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応変隊①─篠原正一氏『久留米人物誌』より

 篠原正一氏の『久留米人物誌』に基づいて、応変隊について紹介する。
●佐々金平の願書により創設
 〈応変隊の設立─「水野正名翁伝」に、
「正名翁は、明治元年五月応変隊を組織し、水野又蔵(正剛)を隊長となす。従来の御殿前調練を京隈練兵場に移し(五月末)南薫別邸を破却して、その用材を以て、応変隊屯営を建設す。十月初旬、応変隊は東京に進発し、次で箱館戦争に参加し、殊功ありし。明治二年三月二十一日より、応変隊屯所に於て、農兵調練を始む。九月兵制を改め、五大隊を置く。兵士二百六十名、大隊長以下付属七十名、大砲四門、砲隊三十二名、総員三百六十二名を一大隊とす、中隊八十名、小隊四十名、各隊長以下付属あり。二小隊を以て一中隊とし、二中隊を以て一大隊とす。総て英式なり。又応変隊千人を置き、これを九番隊に分ち、隊長以下付属を置くこと本隊と同じ。」
 とある応変隊は、箱館戦争従軍の筑後隊ただ一人の戦死者である佐々金平の願書によって、水野正名が設立した軍隊である。
 佐々金平は、
 「方今形勢、朝敵未だ滅せず候えば、何時御出兵相成可きやも測り難し、時々正兵のみ御繰り出しに相成り候ては、第一御手許の御備も手薄く相成り申すべく、且つ莫大の御失費も相立ち候義に付き、御家中在町に限らず、御国中士庶の差別なく、子弟の分強壮有志の者を以て、奇兵御組み立に相成り度く存じ奉り候。然る時は養兵の費も滅少致し、殊に有志の者共に候えば、同心戮力、御国家の御為に死力を尽し候は必然の義にて、大急務の御事と存じ奉候。何卒私どもに奇兵係り仰せ付けられ候はば、必死を以て尽力仕るべく存じ奉候。此段懇願奉り候。」 (「佐々真武伝」藤村直之助著)
と願い出た。これにより佐々金平はその編成を命ぜられた。明治元年五月二十三日に編成なの、その隊長には水野正名の末弟水野又藏(正剛)、参謀には佐々金平が就任した。
 応変隊は久留米藩正規の軍隊ではなく、極言すれば水野正名の私兵ともいう性格の軍団であった。応変隊の行動は功罪相い半ばした。編成後間もなく応変隊は同年九月二十四日、急に東京出張を命ぜられ、東京でさらに北海道に拠る榎本武揚軍討征の箱館戦争参戦を命ぜられた。堀江三尚が総督となり、佐々金平が参謀兼軍監となって、松前城を攻略し、ここで佐々金平は壮烈な戦死を遂げたが、ついに敵の本拠五稜郭を陥落させる武勲を立てて凱旋した。しかし、応変隊員は武士ばかりでなく、町方・在方の庶民も加えられた軍団で、その隊員の中には不逞(けしからぬ)の徒も交っていて、勢いにまかせて乱暴狼藉を働いたので、後には蛇蝎のように嫌われ、かつ恐れられた。〉

☞[続く]