「国学・神道」カテゴリーアーカイブ

尾張藩国学の先駆・田中道麿①─『養老町が生んだ国学者』


●一旦、歌の道を断念
田中道麿翁顕彰会・養老町教育委員会編・山口一易執筆『養老町が生んだ国学者 田中道麿さん』に基づいて、田中道麿の生涯を追う。まず、生い立ちから、桜天神で国学塾を開くまでの歩みについて整理しておく。
道麿は享保九(一七二四)年、美濃国多芸郡榛木(はりのき)村の農家で生まれた。道麿は、学派にとらわれない國體思想の学脈を築いた松平君山(一六九七年生まれ)より二十七歳年少であった。また、道麿は君山門下として知られる岡田新川(一七三七年生まれ)、磯谷滄洲(いそがいそうしゅう、同)より、十三歳年長であった。
道麿は物心つきはじめた頃から、大垣俵町の平流軒という本屋に小僧に出された。これをきっかけに、本好きになったのであろう。少年の頃に、伯父が与えた「節用集」を全部暗記してしまったという。「節用集」とは室町時代後期の国語辞書のことである。やがて、それらの教養書では飽き足らなくなり、近郷近在はもちろん、諸方に足を運んで書物を借りて読み、筆写していた。
道麿の弟子・加藤磯足が文化三(一八〇六)年に道麿の経歴や逸話を記した『しのぶぐさ』には、次のように書かれている。
〈農家の生まれですが幼年の頃より目にするもの耳にするものすべてに歌をつくられたとか、大へんすぐれた力を持った人でした。初めて歌を詠まれたのは九才のときといわれている〉、〈成長するにつれ近所はともかく少し遠方でも歌の本を所有している人があれば出かけて本を借りて写し取るなどして、ますます歌のみちに心を引かれていかれたが、みせてもらった書物はどれも古く六・七百年程の昔のもので何となくあやふやなことが多く、歌のみちに名高い人を訪ねて疑問の点などを質問しても、これは教えられない秘め事だとか、かんたんにあなたが調べ尽くせることではありませんと返され、はっきりと道筋を立てゝ納得のいく様に教えてくれる人はありませんでした。迷い迷ったあげく歌というのは何なのか…こんなことを勉強して何になるのだろうか…何もならないのではないか…と試行錯誤の上、二十八才のときから歌をつくることも書物を読むこともすっかり止めてしまった〉
このように道麿は、一旦歌の道を断念し、土木工事や屋根葺きの手伝いに従事していたようである。

●彦根の大菅中養父に師事
しかし、彼の生来の向学の志は再び燃え上った。良き師を求めて、彼は東海道土山宿の轎夫(かごかき)となり、駕籠を使う旅人から情報を集め始めたのである。そして、ついに道麿は、彦根に大菅中養父(おおすがなかやぶ)という人物がいることを知った。中養父は宝永七(一七一〇)年、彦根藩印具氏家老の家に生まれた。契沖の歌論を好み、賀茂真淵に師事して古典を研究した。
宝暦七(一七五七)年頃、道麿は早速彦根に赴き、中養父に弟子入りするのである。道麿を支援する者も現れた。道麿の向学の思いを知った彦根の豪商・納屋七右衛門が自宅に道麿を住まわせ、生活の面倒をみることになった。しかも、道麿のために必要な書物は全て買い揃えてやったのである。こうして道麿は、三年間何の心配もなく、学問に打込むことができた。
彦根での勉学の末、ようやく国学者として一本立ちする自信を固めた道麿は、彦根を去った。そして、最初は大阪で塾を開いたが、容易に受け入れられなかった。
そこで、道麿は名古屋に移ることにした。そして、狂歌の添削をきっかけにその存在を知られるようになっていく。
『しのぶぐさ』には、〈安永(一七七二~一七八〇)のはじめごろ狂歌(おどけた調子の歌)が流行した。あるとき狂歌集を見られて、その歌のよい、わるいや、今の慣習で昔からのしきたりと違っていることなどを指摘して一つの本にされた。それがあちこちに広がり、こんな人が居たんだと人々の話題にのぼるようになった。このようにして一人、二人、三人、四人と次々にひろがっていった。直接翁と会って歌のことを尋ねる人もでき、今まで聞いていたよりも身近かで親しみ易く上品でりっぱな人だと評判になった。そしてこの様にすぐれた力を持っている人を埋もれさせておいてはよくないと同じ気持ちの人々が集まり、今のつとめをやめて、もっと名前の知られた所に住んでもらって古典の勉強や古学の勉強の先生になってもらおうと迎えられることになった〉とある。
こうして、道麿は小桜町の桜天神の傍にあった霊岳院に住み、桜天神の社僧となった。そして詠歌の道、古学の講筵を開くことになったのである。

尾張勤皇派・植松茂岳─『名古屋市史 人物編 第一』より

 『名古屋市史 人物編 第一』には、植松茂岳について以下のように書かれている。
 〈植松茂岳、小字啓作、通称は庄左衛門、松蔭・不知等の別号あり。尾張の士小林和六常倫の第二子にして寛政六年十二月十日、名古屋流川の家に生まる。十歳にして父を喪ひ、兄伸弘等と兄弟四人、母北村氏に鞠育せらる。而して薄禄の家、母子五人を養ふに足らず、頗る窮乏を極む。茂岳、人と為り質実にして聴明なり。歳十三の時其算術の師岸上某歿す。依りて代りて其弟子に授く。兄仲弘、和歌を植松有信に学ぶ。時に支配勘定並として江戸詰たり。屡々詠草を送りて添削を有信に乞ふ。茂岳毎に其使をなす。有信の妻伊勢子、一日茂岳と語り、其窮乏を憐み、依りて其家に来り、勤学の傍版木彫刻を学びて生計を助けんことを慫慂す。茂岳悦びて之を母に謀り、即夜有信の家に至り。是より専ら国学と版木彫刻とを学ぶ。
 有信、茂岳の人と為りを愛し、子なきを以て遂に父子の約をなす。居ること五年、有信歿す。茂岳時に年二十なり。伊勢子其半途にして師を喪へるを憐み、和歌山に遣はして本居大平に学ばしむ。大平も亦茂岳を養ひて嗣たらしめむとす。茂岳既に有信と一旦の約あるを以て之を辞し、文化十三年、名古屋に帰りて植松氏を嗣ぐ。茂岳、国史・物語・語学・歌文達せざる所なく、皇道を弘むるを以て己が任となし、其忠誠熱烈言行に溢る、是を以て風を望み、教を請ふ者日に門に満つ。茂岳又江戸及び美濃・信濃・伊勢の諸国に遊び、門人益々進む。鈴木朖(あきら)・丹羽勗(つとむ)・大原寅三郎等、有信と旧故ある者、数々書を当路に上りて、茂岳を起用せんことを乞ふ。天保六年に至り、藩主五人扶持を給して用人支配となし、藩校明倫堂に出でて和学を教導せしむ、八年に至りて、班を進めて明倫堂典籍次座となす。
 天保十年藩主斎温薨じ、幕府田安斎荘をして封を襲がしむるや、藩論沸騰す。茂岳江戸に下り、高須秀之助をして、継嗣たらしめんとして大に周旋する所あり。事成らざりしと雖も、其忠諒にして義に進むの勇なる倍々正義の士の尊信する所となる。弘化二年、切米拾貳石、扶持三口を給ふ。是より先、藩命ずるに尾張志の撰述、古事記・六国史の校正、熟田文庫の建設、大須宝生院古写本の調査等を以てす。茂岳、藩内子弟の教導の傍、是等の事に従ひ、日夜務めて惓まず。嘉永二年、慶勝封を襲ぎ、励精治を謀る。安政元年、諸政を改革し、将に禄制を更めんとし、先づ自ら倹約の範を示す。茂岳、感奮して五年の間其禄を返上せんことを請ふ。人弥々、其忠直無私なるに感ず。二年四月、始めて慶勝に侍講す。是より月に四次奥入をなし、図書を講じ、又和歌を添削す。慶勝、其人と為りを重んじ、遂に国事の顧問に備ふ。茂岳感激して知りて言はざるなく、言ひて行はれざるなし。
 安政四年、明倫堂教授次座に進み、切米拾石を加へらる。五年、慶勝、幕府の譴を受けて戸山の邸に幽閉せらるゝや、茂岳も亦田宮如雲・阿部伯孝・間島冬道等と共に厳譴を受け、俸禄を減じて自宅に幽閉せらる。不知と号するは其幽閉中の名なり。文久二年九月、閉居を解かれ、尋いで職禄を復し、又譜代席に列せらる。翌年、慶勝の参内に扈し、且つ国学の造詣邃きを以て、永く徒格以上となし、三石を加給す。幾もなくして多年子弟の教養に務めたる功を賞し、永世目見以上となし、俸五十俵を元高とし、八拾七俵を給ふ。万延元年、明倫堂教授に進み、百俵を給ふ。慶応三年、明倫堂国学教授となリ、翌年、使番格に進み、明治元年に至り、更に側物頭格に進み、百五拾俵を給ふ。三年九月致仕を乞ふや、隠居料として扶持三口を給ふ。新藩主義宜、亦茂岳を師として優邁至らざるなし。又曽て慶勝に扈して京に入るや、華頂宮博経親王、其学徳を慕ひ、召して古事記を進講せしめたまふ事数次、恩賜頗る豊なり。近衛忠房亦召して講を聴く。明治六年、大講義に補し、翌年、慶勝の召に応じて東京に至る。蓋し宮内省より召さん為なりしが、其高年なるを以て、唯歌を詠進せるのみにして名古屋に帰れり。
 明治九年三月二十日、熱田の寓居に歿す。享年八十三。愛知郡高田熱田神官共有墓地に葬り、豊真菅彦道起根大人と謚す。明治三十六年十一月、特旨を以て従五位を噌らる。
 著す所天説弁・天説弁々之弁・皇国大道弁・鎮国説・父子説・君臣説・夫婦説・愛国一端・御供日記等あり。歌集を松蔭集といふ。茂岳、高木氏を娶りて五男四女を生む。二男有園、五男有経、並に家学を承けて名を著す。門人頗る多く数百人に達し、尾張勤王の士多く其門より出づ。間島冬道・奥田常雄・野呂瀬秋風・西郷暉隆・本多俊民・野村秋足・岡田高穎・田中尚房・千葉葛野・山田千疇・神谷永平・石橋蘿窓・三輪経年・内田成之等最も顕はる。名古屋藩に聘せられて仏国人ムリイ亦就いて教を受けしといふ〉

尾張藩の平田国学─林英夫編『図説 愛知県の歴史』

 尾張藩の平田国学に関して、林英夫編『図説 愛知県の歴史』(河出書房新社)は、以下のように書いている。
 〈…尾張において広範に受容された本居学にくらべ、平田学はむしろ排斥された。篤胤は、小藩の備中松山藩に仕官していたが、より広い活動の場を求めて尾張藩に仕官することを強く望み、積極的な出願をくり返したが、ついに容れられなかった。
 とくに、文化・文政期(一八〇四─三〇)以降、尾張での国学(本居学)の重鎮であった植松茂岳が、その著『天説弁』で平田学を徹底的に論難していることもその一因であろうが、儒教や仏教を強く排斥した平田学が、尾張の漢学者たちの反発をかったことも予想される。
 結局、平田学の尾張における門人は数名にとどまり、むしろ平田学は、三河の農村指導者層のあいだに広く根をおろしていった〉

尾張藩の本居国学②─三鬼清一郎編『愛知県の歴史』

 尾張藩の本居国学①─三鬼清一郎編『愛知県の歴史』(山川出版社)には、三河地方への本居国学の浸透について、以下のように書かれている。
 〈三河の場合には、当初、遠州国学との関係が深かった。東三河吉田(豊橋)の神主の鈴木梁満(やなまろ)や富商の植田義方(よしかた)は賀茂真淵に入門し、浜松の杉浦国頭(くにあきら)らと交友をもった。その後、天明四年に鈴木梁満は三河で最初の本居宣長門人となる。宣長存命中の門人は、寛政元年入門の鈴木重野(しげの 梁満の子)、寛政五年入門の吉田城内天王社神主鈴木真重(ましげ)や、寛政六年入門の八名郡大野村(新城市)の戸村俊行、寛政十年入門の渥美郡亀山(田原市)の井本常蔭(つねかげ)ら八人であった。鈴木真重は吉田藩主で老中となった松平信明(のぶあきら)の和歌の師をつとめた。戸村俊行は元禄期(一六八八~一七〇四)に京都の伊藤仁斎の門人となった戸村治兵衛俊直の末裔である。同じ戸村家の戸村俊長は本居大平の門人となっている。新城や鳳来寺門前周辺の好学の商人や村役人などの伝統のうえに国学への関心が広がったと思われる〉

尾張藩の本居国学①─三鬼清一郎編『愛知県の歴史』

 尾張藩の本居国学①─三鬼清一郎編『愛知県の歴史』(山川出版社)には、尾張藩への本居国学の浸透について、以下のように書かれている。
 〈明和の初めごろ名古屋に移住し、安永初期に桜天神で国学塾を開いた田中道麿は、安永六年ごろ松坂の宣長を訪ね問答をし、以後おたがいに文通を行い学問的交友を深めた。道麿は名古屋では、古体を旨とした詠歌法、古語の究明、物語・日記・歌集などの講義を行い約三〇〇人の門人がいたという。安永九年に道麿は宣長より年長であったが、その門人となり、自分の代表的門人一七人を手紙で紹介している。それによれば町奉行所や国奉行所の役人や名古屋の商人、僧侶、医師らが道麿の主たる門人層であった。天明四(一七八四)年に道麿が死去すると、道麿門下から同年に大館高門(おおだてたかかど)(海東郡木田村豪農)、翌天明五年に横井千秋(尾張藩士七〇〇石)らが順次宣長に入門し、寛政元(一七八九)年に千秋が『古事記伝』などの出版にかかわって宣長を名古屋に招くと、道麿門下の多くや、その周辺の大びとが宣長に入門するのである。名古屋を中心とした尾張地域の宣長門人は、寛政期(一七八九~一八〇一)をつうじて増加し、宣長が死去する享和元(一八〇一)年までに、約九〇人を数え、宣長の出身地伊勢をのぞくと、もっとも大きな宣長学の拠点となるのである。
 このうち、横井千秋は、宣長の国学を政治の面で活用しようと考えた。天明期の尾張藩は、国用人・国奉行の人見璣邑(きゆう)が九代藩主宗睦の信任のもとに藩政改革を主導し、細井平洲を招聘し藩内教化を急いでいた。璣邑は幕府儒者人見美在の次男で荻生徂徠の『政談』などの影響をうけ、都市の奢侈を抑え、農本主義的な産業基盤の整備を政策基調としていた。平洲は新設藩校明倫堂を拠点とし、廻村講話を行い、璣邑の施策を側面からささえた。千秋は、この急激な改革政治に対して批判的な立場をとり、天明七年に国学的改革論『白真弓(しろまゆみ)』をあらわす。千秋は宣長の「漢意」批判を政治に適用し、璣邑・平洲の儒学的改革論を「漢意」として否定し、自身は「漢意」を加えない「自然」と「自然の真心」の政治を対置した。そして、朝廷の地位の向上、将軍の伊勢参拝と天皇への謁見など朝幕関係の再編を主張した。千秋はこの構想を実現するためには、本居宣長を尾張藩に招聘することが重要と『白真弓』を結んでいる。宣長の尾張藩招聘は璣邑らの反対で実現することはなかった。千秋や宣長死後も尾張地域の国学は、本居大平や春庭らの門人によって、和歌や国語学の面でいっそう拡大していく。こうしたなかで、学問としての最大の成果は鈴木朖(あきら)の研究である。朖は、徂徠学派の町儒者であったが、寛政四年、宣長に入門し、国語学の面を継承発展させ、『言語四種論』『活語断続譜』などをあらわした。朖は尾張藩儒者からのちに明倫堂教授並となり、天保期にはじめて明倫堂で国学を講じた。朖の研究は名古屋の古代研究の蓄積と、国学的研究を融合させた、名古屋学の峰をきずいたものであった〉

伯家神道─清原貞雄『神道沿革史論』(大鐙閣、大正8年)より

 以下、清原貞雄『神道沿革史論』(大鐙閣、大正8年)より伯家神道の部分を引く。
 〈伯家神道は元、神祇伯の家に伝はつた神事から来たもので、白河家のものである、所謂神祇四姓(王氏即白河、中臣、忌部、卜部)の一で、花山天皇の皇子清仁親王の御子、延信王の神祇伯に任ぜられて以来、代々伯職を相続し、永く王氏を称したので、共儀式の事等に就ては伯家部類に詳しく見えて居るのが今一々述べぬ、其職掌は宮中及神祇官に於て神事を掌るもので、従来、神道説等に関係は無かつたのである、然るに吉田神道が段々盛になり、吉川神道、垂加神道が唱へらるゝに至つて、其風潮につれて伯家でも遂に神道説を起す訛に至つた。其神道説を覗ふべきものは多く遺つて居らぬが、神道通国弁義二巻、及び神祇伯家学則に依りて大体を知る事が出来る。神道通国弁義は神祇伯資顕王家の学頭森昌胤の名を以て書かれたもので、資顕王は宝暦九年に神祇伯となり、天明五年に薨じた人である(白河家系譜)。此学頭なるものは何時頃からあつたものか詳で無いが、伯家部類には白河家学頭臼井帯刀なるものが八神殿の御霊代を盗んで一条兼香に奉つた事が見えて居るのを見ると、遅くとも元禄か宝永頃にあつたものである。今其説の大要を述ぶれば、神道は天地の神気循環して万物生々化々する名であつて万物一般の大道である、神といふは大素の無の所から、有と天地開闢する運をなす活気を神といふので、共外に体が有る者では無い、凡て天地の万物は神化に出る、其神化の妙遷、理気質形と次第して見ると、理気の無形の幽隠と云つて目に見る事が出来ず、質形は有実の顕露と云つて目に見るの実である、幽隠は心に観じて見る所を云ひ、顕露は現在に見るといふのである、儒教に大極動て陽を生じ、静々して陰を生ずるとあるが、陰陽二気の神と云ふは諾冊二尊の事である。三は神道の成数で、事物皆三つを以て分るゝ、理と気と形が無ければ見る事が出来ず、質から目に見る者が出来て物我の別がある故に、皆天地にして日月星と分れ、又人は君臣と分れて居る。
 天御中主尊は理天地の理神、国常立尊は気天地の理神である。天地の開闢する理、気、質、形の次第、乾坤、陰陽、天地といふ差別をよく得心すれば、神代紀の旨自ら明かになるのである。天地の間は皆自然の神化あつて、神化即ち神道である、其神と云ふは聖にして知る可らざるもの、而も自然を主どるものである。神道の中に養はれて神を知らぬから身を知らず、身を知らぬから忠孝も知らぬのである、万国一般の神道から云へば、仏は迫害供養を行事とする天竺の神道、儒は五常五倫を行事とする唐の神道、日本は祈祷祭祀を行事とする日本の神道で、只其行事勤めかたの替があるばかりである。
 以上は其神道説の一班であるが、大体に於て之も又宋学の理気説等から脱化して属る事が判る。其外に従来の神道者流の秘伝口授等を設けた事を攻撃し、殊に吉田、吉川、垂加等の諸派を罵つて居る。
 神祇伯家学則は伯王殿御口授、御門葉等謹承、として書き出し、終りに神祇伯家四十二代文化十二年の奥書がある、四十二代は資顕王である、此学則は従来あつた所の伯家条目なものゝ最初に、「夫神道者万国一般之大道、古今不易之綱紀、神武一体法令之出処也、とあるのを始めとして、孝徳紀の惟神者謂随神道亦自有神道といふ言葉、古事記の序にある乾坤初分云々の文等を掲げ、之等を説明敷衍し、且つ固く体してよく守るべき旨を述べたものである。〉

伯家神道関連書籍

編著者 書名 出版社 出版年
清原貞雄 神道沿革史論 大鐙閣 大正8年
山田忠孝編 神道宝鑑 国教学館出版部 大正11年
小野清秀 両部神道論 大興社 大正14年
岸一太 神道の批判 交蘭社 昭和4年
清原貞雄 神道史 厚生閣 昭和7年
神祗ニ関スル展覧会目録 石川県図書館協会 昭和8年
曽根研三編 伯家記録考 西宮神社社務所 昭和8年
田中義能 かむながらの神道の研究 日本学術研究会 昭和8年
佐藤三郎 神道概説・諸祭神名総覧索引 明文社 昭和12年
加藤玄智編 神道書籍目録 明治聖徳記念学会 昭13年
清原貞雄 神道史講話 目黒書店 昭14年
宮地直一 神祇史大系 明治書院 昭和16年
高橋梵仙 佐久良東雄 新興亜社 昭和17年
丹羽保次郎 惟神の大道 東洋図書 昭和17年
河野省三 近世神道教化の研究 宗教研究室 昭和30年
天理図書館編 吉田文庫神道書目録 天理大学出版部 昭和40年
近藤喜博編 白川家門人帳 白川家門人帳刊行会 昭和47年
神道大系編纂会編 神道大系 論説編 11 神道大系編纂会 平成元年
鬼倉足日公 生命の甕 山雅房 平成3年
羽仁礼 伯家神道の聖予言 : 宮中祭祀を司った名家に伝わる秘録が今明らかになる! たま出版 平成8年
富士吉田市史編さん委員会編 富士吉田市史 通史編 第3巻(近・現代) 富士吉田市 平成11年
堀川智子 神代より伝う「龍宮臨行の儀」考 文芸社 平成18年
佐々木重人編著 天皇祭祀を司っていた伯家神道 : 秘儀継承者七沢賢治がえがく新創世記 : 地球コアにまで響き渡るコトダマ (「超知」ライブラリー ; 38) 徳間書店 平成20年
大野靖志 言霊はこうして実現する : 伯家神道の秘儀継承者・七沢賢治が明かす神話と最先端科学の世界 文芸社 平成22年
金光英子 白川家の門人 金光英子 平成23年
保江邦夫 伯家神道の祝之神事を授かった僕がなぜ : ハトホルの秘儀inギザの大ピラミッド ヒカルランド 平成25年
古川陽明 古神道祝詞CDブック 太玄社 平成28年

「王命に依って催される事」─尾張藩の尊皇思想 上(『崎門学報』第13号より転載)

以下、崎門学研究会発行の『崎門学報』第13号に掲載した「『王命に依って催される事』─尾張藩の尊皇思想 上」を転載する。

●「幕府何するものぞ」─義直と家光の微妙な関係
 名古屋城二の丸広場の東南角に、ある石碑がひっそりと建っている。刻まれた文字は、「依王命被催事(王命に依って催される事)」。この文字こそ、尾張藩初代藩主の徳川義直(よしなお)(敬公)の勤皇精神を示すものである。
江戸期國體思想の発展においては、ほぼ同時代を生きた三人、山崎闇斎、山鹿素行、水戸光圀(義公)の名を挙げることができる。敬公は、この三人に先立って尊皇思想を唱えた先覚者として位置づけられるのではなかろうか。
敬公は、慶長五(一六〇一)年に徳川家康の九男として誕生している。闇斎はその十八年後の元和四(一六一九)年に、素行は元和八(一六二二)年に、そして義公は寛永五(一六二八)年に誕生している。名古屋市教育局文化課が刊行した『徳川義直公と尾張学』(昭和十八年)には、以下のように書かれている。
〈義直教学を簡約していひ表はすと、まづ儒学を以て風教を粛正確立し、礼法節度を正し、さらに敬神崇祖の実を挙げ、国史を尊重し、朝廷を尊び、絶対勤皇の精神に生きることであつた。もつともこの絶対勤皇は時世の関係から当時公然と発表されたものではなく、隠微のうちに伝へ残されたものである〉
「隠微のうちに伝へ残されたものである」とはどのような意味なのか。当時、徳川幕府は全盛時代であり、しかも尾張藩は御三家の一つである。公然と「絶対勤皇」を唱えることは、憚れたのである。その意味では、敬公は義公と同様の立場にありながら、尊皇思想を説いたと言うこともできる。
「幕府何するものぞ」という敬公の意識は、第三代徳川将軍家光との微妙な関係によって増幅されたようにも見える。
敬公は家光の叔父に当たるが、歳の差は僅か四歳。敬公は「兄弟相和して宗家を盛りたてよ」との家康の遺言を疎かにしたわけではないが、「生まれながらの将軍」を自認し、「尾張家といえども家臣」という態度をとる家光に対して、不満を募らせずにはいられなかった。 Continue reading “「王命に依って催される事」─尾張藩の尊皇思想 上(『崎門学報』第13号より転載)” »

大久保利通らにとって不可欠だった神祇官再興・祭政一致の思想

 明治維新が成ったときから、天皇親政の國體恢復を願う純粋勤皇派と、権力の奪取・維持を最優先する者たちとの間には隔たりがあった。神祇官再興や祭政一致についての考え方においても、両者は異なる考え方を抱いていたのではなかろうか。
 安丸良夫氏は『神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈』(岩波新書)において、次のように書いている。
 〈岩倉や大久保がみずからの立場を権威づけ正統化するために利用できたのは、至高の権威=権力としての天皇を前面におしだすことだけだった。小御所会議で、「幼冲ノ天子ヲ擁シテ……」と、急転回する事態の陰謀性をついて迫る山内容堂に、「聖上ハ不世出ノ英材ヲ以テ大政維新ノ鴻業ヲ建テ給フ。今日ノ挙ハ悉ク宸断ニ出ヅ。妄ニ幼冲ノ天子ヲ擁シ権柄ヲ窃取セントノ言ヲ作ス、何ゾ其レ亡礼ノ甚シキヤ」(『岩倉公実記』)と一喝した岩倉は、こうした立場を集約的に表現したといえる。
 神祇官再興や祭政一致の思想は、こうして登場してきた神権的天皇制を基礎づけるためのイデオロギーだったから、その意味では、この時期の岩倉や大久保にとって不可欠のものだった。しかし、冷徹な現実政治家である岩倉や大久保と、神道復古の幻想に心を奪われた国学者や神道家たちとのあいだには、神祇官再興や祭政一致になにを賭けるかについて、じっさいには越えることのできない断絶があったはずである。このことを長い眼で見れば、神祇官再興や祭政一致のイデオロギーは、政治的にもちこまれたものなのだから、将来いつか政治的に排除される日がくるかもしれないと予測することもできよう〉

久留米勤皇志士史跡巡り③ 高山彦九郎から真木和泉へ

真木と彦九郎の遺児
 彦九郎は幕府に追い詰められ、寛政五(一七九三)年六月二十七日、森嘉膳宅で自刃した。その三年後の寛政八(一七九六)年十一月十八日には、唐崎常陸介が、彦九郎の後を追って竹原庚申堂で自刃した。
 さらに、享和二(一八〇二)年五月二日には、天草の西道俊が彦九郎の墓前で割腹している。道俊は、若い時代から彦九郎と結び、尊号宣下運動でも彦九郎と行動をともにしていた。しかし、寛政五年春、彦九郎が幕吏に追われて長崎へ逃れた際も道俊は行動をともにし、海路上京しようとした。しかし、果たさず虎口を脱して天草に逃れた。
 彦九郎自刃後、ともに勤皇を語るべき友もなく、医を業として十年ほど過ごしていた。しかし、彦九郎の孤忠を思う心は如何ともし難く、ついに天草を出て久留米の森嘉膳宅に向かったのである。そして、自ら墓穴を彦九郎の墓前に掘り、自刃した。辞世は
 欲追故人跡 孤剣去飄然
 吾志同誰語 青山一片烟 山腰雅春『五和町郷土史第一輯』(昭和四十二年)
 道俊の墓は、彦九郎と同じ遍照院にある。ひょうたん型のお墓で、墓標は玄洋社の頭山満によるものだ。
 彦九郎の長男儀助が久留米を訪れたのは、その翌年の享和三(一八〇三)年六月であった。後藤武夫の『高山彦九郎先生伝』には次のように描写されている。
 〈後年先生屠腹の後、一子儀助、久留米に来つて、遍照寺畔なる父の墓を展した時も、石梁は彼を自家に宿せしめ、種々慰撫する所があつた。将に帰らんとするや、詩と涙とを以て之に贈つた、義心感ずべきものがある。
    高山儀助自上野来展其考仲縄墓
    留余家一句臨帰潜然賦贈
 悲哉豪傑士。化作異郷塵。山海三千里。星霜十一春。憐君来拝墓。令我重沾巾。孝道期終始。慇懃愛此身。
 情懐綿々として、慇懃極まりなきものがある。十有一年前、先生の死に対してそゝいだ其の涙は、今や孝子儀助の展墓によつて、再たび巾を霑さしめた。嘗て彦九郎先生の為に、
  赤城仙子在人間。明月為衣玉作顔。怪得煙霞嚢底湧。躡来三十六名山。
 を謳つた其の人が、遺孤の為に此詩を賦せんとは、恐らく石梁其の人もまた宿縁の浅からざるを感じたであらう〉
 石梁は、文政三(一八二〇)年五月に「宮川森嘉膳小伝」を著し、彦九郎について記している。つまり、石梁は彦九郎の志を語り継いだ重要人物だったということである。
 その八年後の文政十(一八二八)年に石梁は亡くなっているが、若き真木が樺島との接点を持っていた可能性はある。あるいは、石梁の思いを継ぐ者から、真木が彦九郎のことを伝えられた可能性もある。そして、真木自身が彦九郎への関心を強めていく。木村重任の『故人物語』によると、真木は天保九(一九三八)年頃、彦九郎の話を聞くために安達近江宅を訪れている。
 そして、天保十三(一八四二)年正月、真木は「高山正之伝」を筆写・熟読した。彼は感慨を欄外に記し、哀悼の和歌を捧げている。その年の六月二十七日、木村重任等とともに、高山彦九郎没五十年に当たり祭典を行った。
 そして真木は、まさに彦九郎の志を継ぐべく、立ちあがるのである。三上卓先生は、「真木の巡つた足跡こそ、実に高山先生が七十余年前に辿つた足跡ではなかつたか。吾人は先生の事跡を調査し了つて、更に真木の一生を見る時、その暗合に喫驚するものである」と書いている。