「崎門学」カテゴリーアーカイブ

垂加神道の「熱田之伝」

 垂加神道は、宝剣伝に附随して「熱田之伝」を説いた。
 尾張の国名と熱田社の土用殿とについて特殊の意義が込められているとの説である。『諸伝極秘之口授』には、以下のように書かれている。
 「尾張ハモト宝剣ノ御鎮座ニヨツテ付タ。則尾張ハ尾ノ針ト云コト。熱田ハ夏田ノ訓、此剣ノ納テアル御殿ヲ土用ノ御殿ト云。コレハナゼニナレバ、金気ヲ克スルモノハ火、ソレデ火剋金ヲ恐レタモノ。土用ノ御殿トイテモ火生土、土生金ト土カラ生ジサセル様ニト云コト。夏ハ火、田ハ土ユヘ熱田ガ夏ノ土用ト云コトニナル。則夏越祓、アレガ夏カラ秋ヘウツル処ノ火剋金ヲヽソレテ、スガヌキノ輪ヲコシラヘテ南カラ中ヘハイリテ、ソシテ西ヘヌケル。コレガ火生土、土生金ノ行ヒ。ソレデ人デモ金気ノトロケタ時、リント敬ムト気ガ立テクル。兎角金気ハ土カラデナケレバヲコラヌ」
 松本丘先生は、〈尾張の国号は大蛇の「尾ノ針」、即ち宝剣の鎮座に由来するものとし、それを奉祀する土用殿の語義も、五行説を用ゐつつ敬の根基となる金気に結び付けて解釈するものである〉と述べている。
 素戔嗚尊の帰善と宝剣の出現の解釈同様に、熱田之伝にもまた吉川神道の影響が窺えるが、松本先生が指摘するように、垂加神道においては、土用殿についても素尊の敬に引きつけて説かれており、より倫理的傾向を強めている。

素戔嗚尊の帰善に敬(つつしみ)を読み取る垂加神道

 素戔嗚尊は多くの乱暴を行ったため、天照大神が怒って岩屋に隠れ、世界は暗黒になった。神々は素戔嗚尊を高天原から追放した。出雲に降りた素戔嗚尊は、八岐大蛇を退治し、奇稲田姫を救った。大蛇の尾から得たのが、天叢雲剣である。
 「素戔嗚尊が『清々之』の境地に至られたことと宝剣の出現とは深い関連がある」とする山崎闇斎の説は、忌部正通の神道説や吉田神道の説とも共通する。松本丘先生は、忌部正通の『神代巻口訣』に、「素戔鳴尊、悪極まりて髪を抜き手足の爪を抜きて以て贖ひ、逐はれて降り、悔改めて善心を発し、爰に天下の悪を止め大地を亡す。(中略)尊、悪行有りて善に帰す。故に剣を以て剣を出す。(原漢文)」とあることを指摘する。
 また、吉川惟足の『日本書紀聞書』にも以下のように書かれている。
 「土用の御殿めうき天下になし。此神剣に付て、土金の相伝ある也。素戔嗚尊の曰く、是あやしき剣也、吾私におけらんやうもなしとて、天照大神へ献上なされる。天照大神に上らるゝこと、御心の善に成玉ふしるし也」
 松本先生は、「闇斎は、惟足を通じて吉田家の説にも益を受け、宝剣説を語つてゐたものと考へられよう」「闇斎は先行の諸説を参考しつつ、素尊の神徳と神剣との関係を明確にし、それを神道説の奥秘の一つに据ゑたのであつた」と指摘している。
 そして、素戔嗚尊の帰善に「敬」(つつしみ)を読み取る点が、垂加神道の特色である。
 闇斎歿後十数年後に成ったと考えられる『諸伝極秘之口授』には、以下のように書かれている。
 「コヽノ伝ト云ハ至(レ)尾剣少缺ト云ガ伝ゾ。素戔嗚尊コレニヨツテ清々之徳ニナラレタコトガ此伝デ、宝剣ノイワレ云コトハナニモナイ。(中略)雨風ニ吹ウタレテ辛苦降矣トアル。辛苦ノ字ガ大事。ソコデフツト本心ガ出テアヽ我降テハ皇統ノ御子ノセンギスル者ガナイガト気ガ付テ天へ登テ皇統ノ吟味ノ有ト云ハ素尊ノ大ナル気質ノ変化ゾ。段々気質ガ練レタユヘ敬ノ功ヲモツタモノ。ソレユヘナニノ苦モナク大蛇ヲ退治ナサレ、既ニ大蛇ノ頭不(レ)残キラレタ。然シナガラ加様ナ岐蛇ジヤニヨツテ少ク残テ有テモ又何変モ知レヌユヘ寸々ニ斬タ。コレモ皆敬カラヲコツタコト。コレホドニ敬ノ工夫ヲ用ラレタニ一心安イ尾ニ至テ剣刄缺タ。ソコデ素戔嗚尊ノナニカサシヲイテサテモ敬ト云モノハ極リナイモノ。最早コレデヨイト云コトハ云レヌモノジヤト云処デトント敬ノ至極ヲ自得サセラレタ。コヽデマ一ヘンノ敬ヲ得ラレタ処デ遂ニ清々之ト云場ヘ至ラレタゾ」

霊元天皇宣命─「国家静謐、万民和楽」を大神に祈願

 明治維新の本義を考察するとき、幕末以前から存在した尊皇論の展開を重視する必要がある。そして、徳川幕府初期の尊皇論の展開を考えるためには、幕府発足以来の朝廷と幕府の微妙な関係、特に大御心を発揮できない悲劇的な御境遇にあった後水尾天皇や霊元天皇への思いが決定的に重要と思われる。崎門学正統派の近藤啓吾先生は、『講学五十年』(平成二年)において、以下のように書いている。
 〈葺原や茂らば茂れおのがままとても道ある世とは思はず
  世の中はあしまの蟹のあしまどひ横にゆくこそ道のみちなれ
 右は後水尾上皇が徳川幕府の専横を憤り給ひて詠ぜられた御製である(拙稿『垂加神道樹立の苦悩』。『神道史研究』三五の三、参看)。その父天皇の御憤りを受けられ、朝威の振興を志された豪邁英鋭の天子、後光明天皇は御年二十二歳にて急に崩御になり、ついで立たれた御弟後西天皇は、幕府の強圧によつて御譲位の外なくなり、朝威振興の機なきままに、同じく後水尾天皇の御子である霊元天皇が御即位になるのである。
 霊元天皇は、即位せられた寛文三年には御年わずかに十歳にましましたから、御自身のことに叡慮を運らし給ふべくもなかつたが、やがて御成長されるにつれ、天皇としての強い御自覚を持たれるやうになられたことは、天和二年正月二十九日、(御年二十九歳)、伊勢神宮に献ぜられた宣命(その御宸筆の案、『宸翰英華』所収)に
 「朕、軽才薄徳の性を以て天日嗣を受伝へたる事は、誠に冥慮の広き御助けなるに、動もすれば輒ち安居を思ひて帝位を忝しめ、治天剰へ二十年に及べるは、偏へに是れ皇太神の深き御護り厚き御恤みに依りてなり。然るに世已に澆季に及びて、帝道爰に漸く衰へぬれば、本より神事の久しく絶えたるを継ぎぬる功も無く、且又朝政の已に廃れたるを興せる務も無きを、毎に恐み毎に愁ふる事になむ。」
 「神威ますます耀き、朝廷再び興り、宝祚の隆なること天壌と窮り無く、常磐堅磐に夜の守り日の守りに護幸給ひて、国家静謐、万民和楽、五体安穏、諸願円満に護り恤み給へと、恐み恐みも申して申さく。」
とあることによつて拝することができる。乃ち天皇は幕府の強い干渉抑圧のもとに「神事の久しく絶えたるを継ぎぬる功も無く、且又朝政の已に廃れたるを興せる務も無」しと深く餓悔せられながら、なほ不屈の御意志をもつて、「国家静謐、万民和楽」を、大神に祈願してをられるのである。右は霊元天皇の宣命であるが、実はこれ天皇御一人の祈願に止まるものでなく、御歴代天皇の御志であつたのである。その証拠には、皇室の衰微最も甚しかつたのは戦国時代末、後奈良天皇の御代であつて、紫宸殿の築地の破れから内侍所の灯火を望見せられたと伝へられるが、そのうちにあられて、天文十四年八月二十八日、伊勢大神宮に、天子の位に昇りながら
 「大嘗悠紀・主紀(主基)の神殿に、自ら神供を備ふること、其の節を遂げず。敢て怠れるにあらず。国の力の衰微を思ふ故なり。」
とその御苦衷を訴へられるとともに
 「急に威力を加へて、上下和睦し、民戸豊饒に、いよいよ宝祚長久に、所願速かに成就することを得しめて、神冥納受を垂れ給へと、恐み畏みも申す。」(後奈良天皇宸翰宣命案)
と祈願せられてゐることが挙げられる。まことに、朝政古に復し暴逆行はれず、万民その所を得て楽しむ世を作ることが、皇室の御目的であり御理想であつたのである。
 そしてその御目的、御理想を、霊元天皇の御製に、私共は明確に拝察申上げることができる。〉

【書評】 折本龍則『崎門学と「保建大記」―皇政復古の源流思想』(三浦夏南氏評)

 崎門学研究会代表の折本龍則氏の『崎門学と「保建大記」―皇政復古の源流思想』の書評が、大東塾・不二歌道会の機関紙『不二』(令和元年8月号)に掲載された。ひの心を継ぐ会会長・三浦夏南氏による堂々たる書評だ。
 〈新しき御代の訪れとともに、明治維新という大業の精神的支柱となった崎門学の入門書が発刊されることは、維新より時の流れること百五十年、表層の雑論より飛躍して、我が国の淵源に着目し、根本的な研究と実践が求められる我々令和の皇民にとって、誠に得難き手引きとなるものと思う。崎門学が土台とするところの朱子学は、哲学的、宇宙論的内容を多分に含み、一般に難解とされ、崎門学の必読書とされる『靖献遺言』、『保建大記』等も漢文で記されていることから、現代の日本人にとって、重要とは知りつつも親しみ難いものとされて来た。本書は著者一流の解説により崎門学の持つ「難解」の固定概念に風穴を開け、崎門先哲の求道の炎を現代に再燃させる発火点となる一冊である。
(中略)
 底の浅い保守思想、国体解釈が横行する現代にあって、己の魂の深奥に沈潜して練成された真の国体学とも言うべき崎門学が持つ影響力は計り知れない。崎門の先生方が強調された「己の為の学」に背かぬよう、自らが学び続けることを誓うとともに、この入門書を通して多くの日本人が崎門の純烈なる精神に直接されることを切望する。最後に浦安市議会議員として崎門の学を政界に体現されている著者の折本氏に敬意と感謝を表して擱筆させて頂きたいと思う〉

崎門学派の徂徠学派批判

 尾張藩では、第8代藩主徳川宗勝時代の寛延元(1748)年に、崎門学派の蟹養斎が藩の援助を受けて「巾下学問所」を設立した。しかし、この時代は荻生徂徠の徂徠学の勢いが強く、崎門学などの朱子学派にとっては厳しい時代であった。だからこそ、尾張崎門学は、徂徠学に対して強い抵抗姿勢を示したのである。
 蟹養斎は『非徂徠学』『弁復古』などを著して徂徠学を批判しました。同じく崎門学派の小出慎斎は『木屑』において、「徂徠の徒」を以下のように批判している。
 「猖狂自恣にして程朱を排擯す。蜉蝣大樹を憾すと云へし。これより以来、邪説横議世に熾になり、黄口白面の徒往々雷同して賢をあなどり、俗を驚し…文辞を巧にして、世好に報し時誉を求るに過さるのみ。其徒のうちにいづれの言行のいみしきやある。ひとり無用の学をするのみにあらす、却て世教の害をなす事甚し。かくのことき教を学はんよりは学なきにしかじ」
 慎斎の子・小出千之斎や石川香山も徂徠学を痛烈に批判しました。田中秀樹氏は、香山による徂徠学批判のポイントは(1)道徳・修身論を軽視する徂徠学末流の詩文派は世の役に立たない「浮華の文人」である、(2)徂徠は「古義」を見誤り憶測によって議論している──との主張だと指摘し、以下のように書いている。
〈徂徠は古文辞学の立場から、……経書の古語を会得するために詩文章の実作を奨励していた。徂徠はあわせて勧善懲悪的文学観を否定していたため、詩文の製作は作者の道徳的修養とは無関係となり、漢詩文の世界に没頭する者が増え、文人社会が形成されることとなる。……石川香山の生きた一八世紀後半から一九世紀初は、まさに古文辞派が開いた学問の「趣味化余技化」が進行し、通儒・通人を自任する文人・畸人が世にあふれた時代であった。そのため、この道徳学とは関係ないところで趣味・余技としての詩文を楽しむ徂徠学末流の詩人・文人を、「躬行を努めず」「浮華放蕩に流れ」る者とする批判は、むしろ数多く見られる〉(『朱子学の時代: 治者の〈主体〉形成の思想』
 香山はまた、『聖学随筆』において徂徠学の経世派に対しても次のように批判していた。
 〈学問の心得悪くして害を招く。宋曽子固『後耳目志』に唐人の語を引て、無以学術殺天下後世と云ふ詞あり。軽薄の学者分別も無く、政事経済の書を著し、麁忽人の為に取り用ひられて、大いに世の難義を作し、後代までの害を貽す事あり。渾て政事経済の事は賢人君子忠良臣の親く身に歴行ひし人の書たるものにあらざれば皆席上の空論と覚へ取に足らずとなすべし〉

細野要斎『感興漫筆』を読む①─崎門学派の息遣い

 筆者は、尾張藩の尊皇思想は、崎門学派、君山学派(松平君山を中心とする学派)、本居国学派が微妙な連携を保ちながら強化されていったという仮説を持っている。このうち、幕末勤皇運動を牽引した崎門学派としては若井重斎や中村修らが知られているが、彼らの師こそ、「尾張崎門学の最後の明星」と呼ばれた細野要斎である。
 要斎は、蟹養斎門下の中村直斎らから崎門学を、さらに中村習斎門下の深田香実から垂加神道を学んだ。要斎が遺した膨大な随筆『葎(むぐら)の滴』からは、尾張崎門学派の高い志と、日常の息遣いを感得することができる。
 この貴重な記録『葎の滴』の中心部分を構成するのが、『感興漫筆』であり、その原本は伊勢神宮文庫に収蔵されている。『感興漫筆』は要斎二十六歳の天保七(一八三六)年から始まり、死去した明治十一(一八七八)年九月まで、四十二年に及ぶ記録だ。
 例えば、弘化四(一八四五)年五月の記録には、要斎が深田香実から垂加神道の奥義を伝授された感動が記されている(『名古屋叢書』第十九巻、五十八、五十九頁)。
 「香実先生、予が篤志に感じ、神道の奥義を悉く伝授し玉ふ時に、誓紙を出すべしとの玉ふ。その文体を問ふに、先生曰、爾が意に任せて書し来れと、仍つて書して先生に献す。文如左。

 神文

一 今度神道之奥義、悉預御伝授、誠以、忝仕合奉存候。深重之恩義、弥以、終身相忘申間敷候事。
一 御伝授之大事、弥慎而怠間敷候事。
一 他人は勿論、親子兄如何様に懇望仕候共、非其人ば、猥に伝授等仕間敷候。修行成熟之人於有之は、申達之上、可請御指図之事。
右之条々、堅可相守候。若し於相背は、可蒙日本国中大小神祇之御罰候。仍而、神文如件。」

天誅組義挙と梅田雲浜─森田節斎・下辻又七・野崎主計・深瀬繁理・乾十郎

天誅組義挙は、『靖献遺言』で固めた男・梅田雲浜抜きには語れない。内田周平先生の『梅田雲浜先生』には、以下のように書かれている。
 〈雲浜先生は、安政四年の十二月には、大和の五條に参られました。……五條に、代々紙又と称する木綿問屋で、下辻又七という商人がありました。商人ではありましたが、五條における崎門派の学者に就いて教を受け、勤王心に厚い人でありましたから、雲浜先生とは特別懇意の間柄でありました。先生が十津川郷士を引立てゝ、その振興を図られるに就いては、この紙又が京都と十津川との梯子ともなり、連鎖ともなつて、両者の気脈を通じ連絡を保ち、又之に要する費用なども融通し援助して、大いに骨折つたのであります。……安政五年になつてからは、時勢が益々切迫し、弥々十津川郷士の進出を必要とするに至りましたので、春夏の交に、先生自ら十津川に赴かれて、門人野崎主計(かずえ)の家に数日間逗留して、大いに郷士を鼓舞激励せられました〉
 一方、主計自身にも、志士たちを惹きつける魅力があった。舟久保藍氏は、『実録 天誅組の変』(淡交社)において、次のように書いている。
 〈野崎主計は川津村の庄屋である。若い頃、病で十三年もの間立つことが出来ず、その間読書三昧の日々を送った。ついに十津川一の物識りとなり「川津のしりくさり」と呼ばれた。……梅田雲浜や各藩の志士たちが頻繁に訪ねてくるほど、博識さと誠実な人柄は世間に知られていた〉
 一方、保田與重郎は「雲浜は五條と関係深く、その来訪も数度に及んだ。早くから五條、十津川郷士等と気脈を通じ、回天の策を計つてゐた」と指摘し、深瀬繁理乾十郎に関して、それぞれ次のように書いている。
 「深瀬繁理…安政元年正月、野崎主計等と共に、京都に梅田雲浜を訪ひ、爾来屡々往来す」
 「乾十郎、…儒学を森田節斎に学び…後大津に行き、梅田雲浜の門に入る。…十郎が節斎の門より雲浜の方へ移つたのは、雲浜が節斎と親交があつたからであるが、十郎の志節は、雲浜の激しい学風をよろこんだやうである」(『南山踏雲録』)

一宮の私塾「有隣舎」と文人交流

 尾張藩の尊皇思想の展開においては、一宮を舞台とした文人たちの交流にも注目する必要がある。一宮村の近郷丹羽村にあった私塾「有隣舎」を中心に、学問に志を持つ人々が互いに交流を深めていた。
 一宮市博物館が平成2年末から翌3年始めにかけて開催した企画展「維新前夜の〝地方文人」は、それらの交流に光を当てている。
 昌平黌に学んだ儒者・鷲津幽林が宝暦年間(1751~1764年)に開設したのが、「有隣舎」の前身「万松亭」である。
 有隣舎では、大沼枕山をはじめ、佐藤牧山、森春濤、鷲津毅堂、服部赤城、服部牧山、竺世道、桂岸、森有斎、森林平など、近郷の僧侶、医者、庄屋の若者たちが学んでいる。最盛期には、尾張・美濃だけではなく、遠く出雲・讃岐・遠江からも入門者があった。
 特に、有隣舎の中心人物である漢詩人の森春濤は、梁川星巌、頼三樹三郎、家里松嶹らの尊攘の志士、崎門学派の細野要斎、天誅組の松本奎堂・藤本鉄石、頼山陽門下の村瀬太乙・江馬細香らと交流していた。

尾張藩崎門学派・若井重斎と第一次長州征伐

 文久三(一八六三)年の八月十八日の政変によって、長州藩は京を追われた。この時、勤皇の志士・真木和泉は、三条実美ら七卿と共に長州へ逃れた。真木は、翌元治元(一八六四)年七月、久坂玄瑞、来島又兵衛らとともに浪士隊清側義軍の総管として長州軍に参加した。七月十九日、真木らは堺町御門を目指して進軍した。しかし、福井藩兵などに阻まれて敗北(禁門の変)、久坂と来島は自決した。真木は、天王山へ退却したものの、長州へ敗走することを拒否し、七月二十一日、同志十六名とともに自刃、天王山の露と消えた。
 禁門の変を契機に、朝廷・幕府は長州藩追討の動きを強めた。七月二十二日には、朝廷において長州藩処分についての朝議が行われ、二十三日には長州藩追討の朝命が発せられた。これを受けて、幕府は中国・四国・九州に所領を有する二十一藩に出陣を命じた。
 このとき征討軍の総督に任命されたのが、慶勝であった。慶勝は、武力討伐を回避し、西郷南洲らに長州藩への恭順工作を委れて、禁門の変の首謀者とされた三家老の首級を差し出させ、解兵を進めた。ところが、慶勝の処置は、朝廷・幕府双方から、弱腰で不十分なものとして非難された。
 上野恵氏は「第一次長州征討における総督徳川慶勝の構想とその対応」(『昭和女子大学文化史研究』平成十九年十二月)において、かつては、第一次征長における慶勝の対応は「やる気がなく、西郷らに踊らされたに過ぎないという評価が一般的であったが、再評価が進みつつある」と指摘した。
 慶勝が征長総督就任を正式に受諾したのは、十月四日とされている。慶勝は、京都から大坂へと陣を進め、十月二十二日、長州征討に参加する諸藩の重臣を招集して「大坂軍議」と呼ばれる会合を設け、征長方針について伝達した。上野氏は〈大坂軍議に際して行われた慶勝と西郷との会談によって、西郷から毛利父子の恭順謝罪を中心とした「寛厚之御処置」をとる必要性が説かれ、慶勝がそれを受け入れた〉との従来の研究に異議を唱えている。 Continue reading “尾張藩崎門学派・若井重斎と第一次長州征伐” »

尾張藩崎門学派・若井重斎の出処進退

 尾張藩崎門学派の若井重斎(成章)は、明治維新に至る尾張藩の動きの中で、極めて重要な役割を果たした。重斎は、文政五(一八二二)年四月十五日の生まれで、崎門学派の蟹養斎系統の細野要斎に師事した
 重斎は、一貫して尊皇攘夷の志を抱き、安政五(一八五八)年四月に、『攘夷戯議』を著し、小納戸頭衆・長谷川惣蔵に示した。攘夷策を決行するためには、まず民をいたわり、国を平安にすべきだというのが、彼の主張だ。同年七月、藩主・慶勝が幕府の怒りに触れて幽閉を命ぜられた。それに伴い、茂徳が藩主に就いた。この時の重斎の出処進退について、『名古屋市史 人物編 第一』は、「成章等、新主に仕ふるを欲せず、猶旧主に属せんことを請ふ。為めに当路の忌む所と為りて職を罷めらる」と書いている。忠節を重んじる崎門の出処進退が、ここにははっきり示されている
 重斎は、村岡局(津崎矩子)の忠節を聴き、一詩を賦して、自ら戒めたという。文久元(一八六一)年には、細野要斎に代って、美濃円城寺村の野々垣氏の私塾「培根舎」で教えるようになった。文久二(一八六二)年十二月、慶勝の復権に伴い、重斎も復職している。その後の重斎の活躍を、『名古屋市史 人物編 第一』は以下のように描いている。
 〈成章時事に感奮し、書を藩老田宮如雲に与へて、当世の急務を論ず。文久三(一八六三)年正月、慶勝の入京に先ちて上洛し、国事に奔走す。六月、小納戸組頭と為つて食禄を加へられ、爾来公卿諸藩の間に周旋往来し、漸く登庸せられて機務に参与するを得たり。/元治元(一八六四)年四月、京師に在りて奥儒者に挙げられ、文教の振興を謀るべきの命を受く。五月、大坂城に到りて将軍家茂に謁見し、将軍より親しく「昨年以来国事の儀、厚心配いたし周旋尽力の段満足いたす、猶此上勉精いたす様」との命あり。是月帰国す。六月、使節として江戸に往復し、国秩を進め禄を増す〉