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高山彦九郎の精神と久留米藩難事件

平成30年4月15日、同志ととともに久留米城跡に聳え立つ「西海忠士之碑」にお参りした。
 
碑文は、真木和泉のみならず、明治4年の久留米藩難事件に連座した小河真文、古松簡二らを称えている。
 碑文の現代語訳は以下の通りである。
「明治維新の際、王事に尽くし国のために死んだ筑後の人物は、真木和泉・水野正名のような古い活動家をはじめ小河真文・古松簡二など、数えれば数十名をくだらない。
 これらの履歴については伝記に詳しく述べられており、ある者は刃の下に生命をおとし、あるいは囚われの身となって獄死するなど、それぞれ境遇・行動は違っていても、家や身を顧みないで一途に国家へ奉仕した忠誠心においては変りなかった。だからこそ、一時は政論の相違から明治政府に対抗して罪を得た者も、今では大赦の恩典に浴し、その中でも特別に国家に功績のあった者は祭祀料を下賜され、贈位の栄誉をうけている。このような賞罰に関する朝廷の明白な処置に対しては国中の者がこぞって服し、ますます尊王の風を慕うようになっている。まことに国運が盛大をきわめるのも当然のことである。
 こんにち朝廷では国民に忠義の道を勧められているが、この趣旨をよく体得すれば、国民として何か一つなりとも永遠に残る事業をなさねばならない。しかもわれわれにとっては、勤王に殉じた人びとは早くから`師として仰いだ友であり、またかっては志を同じくして事にあたった仲間である。いまここに彼等を表彰してこれからの若い人への励ましとすることは、たんに世を去った者と生存している者とが相酬い合うというたけでなく,国家に報いる一端ともなるものである。
 このような意味から、場所を篠山城趾にえらび、神社の傍に碑石を建て、有栖川熾仁親王から賜わった「西海忠士」の大書をこれに刻記した。思うに、この語句は先の孝明天皇の詔勅の文からとられたものであろう。世冊この碑を見るものは、おそらく誰でも身を国に捧げようという感奮の念にかられることであろう。昔、高山彦九郎は、九州方面で同志を募るためにしばしば筑後を訪れ、久留米の森嘉善ともっとも親密な仲となり、ついに彼の家で自殺する結果となった。これはまったく、二人が勤王の同志として許し合う間柄であったからである。このために二人を併せて追加表彰することにしたが、これによって筑後の勤王運動の源泉が遠い時期に在ったことを知るべきである。
    明治25年10月      内藤新吾識」

 
 碑文が、時代を遡って高山彦九郎のことに言及していること(*抜粋意訳には抜けている)が、極めて重要だと考えられる。
 明治2年に、久留米遍照院で有馬孝三郎、有馬大助、堀江七五郎、小河真文、古松簡二、加藤御楯らが、高山彦九郎祭を行った事実を考えるとき、彦九郎の志が久留米藩難事件関係者に継承されていた事実の重みが一層増してくる。

久留米勤皇志士史跡巡り③ 高山彦九郎から真木和泉へ

真木と彦九郎の遺児
 彦九郎は幕府に追い詰められ、寛政五(一七九三)年六月二十七日、森嘉膳宅で自刃した。その三年後の寛政八(一七九六)年十一月十八日には、唐崎常陸介が、彦九郎の後を追って竹原庚申堂で自刃した。
 さらに、享和二(一八〇二)年五月二日には、天草の西道俊が彦九郎の墓前で割腹している。道俊は、若い時代から彦九郎と結び、尊号宣下運動でも彦九郎と行動をともにしていた。しかし、寛政五年春、彦九郎が幕吏に追われて長崎へ逃れた際も道俊は行動をともにし、海路上京しようとした。しかし、果たさず虎口を脱して天草に逃れた。
 彦九郎自刃後、ともに勤皇を語るべき友もなく、医を業として十年ほど過ごしていた。しかし、彦九郎の孤忠を思う心は如何ともし難く、ついに天草を出て久留米の森嘉膳宅に向かったのである。そして、自ら墓穴を彦九郎の墓前に掘り、自刃した。辞世は
 欲追故人跡 孤剣去飄然
 吾志同誰語 青山一片烟 山腰雅春『五和町郷土史第一輯』(昭和四十二年)
 道俊の墓は、彦九郎と同じ遍照院にある。ひょうたん型のお墓で、墓標は玄洋社の頭山満によるものだ。
 彦九郎の長男儀助が久留米を訪れたのは、その翌年の享和三(一八〇三)年六月であった。後藤武夫の『高山彦九郎先生伝』には次のように描写されている。
 〈後年先生屠腹の後、一子儀助、久留米に来つて、遍照寺畔なる父の墓を展した時も、石梁は彼を自家に宿せしめ、種々慰撫する所があつた。将に帰らんとするや、詩と涙とを以て之に贈つた、義心感ずべきものがある。
    高山儀助自上野来展其考仲縄墓
    留余家一句臨帰潜然賦贈
 悲哉豪傑士。化作異郷塵。山海三千里。星霜十一春。憐君来拝墓。令我重沾巾。孝道期終始。慇懃愛此身。
 情懐綿々として、慇懃極まりなきものがある。十有一年前、先生の死に対してそゝいだ其の涙は、今や孝子儀助の展墓によつて、再たび巾を霑さしめた。嘗て彦九郎先生の為に、
  赤城仙子在人間。明月為衣玉作顔。怪得煙霞嚢底湧。躡来三十六名山。
 を謳つた其の人が、遺孤の為に此詩を賦せんとは、恐らく石梁其の人もまた宿縁の浅からざるを感じたであらう〉
 石梁は、文政三(一八二〇)年五月に「宮川森嘉膳小伝」を著し、彦九郎について記している。つまり、石梁は彦九郎の志を語り継いだ重要人物だったということである。
 その八年後の文政十(一八二八)年に石梁は亡くなっているが、若き真木が樺島との接点を持っていた可能性はある。あるいは、石梁の思いを継ぐ者から、真木が彦九郎のことを伝えられた可能性もある。そして、真木自身が彦九郎への関心を強めていく。木村重任の『故人物語』によると、真木は天保九(一九三八)年頃、彦九郎の話を聞くために安達近江宅を訪れている。
 そして、天保十三(一八四二)年正月、真木は「高山正之伝」を筆写・熟読した。彼は感慨を欄外に記し、哀悼の和歌を捧げている。その年の六月二十七日、木村重任等とともに、高山彦九郎没五十年に当たり祭典を行った。
 そして真木は、まさに彦九郎の志を継ぐべく、立ちあがるのである。三上卓先生は、「真木の巡つた足跡こそ、実に高山先生が七十余年前に辿つた足跡ではなかつたか。吾人は先生の事跡を調査し了つて、更に真木の一生を見る時、その暗合に喫驚するものである」と書いている。

久留米勤皇志士史跡巡り② 高山彦九郎の同志・樺島石梁

真木と高山を繋ぐ宮原南陸
 
 平成三十年四月十五日、筑後市水田に向かい、真木和泉が十年近くにわたって蟄居生活を送った山梔窩(くちなしのや)を訪れた。
 やがて、真木は楠公精神を体現するかのように、行動起こすが、彼の行動は高山彦九郎の志を継ぐことでもあった。
 真木は、天保十三(一八四二)年六月二十七日に、彦九郎没五十年祭を執行している。では、いかにして真木は彦九郎の志を知ったのであろうか。それを考える上で、見逃すことができないのが、合原窓南門下の宮原南陸の存在である。
 文政七(一八二五)年、真木が十二歳のとき、長姉駒子が嫁いだのが、南陸の孫の宮原半左衛門であった。こうした縁もあって、真木は、半左衛門の父、つまり南陸の子の桑州に師事することになった。ただし、桑州は文政十一(一八二九)年に亡くなっている。しかし、真木は長ずるに及び、南陸、桑州の蔵書を半左衛門から借りて読むことができた。これによって、真木は崎門学の真価を理解することができたのではなかろうか。
 一方、彦九郎の死後まもなく、薩摩の赤崎貞幹らとともに、彦九郎に対する追悼の詩文を著したのが、若き日に南陸に師事した樺島石梁であった。石梁こそ、彦九郎の志を最も深く理解できた人物だったのである。
 石梁は、宝暦四(一七五四)年に久留米庄島石橋丁(現久留米市荘島町)に生まれた。これが、彼が石梁と号した理由である。三歳の時に母を亡くし、二十五歳の時に父を亡くしている。家は非常に貧しかったが、石梁は学を好み、風呂焚きを命じられた時でさえ、書物を手にして離さなかったほどだという(筑後史談会『筑後郷土史家小伝』)。
 天明四(一七八四)年江戸に出て、天明六年に細井平洲の門に入った。やがて、石梁は平洲の高弟として知られるようになった。石梁は寛政七(一七九五)年に久留米に帰国した。藩校「修道館」が火災によって焼失したのは、この年のことである。石梁は藩校再建を命じられ、再建された藩校「明善堂」で教鞭をとった。 Continue reading “久留米勤皇志士史跡巡り② 高山彦九郎の同志・樺島石梁” »

久留米勤皇志士史跡巡り①

竹内式部・山県大弐の精神を引き継いだ高山彦九郎
 平成30年4月15日、崎門学研究会代表の折本龍則氏、大アジア研究会代表の小野耕資氏とともに、久留米勤皇志士史跡巡りを敢行。崎門学を中心とする朝権回復の志の継承をたどるのが、主たる目的だった。
 朝権回復を目指した崎門派の行動は、徳川幕府全盛時代に開始されていた。宝暦六(一七五六)年、崎門派の竹内式部は、桃園天皇の近習である徳大寺公城らに講義を開始した。式部らは、桃園天皇が皇政復古の大業を成就することに期待感を抱いていた。ところが、それを警戒した徳川幕府によって、式部は宝暦八(一七五八)年に京都から追放されてしまう。これが宝暦事件である。
 続く明和四(一七六七)年には、明和事件が起きている。これは、『柳子新論』を書いた山県大弐が処刑された事件である。朝権回復の思想は、幕府にとって極めて危険な思想として警戒され、苛酷な弾圧を受けたのだ。特に、崎門の考え方が公家の間に浸透することを恐れ、一気にそうした公家に連なる人物を弾圧するという形で、安永二(一七七三)年には安永事件が起きている。
 この三事件挫折に強い衝撃を受けたのが、若き高山彦九郎だった。彼は三事件の挫折を乗り越え、自ら朝権回復運動を引き継いだ。当時、朝権回復を目指していた光格天皇は実父典仁親王への尊号宣下を希望されていた。彦九郎は全国を渡り歩いて支持者を募り、なんとか尊号宣下を実現しようとした。結局、幕府の追及を受け、寛政五(一七九三)年に彦九郎は自決に追い込まれた。 Continue reading “久留米勤皇志士史跡巡り①” »

大楽源太郎宛の梅田雲浜漢詩

長州藩脱隊騒動の首謀者と目された大楽源太郎は幕末期に、梅田雲浜と交流していた。
内田伸氏が『大楽源太郎』で紹介しているように、雲浜が大楽に宛てて読んだ漢詩が残されている。

一つは、「送大楽源太郎」
 終宵独不眼 挙手指青天 一去千山外 此心月満船

 もう一つは、「與大楽源太郎飲別」である。
 竹窓相対酌離杯 勁節見君傷老懐
 世上少年如子少 秋風秋雨帯愁来

自由民権派と崎門学

 明治の自由民権運動の一部は、國體思想に根差していたのではないか。拙著『GHQが恐れた崎門学』で、「自由民権派と崎門学」の表題で以下のように書いたが、「久留米藩難事件で弾圧された古松簡二は自由民権思想を貫いた」と評価されている事実を知るにつけ、そうした思いが強まる。
 〈維新後、崎門学派が文明開化路線に抵抗する側の思想的基盤の一つとなったのは偶然ではありません。藩閥政治に反対する自由民権派の一部、また欧米列強への追随を批判する興亜陣営にも崎門の学は流れていたようです。例えば、西南戦争後、自由民権運動に奔走した杉田定一の回顧談には次のようにあります。
 「道雅上人からは尊王攘夷の思想を学び、(吉田)東篁先生からは忠君愛国の大義を学んだ。この二者の教訓は自分の一生を支配するものとなった。後年板垣伯と共に大いに民権の拡張を謀ったのも、皇権を尊ぶと共に民権を重んずる、明治大帝の五事の御誓文に基づいて、自由民権論を高唱したのである」
 熊本の宮崎四兄弟(八郎、民蔵、彌蔵、滔天)の長男八郎は自由民権運動に挺身しましたが、彼は十二歳の時から月田蒙斎の塾に入りました。八郎は、慶應元年に蒙斎の推薦で時習館へ入学、蒙斎門人の碩水のもとに遊学するようになりました。
 一方、自由民権派の「向陽社」から出発し、やがて興亜陣営の中核を担う福岡の玄洋社にも、崎門学の影響が見られます。自らも玄洋社で育った中野正剛は『明治民権史論』で次のように書いています。
 「当時相前後して設立せられし政社の中、其の最も知名のものを挙ぐれば熊本の相愛社、福岡の玄洋社、名古屋の羈立社、参河の交親社、雲州の尚志社、伊予の公立社、土佐の立志社、嶽洋社、合立社等あり。此等の各政社は或はルソーの民約篇を説き、或は浅見絅斎の靖献遺言を講じ、西洋より輸入せる民権自由の大主義を運用するに漢籍に発せる武士的忠愛の熱血を以てせんとし……」
 男装の女医・高場乱は、頭山満ら後に玄洋社に集結する若者たちを育てましたが、乱の講義のうち特に熱を帯びたのが、『靖献遺言』だったといいます。乱の弟子たちも深く『靖献遺言』を理解していたと推測されます。大川周明は「高場女史の不在中に、翁(頭山満)が女史に代つて靖献遺言の講義を試み、塾生を感服させたこともあると言ふから、翁の漢学の素養が並々ならぬものなりしことを知り得る」と書いています。
 乱の指導を受けた若者たちの中には、慶応元年の「乙丑の変」で弾圧された建部武彦の子息武部小四郎もいました。建部武彦らとともに「乙丑の変」の犠牲となった月形洗蔵の祖父、月形鷦窠は、寛政七(一七九五)年に京都に行き、崎門派の西依成斎に師事した人物であり、筑前勤王党に崎門の学が広がっていたことを窺わせます。乱は、『靖献遺言』講義によって、自らの手で勤皇の志士を生み出さんとしたのかもしれません。また、明治二十年に碩水門下となった益田祐之(古峯)は、頭山満を中心に刊行された『福陵新報』の記者として活躍しました。〉

高山畏斎と留守希斎─酒田湖仙編著『継志堂物語』②

 『継志堂物語』(酒田湖仙編著、八女市上妻青年団文化部発行、昭和31年12月)の記事にしたがって、筑後崎門学発展に尽力した高山畏斎と留守希斎の出会いについて紹介する。
 畏斎が留守の著作を読み、直接留守の指導を請うために大阪を訪れたのは、宝暦八年頃のことであった。まず、畏斎は宿に落ち着いた。そこでのやりとりを『継志堂物語』は次のように描写している。
 〈宿主は先生の風体をジロリと見廻し、
「九州から何用あつて、大阪へ来られたか」と聴きました。すると先生は、
「留守友信先生のもとへ入門して、勉学せんが為である」
と話されました。それで主人は更に、
「では上下をお持ちか」ときゝました。
 上下とは羽織、袴のことで、名高い先生の塾に入門する時には、羽織、袴が必要でありました。路金もやつとの事で大阪へ来た先生が、そんなものを持つている訳がありません。そこで先生が「持たない」と言はれると、主人は先生の顔を下からのぞき込むかの様にして、「では何処ぞなりと、借りて進じよう」と、付足しましたがしかし、衣装を借りれば、又金が要る、其の様な余力もない先生は平然として、
「あたしは、この儘の絣でよかろう」
と言はれました。洗ざらしの久留米カスリを着た先生が胸を大きく張つて、大阪の街を闊歩されて、留守希斎(友信)先生の門をたゝかれたときには、みな気狂ひが来たと言つて、大騒ぎしました。しかし先生はその様な事には無頓着で、門弟達に来意を告げますと、
「田舎ツペが何を言うか」と、ますます小馬鹿扱いにして、
「九州の鐘馗が来た、まるで絵に書いた鐘馗のようじや」と言つて冷笑しました。
門前の騒がしい声に、表まで出て来られた留守希斎先生は、絣姿の田舎の青年、畏斎先生をヂツと見てゐられたが、どう思はれたかそのまま、スーツと自分の書斎へ通された。驚いたのは門弟達、希斎先生は括嚢と云つて、袋の口をくくつてゐるようで、世間的に名をもとめない変つた方だが、これ又物好きな先生だとばかり、門弟達は面白半分、後からついて行きました。どの様な事になるかと、息をころして見ておりますと、希斎先生は静かに経書を取り出し、畏斎先生の前へ置かれました。
ニツコリうなづかれた先生は、此れを受取り、大学の一節(明明徳新民止至善)を堂々と読みあげられた、解釈の時は又自分で会得されている意見を以て、前人未発の講義を明快に説きだされたのであります。身を顫(ふる)はすほどの烈しい語気は正に、体内の血管があふれるかと思われるばかりでありました。
これを聞いた列座の門弟一同、水を打つた様に静まり、先刻まで
「九州の寒生、其の状鐘馗に似たり、彼何を学ばんと欲するか」
と嘲つてゐたのが、すつかり感歎してしまひました。
それ以来、門士達は畏斎先生に敬服して仲よく交際し勉強にいそしんだといゝます。
又希斎先生もとくに、力を入れられ、門弟の一人とされました〉

明治政府による「大和魂」の殺戮─『藻潭餘滴─古松簡二先生逸詩』井上農夫跋

 明治政府が遅くとも明治四年には維新の精神を裏切ったことは、筑後の勤皇志士・古松簡二(一八三五~一八八二年)の行動によっても知られる。
 古松は筑後崎門学の先人・高山畏斎の流れをくむ会輔堂に学び、文久三(一八六三)年に脱藩上京、国事に奔走するようになった。元治元 (一八六四)年三月には水戸尊攘派 (天狗党) の挙兵に参加している。慶応二年には幕兵に捕えられ、三年間獄につながれた。
 そして、維新後の明治四年、小河真文らの同志とともに維新の精神を裏切る明治政府転覆を計画して捕らえられ、終身禁獄の宣告を受け、東京石川島の獄に服役した。明治十五年(一八八二)六月十日、獄中でコレラ感染して死去した。
 大東亜戦争下の昭和十九年二月、古松の逸詩に小伝などを加え『藻潭餘滴─古松簡二先生逸詩』が刊行された。藻潭とは古松の号である。同書編纂には筑後郷土史の大家・鶴久二郎と、井上農夫が協力した。井上は、三上卓先生の『高山彦九郎』(昭和十五年刊)著述に全面的に協力した人物であり、権藤成卿の流れをくむ思想家、郷土史家である。『藻潭餘滴』序には、井上が頭山満翁門下であり、宮崎来城の高弟でもあったと記されている。
 同書跋文において、井上は明治政府が明治四年以来、維新の原動力となった大和魂を殺戮してきたと次のように批判している。
 〈(古松)先生の物に拘泥せず洒々落々たる襟胸と真贄熱烈なる憂国の至誠にひしひしと感慨胸をうたれるものがある。先生入獄以来獄死に至る十一年間は誠に東洋的政道と西欧模倣政治思想との激烈なる闘争の時期であつた。先生がそれによつて命を殞された明治四年事件を皮切りとして十年の西南戦争を筆止めにするの幾多の国事犯事件は幕末初期勤皇家の純誠なる道統を承継いだ無数の「大和魂」の殺戮史である。
頭山翁も云はれる如く明治十年までに日本の大木が皆切り倒されて、其後の日本は宛かも神経衰弱みたいに、左によろめき右に傾むき、ふらふら腰の情無い有様になつたのである。古松先生も亦、頭山翁の所謂大木の一人であること勿論である〉(原文カタカナ)

酒田湖仙編著『継志堂物語』①

 筑後崎門学発展に尽力した高山畏斎の伝記として知られるのが、『継志堂物語』(酒田湖仙編著、八女市上妻青年団文化部発行、昭和31年12月)である。継志堂とは、畏斎の私塾「高山塾」を継承する形で、彼の門人たちが設立した塾である。
同書には、筑後崎門学の系譜も掲載されている。

『稿本八女郡史』「文学列伝」①

 『稿本八女郡史』には、「勤王志士伝」とともに「文学列伝」という括り方で、学問的功績のあった人物の列伝を収めている。
 合原窓南を筆頭に、高山畏斎、高山茂太郎、後藤要助、古賀貞蔵、今村直内、佐野質斎、本荘星川、小川柳など崎門の学統を継いだ人物も含まれている。

以下、楠本碩水編『崎門学脈系譜』(晴心堂、昭和15年8月~16年9月)により、合原窓南と高山畏斎の系譜を示す。