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高山彦九郎と久留米⑥─三上卓先生『高山彦九郎』より

 
●高山畏斎の学問を継いだ「継志堂」
高山彦九郎は、寛政三(一七九一)年十一月に、上妻郡津江村(現八女市津江)の「継志堂」を訪れている。三上卓先生は、この訪問について次のように書いている。
 「飄然として此地を訪れた先生は、同塾及び(高山)畏斎の高弟の一人たる郷士牛島毅斎の家に宿つて、畏斎の高弟達と会談し、尊皇の大義を提唱し、毎夜屋上に登つた天文を観測したと伝えられる」
 このとき彦九郎は、「筑後の文武は上妻にあり」と賛嘆したとも伝えられている。
 継志堂は、崎門の高山畏斎(金次郎)の私塾「高山塾」を継承する形で、彼の門人たちが設立した塾である。畏斎は崎門の三宅尚斎派の留守希斎に学んだ。また、三上先生は、畏斎が「垂加学を長峡蟠龍に受けた」と書いている。長峡蟠龍とは、熊本藩士の井沢蟠龍のことだと考えられる。蟠龍は、江戸で垂加神道を学び、『広益俗説弁』『武士訓』『神道天瓊矛記』などの著作を残した人物である。
 畏斎は、「人は勉強しなければだめだ。学問とは、生命の理、日常の努め、古今治乱興亡の事跡など、何もかも知り尽くしてその知識を活用することである。書物にとらわれたものでなく、生きた学問をせよ」と教えていたという。
 天明七(一七八七)年に来遊した仙台の碵学志村東蔵が、畏斎に対する門人たちの追慕の情の厚さに感じ、「継志堂」と命名したという。その後、畏斎の門人達は、八幡村の会輔堂(今村竹堂)、黒木の楽山亭(古賀貞蔵)、津ノ江および忠見の三省堂(牛島毅斎のち川口省斎)を設け、崎門の学風を広めた。
 ここで特に注目されるのが、今村竹堂が畏斎に学んだだけではなく、崎門正統派の西依成斎にも学んでいたことである。そして、今村竹堂の長女と上妻郡溝口村の医師清水濳龍の間に生まれたのが、明治四年の久留米藩難事件で終身禁獄の宣告を受けた古松簡二(清水真郷)(☞参照:古松簡二①─篠原正一氏『久留米人物誌』より)である。