「平泉澄」カテゴリーアーカイブ

国史教育のあるべき姿①

 国史教育のあるべき姿を考える上で、平泉澄先生の『国史学の骨髄』は必読の書と信ずる。同書のポイントを順次紹介したい。平泉先生は同書「一の精神を欠く」(初出昭和3年12月)で次のように指摘している。
「国史の教育は大に改めねばならない。単なる年表抜書を改めて、文化の開展、国民生活の発展、国民思想の進展を明かにし、時代時代の相違をはつきりと描写すると共に、それにも拘らず、国史三千年を貫いて流れる所の精神を感得せしめねばならない。若し斯くの如くにして歴史のうちに己が真の姿を見出し、歴史のうちに己が使命を悟り、歴史のうちに人生の帰趨を求め得ないならば、歴史教育は畢竟無用の長物に過ぎないであらう」(同書143頁)

日本人の歴史に流れる「一つの精神」─平泉澄『明治の源流』

 『明治維新という過ち』、『官賊と幕臣たち』などを著した原田伊織氏によって、「明治維新という過ちを犯したことが、その後の国家運営を誤ることになった」という歪んだ歴史観が流布されている。原田氏の一連の著作は、長州に対する会津の恨みに発しているように見受けられるが、その言説が明治維新の意義を覆い隠していることは決して看過できない。
 原田氏は江戸幕府体制の弊害を見つめることなく、江戸時代は平穏な社会であったと強調し、明治維新は薩長による大義なき権力奪取だったと主張する。彼の視野にあるのは、江戸と明治の対比のみであり、承久の変、建武の中興、明治維新の連続性は全く視野に置かれていない。これでは歴史に値しない。
 明治維新の最大の意義は、700年に及ぶ幕府政治に終止符を打ち、天皇親政に回帰したことにある。その意義は、維新の源流に遡ってこそ明瞭になる。
 筆者は、拙著『GHQが恐れた崎門学』においては、原田氏を厳しく批判したが、明治維新の意義を確認し、さらに日本人にとっての歴史とは何か考える際、極めて重要な示唆を与えてくれるのが、以下の平泉澄先生の言葉である。昭和45年4月に書かれたものである。
 「歴史は、伝承であり、保持であり、発展である。もしそれ無くして、断絶があり、変易に過ぎないならば、それは厳密なる意味に於いて、最早歴史では無い。這般の道理は、精神の分裂錯乱が、人格の破滅である事を考へる時、おのづから明瞭であらう。
 斯くの如く伝承を本質とする歴史の典型的なるものは、実に我が国の歴史であり、その最も光彩陸離たるものは、明治維新である。その原動力が遠く五百年を遡って建武の昔に存し、年暦を経る事久しくして却って感激の白熱化した事は、真に偉観と云って良い。
 然るに建武の中興は、更に遡って承久の昔に発源し、承久と建武と明治と、一連の運動であり、一つの精神、脱然として六七百年を貫いて流れてゐる事は、一層大いなる感激で無ければならぬ。
 之を理解する上に一つの障碍となるは、鎌倉、特に北条の政治を賞讃し、従って承久・建武の討幕運動を、いはれなく、勝つべき道理なしとする史論の存する事である。蓋し史伝真相を伝へず、泰時・時頼等、誤って賢人の名、善政の誉をほしいままにした為であり、一面には先哲仮託して人々の反省を求めた為に外ならぬ。
 よって今本書は、短篇ながら是等の点を究めて、明治維新の源流を明かにしようとした。その時代を降るにしたがって簡略に附したのは、他に之を記述するもの、少なくない為である。前年刊行した父祖の足跡五冊と本書とは、実は相互照応するもの、願はくは聊か以て国史の理解に貢献せむ事を」(『明治の源流』はしがき」)
 日本人が日本人の歴史を取り戻す上で最も重要なことは、日本人の歴史に流れる「一つの精神」であり、それを歴史に確認する際の「大いなる感激」であろう。

平泉澄先生『明治の源流』結び─感激と気魄は承久・建武の悲劇より

 平泉澄先生は『明治の源流』(時事通信社、昭和45年)を以下のように結んでいる。
 〈明治維新は、最後にその規模を高揚して、神武天皇建国創業の初めにかへるを目標としたものであつたが、あらゆる苦難を突破して國體の本義を明かにしようとする感激と気魄とは、之を承久・建武の悲劇より汲み来つたのであつた。就中、後醍醐天皇崩御にのぞんでの御遺勅に、
 玉骨はたとひ南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ。もし命を背き義を軽んぜば、君も継體の君に非ず、臣も忠烈の臣に非じ。
と仰せられた事は、申すもかしこし、楠木正成が最期に当つて、
 七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばや。
と願を立てた、あの剛気不屈、大義を守つて一歩も後へは引かぬ精神に、人々は無上の感動を憂え、不退転の勇気を與へられたのであつた。〉

【書評】 『続平泉澄博士神道論抄』

 日本の自立と再生には、日本人が自らの歴史と思想を取り戻すことが不可欠である。その際、GHQによって封印された國體思想を解き放つことが重要な課題だと思われる。
 著者の平泉澄博士は、昭和45年に刊行した『少年日本史』の前書きで次のように書いている。
 「正しい日本人となる為には、日本歴史の真実を知り、之を受けつがねばならぬ。然るに、不幸にして、戦敗れた後の我が国は、占領軍の干渉の為に、正しい歴史を教える事が許されなかった。占領は足掛け8年にして解除せられた。然し歴史の学問は、占領下に大きく曲げられたままに、今日に至っている」
 実際、平泉の重要論文「闇斎先生と日本精神」を収めた同名の書籍(昭和七年)は、GHQによって没収された。本書には、この因縁の論文も収められている。
 平泉隆房氏が「序」で的確な紹介をされている通り、本書は『平泉澄博士神道論抄』の続編として、平泉の著述の中から、主に神道論に関わる論文を集録したものである。「序論」には、「神道と国家との関係」を、「前篇 神道史上の人物論」には、菅原道真、明恵上人、北畠親房、山崎闇斎、遊佐木斎、谷秦山、佐久良東雄、真木和泉についての論文を収録している。闇斎を論じた論文が「闇斎先生と日本精神」であり、崎門の真髄を次のように描いている。
 「君臣の大義を推し究めて時局を批判する事厳正に、しかもひとり之を認識明弁するに止まらず、身を以て之を験せんとし、従つて百難屈せず、先師倒れて後生之をつぎ、二百年に越え、幾百人に上り、前後唯一意、東西自ら一揆、王事につとめてやまざるもの、ひとり崎門に之を見る」(本書125頁)。 Continue reading “【書評】 『続平泉澄博士神道論抄』” »

「現行憲法は改正の価値なし、ただ破棄の一途あるのみ」─平泉澄先生「國體と憲法」②

 平泉澄先生は、昭和29年6月30日の講演で次のように述べている。
 〈日本国を今日の混迷より救ふもの、それは何よりも先に日本の國體を明確にすることが必要であります。而して日本の國體を明確にしますためには、第一にマッカーサー憲法の破棄であります。第二には明治天皇の欽定憲法の復活であります。このことが行はれて、日本がアメリカの従属より独立し、天皇の威厳をとり戻し、天皇陛下の万歳を唱へつつ、祖国永遠の生命の中に喜んで自己一身の生命を捧げるときに、始めて日本は再び世界の大国として立ち、他国の尊敬をかち得るのであります。
 憲法の改正はこれを考慮してよいと思ひます。然しながら改正といひますのは、欽定憲法に立ち戻って後の問題でありまして、マッカーサー憲法に関する限り、歴史の上よりこれを見ますならば、日本の國體の上よりこれを見るならば、改正の価値なし、ただ破棄の一途あるのみであります〉

延喜・天暦の御代回復を目指した後鳥羽上皇

 後鳥羽上皇について、平泉澄先生は『物語日本史 中』(講談社学術文庫)において、次のように書かれている。
 〈……ことに朝廷の盛大であったころの儀式や故実を御研究になり、その討論や練習を御下命になり、また上皇御みずから著述をなさいました。それは世俗浅深秘抄(せぞくせんしんひしょう)という上下二巻の書物で、朝廷の儀式作法を記して、それに批判を下されたものでありますが、その批判の規準となったものは、延喜・天暦、すなわち醍醐・村上両天皇の御日記であります。してみると、後鳥羽上皇は、延喜・天暦の御代にかえそうとの御希望をおもちになり、この御理想の実現のために、文武の両道を、御自身も御研究になれば、公卿達にも研究鍛錬せしめられたのであることが分ります。朝廷が高邁なる理想をいだき、雄大なる計画を立てられて、国家の健全性を回復しようと努力せられ、公卿が文武の両道に出精してくるとなれば、幕府はもはや無用のものとなるでしょう。いや、無用であるばかりでなく、有害なものといってよいでしょう〉

北条泰時の不臣(承久の悲劇)を批判した崎門学派

 明治維新を成し遂げた幕末の志士には、建武中興の挫折と、さらに遡って承久の悲劇、後鳥羽、土御門、順徳の三天皇の悲劇に対する特別な思いがあった。だからこそ、明治六年には、御沙汰により、三天皇の御神霊を奉迎することとなったのである。御生前御還幸の儀を以て、厳重なる供奉を整えて、水無瀬宮へ御迎え申し上げ、三天皇を合せて奉祀した。
 北畠親房の『神皇正統記』の後、承久の悲劇に思いを寄せたのは、崎門学だった。その重大な意義を、平泉澄先生門下の鳥巣通明先生は、『恋闕』において、次のように書かれている。
 〈…神皇正統記をうけて、徳川政権下にもつとも端的明確に泰時を糾弾したのは山崎闇斎先生の学統をうけた人々であつた。崎門に於いて、北条がしばしばとりあげられ批判せられたことは、たとへば、「浅見安正先生学談」に
  北条九代ミゴトニ治メテモ乱臣ゾ
また、
  名分ヲ立テ、春秋ノ意デミレバ北条ノ式目ヤ、足利ガ今川ノ書は、チリモハイモナイ
などと見えることによつても明らかである。当代の人々ばかりでなく久しきにわたつて世人を瞞着した「北条の民政」は、こゝにはじめて 皇国の道義によつて粉砕せられたのであつた。この批判の語調のはげしさの理由は、もしわれわれにして皇民としての感覚を喪失せざる限り、たゞ年表を手にして
  一二二一(承久三) 承久の役、後鳥羽・順徳・土御門上皇遷幸
  一二三一(寛喜三) 上御門上皇阿波にて崩御、宝算三十七
  一二三二(貞永元) 幕府式目五十一ヶ条を制定す
  一二三九(延応元) 後鳥羽上皇隠岐に崩御、宝算六十
  一二四二(仁治三) 北条泰時死
            順徳上皇佐渡に崩御、宝算四十六
と読みあげるだけで十分了知できるであらう。
 所謂「貞永式目の日」を 三上皇に於かせられては絶海の孤島にわびしくお過し遊されたのであるが、しかもこれほどの重大事を恐懼せず、慙愧することなくしで北条の民政をたゝへた時代がかつてあつたこと、否、それをたゝへる人々が現に史学界の「大家」として令名をほしいままにしてゐるのを思ふ時、それ等の人々の尊皇と民政を二元的に見る立場、不臣の行為すら「善政」によつて償はれるとする立場をきびしく批判した崎門学派の日本思想史上に占むる地位はおのづから明らかであらう〉

忠臣和気清麻呂─宇佐八幡の神託

 天平宝字5(761)年、道鏡は、病を患った孝謙上皇(後の称徳天皇)の看病して以来、その寵を受けるようになった。天平宝字8(764)年には太政大臣禅師に任ぜられ、翌年には法皇となった。やがて、道鏡は天皇の位を狙うのではないかと見られるようになった。九州の大宰府で神事を担当していた習宜阿曽麻呂は、それに乗じて、道鏡に御機嫌を取っておこうと、「八幡の神のお告げがありました、道鏡が天皇の位につけば、天下太平であるとのこです」と言い始めた。
 称徳天皇は、心配されて、御信任の深い尼の法均を派遣し、八幡の神のお告げが本当かどうか確かめたいと思召された。ただ、女性の身で九州まで行くことは、容易でない。そこで、法均の代りに派遣されたのが、その弟の和気清麻呂である。以下、平泉澄先生の『物語日本史 上』から引用する。
 〈清麻呂は宇佐(大分県)へ参り、八幡の神前にぬかずいて、謹んで神意をうかがいました。忽然として、神が出現せられました。仰せられるには、
  我が国は、開闢以来、君臣の分、定まっているのだ。しかるに道鏡、何たる無道であるか。臣下でありながら天位を望むとは。汝、帰って天皇に上奏せよ。天位は必ず皇統をもって継承されよ、無道の者は、早く取り除くがよい。
 清麻呂は奈良へ帰り、ありのままに上奏しました。怒ったのは弓削の道鏡、清麻呂を印旛(鳥取県)へ追放しようとしましたが、また処分をいっそうきびしく変更して、清麻呂を大隅((鹿児島県)へ、姉の法均を備後(広島県)へ流しました。
(中略)
 (清麻呂は)宇佐へ向って出発する時、道鏡から、「ちょっと来るように」と言われました。行ってみると、「首尾よく大任を果したならば、大臣にしてやるぞ」と言いました。その誘惑や強迫をしりぞけて、神勅をありのままに報告し、「我が国は開闢以来君臣の分定まれり、無道の者はこれを排除せよ」と言ったのは、実に偉いといわねばなりません。道鏡は大いに腹を立て、大隅へ下る清麻呂を、途中で殺させようとしたが、果さなかったといいます〉
 清麻呂が大隅に流された翌年8月、称徳天皇はおかくれになり、光仁天皇が即位された。坂上苅田麻呂が、道鏡の陰謀を朝廷に報告し、道鏡は下野の国(栃木県)の薬師寺に追われた。

天皇親政が本来の姿─平泉澄先生「國體と憲法」①

 
 平泉澄先生は、昭和二十九年の講演において次のように語っている。
 「…日本の政治において天皇の御地位がどういふものであつたか、天皇と国民との関係がどういふものであつたかといふことの概略を見て来たのでありますが、かやうにして、藤原氏が摂政、関白となつたこともありますし、武家が幕府を開いたこともありますし、政治は往々にしてその実権下に移りましたけれども、それはどこまでも変態であつて、もし本来を云ひ本質を論じますならば、わが国は天皇の親政をもつて正しいとしたことは明瞭であります。これは歴史上の事実でありまして、議論の問題ではございません。従つて英明の天子が出られました場合には、必ずその変態を正して、正しい姿に戻さうとされたのでありまして、それが後三条天皇の御改革であり、後鳥羽天皇倒幕の御企てであり、後醍醐天皇の建武の中興であり、やがて明治天皇の明治維新でありましたことは申すまでもありません。……世間にはマツカーサーの憲法を用ひましても國體は変らないと説かれる方もだんだんとあるやうであります。それは恐らくやはり皇室のために憂を抱き、日本の国を愛する誠意から出てをるのであると思ひます。私はさういふ方々の誠意を疑ふわけではございません。しかし私ども学者の末端に列する者として、恐るるところなく事実を直視いたしますならば、かくの如き考は耳を抑へて鈴を盗むの類でありまして、若しマツカーサー憲法がこのまま行はれてゆくといふことでありますならば、國體は勢ひ変らざるを得ないのであります。民主々義はこれを強調する、天皇はわづかに国の象徴となつておいでになる。歴史は忘れられ家族制度は否定せられてゐる。現在のみが考へられて、歴史は考へられず、家族制度は無視されて個人のみが考慮せられ、人権はほとんど無制限に主張せられ、奉仕の念といふものはない。その限りなく要求せられる個人の権利の代償としては、ただ納税者の義務のみが明らかに規定せられてをる。忠孝の道徳の如きは弊履の如くに棄てて顧みない。かくの如き現状において、日本の國體が不変不動であるといふことは万あり得ないところであります」(「國體と憲法」『先哲を仰ぐ』所収)

先哲の忠義に支えられた國體

 平泉澄先生は、昭和11年に『国史講話』において次のように書いている。
 「……歴史ヲ考ヘマス上ニ、決シテ楽観的ニ呑気ニ之ヲ見ルコトハ許サレナイノデアリマス。ヨク「国体之精華。」ト云フコトヲ誇ルノデアリマスガ、其国体之精華ハ先哲ノ血ヲ以テ守り来ツタ所デアリマシテ、決シテ無為ニシテ得タ所デハナイノデアリマス。……我ガ国体ガ斯ノ如ク尊厳デアリマスコトハ、無論、天祖〔アマテラス〕ヲ始メ奉リマシテ、御歴代ノ聖徳ニ帰著スルノデアリマスガ、同時ニ又先哲ガー身ヲ擲ツテ俗学俗論ト闘ヒ、一人ノカデ万牛ヲ挽イテ来ラレタ為ニ、斯ノ如ク尊厳ニ伝ハツテ居ルノデアリマス」
 さらに、平泉先生は翌昭和12年に『日本精神の復活』で、次のように述べている。
 「我々は日本人である、大和魂は生れなからにして持つて居る、天下の人斯くの如く傲然として豪語するのである。焉んぞ知らん、大和魂のためにはこれ等の卓抜なる先哲〔谷川士清ら〕一生を投じて苦心惨澹されたのであります。心を労することなくして、身を修むることなくして、生れながらにして日本人であり、大和魂は我々自身に持つて居るのである。斯う暢気にいふことは、これは反省しなければならない」