「川瀬徳男」カテゴリーアーカイブ

「興亜の歴史を上海に見つける」①─『上海歴史ガイドマップ』

 
 「興亜の歴史を上海に見つける」。そんな願望に応えてくれる本を、ようやく発見した。首都大学東京教授の木之内誠氏が著した『上海歴史ガイドマップ 増補改訂版』(大修館書店、2011年12月)だ。
 「BOOKデータベース」には、〈上海の主要街区の過去と現在を地図に表した「地図編」と、歴史的建築や観光スポットなどの名所旧跡等、823項目を解説した「解説編」で構成される〉と書かれている。
 まずは、東亜同文書院の場所を確認した。
 地図編26「新華路」の交通大学駅南に「東亜同文書院 1937-1945」と表記されている。
 現名は黒、歴史的名称(1949年以前)は赤、歴史的名称(1949年以降)は緑で書かれているのだ。

『岩井百年史』の中の川瀬徳男

 昭和39年2月に刊行された岩井産業編『岩井百年史』に祖父川瀬徳男の名前が出て来る。第6章「岩井産業株式会社時代」「海外よりの引揚事情」の漢口支店を扱った部分だ。
〈戦時中の同支店の主要取扱商品は塗料、顔料、写真材料、紙類、セメント、金物類、繊維類、建築材料等の移輸入、米、穀類、食油類、油脂類、胡麻、豚毛、獣骨、茶、皮革類、麻等の移輸出等であったが、大戦末期には移輸出入は不可能となり、官納の米雑穀、皮革、食油、油脂類の集買が主たるものとなって、武漢周辺、湖北省、湖南方、九江などに出張員を出し、これに当っていた。移入品も殆んど官が輸送に当り、統制組合を通じての配給版売となっていたのである。また戦災による製材不足のため、官民の要望により漢口支店は製材工場の経営に当り、原材の収集より製材まで実施していた。
 終戦当時、社員は遠く湖南省、朱河(長沙と衡陽の中間)、湖北省、天門、潜江及び九江等に蒐買のため出張しており、終戦後漢口へ集結した社員ならびに家族は一〇八名に及んだ。終戦後、中国側に日徳僑民管理処ができて在留民はここに集められ、居留民は夫々登録番号を貰い、「漢口市日徳僑民集中区日僑臂」と記された腕章をつけさせられたのである。
 昭和二十一年五月、三井、三菱、日綿、昭和通商、児玉機関等十三社の支配人が抑留せられたが、当社漢口支店長高岡光男もその一人であった。すなわち国民政府軍事委員会より経済戦犯容疑で起訴せられ、その結果、同市所在の戦犯拘置所に拘置せられたのである。当時残留してこの援護に当った漢口支店の川瀬徳男は生活費も尽き果して、最後まで居残ることはできなかった。結局各社十三名の戦犯容疑は晴れ、昭和二十二年三月無罪の判決が下り、一年近い冤罪の拘置生活をあとに高岡支店長も同六月無事帰国するを得たのである〉

日支親善の実行者『盛京時報』

 東亜同文書院第26期生(昭和5年)若宮二郎、大久保英久、宮澤敝七と祖父川瀬徳男の4名が残した旅行記「白樺の口吻」には、奉天の西田病院と並んで、盛京時報社が「真の日支親善の実行者」であると書かれている。
 まず、盛京時報社について基本的なことを確認しておきたい。『盛京時報』は、1906年10月18日、満州初の日本人経営漢字新聞として創刊された。以来、1945年までの38年間にわたって、多くの報道・社説・文芸作品などを発表した。
 同紙刊行を主導したのは、北京で漢字新聞『順天時報』を経営していた中島真雄である。創刊時主要メンバーには、中島のほかに、主筆稲垣伸太郎、営業担当の一宮房太郎、染谷宝蔵、編集担当の佐藤善雄がいた。
 中島は、日本奉天総領事萩原守一から資金提供を受けるとともに、奉天の清政府官員と交渉して、記者の採用、職員の募集などの支援を得ている。奉天民政使張元奇、奉天交渉局長陶大均など満州の清政府有力者からも協力を得た。
 華京碩氏によると、1915年に中島真雄の支援金着服疑惑が発生し、警告処分を受けて以降、『盛京時報』の紙面に外務省の主張に反する記事が出るようになった。
 1926年には、東亜同文書院で教鞭をとっていた佐原篤介が社長に就任し、時事問題を論じ、言論界で重要な役割を果たすようになる。

『東亜同文書院大旅行誌 第21巻 足跡』

 

『東亜同文書院大旅行誌 第21巻 足跡』第26期生(昭和5年)

若宮二郎、大久保英久、宮澤敝七、祖父川瀬徳男「白樺の口吻」

 想
 これは四人の男の、黒龍江の畔に、赤いロシアの山河を望みつゝ彷徨したあの想出の合作なのである。旅は人生の縮図とか。悦びも悲しみも、憂ひも不安も、総てを時の移りに委せて、村から村へ、站から駅へ、転々として漂泊ふ四名の男、猜疑の眼、露はなる排斥の中に、人種と言葉とを異にする国の奥地で、確と手と肩とを組み合せた我々が、危い足ごりで辿った足跡の回想である。 続きを読む 『東亜同文書院大旅行誌 第21巻 足跡』