「平泉澄」カテゴリーアーカイブ

古今集・源氏物語・職原抄の役割─平泉澄『物語日本史 中』より

 平泉澄先生は『物語日本史 中』「室町時代」において、以下のように書いている。
 〈将軍として責任のあるのは、義政でしたが、義政の一生は、ただ遊楽のために費されていました。あれほどの大乱が起っても、少しも反省するところなく、東山に風流な別荘を建て、それができ上がったので、文明十五年夏、そこに移りました。今残っている銀閣が、それです。そしてその費用のためには、文明十四年、山城一国に課税して、きびしく取り立てるとともに、翌年には、明国に対して卑屈にも窮乏を訴え、寄贈を依頼するなどの恥ずべき態度をとりました。
 将軍が、かようなふうでありましたから、その権力が、管領に移るのは当然ですが、しかし管領の権力もまた、その下に移りました。たとえば、管領の細川は、執事の三好によって振り回されましたが、その三好の力はまたその家老である松永に移り、松永久秀は、永禄八年に将軍義輝を殺すに至りました。かように中央が無力でありましたから、地方が群雄割拠の状態となったのは、やむを得ないところです。そこで関東には北条氏、駿河には今川氏、越後には上杉氏、越前には朝倉氏、山陰道には尼子氏、山陽道に初め大内氏、後に毛利氏、四国に長曽我部氏、九州に大友氏、島津氏、東北に伊達氏などが勢力を振いました。しかしそれらの群雄は、いずれも足利の下風にあったもので、日本国の本質を考え、その中興に貢献しようとの意志は、まだなかったのでありました。
 しかるにこの紛乱の百数十年の間に、何の権力もないままに、大きな働きをしたものがあります。それは書物です。たとえば古今集です。源氏物語です。職原抄です。これらの書物は、あの戦乱の世にも、驚くべき熱情をもって、人々の愛読するところとなりました。そして、応仁の大乱によって、京都の邸宅を焼かれ、その収入もなくなった公卿たちが、それぞれ縁故をたよって地方に移住するに及んで、これらの人々によって、上にあげたような古典の知識も、いっそうひろく地方にひろがるに至ったのは、いわば予期せざる効果といってよいでしょう。
 当時学者として尊敬せられ、古典の理解及び伝授の上に、大きな貢献をした人には、関白一条兼良(応仁元年には六十六歳)、内大臣三条西実隆(応仁元年には十三歳)などがあり、いずれも長生きで、(兼良八十歳、実隆八十三歳)著述や書写に努めました。これらの古典は、それに親しんでいるうちに、自然に日本の国柄、その本質、その制度、その精神が分るものですから、戦国衰乱の世においても、これらの古典が喜ばれた以上、やがて日本国中興の日の到来するを期待してよいでしょう〉

国体の閑却から復活へ─国史の中軸『神皇正統記』

 平泉澄先生は『国史学の骨髄』において、以下のように書いている。
 〈我国家創造の昔、天照大神が、将に降臨せられんとする皇孫、天津彦々火瓊々杵尊に勅して、
 「葦原の千五百秋の瑞穂の国は是れ吾が子孫の王たるべき地なり。よろしくいまし皇孫 就いて治せ、行矣、宝祚の隆まさん事、まさに天壌と窮なかるべし。」
と宣言せられ、乃ち八坂瓊曲玉、八咫鏡、及び草薙劔を賜はつた事は、今日に於いてこそ、三尺の童子も猶よく之を知つてゐるけれども、そのこゝに至るまでには、閑却より復活への注意すべき変遷があつたのである。即ち奈良時代に在つて、日本書紀を編纂した当時には、この神勅の意義は、未だ十分に認識せられずして、書紀の本文には之を欠き、僅に参考として掲げられた一書の中に見えてゐるのみであつた。而して古事記や古語拾遺には、或は神勅を記して詳でなく、或は神器を挙げて悉してゐない。もしそれ扶桑略記愚管抄等に至つては、末世末法の思想に惑溺したるもの、天壌無窮の確信がないのは、むしろ当然であつた。しかるにこの神勅と神器とは、北畠親房によつて燦然として光彩を放ち来りた。彼はその著神皇正統記に於いて、この神勅を大書し、この神器を重視し、之を以て天皇の御位の印証とし、又之を以て百王説を打破つた。
(中略)
神皇正統記一度出でゝ、建国の精神は生き生きとこゝに復活し来つた。而してこゝに一度復活しては、大日本史再び之を伝承し、幕末に及んで、この精神全国民に普及するや、こゝに明治維新の大業は成つたのである。神皇正統記は一巻の書籍よく国家を支へたるもの、前に遠く建国創業をのぞみ、後に遥に明治維新を呼ぶ所の、国史の中軸である〉

日本の歴史を棄てた明治政府

 平泉澄先生は「日本精神について(下)」(『日本』平成十八年正月号所収、二~三頁)において、次のように述べている。
 〈明治五年に教育制度が発動されてをります。驚くべきことに明治五年の学制には日本の歴史を教授するといふことが出てをらない。一国の教育がその国の歴史を無視してなされるといふことは実に驚くべきことであります。
 これは明治元年の大精神には断じてないことであります。明治元年の大精神が四、五年ですっかり崩れてをります。明治維新の精神はその時は日本の古典を用んとして、一方に支那の漢籍、一方に西洋の学問、それを両翼として進まうといふことを新定学制に示されてをります。
 実に偉い精神でありますが、これは間もなく崩れて、明治五年の学制においては日本の歴史は教育から棄てられてしまった。その後小学校においてその非を悟って、国史を加へましたのは明治十四年のことであります。十四年に初めて日本の初等教育に日本歴史が入って来たのであります。これは明治天皇の特別の御注意を戴いて出来たことださうであります。
 しかしそれ以上の学校においては、まだ日本歴史は加へてをりませぬ。中等以上の学校においてはバーレーの「萬国史」が用ひられてをりました。その後高等の学校に初めて日本歴史が入って来たのは明治十六年であります。これはドイツ語の先生のグルートといふ人が注意をしたので、初めて国史が入って来た。ただし大学にはまだ国史は出てをりませぬ。大学において国史、日本歴史が一科として立てましたのは明治二十一年になります。
 さうしてその翌二十二年に国史科が新設されてをります。この時に渡邊総長の意を受けて色々案を立て、これを実施する上において努力しましたのがドクトル・リースの力であります。その時までは国語を棄てようとしたほどでありますから、日本歴史を棄ててしまって、外国人から注意されなければ日本の歴史は閑却してしまってゐた〉

国史教育のあるべき姿①

 国史教育のあるべき姿を考える上で、平泉澄先生の『国史学の骨髄』は必読の書と信ずる。同書のポイントを順次紹介したい。平泉先生は同書「一の精神を欠く」(初出昭和3年12月)で次のように指摘している。
「国史の教育は大に改めねばならない。単なる年表抜書を改めて、文化の開展、国民生活の発展、国民思想の進展を明かにし、時代時代の相違をはつきりと描写すると共に、それにも拘らず、国史三千年を貫いて流れる所の精神を感得せしめねばならない。若し斯くの如くにして歴史のうちに己が真の姿を見出し、歴史のうちに己が使命を悟り、歴史のうちに人生の帰趨を求め得ないならば、歴史教育は畢竟無用の長物に過ぎないであらう」(同書143頁)

日本人の歴史に流れる「一つの精神」─平泉澄『明治の源流』

 『明治維新という過ち』、『官賊と幕臣たち』などを著した原田伊織氏によって、「明治維新という過ちを犯したことが、その後の国家運営を誤ることになった」という歪んだ歴史観が流布されている。原田氏の一連の著作は、長州に対する会津の恨みに発しているように見受けられるが、その言説が明治維新の意義を覆い隠していることは決して看過できない。
 原田氏は江戸幕府体制の弊害を見つめることなく、江戸時代は平穏な社会であったと強調し、明治維新は薩長による大義なき権力奪取だったと主張する。彼の視野にあるのは、江戸と明治の対比のみであり、承久の変、建武の中興、明治維新の連続性は全く視野に置かれていない。これでは歴史に値しない。
 明治維新の最大の意義は、700年に及ぶ幕府政治に終止符を打ち、天皇親政に回帰したことにある。その意義は、維新の源流に遡ってこそ明瞭になる。
 筆者は、拙著『GHQが恐れた崎門学』においては、原田氏を厳しく批判したが、明治維新の意義を確認し、さらに日本人にとっての歴史とは何か考える際、極めて重要な示唆を与えてくれるのが、以下の平泉澄先生の言葉である。昭和45年4月に書かれたものである。
 「歴史は、伝承であり、保持であり、発展である。もしそれ無くして、断絶があり、変易に過ぎないならば、それは厳密なる意味に於いて、最早歴史では無い。這般の道理は、精神の分裂錯乱が、人格の破滅である事を考へる時、おのづから明瞭であらう。
 斯くの如く伝承を本質とする歴史の典型的なるものは、実に我が国の歴史であり、その最も光彩陸離たるものは、明治維新である。その原動力が遠く五百年を遡って建武の昔に存し、年暦を経る事久しくして却って感激の白熱化した事は、真に偉観と云って良い。
 然るに建武の中興は、更に遡って承久の昔に発源し、承久と建武と明治と、一連の運動であり、一つの精神、脱然として六七百年を貫いて流れてゐる事は、一層大いなる感激で無ければならぬ。
 之を理解する上に一つの障碍となるは、鎌倉、特に北条の政治を賞讃し、従って承久・建武の討幕運動を、いはれなく、勝つべき道理なしとする史論の存する事である。蓋し史伝真相を伝へず、泰時・時頼等、誤って賢人の名、善政の誉をほしいままにした為であり、一面には先哲仮託して人々の反省を求めた為に外ならぬ。
 よって今本書は、短篇ながら是等の点を究めて、明治維新の源流を明かにしようとした。その時代を降るにしたがって簡略に附したのは、他に之を記述するもの、少なくない為である。前年刊行した父祖の足跡五冊と本書とは、実は相互照応するもの、願はくは聊か以て国史の理解に貢献せむ事を」(『明治の源流』はしがき」)
 日本人が日本人の歴史を取り戻す上で最も重要なことは、日本人の歴史に流れる「一つの精神」であり、それを歴史に確認する際の「大いなる感激」であろう。

平泉澄先生『明治の源流』結び─感激と気魄は承久・建武の悲劇より

 平泉澄先生は『明治の源流』(時事通信社、昭和45年)を以下のように結んでいる。
 〈明治維新は、最後にその規模を高揚して、神武天皇建国創業の初めにかへるを目標としたものであつたが、あらゆる苦難を突破して國體の本義を明かにしようとする感激と気魄とは、之を承久・建武の悲劇より汲み来つたのであつた。就中、後醍醐天皇崩御にのぞんでの御遺勅に、
 玉骨はたとひ南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ。もし命を背き義を軽んぜば、君も継體の君に非ず、臣も忠烈の臣に非じ。
と仰せられた事は、申すもかしこし、楠木正成が最期に当つて、
 七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばや。
と願を立てた、あの剛気不屈、大義を守つて一歩も後へは引かぬ精神に、人々は無上の感動を憂え、不退転の勇気を與へられたのであつた。〉

【書評】 『続平泉澄博士神道論抄』

 日本の自立と再生には、日本人が自らの歴史と思想を取り戻すことが不可欠である。その際、GHQによって封印された國體思想を解き放つことが重要な課題だと思われる。
 著者の平泉澄博士は、昭和45年に刊行した『少年日本史』の前書きで次のように書いている。
 「正しい日本人となる為には、日本歴史の真実を知り、之を受けつがねばならぬ。然るに、不幸にして、戦敗れた後の我が国は、占領軍の干渉の為に、正しい歴史を教える事が許されなかった。占領は足掛け8年にして解除せられた。然し歴史の学問は、占領下に大きく曲げられたままに、今日に至っている」
 実際、平泉の重要論文「闇斎先生と日本精神」を収めた同名の書籍(昭和七年)は、GHQによって没収された。本書には、この因縁の論文も収められている。
 平泉隆房氏が「序」で的確な紹介をされている通り、本書は『平泉澄博士神道論抄』の続編として、平泉の著述の中から、主に神道論に関わる論文を集録したものである。「序論」には、「神道と国家との関係」を、「前篇 神道史上の人物論」には、菅原道真、明恵上人、北畠親房、山崎闇斎、遊佐木斎、谷秦山、佐久良東雄、真木和泉についての論文を収録している。闇斎を論じた論文が「闇斎先生と日本精神」であり、崎門の真髄を次のように描いている。
 「君臣の大義を推し究めて時局を批判する事厳正に、しかもひとり之を認識明弁するに止まらず、身を以て之を験せんとし、従つて百難屈せず、先師倒れて後生之をつぎ、二百年に越え、幾百人に上り、前後唯一意、東西自ら一揆、王事につとめてやまざるもの、ひとり崎門に之を見る」(本書125頁)。 Continue reading “【書評】 『続平泉澄博士神道論抄』” »

「現行憲法は改正の価値なし、ただ破棄の一途あるのみ」─平泉澄先生「國體と憲法」②

 平泉澄先生は、昭和29年6月30日の講演で次のように述べている。
 〈日本国を今日の混迷より救ふもの、それは何よりも先に日本の國體を明確にすることが必要であります。而して日本の國體を明確にしますためには、第一にマッカーサー憲法の破棄であります。第二には明治天皇の欽定憲法の復活であります。このことが行はれて、日本がアメリカの従属より独立し、天皇の威厳をとり戻し、天皇陛下の万歳を唱へつつ、祖国永遠の生命の中に喜んで自己一身の生命を捧げるときに、始めて日本は再び世界の大国として立ち、他国の尊敬をかち得るのであります。
 憲法の改正はこれを考慮してよいと思ひます。然しながら改正といひますのは、欽定憲法に立ち戻って後の問題でありまして、マッカーサー憲法に関する限り、歴史の上よりこれを見ますならば、日本の國體の上よりこれを見るならば、改正の価値なし、ただ破棄の一途あるのみであります〉

延喜・天暦の御代回復を目指した後鳥羽上皇

 後鳥羽上皇について、平泉澄先生は『物語日本史 中』(講談社学術文庫)において、次のように書かれている。
 〈……ことに朝廷の盛大であったころの儀式や故実を御研究になり、その討論や練習を御下命になり、また上皇御みずから著述をなさいました。それは世俗浅深秘抄(せぞくせんしんひしょう)という上下二巻の書物で、朝廷の儀式作法を記して、それに批判を下されたものでありますが、その批判の規準となったものは、延喜・天暦、すなわち醍醐・村上両天皇の御日記であります。してみると、後鳥羽上皇は、延喜・天暦の御代にかえそうとの御希望をおもちになり、この御理想の実現のために、文武の両道を、御自身も御研究になれば、公卿達にも研究鍛錬せしめられたのであることが分ります。朝廷が高邁なる理想をいだき、雄大なる計画を立てられて、国家の健全性を回復しようと努力せられ、公卿が文武の両道に出精してくるとなれば、幕府はもはや無用のものとなるでしょう。いや、無用であるばかりでなく、有害なものといってよいでしょう〉

北条泰時の不臣(承久の悲劇)を批判した崎門学派

 明治維新を成し遂げた幕末の志士には、建武中興の挫折と、さらに遡って承久の悲劇、後鳥羽、土御門、順徳の三天皇の悲劇に対する特別な思いがあった。だからこそ、明治六年には、御沙汰により、三天皇の御神霊を奉迎することとなったのである。御生前御還幸の儀を以て、厳重なる供奉を整えて、水無瀬宮へ御迎え申し上げ、三天皇を合せて奉祀した。
 北畠親房の『神皇正統記』の後、承久の悲劇に思いを寄せたのは、崎門学だった。その重大な意義を、平泉澄先生門下の鳥巣通明先生は、『恋闕』において、次のように書かれている。
 〈…神皇正統記をうけて、徳川政権下にもつとも端的明確に泰時を糾弾したのは山崎闇斎先生の学統をうけた人々であつた。崎門に於いて、北条がしばしばとりあげられ批判せられたことは、たとへば、「浅見安正先生学談」に
  北条九代ミゴトニ治メテモ乱臣ゾ
また、
  名分ヲ立テ、春秋ノ意デミレバ北条ノ式目ヤ、足利ガ今川ノ書は、チリモハイモナイ
などと見えることによつても明らかである。当代の人々ばかりでなく久しきにわたつて世人を瞞着した「北条の民政」は、こゝにはじめて 皇国の道義によつて粉砕せられたのであつた。この批判の語調のはげしさの理由は、もしわれわれにして皇民としての感覚を喪失せざる限り、たゞ年表を手にして
  一二二一(承久三) 承久の役、後鳥羽・順徳・土御門上皇遷幸
  一二三一(寛喜三) 上御門上皇阿波にて崩御、宝算三十七
  一二三二(貞永元) 幕府式目五十一ヶ条を制定す
  一二三九(延応元) 後鳥羽上皇隠岐に崩御、宝算六十
  一二四二(仁治三) 北条泰時死
            順徳上皇佐渡に崩御、宝算四十六
と読みあげるだけで十分了知できるであらう。
 所謂「貞永式目の日」を 三上皇に於かせられては絶海の孤島にわびしくお過し遊されたのであるが、しかもこれほどの重大事を恐懼せず、慙愧することなくしで北条の民政をたゝへた時代がかつてあつたこと、否、それをたゝへる人々が現に史学界の「大家」として令名をほしいままにしてゐるのを思ふ時、それ等の人々の尊皇と民政を二元的に見る立場、不臣の行為すら「善政」によつて償はれるとする立場をきびしく批判した崎門学派の日本思想史上に占むる地位はおのづから明らかであらう〉