「宗教思想・伝統思想」カテゴリーアーカイブ

石井東吾氏が語る截拳道(ジークンドー)の陰陽理論

 ブルース・リーが開発した截拳道(ジークンドー)には老荘思想の陰陽理論が取り入れられていたのではないか。そのことは、ジークンドーのインストラクターとして活躍する石井東吾氏の言葉からも窺える。
 石井東吾氏は、1999年9月、18歳の時に、ジークンドーの継承者テッド・ウォンと出会った。石井氏は、参加したセミナーで、テッド・ウォンの武術と人柄に深い感銘を受け、その後、テッド・ウォンの弟子であるヒロ渡邉に弟子入りする。
石井東吾
 石井氏は2003年7月に初渡米し、テッド・ウォンからプライベートレッスンを受けている。以来、2010年8月までの間、ヒロ渡邉に同行して渡米を繰り返し、修行を続けた。
 石井氏は『陰と陽 歩み続けるジークンドー』(Gakken)の中で次のように述べている。
 〈武道の礼儀作法が〝礼に始まり、礼に終わる〟とされているように、ジークンドーで重要視されているのは〝構えに始まり、構えに収まる〟ことである。それが基本スタンスであるオンガードポジションだ。
 ジークンドーのオンガードポジションは〝陰陽の理論〟に基づいた、攻撃と防御が融合した中立的な構えをとる。それはとてもシンプルかつコンパクトであり、常にいつでもどの方向へも瞬時に動くことができる、非常に機動力に富んだスタンスだ。
 「よいフォームとは、動きとエネルギーの無駄を最小限に抑えて目的を成し遂げる、最も効率的なやり方のことだ。常によいフォームで訓練せよ」と、ブルース・リー始祖は述べている。では、よいフォームで行うために必要不可欠なことは何だろうか?それは〝構え〟である。
 ジークンドーの構えは、〝レディポジション〟とも呼ばれる。エネルギーが蓄えられて、いつでも爆発的な動きを繰り出せる準備が整った状態なのだ。この精密な構えの構造が崩れていれば、自ずとそこから発する技は崩れることになり、スピードもパワーも失うこととなる。ジークンドーでは、最短最速でターゲットに拳足をヒットさせることを目的としているため、構えに高い精度が要求されるのだ。
 大切なのは、構えが攻撃的、もしくは防御的な形態やマインドに偏ることなく、陰陽の調和のとれたニュートラルな状態でなければならないということだ。肉体的には、脱力して正しい形にセットアップされた状態であること。精神面では、何にも囚われず、深い静寂のなかに心が置かれた無為自然な状態でありながら闘志を内に秘め、しかしそれをいつでも解放できるような状態。つまり、陰陽の調和を肉体と精神で表現し、それを構えのなかで表現すること。このような意識で、僕はオンガードポジシションをジークンドーの最も重要な身体的要素の一つと捉えている〉

『陰と陽 歩み続けるジークンドー』

鈴木大拙「東洋思想の特殊性」(『禅文化』昭和34年8月)

鈴木大拙は「東洋思想の特殊性」(『禅文化』昭和34年8月)において、次のように書いている。
「さて、東洋思想の特殊性ですが、西洋の人は客観的にものを見る。客観的に見るから知的になる。たとえば、ここに一つの紙片があるとする。西洋の人のやり方についていふと、この紙片は、白いとか、字が書いてあるとか、薄いとか、四角いとか、あるいはかう二つに折ってあるとか、そして科学的に見ると、この紙が何から出来てをるのか、──炭素がはひつてるだらうな、燃えるから。水素はないでせうね、水気がないから。──とにかくそんなことで、この紙がわかったことになるんですな。ところが東洋の人のやり方は、さうではなくて、特に老荘や、仏教の云ひ方は、さういふ紙を外から見た話でなくして、紙そのものになれといふのですね
そして、西洋の人が東洋のことを研究する、ことに仏教や老荘を研究するとき、これがどうしてもわからぬ。紙になれといふと、どうして人間が紙になれようかと、まあ、そんなやうに考へるですね。
鈴木大拙
お前が紙になれ、紙になれば紙がわかる。蜜柑になれば蜜柑がわかる。蜜柑の形容をいくら外から持ってきても、物理的、科学的に、今日はアトムの時代だから、原子的に考へてみたところが、蜜柑はわからぬ。蜜柑と一つになれば、それで蜜柑全部がわかる、といふやうなことを、欧米の人にいふと、蜜柑をどうしても外におく。どうして蜜柑になれようかと云ふ。客観的に、分析的にものを考へるくせのある人は、それが容易でない。東洋の人のはうは割合にやりやすい。さういふ伝統があるからですね。欧米の人はさういふ伝統を持たんですね。
欧米の人の考へにすると、ものになるといふその証拠が出ないといかんと云ふ。その証拠といふのが、客観的な証拠になるのですね。つまり研究をして、それを実験して、実験がその人の云ふ通りになれば、それで証拠が立つたといふわけです。ところが東洋の人、ことに仏教や老荘的な人は、証拠なんてことをいふから駄目なんで、証拠も何もないといふこと、そのことが証拠だ。このことのほかに証拠を求める必要はないと云ふ。いはゆる「肯心自ら許す」といふことでたくさんだ、と。
証拠を求めるとか、証拠を出すとかいふことが第二義におちいつてをるんだから、いらない話だ。かう云うても、西洋の人ではどうしてもその通りにならないのです。すべてが論理的にいかないと承知ができない。論理的にいくといふことが、また大きな力なんです。
客観的にものを処理していくところには、それだけの特色がある。それはどういふ特色かといふと、ものを概念化するといふことが、その特色の一つですね。
ところが、この分析的な客観的な見方をすると、蜜柑が一つ二つ、三つ四つと、いくつでもあるわけです。ところが主観的な見方といふか、東洋的な見方にすれば、一つの蜜柑になりきれば、その一つの蜜柑が、二つにも三つにもなりうるんだとするですね。西洋的の見方にすれば、二つ三つになったその蜜柑から、どの蜜柑にも通用する特質を抜き出してきて、これが蜜柑だといふのです。この蜜柑は少し青い、その蜜柑は黄色い、ことちは酸とぱい、そつちは甘いが、しかしながら、その蜜柑たるにおいては同じであるといふ。その蜜柑たる特殊性を抜き出してこれが蜜柑だと、かういふ。つまり抽象的な考へ方ができる。抽象的に考へることができるといふことも、また大切なことなんですがね。
しかしながら、抽象になると、個人の生きたものはなくなるですね。みな型にはまつてしまふ」

副島種臣『精神教育』③

蒼頡
 丸山幹治は『副島種臣伯』において、副島の『精神教育』から抜き書きしている。前回に続き、第五編以降を見ていく。
 〈第五編は「良知」である。「人の念々の動くのは多くは皆慣習であるものだから、忠孝の習慣の厚いものは常にその念が動き、又忠孝といふ者を常に思はぬものは其の念は決して動かぬ、そこが習相違である」「中庸に天命之謂性、率性之謂道(天の命ずるをこれ性と謂い、性に率うをこれ道と謂い)とある、率性とは即性のまゝといふことである、性のまゝなるが道なれば、道と性とは同一なるもので、差つたものでないといふことが分るであらう」「中庸にも君臣也。父子也、夫婦也、昆弟也、朋友之交也、五者天下之達道也とある通り畢竟五倫といふものより外に道といふものはない筈のものである」「伊邪那岐、伊邪那美の二柱の神が生れましたといふは、夫婦の義であらう、其れからだん〲と多くの神々が生れましたといふは、即、父子の義であらう、葦原千五百秋之瑞穂国是我子孫可王之地、宜爾皇孫就而治焉とあるは君の義であらう、臣下よりいふときには、臣の道が其れから生ずるものであるから、やはり君臣の意味である、庸佐夜芸互阿理祁理といふ場合からだん〲と万民が相輯睦するといふのは、即、朋友の交がそれから教へらるゝのである、それから先づ兄なる皇子より即位に即かせられて、次に弟の皇子に及ぶといふのが経である。間々その時によつて弟が先立たれたこともあるけれども、それは権である。これから長幼の道も明になつて居る、かやうに五倫の道といふものは決して支那から教へられたのでなく、自然に備てゐる」「すべて君父には不較といふて、何であらうが是非曲直を較ぶるといふことをせぬが、臣子たる者の道である」「道といふ字は首に辵すなはち首が走ると書てある、即、頂に来住める神が走るの意味であらう」「貴といふ字は一中が貝(タカラ)なりと書てある」「一文字を作つた蒼頡といふ男はなか〱えらいものであつた」など〉

康有為─もう一つの日中提携論

康有為
日清両国の君主の握手
 「抑も康有為の光緒皇帝を輔弼して変法自強の大策を建つるや我日本の志士にして之れに満腔の同情を傾け此事業の成就を祈るもの少なからず、此等大策士の間には当時日本の明治天皇陛下九州御巡幸中なりしを幸ひ一方気脈を康有為に通じ光緒皇帝を促し遠く海を航して日本に行幸を請ひ奉り茲に日清両国の君主九州薩南の一角に於て固く其手を握り共に心を以て相許す所あらせ給はんには東亜大局の平和期して待つべきのみてふ計画あり、此議大に熟しつつありき、此大計画には清国には康有為始め其一味の人々日本にては時の伯爵大隈重信及び子爵品川弥二郎を始め義に勇める無名の志士之に参加するもの亦少からざりしなり、惜むべし乾坤一擲の快挙一朝にして画餅となる真に千載の恨事なり」
 これは、明治三一(一八九八)年前後に盛り上がった日清連携論について、大隈重信の対中政策顧問の立場にあった青柳篤恒が、『極東外交史概観』において回想した一文である。永井算巳氏は、この青柳の回想から、日清志士の尋常ならざる交渉経緯が推測されると評価している。両国の志士たちは、日本は天皇を中心として、中国は皇帝を中心として、ともに君民同治の理想を求め、ともに手を携えて列強の東亜進出に対抗するというビジョンを描いていたのではあるまいか。
 変法自強運動を主導した康有為は、一八五八年三月に広東省南海県で生まれた。幼くして、数百首の唐詩を暗誦するほど記憶力が良かったという。六歳にして、『大学』、『中庸』、『論語』、『朱注孝経』などを教えられた。一八七六年、一九歳のとき、郷里の大儒・朱九江(次琦)の礼山草堂に入門している。漢学派(実証主義的な考証学)の非政治性・非実践性に不満を感じていた朱九江は、孔子の真の姿に立ち返るべきだと唱えていた1。後に、康有為はこの朱九江の立場について、「漢宋の門戸を掃去して宗を孔子に記す」、「漢を舎て宋を釈て、孔子に源本し」と評している。 続きを読む 康有為─もう一つの日中提携論

崎門学派の徂徠学派批判

 尾張藩では、第8代藩主徳川宗勝時代の寛延元(1748)年に、崎門学派の蟹養斎が藩の援助を受けて「巾下学問所」を設立した。しかし、この時代は荻生徂徠の徂徠学の勢いが強く、崎門学などの朱子学派にとっては厳しい時代であった。だからこそ、尾張崎門学は、徂徠学に対して強い抵抗姿勢を示したのである。
 蟹養斎は『非徂徠学』『弁復古』などを著して徂徠学を批判しました。同じく崎門学派の小出慎斎は『木屑』において、「徂徠の徒」を以下のように批判している。
 「猖狂自恣にして程朱を排擯す。蜉蝣大樹を憾すと云へし。これより以来、邪説横議世に熾になり、黄口白面の徒往々雷同して賢をあなどり、俗を驚し…文辞を巧にして、世好に報し時誉を求るに過さるのみ。其徒のうちにいづれの言行のいみしきやある。ひとり無用の学をするのみにあらす、却て世教の害をなす事甚し。かくのことき教を学はんよりは学なきにしかじ」
 慎斎の子・小出千之斎や石川香山も徂徠学を痛烈に批判しました。田中秀樹氏は、香山による徂徠学批判のポイントは(1)道徳・修身論を軽視する徂徠学末流の詩文派は世の役に立たない「浮華の文人」である、(2)徂徠は「古義」を見誤り憶測によって議論している──との主張だと指摘し、以下のように書いている。
〈徂徠は古文辞学の立場から、……経書の古語を会得するために詩文章の実作を奨励していた。徂徠はあわせて勧善懲悪的文学観を否定していたため、詩文の製作は作者の道徳的修養とは無関係となり、漢詩文の世界に没頭する者が増え、文人社会が形成されることとなる。……石川香山の生きた一八世紀後半から一九世紀初は、まさに古文辞派が開いた学問の「趣味化余技化」が進行し、通儒・通人を自任する文人・畸人が世にあふれた時代であった。そのため、この道徳学とは関係ないところで趣味・余技としての詩文を楽しむ徂徠学末流の詩人・文人を、「躬行を努めず」「浮華放蕩に流れ」る者とする批判は、むしろ数多く見られる〉(『朱子学の時代: 治者の〈主体〉形成の思想』
 香山はまた、『聖学随筆』において徂徠学の経世派に対しても次のように批判していた。
 〈学問の心得悪くして害を招く。宋曽子固『後耳目志』に唐人の語を引て、無以学術殺天下後世と云ふ詞あり。軽薄の学者分別も無く、政事経済の書を著し、麁忽人の為に取り用ひられて、大いに世の難義を作し、後代までの害を貽す事あり。渾て政事経済の事は賢人君子忠良臣の親く身に歴行ひし人の書たるものにあらざれば皆席上の空論と覚へ取に足らずとなすべし〉

尾張藩における崎門学派と国学派②

 文政・天保期には、次第に国学派が尾張藩教学の足場を固めつつあった。これに対して、尾張崎門学派はどのように国学派と向き合おうとしていたのであろうか。
 岸野俊彦氏は、『幕藩制社会における国学』(校倉書房、平成十年五月)において以下のように書いている。
 [前回から続く]〈宣長学が、古典注釈学としての学問の領域にとどまる限り、それは尾張垂加派からみても決して否定するものではなく、むしろ評価すべきものとみていることは確認しうると思う。だが、宣長の学問は、彼の神への熱い思いと密接不可分のものであった。尾張垂加派の宣長批判は、まさにこの点にかかわっており、宣長の「我国の学、神道めきたる事」は「いとあやしき事のみぞ多かる」という(高木秀條「いつまで草 古学弁」『天保会記』所収)。
 ただ、宣長の神道に対しても全面否定するものではなかったことは、「宣長、大和魂を論じ出しよりして、我国漢学を宗とする者までも皇国皇統を推尊し、外国を賤しむるを知れり。其功、大なりといふべし」(深田正韶『正韶詠草一』など)と述べていることから理解することができる。高木秀條や深田正韶の少年期から青年期にかけて、名古屋を舞台に展開された宣長と徂徠学派の市川鶴鳴との『くず花』『末賀乃比礼』論争は、おそらく彼らの意識の中にあったと思われる。中国的価値に深くとらわれた儒者に対決する限り、宣長の神道論は、尾張垂加派にとっても十分に有用なものであった〉
 では、尾張垂加派は宣長の神道論のどこを問題視したのだろうか。岸野氏は、①「古伝」そのものの持つイデオロギー性、②両者の神道の支持基盤、③「日本魂」の本質理解、④死後の霊魂の問題──の四点を挙げて、以下のように説いている。 続きを読む 尾張藩における崎門学派と国学派②

『日中韓思想家ハンドブック 実心実学を築いた99人』

実心実学とは
 西洋近代の行き詰まりが明確になる中で、アジア各国の思想家の遺産を共有することが重要な課題となっている。
 こうした中で、2015年に『日中韓思想家ハンドブック 実心実学を築いた99人』(勉誠出版)が刊行された。編纂したのは、小川晴久氏、中国の張践氏、韓国の金彦鍾氏である。
 99人には、頼山陽、吉田松陰、橋本左内、西郷隆盛らの日本人、朱舜水、王陽明、康有為、孫中山(孫文)、梁啓超、章太炎らの中国人、金玉均らの開化派を育てた金正喜、朴珪寿らの韓国人らが含まれている。
 ただし、本書で紹介された99人は、実心実学者として括られている。巻頭言で述べられている通り、「実学」は近代以後には実用の学、テクニックの学ととらえられているが、近代以前には、実心(自然への畏敬、真実への愛、自己修養)を重視する実心実学であった。小川氏は次のように書いている。
 
 〈とりわけ私たちが注目するのは十七・八世紀の自然哲学者、自然学者、百科全書派たちの実心実学である。それは「天人」型実心実学と規定できる。彼らの学は十一世紀の中国の張載(張横渠)の気一元の哲学を哲学基盤に持ちながら、目は広く天(自然、宇宙)に開かれていた。彼らにとって天は人(彼ら)が順うべき師であった。誠者天之道也、誠之者大之道也(『中庸』)。三浦梅園にとって誠とは倫理ではなく、自然の間断なき営みであった(「誠といふの説」)。二十一世紀以降の学問は十八世紀の「天人」型実心実学が模範となり、導きの糸となってくれると確信する。モラルとそのスケールに於いて。
 そしてこの時期の実学を発見し、国を挙げて営々と研究を続けてきたのが隣国朝鮮(南北朝鮮)である。一九一〇年前後から二〇年代、三〇年代にかけて、つまり日本による三十六年の朝鮮統治時代に朝鮮の知識人たちが、近代を志向し、民族意識に目覚めた新しい思潮(実学)として発見したのである。「実事求是の学風」(文一平)を持つ思想を。朝鮮は十六世紀末、秀吉による侵略(「壬辰倭乱」)を受け、十七世紀前半には満州族による侵略(「丙子胡乱」)を受けた。その打撃から立ち直り、疲弊した祖国を再建するために興った学問を二十世紀の知識人たちが、発見し、実学思潮と名づけたのである。民族意識に目覚め、近代を志向した学問とその本質を捉えたので、百年近く国を挙げて研究してきたのは当然である〉 続きを読む 『日中韓思想家ハンドブック 実心実学を築いた99人』

西本省三「之を如何、之を何如」より(『支那思想と現代』)

日本人自ら「如之何如之何」を繰り返すべき
 〈子日く「之を如何、之を如何と曰はざるものは、吾れ之を如何ともするなきなり」と、朱子之に註して「之を如何、之を何如とは、熟思して審かに慮するの辞なり、是の如くせずして妄りに行はゞ、聖人と雖も亦之を如何ともするなし」と。…日支は離して見ないで、渾一体に考へねばならぬものであからソレ丈け日本人は支那問題に対し、常に「如之何如之何」とて大に審慮して居るけれども、更らに天啓直示がないで支那はドーなるだらう、支那はドー経綸したら好いだらう云つてるのみである。支那人に「如之何如之何」と繰返さしむることを求むるよりも、先づ日本人が之を繰返し、上下心を一にし、王道を以て支那に臨み、徳を積むことの難有きを身体心得し、日支両国を永久に打算し、往々陥り易き小刀細工の策を罷むることにせねばならぬ、然らざれば百千の対支政策を建つるも、這は本を揣らずして其末を齊ふせんとするの類に過ぎない、何等の役に立たずして、益々日支の間を乖離せしむるのみである〉
(大正9年3月1日)

西本省三「大春秋と小春秋」より(『支那思想と現代』)

支那人の性情
 〈…支那の革命首脳者は、何れも…妥協、賄賂等を為し、彼の白耳義(ベルギー)借款を以て自ら「貪欲である」事を表示し、支那人の是等性情の変へられない点を能く曝露したではないか〉

小春秋時代の様相
 〈…春秋史を縦横に観察して、世界列国と照映し、吾人の所謂大春秋時代とも云ふべき今日の世界を見るに何れも正義人道又はデモクラシーを高調しつゝあれども、事実は之に反し、彼等の自私自利の行動は依然として絲毫も止まぬ様である、即ち小春秋時代の様に、大道癈れて仁義顕ると嗟嘆した老子の意識語と、同様な感を抱かずには居られEないのである〉
(大正9年2月23日)

西本省三「徳の力」より(『支那思想と現代』)

力より大なる徳
 〈要するに支那に於ける政府と国民、其政府と政党、其南と北、其中央と地方、其資本家と労働者、此等の対立関係を善くする者は、其オルガニゼーションを統率すべき人が、対立関係以外の力、即ち天下の道を行ふて心に得たる徳の性格を具へて居ることに在る、権力や愚民の力は乱を致すのみ、徳なるものは力の名はないが、力よりも大であるとは此処の事である〉

真の仁恕を以て眼目とする東洋
 〈然るに吾人は当地に寓居せる支那学者沈子培翁を訪ひ、談故釈宗演師と沈翁の欧州戦評に及び、其時宗演師欧戦を看る如何と問ひしに対し、沈翁が「仁ありて恕なし、但し所謂仁は我東洋の仁の一端のみ」と答へたのを想起し、西洋の仁を我仁の一端とし、恕なしとせる所を称し、欧州戦は約めて云へば各国の争覇戦にあらずやと云ふや、翁は然り然りとて盛んに其然る所以を説き…我東洋は之に反し、所謂天人合一の平等境に立てる高遠なる天地観、人生観を以て直ちに之を政治に体現せる国柄で、真の仁恕を以て眼目として立つて居る、即ち孟子が「舜は庶物を明かにし、人倫を察す、仁義に由りて行ふ、仁義を行ふにあらず」と云つて居る如く、東洋は仁義已の心に根し行ふ所皆此より出づてふ徳政で、仁義の為めの仁義で組織された国柄でない、西洋の如く圧迫や抵抗や破壊で構成された国家社会ではなひ即ち争ひを以て終始した国家社会ではない、トテも正義人道を粉飾し帝国主義を排し、事実武力的経済的帝国主義を行ふ様な国柄とは比較にならない〉
(大正9年2月23日)