夷の国論沸騰するに当り、如雲は慶勝をして幾回か時局を収拾するの方策を幕府に提議せしめたのである、藤田東湖は已に安政乙卯の震災に殪れたるも英明なる斉昭は慶勝と提携し幕府の為に侃諤の議を進め毫も屈する所なかつたのである。
 安政戊午斉昭、慶勝は共に井伊直弼の為に幽閉せられ、如雲は径ちに尾張に逐斥せられたのである、其筋の命を含みたる藩吏は如雲を城南御器所の一村荘に屏居せしめ、茲に厳重監禁することゝした、此間に於ける如雲は実に名状すべからざる艱苦を嘗めたれども、之と同時に亦大に修養の功を積みたるものである。
 時は万延庚申の上巳、桜田門外の活劇は早く既に屏居せる如雲の耳に響き来つた、井伊直弼に此事あるは如雲の敢て恠まざる所なるも、幕府善後の処置に関しては頗る寒心したのである、折柄續て水戸斉昭の薨去となり曾て如雲の理想とする尾藩の立場は倍々険悪の雲に薮はるゝ所となつた。
 されど越前に春嶽あり、土佐に容堂あり、薩摩は幕府の為に努力を辞せざる等、如雲は朝幕間尚ほ意志の疏通を見るに有望なることを思ひ、窃かに時運の進展を希図したるに、其間公武一致の標榜の下に皇妹御降嫁の実行せらるゝありて、朝幕間稍々緩和の兆を見むとしたるに、元治甲子に至り忽ち長藩禁闕を侵し所謂蛤門の変はこゝに突発したのである〉

[続く]