「高山畏斎」カテゴリーアーカイブ

高山畏斎と留守希斎─酒田湖仙編著『継志堂物語』②

『継志堂物語』(酒田湖仙編著、八女市上妻青年団文化部発行、昭和31年12月)の記事にしたがって、筑後崎門学発展に尽力した高山畏斎と留守希斎の出会いについて紹介する。
畏斎が留守の著作を読み、直接留守の指導を請うために大阪を訪れたのは、宝暦八年頃のことであった。まず、畏斎は宿に落ち着いた。そこでのやりとりを『継志堂物語』は次のように描写している。
〈宿主は先生の風体をジロリと見廻し、
「九州から何用あつて、大阪へ来られたか」と聴きました。すると先生は、
「留守友信先生のもとへ入門して、勉学せんが為である」
と話されました。それで主人は更に、
「では上下をお持ちか」ときゝました。
上下とは羽織、袴のことで、名高い先生の塾に入門する時には、羽織、袴が必要でありました。路金もやつとの事で大阪へ来た先生が、そんなものを持つている訳がありません。そこで先生が「持たない」と言はれると、主人は先生の顔を下からのぞき込むかの様にして、「では何処ぞなりと、借りて進じよう」と、付足しましたがしかし、衣装を借りれば、又金が要る、其の様な余力もない先生は平然として、
「あたしは、この儘の絣でよかろう」
と言はれました。洗ざらしの久留米カスリを着た先生が胸を大きく張つて、大阪の街を闊歩されて、留守希斎(友信)先生の門をたゝかれたときには、みな気狂ひが来たと言つて、大騒ぎしました。しかし先生はその様な事には無頓着で、門弟達に来意を告げますと、
「田舎ツペが何を言うか」と、ますます小馬鹿扱いにして、
「九州の鐘馗が来た、まるで絵に書いた鐘馗のようじや」と言つて冷笑しました。
門前の騒がしい声に、表まで出て来られた留守希斎先生は、絣姿の田舎の青年、畏斎先生をヂツと見てゐられたが、どう思はれたかそのまま、スーツと自分の書斎へ通された。驚いたのは門弟達、希斎先生は括嚢と云つて、袋の口をくくつてゐるようで、世間的に名をもとめない変つた方だが、これ又物好きな先生だとばかり、門弟達は面白半分、後からついて行きました。どの様な事になるかと、息をころして見ておりますと、希斎先生は静かに経書を取り出し、畏斎先生の前へ置かれました。
ニツコリうなづかれた先生は、此れを受取り、大学の一節(明明徳新民止至善)を堂々と読みあげられた、解釈の時は又自分で会得されている意見を以て、前人未発の講義を明快に説きだされたのであります。身を顫(ふる)はすほどの烈しい語気は正に、体内の血管があふれるかと思われるばかりでありました。
これを聞いた列座の門弟一同、水を打つた様に静まり、先刻まで
「九州の寒生、其の状鐘馗に似たり、彼何を学ばんと欲するか」
と嘲つてゐたのが、すつかり感歎してしまひました。
それ以来、門士達は畏斎先生に敬服して仲よく交際し勉強にいそしんだといゝます。
又希斎先生もとくに、力を入れられ、門弟の一人とされました〉

明治政府による「大和魂」の殺戮─『藻潭餘滴─古松簡二先生逸詩』井上農夫跋

明治政府が遅くとも明治四年には維新の精神を裏切ったことは、筑後の勤皇志士・古松簡二(一八三五~一八八二年)の行動によっても知られる。
古松は筑後崎門学の先人・高山畏斎の流れをくむ会輔堂に学び、文久三(一八六三)年に脱藩上京、国事に奔走するようになった。元治元 (一八六四)年三月には水戸尊攘派 (天狗党) の挙兵に参加している。慶応二年には幕兵に捕えられ、三年間獄につながれた。
そして、維新後の明治四年、小河真文らの同志とともに維新の精神を裏切る明治政府転覆を計画して捕らえられ、終身禁獄の宣告を受け、東京石川島の獄に服役した。明治十五年(一八八二)六月十日、獄中でコレラ感染して死去した。
大東亜戦争下の昭和十九年二月、古松の逸詩に小伝などを加え『藻潭餘滴─古松簡二先生逸詩』が刊行された。藻潭とは古松の号である。同書編纂には筑後郷土史の大家・鶴久二郎と、井上農夫が協力した。井上は、三上卓先生の『高山彦九郎』(昭和十五年刊)著述に全面的に協力した人物であり、権藤成卿の流れをくむ思想家、郷土史家である。『藻潭餘滴』序には、井上が頭山満翁門下であり、宮崎来城の高弟でもあったと記されている。
同書跋文において、井上は明治政府が明治四年以来、維新の原動力となった大和魂を殺戮してきたと次のように批判している。
〈(古松)先生の物に拘泥せず洒々落々たる襟胸と真贄熱烈なる憂国の至誠にひしひしと感慨胸をうたれるものがある。先生入獄以来獄死に至る十一年間は誠に東洋的政道と西欧模倣政治思想との激烈なる闘争の時期であつた。先生がそれによつて命を殞された明治四年事件を皮切りとして十年の西南戦争を筆止めにするの幾多の国事犯事件は幕末初期勤皇家の純誠なる道統を承継いだ無数の「大和魂」の殺戮史である。
頭山翁も云はれる如く明治十年までに日本の大木が皆切り倒されて、其後の日本は宛かも神経衰弱みたいに、左によろめき右に傾むき、ふらふら腰の情無い有様になつたのである。古松先生も亦、頭山翁の所謂大木の一人であること勿論である〉(原文カタカナ)

酒田湖仙編著『継志堂物語』①

筑後崎門学発展に尽力した高山畏斎の伝記として知られるのが、『継志堂物語』(酒田湖仙編著、八女市上妻青年団文化部発行、昭和31年12月)である。継志堂とは、畏斎の私塾「高山塾」を継承する形で、彼の門人たちが設立した塾である。
同書には、筑後崎門学の系譜も掲載されている。

『稿本八女郡史』「文学列伝」①

『稿本八女郡史』には、「勤王志士伝」とともに「文学列伝」という括り方で、学問的功績のあった人物の列伝を収めている。
合原窓南を筆頭に、高山畏斎、高山茂太郎、後藤要助、古賀貞蔵、今村直内、佐野質斎、本荘星川、小川柳など崎門の学統を継いだ人物も含まれている。

以下、楠本碩水編『崎門学脈系譜』(晴心堂、昭和15年8月~16年9月)により、合原窓南と高山畏斎の系譜を示す。

高山畏斎の学統─『近代日本における中学校教育成立に関する研究』より

高山畏斎の流れをくむ継志堂、会輔堂、川崎塾の経過について、新谷恭明氏の博士論文『近代日本における中学校教育成立に関する研究 : 中学校教育の地方的形成と統合』(平成七年)に基づいて整理しておく。
高山畏斎は手習いを学んだ後、村の医師である牛島守善に漢学の手ほどきを受け、その後独学で学問を続けた。そして三十歳を過ぎて大坂に出て、闇斎学者である留守希斎に入門した。そして、天明三(一七八三)年、久留米藩に抜擢登用されたが、翌年志半ばで病死した。
畏斎は晩婚であったため、その子茂太郎はまだ幼く、彼の遺塾はその弟子たちが交替で会主を務めて維持した。嫡子茂太郎は幼少であったため高弟の古賀要蔵が養育することとした。
この間、畏斎の学問を継承しようとしたのが、畏斎のみならず、崎門正統派の西依成斎に学んだ今村竹堂(直内)であった。新谷氏は次のように書いている。
〈今村直内は訳あって父母とともに母の実家(上妻郡新庄組大庄屋矢賀部氏)に身を寄せていたが、「幼にして穎敏、長じて高山金二郎に師事し、其高足たり、金二郎歿するに臨み、京師に遊び、西依儀兵衛(成斎)に師事せんことを勧む」とはじめは高山金次郎に学問の手ほどきを受けた。そして金次郎の勧めで京都の西依成斎(闇斎学)の門に学ぶことになった。母の実家である矢賀部氏の当主矢賀部良八もまた高山金次郎の門弟で…今村直内が業を修めて帰国すると、この矢賀部良八は自宅に私塾会輔堂を開き、従兄弟今村直内を堂主としたのである。しかし、今村直内は文化二年四十三歳で早世した。……今村直内の歿後はしばらく会輔堂は開業されなかったのである〉
その後、茂太郎の実力も久留米藩内において評価されるようになった。ところが残念なことに茂太郎が病気となり、自ら生計を立てることが困難となった。そこで、文化十三(一八一六)年、塾の一部を役人に貸し付けて、その席料を茂太郎の生活費とすることとした。当時の塾の筆頭世話人が本庄星川(本庄一郎)であった。新谷恭明氏は、「この措置によって茂太郎の当面の生活の保障はなされたが、継志堂の教育活動は中断せざるをえなくなったと考えてよい」と書いている。
こうした中で、畏斎の学問の命脈を保ったのが、本庄星川の川崎塾であった。新谷氏は、本庄について次のように記している。
〈彼の父清助は高山金次郎の門弟の一人であり、金次郎歿後に継志堂を創設するに際してもその発起人に名を連ねている。本荘一郎は十一歳の時に高山茂太郎に従って肥後に赴き多くの学者にあっている。また十九歳の時には今村直内に従って再び肥後に旅をしている。言うなれば本荘一郎は継志堂、会輔堂いずれとも深くかかわりながら学問的な成長を遂げたといえる。そして昌平黌諸生寮に学び、帰国後は上妻の有力な在村学者として活躍していた。そして文化十四年に山内村に私塾川崎塾を開いたのである〉
その後、本庄は天保八年には明善堂助教にのぼりつめたが、江戸での勤務を命じられて、川崎塾の維持が困難になった。そこで天保九年、牛島益三を堂主として継志堂を復興させたのである。ただ、継志堂の資産継承問題があり、塾舎を建てて継志塾を再興したのは、天保十四(一八四三)年のことである。さらに本庄は、弘化元(一八四四)年には、会輔堂を再建して高橋素平(高橋嘉遯)に運営させることとした。

高山彦九郎と久留米⑥─三上卓先生『高山彦九郎』より


●高山畏斎の学問を継いだ「継志堂」
高山彦九郎は、寛政三(一七九一)年十一月に、上妻郡津江村(現八女市津江)の「継志堂」を訪れている。三上卓先生は、この訪問について次のように書いている。
「飄然として此地を訪れた先生は、同塾及び(高山)畏斎の高弟の一人たる郷士牛島毅斎の家に宿つて、畏斎の高弟達と会談し、尊皇の大義を提唱し、毎夜屋上に登つた天文を観測したと伝えられる」
このとき彦九郎は、「筑後の文武は上妻にあり」と賛嘆したとも伝えられている。
継志堂は、崎門の高山畏斎(金次郎)の私塾「高山塾」を継承する形で、彼の門人たちが設立した塾である。畏斎は崎門の三宅尚斎派の留守希斎に学んだ。また、三上先生は、畏斎が「垂加学を長峡蟠龍に受けた」と書いている。
畏斎は、「人は勉強しなければだめだ。学問とは、生命の理、日常の努め、古今治乱興亡の事跡など、何もかも知り尽くしてその知識を活用することである。書物にとらわれたものでなく、生きた学問をせよ」と教えていたという。
天明七(一七八七)年に来遊した仙台の碵学志村東蔵が、畏斎に対する門人たちの追慕の情の厚さに感じ、「継志堂」と命名したという。その後、畏斎の門人達は、八幡村の会輔堂(今村竹堂)、黒木の楽山亭(古賀貞蔵)、津ノ江および忠見の三省堂(牛島毅斎のち川口省斎)を設け、崎門の学風を広めた。
ここで特に注目されるのが、今村竹堂が畏斎に学んだだけではなく、崎門正統派の西依成斎にも学んでいたことである。そして、今村竹堂の長女と上妻郡溝口村の医師清水濳龍の間に生まれたのが、明治四年の久留米藩難事件で終身禁獄の宣告を受けた古松簡二(清水真郷)(☞参照:古松簡二①─篠原正一氏『久留米人物誌』より)である。