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『副島種臣先生小伝』を読む③─安政の大獄と副島種臣


嘉永六(一八五三)年六月、ペリー艦隊が浦賀沖に来航し、日本の開国と条約締結を求めてきた。幕府は一旦ペリーを退去させたが、翌嘉永七(一八五四)年三月三日、幕府はアメリカとの間で日米和親条約を締結した。
安政三(一八五六)年七月には、アメリカ総領事ハリスが、日米和親条約に基づいて下田に駐在を開始した。幕府はアメリカの要求に応じて、日米修好通商条約締結を進め、安政五年三月十二日には、関白・九条尚忠が朝廷に条約の議案を提出する。大老井伊直弼は安政五年六月十九日、勅許を得ないまま、修好通商条約に調印したのである。
これに反発した尊攘派に井伊は厳しい処断で応じた。安政の大獄である。幕府の最初のターゲットとなった梅田雲浜は獄死している。
ところが、尊攘派の怒りは安政七(一八六〇)年三月三日に爆発する。江戸城桜田門外で彦根藩の行列が襲撃され、井伊が暗殺されたのだ。桜田門外の変である。これを契機に尊攘派たちが復権を果たしていく。
この激動の時代を青年副島は、どのように生きたのか。
日米和親条約が締結された翌安政二(一八五五)年、彼は皇学研究のために三年問京都留学を命ぜられた。まさに、弱腰の幕府に対して尊攘論が高まる時代だ。副島は、京都で諸藩の志士と交流し、一君万民論を鼓吹し、幕府の専横を攻撃した。
安政五年五月、副島は一旦帰国して、楠公義祭に列したが、六月再び上洛、大原重徳卿に面謁して、将軍宣下廃止論を説き、青蓮院宮に伺候し、伊丹重賢(蔵人)と面会している。伊丹家は代々青蓮院宮に仕えた家であり、伊丹は尊攘派の志士として東奔西走していた。
副島は、伊丹の相談を引き受けて、兵を募るために帰藩した。この時、藩主・鍋島直正は副島の身の上を気遣い、禁足を命じて神陽に監督を頼んだという。

副島種臣『精神教育』⑥

丸山幹治は『副島種臣伯』において、副島の『精神教育』から抜き書きしている。前回に続き、第九編以降を見ていく。
第九編「無有」である。無々不生有、有々安得無といふ自作詩に就て先生一流の世界観と倫理観を説いた。
第十編は「観道」である。「道は天地開闢以来何時も一貫して存して居るものである、開闢の時の忠孝も、今日の忠孝と変りはない、今日の忠孝は後世の忠孝である、無きものが新に発見されるのではない」とある。

副島種臣『精神教育』⑤

丸山幹治は『副島種臣伯』において、副島の『精神教育』から抜き書きしている。前回に続き、第八編以降を見ていく。
〈第八編は「日本の歴史」である。「我が国の上代は野蛮であつたなどゝいふけれども、野蛮では出来ないことが幾つもある」「元来野蛮といふことは不足といふことゝ全く意味が違ふ」「天皇様は孝あつて忠なしと言はんが如きものである、臣民は忠を重もに説きて孝に持ち込めば、孝の中で一番の孝は君に忠を尽すことである」「抑我が国の歴史は、時運の変遷社会の状態を記せるに止るが如き単純無味ならものにあらずして、世界の元始と共に存在せる徳教の真理を闡明し、白然の道義を説示せる経典なり」「我が国の成立は決して彼れ蛮族の占領、酋長の奪略に基けるが如きものあらず、厳乎たる体相、自然に出づ」「維新以来諸の詔勅常に皇祖皇宗の宏猷によりて云々と宜ふもの、見るべし我が皇徳の大綱、万世一旨、只祖宗の宏猷を崇敬し給ふに在ることを、夫れ孝は道の大本にして万善の由りて生ずる所なり」「我が日本人民、万姓の祖、之を窮むれば即ち天神に出づ、忠孝二致なし」「我が神聖にして宇内無比なる古事記、日本書紀以下の歴史は、天地開闢の初に源せる道義の教典なり。忠孝の明鑑なり、人倫の大綱を事実に明示して万世に垂るゝ天道の遺範なり」など〱ある〉

副島種臣『精神教育』④

丸山幹治は『副島種臣伯』において、副島の『精神教育』から抜き書きしている。前回に続き、第六編以降を見ていく。
〈第六編は「仁智」である。「常に智を弄すると仁は無くなる、智の極からいふときには君父なきに至るものであらう」「藤房卿とか西行とか皆智者である、己を潔うするに止まるのみである、楠公に至ては真に仁者であらう」「世界の終極を思ふやうになると、国家といふ念慮も、君父といふ念慮もないことになつてしまふ、天壊無窮、万世一系と思へばこそ、亡魂になつてゞも尽したいといふ一念が立つといふもの、これを世界の終迄考ふるやうになると、七生人間といふやうな意念がなくなつてしまふ」「人が勉強して誠を養ふと、念々皆神ならざるはなしの所まで進むこと出来る」「如何なる人と雖も平日と大平の時とは別のものである、それは心の出様から差ふ、坂上田村麿も平日家居の時には、小児と同じやうな心になつて、遊んで居つたであらうけれども、此の戦に臨んだ時には、百万の敵も睨んだばかりで辟易した」「誠の極といふものは、己の泣く時には天も泣き、己の喜ぶ時に天も喜ぶものである」「一以貫之といふ語は人によりて色々と見様が差ふけれども、天の御心を我心としで居るといふ心もちで、所謂天一致の意味であると拙者は思ふて属る」など。
第七編は「利義」である。「魂には其の師匠として差図をなさる神が止つて在らせらるゝ、即ち、魂が良知良能を作り出すにはそのお師匠さんがある筈である、このお師匠さんといふは、即ちいたゞきに来住める神である、人といふ語を日止と解した説もある、日は即ち神である」。など。〉

副島種臣『精神教育』③


丸山幹治は『副島種臣伯』において、副島の『精神教育』から抜き書きしている。前回に続き、第五編以降を見ていく。
〈第五編は「良知」である。「人の念々の動くのは多くは皆慣習であるものだから、忠孝の習慣の厚いものは常にその念が動き、又忠孝といふ者を常に思はぬものは其の念は決して動かぬ、そこが習相違である」「中庸に天命之謂性、率性之謂道(天の命ずるをこれ性と謂い、性に率うをこれ道と謂い)とある、率性とは即性のまゝといふことである、性のまゝなるが道なれば、道と性とは同一なるもので、差つたものでないといふことが分るであらう」「中庸にも君臣也。父子也、夫婦也、昆弟也、朋友之交也、五者天下之達道也とある通り畢竟五倫といふものより外に道といふものはない筈のものである」「伊邪那岐、伊邪那美の二柱の神が生れましたといふは、夫婦の義であらう、其れからだん〲と多くの神々が生れましたといふは、即、父子の義であらう、葦原千五百秋之瑞穂国是我子孫可王之地、宜爾皇孫就而治焉とあるは君の義であらう、臣下よりいふときには、臣の道が其れから生ずるものであるから、やはり君臣の意味である、庸佐夜芸互阿理祁理といふ場合からだん〲と万民が相輯睦するといふのは、即、朋友の交がそれから教へらるゝのである、それから先づ兄なる皇子より即位に即かせられて、次に弟の皇子に及ぶといふのが経である。間々その時によつて弟が先立たれたこともあるけれども、それは権である。これから長幼の道も明になつて居る、かやうに五倫の道といふものは決して支那から教へられたのでなく、自然に備てゐる」「すべて君父には不較といふて、何であらうが是非曲直を較ぶるといふことをせぬが、臣子たる者の道である」「道といふ字は首に辵すなはち首が走ると書てある、即、頂に来住める神が走るの意味であらう」「貴といふ字は一中が貝(タカラ)なりと書てある」「一文字を作つた蒼頡といふ男はなか〱えらいものであつた」など〉

副島種臣『精神教育』②

丸山幹治は『副島種臣伯』において、副島の『精神教育』から抜き書きしている。前回に続き、第三編以降を見ていく。
〈第三編「日本の教育」には「日本の教育といふは他ではない、老人も小児も、男も女も、皆ひとしく吾等は先祖代々、万世一系の天皇さまの下に居るものであれば、この一系の天皇さまの御為には、何時でも身命を擲て御奉公申上げるといふの心を養ふことである」「この大なるものが立てば、其余の小なるものは随て立つのである」「兵隊が平日は日本帝国万歳といつて空に教へられて居るのが、愈々戦争の時になつて遼東とか旅順とかにて絶叫する時は 天皇陛下万歳と言つて帝国万歳とは言はぬ、そこが自然と一天万上の君を戴きて居る所を顕はしたといふものである」「不得已といふことはどうしてあるものだ、不得已といふことの証拠は荒魂である、已に荒魂則勇の魂を享けて居る以上は、我に敵するものに打勝たなければならぬ」「養ふべきは大勇である、爾後に大仁を天に施し得るのである」などなどある。
第四編は「道徳」である。「孔子の書に道徳と二字接続してこれを言ふものあるを見ず而して接続して之をいへるは史記の老荘申韓伝に出でたり」「孔子の書に単に道と云ひ徳と言ふも、皆善道善徳を称する者にして決して悪道悪徳を称するものに非ず」「孔子の道を論ずるや夫婦の愚可知矣といへり、失婦の愚、豈天下の達道、天下の達徳なる者を逃れ得んや、老子が云ふ如き空言無実なるものゝ比すべきに非ず、徳をノリとす、即ち乗り行ふべき者の謂なり。出言為度の度なり、乗も同義なり」などなどある〉

副島種臣『精神教育』①


丸山幹治の『副島種臣伯』に「先生の日本主義」という一節がある。
これは、副島の『精神教育』から丸山が抜き書きしたものである。『精神教育』は副島の門人、川崎又次郎が編纂し、同佐々木哲太郎が校閲した。
〈第一編「教導」には、「教ふる時は半分は自分の学問するといふ心あひで教へねばならぬ」「師たるものは言々語々言葉に注意していはねばならぬ」「人を教ふゆるには愛を表にしてゆかなければならぬ。智の方は以心伝心でゆくがよいものである」「孔子の出門如見大賓といふのは、一口にいはゞ人を慢らぬといふまでゞある、人を呵る時は此者の顔にも神は宿つてござると思ふ所である」「凡天下に志あるものは何時で靄然として仁天下を蓋ふものがあるによつて、天地と度を合するものである」。などなどある。
第二編「感化」には「彼の楠氏の時代には、武蔵相模の兵は、日本中寄つても之に当る者が無いといふ程強かつたが、五畿内の兵は、鞭で打たれても直ぐに斃れるといふ程弱い者として有つた、然るに其の鞭で打つても斃れる弱い五百人の兵士を楠が率ゐると、楠の義勇の精神は、直に五百人の兵士の心となり、日本中の兵を引受けて宜いといふ武蔵相模の兵と戦ふて、彼は散々逃げても、楠の兵は一人も逃げたといふ事はない」「楠、児島の精神を知るに依つて万劫末代、志士仁人を起して行く、足利尊氏の為めに奮ひ起つたといふものは一人も無い」「智慧と智慧で来る時は互に相欺くばかりである」「楠の死んだ時でも其首を賊兵が楠の郷里に送つて遣つたと云ふ様な伝へがあるものである、賤までが感ずる」「高山彦九郎の日記と云ふものがある、信濃の人で林康之といふが其日記を持つて来て見せられた事がある。粗末な紙に書いてある、其に高山が伏見を通つた時、伏見に戦気が見える、他日事の有るならば、伏見から始まらうと言つた事が書いてある、然るに御維新の際、伏見の戦争が第一着であつた」「感応とか、感招とか、感化とか、自然と天地人相通ずる所の者がある」「感招の理は信長が一人、尾張に起ると秀吉とか蒲生とか誰とか言ふ様な有名な人は悉く尾張から起つた、家康一人三河から起ると、天下を定むるに足る伎倆の輦が矢張三河から起つた」「富士山も平にすれば何にもならぬ。横幅を利かさぬから高くなる」「孔子等は其人の長ずる所に依つて、一方に長じた人に、一方を長じさする、何もかも利かすと平くなつて何処も利かぬ様になる」などなどある〉

副島種臣の外交①─イギリス公使に阿らず


高圧的な姿勢をとる列強に対して、外務卿副島種臣は決して怯まず、阿らなかった。以下、丸山幹治の『副島種臣伯』に基づいて、英国公使に対する副島の態度を紹介する。
副島が外務卿に就任したのは、明治四(一八七一)年十一月のことである。当時、英国公使パークスは、わが国の大臣、参議等を小児のように扱っていた。パークスは、外務卿に就任した副島に対しても、例の恫喝的な口調で外交上の話を持ち出した。副島は、一言の下にそれを刎ねつけたのだった。
パークスは、血相を変かえて副島に言う。
「それならば戦争に訴えるしかない。従来の国交も最早これまでだ」
副島は一歩も引かない。
「国際の礼儀を弁えない足下のような人は、公使としては待つことができない。貴国政府がそのような熊度であるなら、帝国政府も考えなくてはならない。これ以上の談判は無用だ」
そう言って席を立とうとした。
パークスは狼狽した。そして「どうも失言をして申し訳ない。戦争などはもっての外である。どうか今一度懇談して見たい」
と折れたのである。
副島は大いに笑って、「いや、御安心なさい、今言ったのは戯談に過ぎない」と語ったという。後にパークスは「自分は清国の総理衙門に対する筆法で日本に臨んだが、副島には飛んだ失敗をしが。彼はなかなかの人物である」と振り返っている。
副島は、外務卿として、傲慢な外国公使に対して一歩も仮借しなかった。明治五年、新任の英国公使ワトソンが西洋の習慣に沿って立礼によって天皇陛下に謁見を賜りたいと副島に申し出て来た。
これに対して副島は、「外国使臣がその国に入ってその国の礼に従うことは万国公法上当然のことである。日本の皇室は古来、立礼を御用いにならない。立礼でなければ謁見を望まぬというなら、それで宜しからう」と、はっきりと返答した。ワトソンは一言もなく、謁見を見合せた。
まもなく、ロシアとアメリカの公使は立礼、座礼のどちらでも仰せに従うから、謁見したいと申し出てきた。そこで、副島はその手続きを取扱った。
いよいよ謁見となり、座礼にしようとしたところ、陛下には御立礼を遊ばされたのである。両公使は非常に感激して退いた。これを聞いた英国公使は大いに恥じ入ったという。
その年五月、英国はどのような御礼式にも従うとして、改めて謁見を願い出た。その時も陛下には御立礼を遊ばされた。

わが國體を列国公使に説いた副島種臣

明治四年十一月十七日、大嘗祭が行われた。翌十八日には列国公使に賜餞があった。この場で、副島種臣は次のように大嘗祭の趣旨を述べている。
「昨日、大嘗祭首尾能済て愛たき事極りなし。此祝は天皇一代に一度必ず無くて叶はざるの大祀なり。然れども此度の如く日本全国にて祀りたるは久く年序を経たり。我国民生しでてより以来君主有りて数千歳を経、人民数千万を藩殖せるの今日に至ても猶其昔の君主の統系変ずることなし。此の如きは外国にも珍らしき事なるべし。然るに其の中種々の弊発りて、武臣権を擅(ほしいまま)にし、将軍と云い或いは大名と云う者出来て私に土地を擁し一向君主の権世に行はれざりしが聞知せらるる如く四年前より尽力して大改革の事件漸く整い此大嘗祭を行うに至れり。偖我が天皇の世系連綿絶る事なきは日本国民の幸なるに其権今日に興り全国一主の統御に帰して我民の幸を更に重ぬる事は言に及ばず。我と交る外国人の幸となる事疑ふべからず。此祭の功徳貴国にまで及ぶものあらば即ち貴国君主並に大統領の幸となるべし。今ま貴国と我と両国君主大統領並に其人民の為に之を祝し一盃を勧むるなり」
『副島種臣先生小伝』は以下のように述べている。
「先生が大嘗祭の意義を述べて、我が國體の世界無比なる所以を知らしめたことは、我が国威をして燦然たる光輝を放たしめたものである」

『副島伯閑話』を読む①─枝吉神陽と高山彦九郎・蒲生君平

『副島伯閑話』には、副島の兄枝吉神陽の尊皇思想が明確に示されている。特に注目されるのは、高山彦九郎・蒲生君平の影響である。副島は神陽について以下のように語っている。
「是は唯性質純粋の勤王家であつた」
「是は勤王家であるから、奸雄のことは一口も褒むることは嫌ひである」
「矢張兄も高山蒲生等が好きで、其伝を自ら写して居られた、其中蒲生の著述には殊の外服して居られた、職官志、山陵志、それから不恤緯と言ふやうな蒲生君の著述がある、それから、蒲生の詩集も写して居られた」
ここで、編者の片淵琢は「左に高山蒲生両士の伝を掲げて、世上同好の人士に示す」と述べ、28ページに及ぶ伝記を載せている。これは、枝吉神陽・副島種臣に対する高山彦九郎・蒲生君平の影響の大きさを物語っている。
さらに、副島は神陽について以下のように語っている。
「昌平校で日本書を読むやうなことを始めたのは兄である。是れは間違は無いとこで、佐賀の国学教諭と云ふ者になつて居られた時、皇学寮と云ふものを起されて矢張日本の書を研究する寮を一つ設けられた、それから、楠公の社を起されて、此楠公の社と云へば、二百年前に佐賀の光茂公と云ふ人も加入して居られる、深江信溪其等と一緒に楠公父子の木像を拵へて祭られたことがある、其古い木像が後は梅林庵と云ふ寺にあつた、それを捜がし出しで、兄が始めて祭られた、それで、学校の書生等も、往々それに加はり、或は佐賀の家老あたりも、数名それに出席するやうになった、是が勤王の誠忠を鼓動されたことになつた」