「維新」カテゴリーアーカイブ

尊皇斥覇の発火点─竹原の唐崎家と頼家

 令和4年7月、広島県竹原市を訪れた。山崎闇斎を祖とする崎門の精神を体現した唐崎赤斎(常陸介)の魂を訪ねるためだ。もう一つの目的は、頼山陽の祖先の足跡を把握すること。
 寛政5(1793)年6月、赤斎の盟友・高山彦九郎が久留米で切腹。赤斎は彦九郎 の魂を受け継いで尊皇斥覇の運動を続けたが、大きな壁にぶつかったのだろう。寛政8(1796)年11月16日、長生寺を訪れ、先祖の墓前で切腹した。動機を尋ねられた赤斎は「聊か憤激のことあり」とのみ応え、絶命したという。 まず竹原駅から市立竹原書院図書館に向かい、崎門の金本正孝氏による赤斎研究書や『唐崎常陸介資料集』などを閲覧、複写。
 次に礒宮八幡神社に向かう。もともとは建久5(1194)年、鎌倉の幕臣後藤兵衛実元が、宇佐八幡宮の分霊を後藤家の守護神として勧請し、後藤家に鎮祭したのが始まり。後藤実元の没後、地元の人々により現在地(田ノ浦一丁目6-12)の南西方面の鳳伏山麗に社殿を建てて祀ったとされる。万治元(1658)年に現在地に遷座したのが、赤斎の高祖父・唐崎正信だ。正信の息子の定信は山崎闇斎の門人である。
 生前、赤齋は尊皇斥覇の精神を鼓舞するため、境内の千引岩に、文天祥の筆になる「忠孝」ニ文字を刻した。この「忠孝」の二文字こそ、定信が闇斎に自ら織った木綿布を贈った返礼に、闇斎から授けられたものだった。
 礒宮八幡神社には赤斎唐崎先生碑が建っている。題額の四文字「首向宮闕」は赤斎の遺墨。碑文は徳富蘇峰、書は上田鳩桑。
 建立されたのは昭和28年8月10日。建設者として、後に総理を務める池田勇人ら七人の名前が刻まれているが、中心人物は竹原の長老吉井章五だ。吉井のほか、崎門の内田周平翁らが関わった、建立に至るドラマについては稿を改めたい。
 礒宮八幡神社を後にし、赤斎が切腹した長生寺に赴き、墓前で赤斎の無念に思いを馳せた。

唐崎赤斎

礒宮八幡神社
礒宮八幡神社
礒宮八幡神社
礒宮八幡神社
忠孝碑(礒宮八幡神社)
忠孝碑(礒宮八幡神社)
赤斎唐崎先生碑(長生寺)
赤斎唐崎先生碑(長生寺)
長生寺
長生寺
庚申堂(長生寺)
庚申堂(長生寺)
唐崎赤斎墓
唐崎赤斎墓

梅田雲浜先生墓参(令和2年10月18日、浅草海禅寺)

 令和2年10月18日、崎門学研究会の有志で浅草海禅寺に赴き、梅田雲浜先生の墓参を行った。
雲浜先生は幕末尊攘派志士の領袖であり、安政の大獄で斃れた。今年で没後161年。
崎門学研究会の折本龍則代表が雲浜先生の『訣別』を墓前にて奉納した。

第1回『天皇親政について考える勉強会』(崎門学研究会主催)

令和2年10月18日、都内で第一回『天皇親政について考える勉強会』(崎門学研究会主催)が開催された。同研究会の折本龍則代表が、「天皇親政と天皇機関説の狭間で」と題して発表した。以下、当日配布されたレジュメを転載させていただく。
崎門学研究会・折本龍則代表

★当日の動画は「崎門チャンネル」

■今日の皇室観
① 天皇不要論
社会契約論 共和革命論
② 天皇機関説 象徴天皇
親米・自民党保守 「君臨すれども統治せず」
Cf 福沢『帝室論』「帝室は政治社外のものなり」祭祀が本質的務め
③ 天皇親政論 圧倒的少数派
正統派 原理主義?

■天皇親政の三つの契機
① 正当性
天壌無窮の神勅
葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ。
『正名論』 『柳子新論』
資料)竹内式部の所司代での問答
② 決断主義
「自由主義なるものは、政治的問題の一つ一つをすべて討論し、交渉材料にすると同時に、形而上学的真理をも討論に解消してしまおうとする。その本質は交渉であり、決定的対決を、血の流れる決戦を、なんとか議会の討論へと変容させ、永遠の討論
によって永遠に停滞させうるのではないか、という期待を抱いてまちにまつ、不徹底性なのである。」(C.シュミット『政治神学』)→「例外状態」での決断
『国家改造法案大綱』
続きを読む 第1回『天皇親政について考える勉強会』(崎門学研究会主催)

大久保利通暗殺事件斬奸状

大久保利通暗殺
明治11(1878)年5月14日に、「紀尾井坂の変」(大久保利通暗殺事件)に際して、実行犯の石川県士族・島田一郎らが持参した斬奸状を紹介する。起草したのは陸九皐(くが・きゅうこう)。

〈石川県士族島田一郎等、叩頭昧死(こうとうまいし、頭を地面につけてお辞儀をし、死を覚悟して)仰で 天皇陛下に上奏し、俯して三千有余万の人衆に普告す。一郎等、方今我が皇国の時状を熟察するに、凡政令法度上 天皇陛下の聖旨に出ずるに非ず。下衆庶人民の公議に由るに非ず。独り要路官吏数人の臆断専決する所に在り。夫れ要路の職に居り上下の望に任する者、宜しく国家の興廃を憂る。其家を懐ふの情に易へ、人民の安危を慮る。共身を顧る心に易へ、志忠誠を専らにし行ひ、節義を重じ事公正を主とし以て上下報対すべし。然り而して、今日要路官吏の行事を親視するに、一家の経営之れ務て出職を尽す所以を計らす。一身の安富之れ求て其任に適ふ所以を思はず。狡詐貪焚上を蔑し、下を虚し過に以て無前の国恥千載の民害を致す者あり。今其罪状を条挙する左の如し。

曰く、公議を杜絶し民権を抑圧し以て政事を私する。其罪一なり。
曰く、法令漫施請託公行恣に威福を張る。其罪二なり。
曰く、不急の土木を興し無用の修飾を事とし以て国財を徒費する。其罪三なり。
曰く、慷慨忠節の士を疎斥し憂国敵愾の徒を嫌疑し以て内乱を醸成する。其罪四なり。
曰く、外国交際の道を誤り以て国権を失墜する。其罪五なり。 続きを読む 大久保利通暗殺事件斬奸状

『副島種臣先生小伝』を読む③─安政の大獄と副島種臣

井伊直弼
 嘉永六(一八五三)年六月、ペリー艦隊が浦賀沖に来航し、日本の開国と条約締結を求めてきた。幕府は一旦ペリーを退去させたが、翌嘉永七(一八五四)年三月三日、幕府はアメリカとの間で日米和親条約を締結した。
 安政三(一八五六)年七月には、アメリカ総領事ハリスが、日米和親条約に基づいて下田に駐在を開始した。幕府はアメリカの要求に応じて、日米修好通商条約締結を進め、安政五年三月十二日には、関白・九条尚忠が朝廷に条約の議案を提出する。大老井伊直弼は安政五年六月十九日、勅許を得ないまま、修好通商条約に調印したのである。
 これに反発した尊攘派に井伊は厳しい処断で応じた。安政の大獄である。幕府の最初のターゲットとなった梅田雲浜は獄死している。
 ところが、尊攘派の怒りは安政七(一八六〇)年三月三日に爆発する。江戸城桜田門外で彦根藩の行列が襲撃され、井伊が暗殺されたのだ。桜田門外の変である。これを契機に尊攘派たちが復権を果たしていく。
 この激動の時代を青年副島は、どのように生きたのか。
 日米和親条約が締結された翌安政二(一八五五)年、彼は皇学研究のために三年問京都留学を命ぜられた。まさに、弱腰の幕府に対して尊攘論が高まる時代だ。副島は、京都で諸藩の志士と交流し、一君万民論を鼓吹し、幕府の専横を攻撃した。
 安政五年五月、副島は一旦帰国して、楠公義祭に列したが、六月再び上洛、大原重徳卿に面謁して、将軍宣下廃止論を説き、青蓮院宮に伺候し、伊丹重賢(蔵人)と面会している。伊丹家は代々青蓮院宮に仕えた家であり、伊丹は尊攘派の志士として東奔西走していた。
 副島は、伊丹の相談を引き受けて、兵を募るために帰藩した。この時、藩主・鍋島直正は副島の身の上を気遣い、禁足を命じて神陽に監督を頼んだという。

水野満年『大正維新に当りて』(国華教育社、大正15年)目次

大石凝真素美の弟子水野満年は、大正15年に『大正維新に当りて』(国華教育社)を刊行した。以下、目次を掲げる。
水野満年『大正維新に当りて』(国華教育社、大正15年)

緒言
一 先づ他山の石で玉を磨け
二 大日本帝国の使命
三 和光同塵の皇謨
四 国是と歴代の皇謨
五 国体の根本義
六 根本覚醒の要
 其二
 其三
七 皇国興隆の大道
八 神聖なる祖宗御遺訓
九 神聖遺訓の内容
十 神聖遺訓古事記に対する学者の誤解
十一 日本の大正維新は即世界の大正維新なり
十二 敬神崇祖と国民皆兵の本義
十三 神聖遺訓による内治外交の範畴
十四 大正維新の経綸
十五 土地人民奉還の上表文
附「遂次発表の書目」

『維新と興亜』第2号刊行

 令和2年4月、崎門学研究会・大アジア研究会合同機関誌『維新と興亜』第2号が刊行された。
 目次は以下の通り。

『維新と興亜』第2号

 【巻頭言】グローバリズム幻想を打破し、興亜の道を目指せ
 歴史から消された久留米藩難事件
 尊皇思想と自由民権運動─愛国交親社の盛衰②
 金子彌平―興亜の先駆者④
 新しい国家主義の運動を起こそう!②―津久井龍雄の権藤成卿批判
 江藤淳と石原慎太郎②
 金子智一―インドネシア独立に情熱を捧げた男
 重光葵と「大東亜新政策」の理念―確立すべき日本の国是を問う
 田中角榮の戦争体験
 『忠孝類説』を読む
 若林強斎先生『絅斎先生を祭る文』
 菅原兵治先生『農士道』を読む⑤
 首里城の夢の跡
 書評 拳骨 拓史『乃木希典 武士道を体現した明治の英雄』
 書評 浦辺 登『勝海舟から始まる近代日本』
 表紙の写真─片岡駿の生涯と思想
 活動報告・行事予定

第47回(令和2年度)大夢祭のご案内

以下、大夢舘告知を転載する。

合掌 昭和七年五月十五日、三上卓先生を始めとする先達は、昭和維新を目指して蹶起しました。それから八十八年の歳月が流れました。ところが、わが国は真の独立を恢復できないまま、内外の危機が深刻化しています。蹶起の二年前、「民族的暗闇を打開し、開顕しうるものは、青年的な情熱以外にはない」との確信に基づき三上先生が佐世保の軍港で作ったのが「青年日本の歌」(昭和維新の歌)です。現在の危機を打開するために、今ほど青年的情熱が求められる時代はないと、我々は信じております。
 維新の精神の発揚を目指し、花房東洋が昭和四十九年に始めて以来、四十七回目となる令和二年度 大夢祭を、以下の通り開催致します。「大夢」とは三上先生の号です。
 敗戦によって占領下に置かれたわが国は民族的自覚、國體に対する誇りを喪失し、植民地的属領国家の様相を呈しました。この状況を打破せんとして、昭和維新の精神を継ぐべく、多くの先覚者たちが身を挺して立ち上がって参りました。
 昭和三十五年十月十二日に浅沼稲次郎を誅し、同年十一月二日に自決した山口二矢烈士。昭和四十五年十一月二十五日に自衛隊決起を呼びかけた末、自決した三島由紀夫烈士と森田必勝烈士。平成五年十月二十日、朝日新聞の報道姿勢を糾さんとして、壮絶な自決を遂げた野村秋介烈士。さらに多くの先達が維新運動に挺身して参りました。
 本祭祀を、五・一五事件で斃れた犬養毅、官邸護衛の警視庁巡査・田中五郎の両英霊、昭和維新を願って蹶起した三上先生はじめ、これに連なる多くの先輩同志同胞にとどまらず、維新運動の先覚者の御霊をお祀りし、その志を受け継ぐ場にしたいと存じます。
 当初、『五・一五事件─海軍青年将校たちの「昭和維新」』(中公新書、四月一八日発売)を上梓される、帝京大学文学部史学科教授の小山俊樹先生をお招きして記念講演会を開催する予定でしたが、都合により勇進流刀技術大阪支部長の田中耕三郎氏らによる演武を奉納いたします。どうか、一人でも多くの方にご参列いただけますよう、心よりお願い申し上げます。
       再拝
 令和2年4月
        記
 日  時 令和2年5月15日(金) 受付 午前11時半
  第1部 大 夢 祭 正午   岐阜護国神社本殿(岐阜市御手洗393)
  第2部 奉納演武 12時半
     勇進流刀技術大阪支部長 田中耕三郎氏
  第3部 直  会 午後2時 大夢舘(岐阜市真砂町1-20-1)
   神 饌 料 6,000円[記念品『五・一五事件』(小山俊樹先生著)]
*ご参列の場合には、info@taimusai.com宛てにご連絡いただければ幸いです。
大夢舘
代表
 坪内隆彦(愚斎)
副代表
 鈴木田遵澄(愚道)
執行役
 雨宮輝行(愚蓮)
 小野耕資(愚泥)
 坂本 圭(愚林)
 菅原成典(愚骨)
 中川正秀(愚山)
 花房 仁(愚元) 
 宮本 進(愚遊)
後見役
 奥田親宗(愚城)
 長谷川裕行(愚門)
 服部知司
 藤本隆之(愚庵)

「王命に依って催さるる事」─田中惣五郎『綜合明治維新史 第二巻』

田中惣五郎『綜合明治維新史 第二巻』
 田中惣五郎は『綜合明治維新史 第二巻』(千倉書房、昭和十九年)において次のように書いている。
 〈尾州藩主義直の尊王心は著名であり、大義名分に明かであるとされて居るが、水戸義公の大日本史編纂もこの叔父義直の啓発によるところ尠しとしないと言はれて居る。従来この藩のことは閑却され勝であつたから少しく筆を加へて置かう。義直の著「軍書合艦」の巻未には「依王命被催事」といふ一筒条があつて、一旦緩急の際は尊王の師を興す意であつたと伝へられる。しかしこれは恐らく群雄の興起した際のことであつて、本家の浮沈に当つては、水戸同様いづれにも与せぬ方針と解すべきであらう。そしてこの事は文書に明確にすることを憚り、子孫相続の際、口伝に依て之を伝へた。そして四代の藩主吉通が二十四歳で世を去り、其の子五郎太が尚幼少であつたから、忠臣で事理に通じた近臣近松茂矩に命じて成長の後に伝へしめたものが、所謂「円覚院様御伝十五条」の一で、御家馴といはれるものである〉

『副島種臣先生小伝』を読む②─兄枝吉神陽

楠神社の例祭の際に開扉される楠木正成と正行父子像
 副島種臣の思想形成に大きな役割を果たしたのが、兄枝吉神陽である。藤田東湖と並び「東西の二傑」と呼ばれ、また佐賀の「吉田松陰」とも呼ばれた神陽は、嘉永3(1850)年に大楠公を崇敬する「義祭同盟」を結成している。『副島種臣先生小伝』は、神陽について以下のように書いている。
 〈先生の令兄神陽先生は、容貌魁偉、声は鐘の如く、胆は甕の如く、健脚で一日によく二十里を歩き、博覧強記、お父さんの学風を受けて皇朝主義を唱へ、天保十一年閑叟公(鍋島直正)の弘道館拡張当時は、年僅かに十九であつたが、既に立派な大学者で、国史国学研究に新空気を注入して、先生はじめ大木・大隈・江藤・島などの諸豪傑を教育し、天保十三年二十一で江戸に遊学するや、昌平黌の書生寮を改革し勤王思想を鼓吹して、書生問に畏敬され、後、諸国を漫遊して帰藩し、自から建議し、弘道館の和学寮を皇学寮と改めて、其の教諭となつたのは、其の二十七歳の時であつた。後文久二年は四十一歳で歿したが、臨終には蒲団の上に端坐し、悠然東方を拝して、『草莽の臣大蔵経種こゝに死す。』と言つて静かに暝目した〉