「徳川慶勝」カテゴリーアーカイブ

尾張勤皇派・植松茂岳─『名古屋市史 人物編 第一』より

 『名古屋市史 人物編 第一』には、植松茂岳について以下のように書かれている。
 〈植松茂岳、小字啓作、通称は庄左衛門、松蔭・不知等の別号あり。尾張の士小林和六常倫の第二子にして寛政六年十二月十日、名古屋流川の家に生まる。十歳にして父を喪ひ、兄伸弘等と兄弟四人、母北村氏に鞠育せらる。而して薄禄の家、母子五人を養ふに足らず、頗る窮乏を極む。茂岳、人と為り質実にして聴明なり。歳十三の時其算術の師岸上某歿す。依りて代りて其弟子に授く。兄仲弘、和歌を植松有信に学ぶ。時に支配勘定並として江戸詰たり。屡々詠草を送りて添削を有信に乞ふ。茂岳毎に其使をなす。有信の妻伊勢子、一日茂岳と語り、其窮乏を憐み、依りて其家に来り、勤学の傍版木彫刻を学びて生計を助けんことを慫慂す。茂岳悦びて之を母に謀り、即夜有信の家に至り。是より専ら国学と版木彫刻とを学ぶ。
 有信、茂岳の人と為りを愛し、子なきを以て遂に父子の約をなす。居ること五年、有信歿す。茂岳時に年二十なり。伊勢子其半途にして師を喪へるを憐み、和歌山に遣はして本居大平に学ばしむ。大平も亦茂岳を養ひて嗣たらしめむとす。茂岳既に有信と一旦の約あるを以て之を辞し、文化十三年、名古屋に帰りて植松氏を嗣ぐ。茂岳、国史・物語・語学・歌文達せざる所なく、皇道を弘むるを以て己が任となし、其忠誠熱烈言行に溢る、是を以て風を望み、教を請ふ者日に門に満つ。茂岳又江戸及び美濃・信濃・伊勢の諸国に遊び、門人益々進む。鈴木朖(あきら)・丹羽勗(つとむ)・大原寅三郎等、有信と旧故ある者、数々書を当路に上りて、茂岳を起用せんことを乞ふ。天保六年に至り、藩主五人扶持を給して用人支配となし、藩校明倫堂に出でて和学を教導せしむ、八年に至りて、班を進めて明倫堂典籍次座となす。
 天保十年藩主斎温薨じ、幕府田安斎荘をして封を襲がしむるや、藩論沸騰す。茂岳江戸に下り、高須秀之助をして、継嗣たらしめんとして大に周旋する所あり。事成らざりしと雖も、其忠諒にして義に進むの勇なる倍々正義の士の尊信する所となる。弘化二年、切米拾貳石、扶持三口を給ふ。是より先、藩命ずるに尾張志の撰述、古事記・六国史の校正、熟田文庫の建設、大須宝生院古写本の調査等を以てす。茂岳、藩内子弟の教導の傍、是等の事に従ひ、日夜務めて惓まず。嘉永二年、慶勝封を襲ぎ、励精治を謀る。安政元年、諸政を改革し、将に禄制を更めんとし、先づ自ら倹約の範を示す。茂岳、感奮して五年の間其禄を返上せんことを請ふ。人弥々、其忠直無私なるに感ず。二年四月、始めて慶勝に侍講す。是より月に四次奥入をなし、図書を講じ、又和歌を添削す。慶勝、其人と為りを重んじ、遂に国事の顧問に備ふ。茂岳感激して知りて言はざるなく、言ひて行はれざるなし。
 安政四年、明倫堂教授次座に進み、切米拾石を加へらる。五年、慶勝、幕府の譴を受けて戸山の邸に幽閉せらるゝや、茂岳も亦田宮如雲・阿部伯孝・間島冬道等と共に厳譴を受け、俸禄を減じて自宅に幽閉せらる。不知と号するは其幽閉中の名なり。文久二年九月、閉居を解かれ、尋いで職禄を復し、又譜代席に列せらる。翌年、慶勝の参内に扈し、且つ国学の造詣邃きを以て、永く徒格以上となし、三石を加給す。幾もなくして多年子弟の教養に務めたる功を賞し、永世目見以上となし、俸五十俵を元高とし、八拾七俵を給ふ。万延元年、明倫堂教授に進み、百俵を給ふ。慶応三年、明倫堂国学教授となリ、翌年、使番格に進み、明治元年に至り、更に側物頭格に進み、百五拾俵を給ふ。三年九月致仕を乞ふや、隠居料として扶持三口を給ふ。新藩主義宜、亦茂岳を師として優邁至らざるなし。又曽て慶勝に扈して京に入るや、華頂宮博経親王、其学徳を慕ひ、召して古事記を進講せしめたまふ事数次、恩賜頗る豊なり。近衛忠房亦召して講を聴く。明治六年、大講義に補し、翌年、慶勝の召に応じて東京に至る。蓋し宮内省より召さん為なりしが、其高年なるを以て、唯歌を詠進せるのみにして名古屋に帰れり。
 明治九年三月二十日、熱田の寓居に歿す。享年八十三。愛知郡高田熱田神官共有墓地に葬り、豊真菅彦道起根大人と謚す。明治三十六年十一月、特旨を以て従五位を噌らる。
 著す所天説弁・天説弁々之弁・皇国大道弁・鎮国説・父子説・君臣説・夫婦説・愛国一端・御供日記等あり。歌集を松蔭集といふ。茂岳、高木氏を娶りて五男四女を生む。二男有園、五男有経、並に家学を承けて名を著す。門人頗る多く数百人に達し、尾張勤王の士多く其門より出づ。間島冬道・奥田常雄・野呂瀬秋風・西郷暉隆・本多俊民・野村秋足・岡田高穎・田中尚房・千葉葛野・山田千疇・神谷永平・石橋蘿窓・三輪経年・内田成之等最も顕はる。名古屋藩に聘せられて仏国人ムリイ亦就いて教を受けしといふ〉

近松矩弘による同志結集─『子爵 田中不二麿伝』より

 文久二年以降の近松矩弘の動きについて、『子爵 田中不二麿伝』は以下のように記している。
 「文久二年に至つて天下勤王の徒益(ますます)奮起した、我尾藩は佐幕党の為に擁蔽せられ正義の徒進むを得ず、矩弘等悲憤に堪へず、同藩角田久次郎、山崎總右衛門、間島万次郎、梶原小六等と計り奸臣を除き正義を挽回せんことを主張し熱田神宮文庫へ同志を招いた、会するもの八十余名前藩主慶勝をして国事に與らしめ姦を退け正を進めん事等を乞ふの書を裁し相伴ふて成瀬正肥の邸へ至り矩弘首として之を面珍し若し猶予あらば同志の者一同東下して斃而已までの周旋せんと言つた、正肥其過激を戒め且不日之が処分せんことを諾した、因て一同東下の義は暫く中止した、而して此ことを佐幕党の聞く所となつて、熱田文庫の使丁を拘引して、顛末を詰問した、使丁は侠気があつて只和歌の会ありしのみと告げて、其他は言はず久しく獄に繋がれた、又神官林相模守と云ふものは正義を賛助せしを以て謹慎せしめられた、この月正月江戸に至り数日ならずして竹腰等幽閉せられ如雲等は復職し慶勝が国事に與ることゝなつた」

尾張勤皇派・茜部相嘉─『子爵 田中不二麿伝』より

 幕末尾張藩の勤皇に功績のあった人物の一人に茜部相嘉がいる。『子爵 田中不二麿伝』には、茜部について以下のように書かれている。
 「茜部相嘉は藤井六郎治の長男で、文政七年十一月の生れである。伊藤氏に養はれて伊藤三十郎と称し、後茜部伊藤五と改めた、藩の世臣で大番組であつた、蕣園と号し、幼より古典を好み、鈴木朖の学風を慕ひ、植松茂岳を友とした、天保十年藩主後嗣の事起るや、第一に支封高須の世子慶勝を推せしは、伊藤五の説であつた。後、慶勝初めて尾張に入るや、藩政の事務を論列して上書し又海防に関する建議書を出した、嘉永六年十二月清須代官となつた、安政六年慶勝の幽閉に付清須及び北方の人民が動揺せしは、伊藤五の扇動に依るとして、万延元年六月隠居謹慎を命ぜられた、実に金鉄党の主唱者であつた、慶應三年十二月三十日没す、年七十二、白川町光明寺に葬る、著す所、古事記補遺、雅言集、七道説、日本紀補遺、槿桔論、水内神社考、蕣園雑記等がある。後、従五位を贈られた」

尾張勤皇派・阿部伯孝─『子爵 田中不二麿伝』より

 幕末尾張藩の勤皇に功績のあった人物の一人に阿部伯孝がいる。『子爵 田中不二麿伝』には、阿部について以下のように書かれている。
 「阿部伯孝、通称八助、松園と号す、幼児元野恬庵に従ひて業を受け、長じて明倫堂に入りて学び、嘉永五年江戸に於て御側物頭格御儒者となり、弘道館総裁に進み、翌六年正木梅谷に代りて明倫度督学となつた。藩主慶勝の蟄居となるや、田宮如雲、植松茂岳等と共に伯孝も亦幽閉の身となつた。五年後免ぜられて復職し田宮如雲と共に王事に勤め藩政を釐革した、慶勝二年瀬戸陶祖碑文を選した、同三年七月歿す、年六十七、明治三十六年従五位を贈らる、伯孝慷慨にして気節を貴び学者と云ふよりも寧ろ志士であった」

日米修好通商条約をめぐる徳川慶勝の立場─中根雪江『昨夢紀事』より

 越前藩士・中根雪江が藩主・松平慶永の事歴を記録した『昨夢紀事』には、嘉永六(一八五三)年六月のペリー来航から安政五(一八五八)年七月に至る間の重要記事が収められている。慶永側の立場に立って書かれているが、史料的価値は高い。
 安政五年四月三日、日米修好通商条約をめぐる慶永と徳川慶勝のやりとりは、以下のように記されている。
 
 「尾公ト討論 一、四月三日今朝辰半刻比より尾張殿へ御入あり御対面の上追々御論談に及はれしに尾張殿の御説は 天朝とは君臣の義あり 幕府とは父子の親あり国家艱難の秋に当つては父子の親を棄て君臣の義は立へき事なれは当今幕議に随ひては 叡慮にも不応れは今となりては専ら
天朝へ奉仕の外はなし徳川家康を失はゝ又得る人あるへし其時こそ天下は治平に属すへけれなといへる暴論を発し給ふ故 公は 神祖の三親藩を被置たるは宗室を固くし給ふ御遠略なれは夫か首坐なる尾張殿の御事なれは紀水の二藩と共に宗室の羽翼となりて幕府を扶けて
天朝を御推戴ありて夷狄の難をも攘はるへきを 神祖の貽謀にも背かせ給ひて宗室の危きをも扶け給はす惟 天朝へ忠を尽さんと宣ふは守株の孤忠にして真忠にあらさる由を激切に論究し給へと尾公曾て同し給はねはさらは当今の神州の利害をも論せす只管 叙慮の侭に征夷の任を立られんに指当り戦闘の御用意は御充分侯裁と問はせ給へは其心構は更になけれと唯大和魂ありと宣ふ故左候はゝ其大和魂もて徳川家の御後見なれ御執権なれおほさん様にて宗室に御成り代りあつて尊王攘夷の御功業を立られない御忠孝共に全かるへきものをと論し給ふに不才にして当り難きとの御遁辞にて更に帰宿なき御論故猶種々に御講究あつて漸くに思召通り閣老へ御談しあるへきの御結句にて末過て御退散なり御帰殿の上尾張殿如斯固陋にては諸侯を合せ 宸襟を安んし奉る事難しと御歎息を極められたり

徳川慶勝の隠居謹慎─『名古屋と明治維新』より

●「幕義に従っては叡慮に反する」
 嘉永六(一八五三)年六月のペリー来航からまもなく、慶勝は斉昭へ宛てた書簡で、異国船の即時打ち払いを主張した。
 しかし、翌七月に慶勝が幕府の諮問に応じて提出した建白書では、アメリカの要求に対しては、手荒な対応は避け、信義を正してほどよく断るべきだとの考えを示した。ただし、万一アメリカが承服せず、攻め寄せてきた場合には、国力を尽くして一戦を交えることも致し方ないとした。また、「ご決着」は「天朝」へ奏達した上でなされるべきだと説いた。
 斉昭は、安政元(一八五四)年三月十日、海岸防禦筋御用を辞任した。慶勝が江戸城へ登城し、老中阿部正弘をはじめとする幕閣に面会し、詰問状を突き付けたのは、その直後の四月一日のことであった。慶勝は、外国勢力に対する幕府の弱腰を痛烈に批判し、斉昭の登用を強く要求した。ところが、幕閣たちは慶勝の要求を受け入れようとはしない。そこで、慶勝は同月十一日、十五日と立て続けに登城し、幕閣を繰り返し詰問した。
 これに対して、幕府は、慶勝の幕閣への謁見謝絶、外様諸大名への面会遠慮を命じる内諭を報いた。これに対して、慶勝と幕閣の間を取り持ってきた若年寄の遠藤胤統(たねのり、慶勝の父方の叔父遠藤胤昌の養父)は、正論とはいえ「御激論」は避けるべきであり、自身が尾張藩の正統(生え抜き)ではないことを自覚すべきだと慶勝をたしなめた(「嘉永・安政期の尾張藩」)。
 同年七月、慶勝は国元に戻り藩政改革に取り組もうとした。そこで早期の帰国を幕府に願い出た。ところが、幕府はこれを認めず、慶勝は翌安政二年三月に帰国した。 Continue reading “徳川慶勝の隠居謹慎─『名古屋と明治維新』より” »

徳川慶勝の藩主就任─『名古屋と明治維新』より

●押し付け養子に抵抗した金鉄党
 以下、羽賀祥二・名古屋市蓬左文庫編著『名古屋と明治維新』に基づいて、徳川慶勝が尾張藩第十四代藩主に就任する過程について整理しておく。
 慶勝は、高須松平家十代義建(よしたつ)の二男として、文政七(一八二四)年三月十五日に生まれた。
 高須松平家は、尾張藩二代藩主の光友が二男の義行に作らせた分家だが、義建の父義和(よしなり)は、水戸藩六代藩主の治保(はるもり)の二男である。また、慶勝の母もまた、水戸藩第七代藩主治紀(はるとし)の娘である。つまり、慶勝の血筋は水戸徳川家とつながっていたということである。水戸藩第九代藩主の斉昭は、慶勝の叔父にあたる。
 尾張藩では、九代藩主・宗睦(むねちか)が寛政十一(一七九九)年十二月に没し、初代義直から続く男系の血統が絶えた。
 尾張藩十代藩主・斉朝(なりとも)は、徳川十一代将軍家斉(いえなり)の弟・一橋治国(はるくに)の息子である。ここで、血縁関係による大名統制強化を意図した家斉の意図に注目する必要がある。家斉には、五十三人の子供(息子二十六人、娘二十七人)がいた。昭和女子大学講師の山岸良二氏によると、家斉には正妻である第八代薩摩藩主、島津重豪(しげひで)の娘の広大院を筆頭に、側室が二十四人、彼女らの使用人として働く女性の中からも「お手付」がさらに二十人以上いたとされる。
 文政十(一八二七)年に尾張藩第十一代藩主に就いた斉温(なりはる)は家斉の十九男、天保十(一八三九)年に第十二代藩主に就いた斉荘(なりたか)は家斉の十二男であり、家斉の実父・一橋治済(はるさだ)の五男・田安斉匡(なりまさ)の養子である。そして、弘化二(一八四五)年に第十三代藩主に就いた慶臧(よしつぐ)は、田安斉匡の十男だ。つまり、尾張藩では約五十年間、四代にわたって、将軍家の系統からの養子が藩主を独占していたのである。
 この間、第十一代斉温が死去した天保十(一八三九)年三月、即日斉荘が後嗣に決まった際、大番組や馬廻組など、国元の中堅藩士らの不満が一気に高まった。
 同年四月、馬廻組の大橋善之丞は上書を提出し、水戸家の先例を引きながら、尾張家が押し付け養子を受け入れれば、家中の「武威」が失われると嘆いた。さらに、田安家から「付人」が多く尾張家に入れば、家中の出費が嵩み財政に悪影響を及ぼすとした(木村慎平「嘉永・安政期の尾張藩」『名古屋と明治維新』所収)。
 こうした不満が、慶勝擁立運動を支えていたのである。同年六月十四日には、四十七名が連署で竹腰正富に上書を提出している。連署に名を連ねた国学者の植松茂岳は、六月二十二日に慶勝擁立を周旋するために江戸に出発している。このときの慶勝擁立派が「金鉄」と呼ばれるようになっていく。
 木村慎平氏は、植松宛の書簡にある「養君の件が真の目的なので、火中までも願い出るべきだと金鉄に心懸けている人もおります」を引いて、「信念や決意を曲げない意志の固さを表したものであろう」と書いている。
 ただ、慶勝擁立運動は、まもなく急速にしぼんでいった。斉荘擁立を主導した成瀬正住が蟄居となり、これ以上幕府と事を構えるのは好ましくないという判断もはたらいた。さらに、かつて幕府による謹慎処分を受けたまま死去した七代藩主・宗春が赦免され、慶勝擁立派は不問に付されたため、騒動は一旦は収束した。
 その後、弘化二(一八四五)年、斉荘は没し、第十三代藩主に就いた慶臧も嘉永二(一八四九)年に没した。江戸の年寄衆は将軍家近親から跡継を探そうとしたが、人材に乏しく、御三家同士の養子嗣の前例もなかったため、跡継は高須家当主の義建か慶勝にしぼられていった。結局、義建が五十一歳と高齢であったことから、慶勝継嗣が決定したものと考えられる。
 塚本学・新井喜久夫著『愛知県の歴史』では、「嘉永二年(一八四九)、慶臧が病死すると、またしても幕府は斉荘の弟への相続をはかった。これにたいして、いまや一部の町人や村々の名望家たちをもふくんだ金鉄党の反対運動がおこなわれた」と書いている。

尾張藩・徳川慶勝による楠公社造立建議

 幕末の尾張藩では、楠公崇拝の気運が高まっていた。こうした中で、文久二(一八六二)年、同藩の国学者である植松茂岳が、現在の中区天王崎町の洲崎神社境内に、楠公、和気清麻呂、物部守屋を合祀して三霊神社と称する社を設けた。
 一方、慶応元(一八六五)年九月には、尾張藩士表御番頭・丹羽佐一郎が、東区山口町神明神社境内に楠公を祀りたいと寺社奉行所に願い出て、許可を得た。こうして、神明神社に湊川神社が設けられた。慶応三年には、佐一郎の子賢、田中不二麿、国枝松宇等、有志藩士発起の下に改築されている。
 その勧進趣意書は次のように訴えている。
 「夫れ人の忠義の事を語るや、挙坐襟を正し汪然として泣下る。是れ其の至誠自然に発する者、強偃する所有るに非るなり。楠公の忠勇義烈、必ずしも説話を待たず、其の人をして襟を正し、泣下せしめるものは則ち、唱誘の力なり。今公祠を修し、天下の人と一道の正気を今日に維持せんと欲す。あゝ瓶水の凍、天下の寒を知る。苟も此に感有るもの、蘋繁行潦の奠、その至誠を致し、以て氷霜の節を砥礪すべし」(原漢文、『湊川神社史 景仰篇』)。
 こうした藩内の楠社創建を経て、慶應三年十一月八日、尾張藩藩主・徳川慶勝は、楠公社造立を建議した。将軍徳川慶喜が大政奉還を願い出てから二十日あまりのタイミングである。 Continue reading “尾張藩・徳川慶勝による楠公社造立建議” »

浅見絅斎の謡曲「楠」と尾張勤皇派

 慶應三年十一月、尾張藩の徳川慶勝は楠公社造立を建議した。その背景には、尾張藩における楠公崇拝の一層の高まりがあった。それを牽引したのが尾張の崎門学派である。森田康之助の『湊川神社史 景仰篇』によると、以下に掲げる浅見絅斎の謡曲「楠」は、崎門学派蟹養斎門下の中村習斎の家に伝わっていた。『子爵 田中不二麿伝』には、「楠」が掲げられている。

 正成、その時、肌の守りを取出だし、是は一とせ都攻めの有りし時、下し給へる令旨なり、よも是までと思ふにそ、汝にこれをゆづるなり、我ともかくも成ならば、芳野の山の奥ふかく叡慮をなやめ給はんは、鏡にかけてみるごとし、さはさりながら正行よ、しばしの難を逃れんと、家名をけがすことなかれ、父が子なれは流石にも、忠義の道はかねて知る、討ち漏らされし郎等を、あはれみ扶持し、いたはりて、流かれ絶たせぬ菊水の、旗をふたゝなびかして、敵を千里に退けて、叡慮を休め奉れ。

 この「楠」を習斎門下の細野要斎が写し、富永華陽に贈った。華陽はそれを田中寅亮(田中不二麿の父)に示した。寅亮は、楠公崇拝者で知られ、楠流兵法にも精通していた。寅亮の弟でかつ門下生の神墨梅雪(富永半平)は、「八陣図愆義」二十九巻の著し、熱田文庫に奉納していたという。寅亮はまた、楠公の旗じるしの文「非理法権天」の文字の意義を解説した刷物を知友に配ったこともあったらしい。
 そんな寅亮であったから、絅斎の「楠」に大変感動し、要斎に跋を請うた。安政三年に、名古屋市中区門前町にある長福寺は、この要斎の跋文を付して、絅斎の謡曲「楠」を一枚刷で発行している。要斎の随筆『葎(むぐら)の滴』には、以下のように書かれている。
 〈(安政三年)五月十四日午後、田中寅亮来臨して曰く、往時君が蔵せし浅見(絅斎)先生作の楠の謡曲の詞を写して珍玩せしが、音節に伝写の誤りありて謡ひ難かりしを、甲寅の年(安政元年)東武に官遊して金奏秦安茂に改正せしめ、一本を写して高須(義建)少将の君へ呈せしに、御手つから鼓の手を朱書して賜へり。こゝに於て又先哲叢談中の先生の伝を後に加へて邦君(徳川慶勝)へも献りしに、邦君も殊の外賞し給ひ、御酒宴の時にはしばしば楠を謡へとて歌はしめ給ふ。この謡は世に流布せざれば人未だこれを学ばず、助音するものなかりきと、金春の声律を協(ととの)へし一冊を示し、又毎年五月二十五日は楠河州(正成)の忌日なれば、曽て長福寺に納めし楠氏の肖像(田中氏往年志貴山に蔵せしを、写して同寺に納む)を掲げて、同好の士相会して神前に楽を奏して遺徳を敬仰す〉

尾張の勤皇志士・丹羽賢①─荻野錬次郎『尾張の勤王』より

 荻野錬次郎『尾張の勤王』(金鱗社、大正11年)は、丹羽賢について、以下のように記している。
 〈内には燃るが如き雄志を抱き、表には冷灰も啻ならざる静寂を粧ひ、竟に痼疾の為に殪れたる丹羽賢の薄命は、個人として深く之れに同情の涙を禁じ得ざるのみならず、国家又は社会としては彼れの早死を一大損失として歎惜せねばならぬ。
 丹羽賢は倜儻駿邁にして気節高く、時に或は慷慨激越の風あるも、而かも識見卓絶、実に忠誠愛国の士たりしこと、彼れを知るものゝ斉しく認むる所にして之が代表の讃とも見るべきは、その友鷲津毅堂が華南小稿に序する所にて明瞭である。
 嗚呼、英雄首を回らせば即ち神仙である、一位老公(尾張旧藩主徳川慶勝)が『回首即神仙』の句を彼れに与へられたるは、即ち彼れを英雄と認められたるに因るものであらう、然り彼れは実に天才的の人にして英雄の資質を具備せるものである、されど天彼れに年を仮さず、彼れをして大に英雄的手腕を振ふの機を与へざりしは、まことに遺憾である。
 丹羽は幼時国枝松宇に親炙して忠孝節義の薫陶を受け又文久二年父氏常の祗役に従つて江戸に出で幕府昌平黌に学ぶ(年十七)。松本奎堂の知遇を得たるは此時にして奎堂を名古屋に迎へ学塾を開きて国史を講じ、尊王攘夷の説を鼓吹せしめたるは即ち其後のことである、又松本暢等の志士と親善となりしも当時のことである。
 元治元年征長の役父氏常が総督に扈従するに方り丹羽は父に従つて広島表に出陣した(此時丹羽は白木綿にて陣羽織を製し其背に『肯落人間第二流』云々の一詩を大書して著用した、人皆其異彩に驚きたりと言ふ)其後丹羽は田中不二麿、中村修等と共に尾張勤王の巨魁田宮如雲の幕下に参し、東奔西走勤王の事に尽し明治維新の際田宮、田中等と共に徴士に選抜せられ尋いて新政府の参与と為り、明治維新の創業に貫献すること少なからざるものである〉

[続く]