「頭山 満」カテゴリーアーカイブ

頭山満─維新・興亜陣営最大のカリスマ

南洲の魂を追い求めて─終生の愛読書『洗心洞箚記』

 大正十年秋、後に五・一五事件に連座する本間憲一郎は、(とう)(やま)(みつる)のお伴をして、水戸の那珂川で鮭漁を楽しんでいた。船頭が一尾でも多く獲ろうと、焦りはじめたときである。川の中流で船が橋に激突、その衝撃で船は大きく揺れ、船中の人は皆横倒しになった。そのとき、頭山は冬外套を着て、両手をふところに入れていた。
「頭山先生が危ない!」
 本間は咄嗟に頭山の身を案じた。川の流れは深くて速い。転覆すれば命にかかわる。
 ところが、本間が頭山を見ると、頭から水飛沫を被ったにもかかわらず、ふところに手を入れたまま、眉毛一つ動かさず悠然としている。驚きもせず、慌てもせず、いつもの温顔を漂わせていたのである。「これが無心ということなのか」。
 この体験を本間は振り返り、頭山が大塩平八郎の心境に到達していたものと信じていると書き残している。大塩は天保三(一八三二)年、中江藤樹の墓参の帰り、琵琶湖で暴風に遭い、転覆の危機に直面した。このときの教訓を大塩は、その講義ノート『洗心洞箚記』に記している。 Continue reading “頭山満─維新・興亜陣営最大のカリスマ” »

今こそ興亜論に目覚めよ!─『大東亜論 巨傑誕生篇』刊行の意義

 年明け早々に、小林よしのり氏の『ゴーマニズム宣言SPECIAL 大東亜論 巨傑誕生篇』を入手、一気に読んだ。
 戦後の言論空間で封印された興亜論、大亜細亜主義思想を漫画にした意義は極めて大きい。特に、不平等条約に反対して命を捨てた来島恒喜烈士の壮絶な生きざまは、史実に基づきつつ、巧みなイマジネーションをも駆使して描かれていると感じた。頭山満翁についても同様だ。
 若い世代の人が本書をまず読み、この問題に関心を抱くことを期待する。

烈士来島恒喜の墓参(平成24年10月18日)

 本日(平成24年10月18日)、烈士来島恒喜の墓参を済ませ、谷中のたんぴょう亭にて開かれた呉竹会評議員会にオブザーバーとして参加しました。
四宮正貴先生が来島についてお話されました。明治維新から第二維新へと連なる歴史の流れ、欧化の矛盾の象徴としての列強との不平等条約。外相大隈重信の条約改正に抵抗した頭山満翁の動きなど、来島の一撃に至る歴史背景等々、大変貴重なお話を伺うことができました。
なお、来島の墓所は、谷中霊園の乙10号17にあります。

皇道思想の先覚・今泉定助と白石神明社

世界皇化に人生を捧げた皇道思想の先覚、今泉定助先生は、文久三(一八六三)年二月九日、仙台藩重臣・片倉家の家臣、今泉伝吉の第三子として誕生しました。明治七、八年頃に白石神明社の祠家佐藤広見の養子となったのが、神道人として立つきっかけです。
平成二十年二月、筆者は今泉先生の評伝執筆のため、郷里の宮城県白石市を訪れました。神明社の佐藤武比古宮司にお願いして神殿の中に入るや、筆者の目に飛び込んできたのは、頭山満、真崎甚三郎ら当時の錚々たる人物の書でした。広範な社会層への今泉先生の影響を窺わせます。

先生晩年の昭和十七年九月十五日、神明社境内に先生の功績を称える頌徳碑が建てられ、その除幕式が行われました。縦二間、横四尺の堂々たるものです。米内光政海軍大将の「国体明徴」の題字、小磯国昭大将の頌徳文が刻まれました。同時に、生誕地の白石町役場隣接地には、松井石根大将の「皇道発揚」を刻んだ記念碑が建てられました。現在「皇道発揚」の記念碑は、白石城址公園と神明社が境を接する路傍に建っています。

興亜の夢を信じたインド独立運動家─ビハリ・ボース

以下は、『アジア英雄伝』に収録した、ビハリ・ボースの評伝です。

一五歳にしてインド独立を志す
インドの志士ビハリ・ボースは、日本の興亜陣営と結んでインド独立運動に挺身しただけでなく、アジアの志士たちの連携の中核として活躍した。彼には普遍的思想に基づいたアジアの道義的統一という明確なビジョンがあったのである。
ビハリ・ボースは、一八八六年三月一五日、インドの西ベンガル州ブルドワン郡で生まれた。彼がインド独立運動に目覚めたのは、一五歳の頃、一八五七年のインド大反乱について書いたデピプロサンナ・ローイ・チョウドリーの『サラット・チャンドラ』を読んでからである。イギリスへの敵愾心を強め、インド独立の必要性を痛感するようになった。彼は、「自由の雄叫びが自己の胸中にあることを意識した」と回想している(1)。 Continue reading “興亜の夢を信じたインド独立運動家─ビハリ・ボース” »

星条旗の下の祖国を拒否した男─アルテミオ・リカルテ

以下、『アジア英雄伝』に収録した、フィリピンの志士アルテミオ・リカルテの評伝です。


「星条旗の下には帰らぬ」
フィリピンの志士アルテミオ・リカルテは、長期間日本に潜伏し、普遍的思想としての皇道を深く理解し、独自のフィリピン国家像を描いた人物であった。その壮絶な反米闘争は、急進的政治結社のカティプーナンの精神を実現しようという姿勢で貫かれていた。
リカルテは、一八六六年一〇月二〇日、ルソン島最北端のバタックで生まれた。父エステバンは、義侠心に富み、親分肌の人で、常に公益のために私財を投じ、近隣の人々から厚い信望を集めていた。母は敬虔なカトリック教徒で、朝夕厳粛な祈りを捧げることを日課としていた。両親ともに、教育には極めて熱心であった(太田兼四郎『鬼哭』フィリピン協会、一九七二年、八頁)。リカルテは、一八八四年サン・ファン・デ・レスラン学院に入学、その五年後には文学士の学位を取得して卒業、ただちに名門校サント・トーマス大学に入学、一八九〇年に卒業している。
当時、独立運動の先駆者ホセ・リサールに刺激された有能な青年たちはスペイン留学を望んだが、リカルテはスペインに留学することは結局植民地主義者によって洗脳されることになると信じて祖国に止まり、一生を民族主義教育に捧げる決心をした。こうして彼は、カビテ州のサンフランシスコ・デ・マラボンの小中学校の校長になった。 Continue reading “星条旗の下の祖国を拒否した男─アルテミオ・リカルテ” »

近代デジタルライブラリーで閲覧可能な興亜論関連文献

森本藤吉『大東合邦論』森本藤吉、明治26年

荒尾精『対清意見』博文館、明治27年

副島種臣著、片淵琢編『副島伯閑話』広文堂、明治35年

宮崎滔天『三十三年の夢』国光書房、明治35年

北輝次郎『国体論及び純正社会主義』北輝次郎、明治39年 Continue reading “近代デジタルライブラリーで閲覧可能な興亜論関連文献” »

信州国民党

「全人類の皇化」を目指す

 信州国民党は、昭和4年5月26日、八幡博堂、鈴木善一によって、松本市に組織的政党として設立された。総理に野田喜代志、顧問に頭山満、内田良平、執行委員長に寺田稲次郎、書記長に八幡博堂、書記次長に鈴木善一、統制委員長に西田税、中央委員に長野朗、津田光造が就いた。宣言は、次のように謳った。
 「我等の敵は独り是等国内に跳梁跋扈する非日本的、非国民的徒輩のみではない、侵略的白色人種閥勢力に依って有色人種に加えられつつある生存権の事実上の否定を見よ。更に又世界各国の共産主義化と彼等の所謂「日本爆破」を計画実践しつつあるソヴエット、ロシヤの暴状を見よ。
 彼等は国際的共存共栄の公道を破壊し、人類生存の理義を蹂躙する世界の公敵である。道義的世界建設の歴史的使命を有する我等は、今や有色人種の尖端に立ち、この幾世紀の永きに亘る巨弾と鉄鎖の悲惨なる苦難と試練とを突破して、人類の解放戦に勇敢に戦うべきである。然り、この世界を横行闊歩する強敵を屠って全人類を完全に皇化する日まで、我等の決死的戦闘は継続されねばならなぬ」
 信州国民党は、昭和4年11月に日本国民党と改称し、翌昭和5年2月の第2回普通選挙には八幡博堂が信州から立候補して、既成政党に対して大いに気を吐いた(荒原朴水『大右翼史 増補版』大日本一誠会出版局、1974年、100頁)。
 昭和6年11月に大日本生産党に合流した。

大日社の思想

杉浦重剛と頭山満を師として

『大日』第7号、昭和6年5月15日発行
 大日社設立は昭和5年と考えられ、雑誌『大日』は翌6年から昭和20年まで14年間に亘り発行された。
同誌発刊の辞には次のようにある。「明治21年乾坤社を興して、雜誌『日本人』を創めたるは吾人の師長天台道士杉浦重剛先生なり。其の翌年新聞『日本』を興して國體主義を高調したるは羯南陸實先生なり。爾來40年濟々たる多士は苦節に死し、吾人の先輩は曉天の星の如くなれり。吾人の魯鈍なる、再躓三躓今や讒かに彈丸黒子の地を守るに過ぎず。茲に頭山立雲先生を社師として、廣く天下同志の贊襄を仰ぎ、新たに『大日社』を興し、雜誌『大日』を創刊して名節を砥礪し大義に終始し、毅然筆致に任じて操觚の天職を全うせんとするは先輩師長の先蹤を追うものなり」 Continue reading “大日社の思想” »