「『アジア英雄伝』」カテゴリーアーカイブ

「志士のみが志士を作り得る」(望月重信大尉)─フィリピン解放の瞬間

 大東亜戦争はアジア解放の聖戦だったのか。開戦後、米軍を駆逐したフィリピンの現状を直視した望月重信大尉が放った言葉は、大東亜共栄圏建設の理想と現実を抉り出す。
 皇道を体現した望月大尉のことを筆者が初めて書いたのは、『月刊日本』2006年12月号でアルテミオ・リカルテを取り上げたときのことである。
 2013年5月22日には、靖国神社正殿で「望月重信師永代神楽祭」が執り行われた。ここには、望月大尉の故郷長野の太平観音堂の藤本光世住職をはじめ、大尉とご縁の深い方々が参集した。その関係者から貴重な資料をお預かりした。望月大尉祖述(太平塾生・法子いせ謹記)の「死士道 国生み」である。そこには、アジア解放の持つ途轍もなく重い意味が示されていた。
 大東亜戦争開戦後、日本軍は米軍を放逐しマニラ市に上陸した。アメリカ陸軍司令官のダグラス・マッカーサーはオーストラリアに逃亡、1942年の上半期中に日本軍はフィリピン全土を占領した。陸軍宣伝班に所属していた望月大尉は、1942年末に、フィリピンを支える国士を作りたいと決意し、マニラ南方のタール湖周辺の保養地タガイタイ高原に、皇道主義教育の拠点「タガイタイ教育隊」を設立した。そして、1943年10月14日、フィリピンでは日本軍の軍政が撤廃された。この瞬間について、望月大尉は次のように述べている。
 「新比島の国旗がするすると掲げられた。如何に多くの志士がこの荘厳なる刹那の為に血を以て戦ひ続けた事であるか。又この為にこそ如何に甚大なる皇軍将校の尊い犠牲が支払はれた事であるか。
 吾等の眼は間隙の涙にむせんで最早国旗をまともに仰ぐ事が出来なかつた」 Continue reading “「志士のみが志士を作り得る」(望月重信大尉)─フィリピン解放の瞬間” »

近衛篤麿─東亜同文書院に込めた中国保全の志

文麿に引き継がれた興亜思想
 「……帝国の冀求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り。……この新秩序の建設は日満支三国相携へ、政治、経済、文化等各般に亘り互助連環の関係を樹立するを以て根幹とし、東亜に於ける国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり。是れ実に東亜を安定し、世界の進運に寄与する所以なり。……惟ふに東亜に於ける新秩序の建設は、我が肇国の精神に渕源し、これを完成するは、現代日本国民に課せられたる光栄ある責務なり」
 昭和十三年十一月三日、近衛文麿首相の東亜新秩序声明に国民は沸き立った。頭山満はこの声明を誰よりも感慨深く聞き、文麿の父篤麿が亡くなった日のことを思い起こしていたことだろう。東亜新秩序声明を書いたのは、大正四年に東亜同文書院に入学し、篤麿の盟友、根津一院長に可愛がられた中山優である。
 興亜陣営の強い期待を背負いながら、篤麿が四十歳の若さで亡くなったのは、明治三十七年一月二日のことであった。当時頭山は四十八歳、文麿は十二歳、弟の秀麿は五歳だった。
 『近衛篤麿』を著した山本茂樹氏は、「篤麿が存命で強力なリーダーシップを発揮した場合、支那保全論から一歩進んで、アジアの解放とアジア諸民族の結束を意味するアジア主義を新たな国家目標として設定できた可能性もあった。それというのも……篤麿こそは、数あるアジア主義者の中でも、強力な指導力と日本の朝野のアジア主義者たちを糾合出来る求心力を十分に持つほとんど唯一の存在であり、しかも天皇に最も近い立場にあって、将来の首相候補として真っ先に挙げられ、欧米だけでなくアジアの国々での知名度も高かったからである」と書いている。だからこそ、地方の抜け目のない金持ちたちは、篤麿がいずれ首相になる人物だと見込んで、彼に多額の献金をしていた。ところが、どういうわけか篤麿は受け取った献金に対して必ず借用証書を出し、個人の借金にしていた。これが祟った。 Continue reading “近衛篤麿─東亜同文書院に込めた中国保全の志” »

大倉邦彦と東亜同文書院

 大倉邦彦が県立佐賀中学校在学中の明治三十四年十月、上海の東亜同文書院の院長・根津一が来校して講演、清国情勢と我が国の政策について述べた。根津は、荒尾精の盟友として活躍した興亜思想の先駆者である。
 邦彦はこの根津の講演を聞き、興亜の志を抱き、東亜同文書院に進学することを決意する。
 ところが、母ヱツは「そんな遠いところに行かなくても」と、泣いて引き留めようとした。邦彦は、「単に東京の名に憧れて都の学校に入って職にありつくよりも、シナへ行って今に総督の顧問になる方が私に適っています」と母を説得、明治三十六年九月上海に赴き、東亜同文書院商務科に進んだのだった。
 上海での体験は、若き邦彦に強い影響を与えた。晩年の邦彦と交流した、平泉澄門下の村尾次郎は、邦彦が上海などで目撃した光景について、次のように書いている。
 「上海あるいは天津におります時分に、大倉邦彦は非常に深い悩みに閉ざされていたのです。当時の清国は列強の侵食するところとなっており、上海も天津も、大きな港は列強の利権の場所となっていました。(中略)大倉邦彦青年が散歩しながらつくづくと思ったのは、公園の入口に『犬と支那人は入るべからず』と書いてある、何と情けないことだ、自分の国の人間が犬以下に扱われるという清国の窮状、それはアジア全体の窮状であると思われました」(村尾次郎「創立者大倉邦彦の人と思想」『大倉邦彦と精神文化研究所』平成十四年、三十九頁)。

東京裁判史観は在野の興亜論者の行為も否定した

 平成25年末の安倍首相の靖国参拝以来、東京裁判批判を許さないというアメリカの意志が明確になってきた。もはや、戦後レジームからの脱却を目指すためには、アメリカとの思想闘争は避けられなくなった。
 以下、『アジア英雄伝』の「はじめに」の関係箇所を引用する。

〈占領期のアメリカによる日本の言論統制の目的は、戦前の日本の行為を全て悪、連合国の行為を全て善とする、一方的な考え方を日本に浸透させることにあったのではなかろうか。日本政府の行為も、在野の興亜論者の行為も、アメリカに不都合なものは、悪とされたのである。
 この占領期に行われた言論統制は、徹底したものであった。昭和二〇(一九四五)年九月一〇日、GHQは「新聞報道取締方針」を出した。さらに、GHQは同年九月一九日に「プレス・コード(新聞規約)」を発令、一〇項目の禁止事項を明示して言論統制を強化しようとした。プレス・コードは一九四六年一月二四日付で、一般の出版物だけでなく、国会を含む官庁の出版物にも準用されている。 Continue reading “東京裁判史観は在野の興亜論者の行為も否定した” »

政府の外交と在野の興亜論者

興亜思想と世界皇化
 興亜論者たちは、日本の理想を国際社会へ適用する上で、大きな障害となっていた植民地支配、人種差別を世界からなくし、すべての民族が独立し、対等の関係に立てるように世界を変革しようと試みた。例えばアジアに志した荒尾精は、すでに明治二八(一八九五)年三月に、『対清弁妄』で次のように書いている。
 「我国は皇国也。天成自然の国家也。我国が四海六合を統一するは天の我国に命ずる所也。 皇祖 皇宗の宏猷大謨を大成するの外に出でず。顧ふに皇道の天下に行はれざるや久し。海外列国、概ね虎呑狼食を以て唯一の計策と為し、射利貪欲を以て最大の目的と為し、其奔競争奪の状況は、恰も群犬の腐肉を争ふが如し。是時に当り、上に天授神聖の真君を戴き、下に忠勇尚武の良民を帥ひ、有罪を討して無辜を救ひ、廃邦を興して絶世を継ぎ、天成自然の皇道を以て虎呑狼食の蛮風を攘ひ、仁義忠孝の倫理を以て射利貪欲の邪念を正し、苟くも天日の照らす所、復た寸土一民の 皇沢に浴せざる者なきに至らしむるは、豈に我皇国の天職に非ずや。豈に我君我民の 祖宗列聖に対する本務に非ずや」 Continue reading “政府の外交と在野の興亜論者” »

興亜思想で結ばれた志士のネットワーク

筆者が『アジア英雄伝』で取り上げた二五人の志士たちの多くは、日本に亡命するか、日本が設立した訓練機関などに所属し、興亜の理想を日本人と共有していた。

彼らが信頼した日本人とは、頭山満に代表される、列強の植民地支配に抵抗し、アジア諸民族の独立に手を貸そうとした興亜陣営であった。以下、アジアの志士たちと興亜陣営の結びつきを列挙してみたい。

朝鮮開化派のリーダー金玉均が来日する前年の明治一四(一八八一)年、朝鮮から派遣され視察団の一員として日本に来た魚允中は、副島種臣に招かれて興亜会の宴に列し、アジアの興隆を志す副島に刺激を受けていた。金玉均は、魚允中から副島の興亜思想を伝え聞いたに違いない。金は、訪日直後に興亜会主催の会合に参加し、日本、清、朝鮮三国間の平和、協力を目指した三和主義に基づく「興亜之意見」を発表していた。 Continue reading “興亜思想で結ばれた志士のネットワーク” »