「維新と興亜」カテゴリーアーカイブ

右翼と中東イスラム─イスラエル・ハマス紛争と日本

■日本の右翼・アジア主義者とイスラム
欧米列強による植民地支配の打破とアジアの道義的秩序の回復を目指した戦前日本の右翼・アジア主義者は、東アジアだけでなく、東南アジア、中央アジア、中東などのイスラム教徒(ムスリム)の境遇についても特別な関心を払っていた。その中心にいたのが頭山満らであった。彼らは、欧米に抑圧されるムスリムの惨状を我が事のように考え、欧米列強の植民地支配からの解放を目指してムスリムと協力しようとしていた。
前列右から古島一雄、頭山満、犬養毅、五百木良三、後列右から足羽清美、在神戸回教僧正シヤムグノーフ、在東京回数僧正クルバンガリー、島野三郎
明治三十九(一九〇六)年六月には、亜細亜義会という団体が結成されている。『東亜先覚志士記伝』によると、創設メンバーは、トルコ系ムスリムのアブデュルレシト・イブラヒームと、頭山満、犬養毅、河野広中、大原武慶、青柳勝敏、中野常太郎、山田喜之助、中山逸三。その後、A・H・ムハンマド・バラカトゥッラー、アハマド・ファドリーらのムスリムも参加した。
亜細亜義会の評議員三十一名のうち十八名が外国人で、内訳はアラブ人六名、トルコ人六名、タタール人一名、インド人二名、中国人(清国人)一名、朝鮮人一名、某国人一名となっていた。
亜細亜義会は機関誌『大東』を発行していた。東洋大学教授の三沢伸生氏によると、『大東』の目次欄の注意書きには「本誌(大東)の表紙に大東を包める青色の文字は中央部上より印度、アラビャ、アルメニヤ、西蔵、両側上より蒙古、暹羅の順序に依り其地方文字にて大東と記せるなり」と書かれている。また、『大東』には亜細亜義会主意書のトルコ語訳やタタール語訳も掲載されていた。

亜細亜義会機関誌『大東』

亜細亜義会主意書

亜細亜義会主意書(トルコ語・タタール語)

さらに、『大東』第四年八号巻末の予告によれば、会員を対象に亜拉比亜(アラビア)語、土耳其(トルコ)語、馬来(マレー)語、蒙古語、印度語の五ヶ国語の通信教育、馬来語、印度語、亜拉比亜語、土耳其語の四ヶ国語の夜学教育の実施を計画し、受講生を募っていた。
なお、亜細亜義会に関する学術論文としては、Elmostafa Rezrazi氏の「20世紀初頭のイスラーム世界と日本 : パン・イスラーム主義と大アジア主義の関係を中心に」平成十年、三沢伸生氏の「亜細亜義会機関誌『大東』に所収される二〇世紀初頭の日本におけるイスラーム関係情報」『アジア・アフリカ文化研究所研究年報』平成十三年などがある。

■アラブ・ナショナリズムへの共感─「パレスチナ人の解放が最後の仕事」
アジア主義者のアラブ・ナショナリズムへの共感は、戦後も維持されていた。その代表的な人物が、岸信介の外交ブレーンを務めた中谷武世である。中谷は大正八(一九一九)年に大川周明・満川亀太郎・北一輝らが結成した猶存社の運動にかかわり、アジア主義者として活動するようになった。昭和八(一九三三)年に設立された大亜細亜協会の常任理事も務めていた。そんな中谷が、アジア民族解放運動に生涯を賭ける動機となったのが、以下の「猶存社宣言」であった。
中谷武世(左)と岸信介
「我が神の吾々に指す所は支那に在る、印度に在る、支那と印度と豪州の円心に当る安南、緬甸、暹羅に在る。チグリス・ユーフラテス河の平野を流るゝ所、ナイル河の海に注ぐ所、即ち黄白人種の接壌する所に在る。人類最古の歴史の書かれたる所は、吾々日本民族に依りて人類最新の歴史の書かるゝ所で無いか。吾々は全日本民族を挙げて亜細亜九億民の奴隷の為めに一大リンコルンたらしめなければならぬ」
戦後、中谷は「チグリス・ユーフラテス河の平野を流るるところ、ナイルの大河の海に注ぐところ」を「中東」と定義し、この地域に在住するアラブ民族の独立解放及び近代化推進、とりわけパレスチナ人のそれを「最後の民族運動」として自分の全精力を傾注する課題とした(シナン・レヴェント「戦後日本の対中東外交にみる民族主義―アジア主義の延長線―」)。
特に中谷は、昭和三十(一九五五)年に開催されたバンドン会議を舞台にアジア・アフリカ連帯運動を主導し、翌昭和三十一年七月二十六日にスエズ運河国有化を宣言したエジプトのナセルに共鳴していた。中谷は、ナセルとの面会にむけて準備を開始する。これを助けたのが、バンドン会議以来ナセルとのパイプを築いていた高碕達之助であった。
昭和三十二(一九五七)年、中谷は中曽根康弘、下中弥三郎とともに、イラン、イラク、シリアを経て、カイロに入った。六月六日午後八時、三人はナセルの私邸を訪れた。中谷が高碕の紹介状をナセルに手渡し、続いて中曽根が流暢な英語で切り出した。
「私は日本国民を代表してスエズの国有化の成功を心からお祝い申し上げる、曽て日露戦争に於ける日本の勝利は全有色民族の覚醒の契機をなしたといわれるが、こんどのスエズ国有化の成功はアジア、アフリカの諸民族に強い自信を与えた。日本国民は之によって非常な刺戟を受けた。日本国民の大多数はスエズ国有化に賛成であり、ナセル大統領支持である」
ナセルは力強い語調でこたえる。
「……日露戦争のお話があったが、他のアジア諸国民と同じくエジプトの民族的自覚も日露戦争に於ける日本の勝利に刺戟されたのである。爾来半世紀の歴史は西欧帝国主義と我々アジア・アフリカの民族主義との戦の連続であり、スエズ国有化の戦いも此の西欧の植民主義に対する我々アジア・アフリカ人の闘争の一環である……」(『昭和動乱期の回想』 上)
日露戦争とスエズ国有化が、欧米の帝国主義に対するアジア・アフリカの民族解放闘争という一つの連続した物語として語られたのである。
翌昭和三十三年、中谷らによって、日本とアラブ諸国との親善・友好関係の増進などを目的として日本アラブ協会が創立された(現在、会長はコスモエネルギーホールディングス社長・会長を務めた森川桂造氏が務めている)。同協会は昭和三十九(一九六四)年七月には『季刊アラブ』が創刊している。
『季刊アラブ』創刊号
一般的に、日本外交がアラブ寄りに転換したのは、石油ショックが襲った一九七三年頃とされているが、その下地は中谷らによって作られていたのである。
その後、中谷は一貫してアラブ諸国と日本の橋渡し役として活躍した。シナン・レヴェント氏によると、中谷は、昭和五十三(一九七八)年九月、福田赳夫が首相として初めて中東諸国を訪れる際、特使として下工作を行った(「戦後日本の対中東外交にみる民族主義」)。中谷はまた、昭和五十九(一九八四)年に中曽根首相の特使として中東アラブ諸国を訪れ、同地に関する最新情報を現地政経界の要人から入手したという。
中谷は、亡くなる一年前の平成元(一九八九)年三月に刊行した『昭和動乱期の回想』の中で、まだ独立を成し遂げていない唯一のアラブ民族であるパレスチナ人の解放問題に協力することが、自分の最後の仕事だと述べていた。

大東亜会議の理念と現実①

 嘉悦大学教授の安田利枝氏は、大東亜会議について次のように述べている。
 〈大西洋憲章は確かに、アジア諸民族の独立を推進しようとする立場からみれば、著しくアジア地域の戦後の見通しについて曖昧である。抽象的な言辞で見る限り、大東亜共同宣言は大国たると弱小国たるを問わず、一つの民族、国家としての地位において平等たるべきことを保障している点で画期的である。
 しかしながら、理念のレベルでなく、当時の政府中枢、政策決定レベルでの「アジア像」ないし、アジア政策で比較してみるならば、どうであろうか。理念を掲げる美辞麗句の陰でこれを裏切る行動において日本の方は数段優れているといえないだろうか。日本は、ビルマとフィリピンに独立を与えた。しかし日本は一時的にビルマ・フィリピンを軍事占領したに過ぎず、永続的な支配関係を樹立していた訳ではない。両国を日本の植民地とすることは初めから予想されえず、早期独立が民心把握と対米英攻勢上不可避であるとの政略上の判断から独立が与えられた。そして他方で日本はマラヤ、インドネシアなどの重要な資源地域は帝国領土とし、住民の政治参与による漸進的な自治の拡大を意図していた。従来の植民地である朝鮮、台湾における政治参与なども、わずかに重光外相の構想の中にあったに過ぎない。日本の場合、独立後も裏面で内面指導を確保し、実質的な経済権益を可能な限り把握しようとする圧力は極めて強かった。……日本は、大国として生存していくため、アジア諸民族を日本を盟主として結集し、欧米列強に対抗する戦争に従事していたのであり、その限りで、アジア諸民族を自らの陣営にとどめ置くための諸施策を昭和十八年度中の大東亜政略として実施した。「重光流アジア主義」は、ただ、アジア諸民族のナショナリズムへの理解と承認なくして、日本の企図するアジア新秩序の樹立はあり得ないという根本認識において、当時の戦争指導集団の中では抜きん出ていたのである〉(「大東亜会議と大東亜共同宣言をめぐって」『法学研究』第六十三巻二号、平成二年)

アジア主義に関する新聞記事(2015年~)

 近年、新聞がアジア主義に関連する記事を掲載することは滅多にない。
 以下にその僅かな記事を紹介する。

見出し 発行日 新聞名
<時評 論壇>中島岳志*国際秩序貢献の「アジア主義」を 2022.04.26 北海道新聞朝刊全道 6頁
アジア主義の可能性探る 2022.02.04 沖縄タイムス朝刊 24頁
大アジア主義講演会の地」プレート 今も重い、孫文の言葉 2018.10.08 毎日新聞地方版/兵庫 25頁
孫文国際会議 神戸で 生前「大アジア主義」講演 2018.09.12 読売新聞大阪朝刊 27頁
弘前 28日にシンポジウム「明治アジア主義と東北・津軽」 2018.04.24 東奥日報朝刊 15頁
きょうの歴史 孫文の「大アジア主義」講演 1924(大正13)年11月28日 2015.11.28 東京新聞朝刊 31頁
経済、文化、タイと蜜月 日本人「兄貴分」と頼りに [第4部]「アジア主義の虚実」 2015.09.08 熊本日日新聞朝刊
中国、怒とうの経済支援 アジア太平洋 盟主への道へまい進 [第4部]「アジア主義の虚実」 2015.08.14 熊本日日新聞朝刊
日本中心の「夢」に限界 大川周明の理念 解放掲げ侵略正当化 [第4部]「アジア主義の虚実」 2015.07.23 熊本日日新聞朝刊
生き続けた謀略の人脈 対ミャンマー「利用」と「協力」 [第4部]「アジア主義の虚実」 2015.07.09 熊本日日新聞朝刊
アジア主義の虚実(4) 盟主を狙う中国 経済力で勢力を拡大 2015.06.22 信濃毎日新聞朝刊 4頁
アジア主義の虚実(3) 荒波かわし日韓で起業 無言貫くロッテ創業者 2015.06.08 信濃毎日新聞朝刊 4頁
アジア主義の虚実(2) 欧米から解放唱えた支配 2015.06.01 信濃毎日新聞朝刊 4頁
アジア主義の虚実(1) 戦時から「利用」と「協力」交錯 2015.05.25 信濃毎日新聞朝刊 4頁

アジア主義関連文献(雑誌記事、2015年~)

著者 タイトル 雑誌名 発行日
関 智英 孫文大アジア主義演説再考―「東洋=王道」「西洋=覇道」の起源 竹村民郎著作集完結記念論集 2015
木村 実季 孫文の「大アジア主義」講演をめぐる解釈論について 中日文化研究 2015
尹 虎 1919年前後における日中「アジア主義」の変容と分極の諸相 国際日本学 2015-01-30
佐々 充昭 近代日本の大アジア主義と大同思想-満州国の「王道主義」を中心に- 韓国宗教 2016
劉 金鵬 アジア主義における「平和」の発見 : 戦時中竹内好のアジア主義的活動に関する考察 ぷらくしす 2016
嵯峨 隆 宮崎滔天とアジア主義 国際関係・比較文化研究 2016-03-01
三浦 周 近代仏教学とアジア主義 大正大学綜合佛教研究所年報 2016-03
堀田幸裕 東亜同文書院の「復活」問題と霞山会 同文書院記念報 2016-03-31
李 長莉 宮崎滔天と孫文の広州非常政府における対日外交 —何天炯より宮崎滔天への書簡を中心に— 同文書院記念報 2016-03-31
安井 三吉 孫文「大アジア主義」講演と神戸 孫文研究 2016-06
クライグ・A スミス、団 陽子 王道 : 孫逸仙のアジア主義と東アジアの民族主義への応用 孫文研究 2016-12
木村 実季 近衛文麿「東亜新秩序」と孫文「大アジア主義」との接点 中日文化研究所論文集 2017
土佐 昌樹 日韓関係とナショナリズムの「起源」(3)夢野久作と「狂気」の萌芽 AJJ 2017
大堀 敏靖 頭山満・大アジア主義 : その現代的意義を探る 群系 2017
武内房司 大南公司と戦時期ベトナムの民族運動 : 仏領インドシナに生まれたアジア主義企業 東洋文化研究 2017-03
クリストファー・W・A・スピルマン アジア主義の起源とそのイデオロギー的位置付け EURO-NARASIA 2017-03
山之城有美 「煩悶」の源流としてのアジア主義:『順逆の思想-脱亜論以後-』を素材として 日本女子大学大学院人間社会研究科 2017-03-22
松浦 正孝 財界人たちの政治とアジア主義 : 村田省蔵・藤山愛一郎・水野成夫 立教法学 2017-03-25
野村 幸一郎 大川周明のアジア主義 : 国際検察局尋問調書を起点として 言語文化論叢 2017-09
峯 陽一 「南」の地政学 : アジア主義からアフラシアの交歓に向かって 現代思想 2017-09
宮本司 竹内好「アジア主義の展望」における“民族”について -林房雄の“民族”観を媒介として- 教養デザイン研究論集 2017-09-08
福家 崇洋 帝国改造の胎動 : 第一次大戦期日本の国家総動員論とアジア主義 社会科学 2017-09-11
福井 紳一 反逆のメロディー(第5回)橘樸と左翼アジア主義 : 「東亜」の新体制を提起する廣松渉の絶筆に寄せて 出版人・広告人 2017-10
高埜健 近現代日本のアジア主義に関する一考察――征韓論から東アジア地域主義まで(一) アドミニストレーション 2017-11
福井 紳一 反逆のメロディー(第6回)尾崎秀実と世界革命 : 東亜協同体論と左翼アジア主義 出版人・広告人 2017-11
渡辺 新 方法としての大アジア主義 : 東亜研究所時代の平野義太郎 政経研究 2017-12
橋本 順光 英国公文書館所蔵の大川周明「日本における汎アジア主義の精神」翻訳及び解題 阪大比較文学 2018
加納 寛 東亜同文書院生の香港観察にみる「アジア主義」:対イギリス認識を中心に 文明21 2018-03-25
田中 希生 アジア主義について : 武士と大陸浪人 人文学の正午 2018
梶原 英之 アジア主義のロゴスとカオス 日本主義 2018
笠井 尚 アジアの解放のために日本の変革を説いた大川周明 日本主義 2018
小野 耕資 思想としての「アジア主義」を考える 日本主義 2018
李 彩華 頭山満のアジア主義 哲学と現代 2018-02
原田 敬一 東学農民運動と日本メディア 人文學報 2018-03-30
中野 聡 アジア主義 : 記憶と経験 現代思想 2018-06
馬場 毅 問題提起 : 東亜同文書院,アジア主義,対日協力政権 現代中国研究 2018-07-21
嵯峨 隆 樽井藤吉と大東合邦論 : 日本の初期アジア主義の事例として 法學研究 2018-09
劉 争 竹内好のアジア主義からの再発見 : 現代日中知識人の思考 神戸山手大学紀要 2018-12-20
嵯峨 隆 思想 第一次世界大戦と日中アジア主義 近代中国研究彙報 2019
王 美平 小寺謙吉の大アジア主義についての一考察 -その中国観を手掛かりに- アジア太平洋討究 2019-01-31
李 彩華 梁啓超と章炳麟のアジア主義言説 : 近代日本のアジア主義への対応の視点から 哲学と現代 2019-02
深町 英夫 同文同種? 孫文のアジア主義言説 孫文研究 2019-03
邱 帆 榎本武揚のアジア主義と対東アジア外交 日本歴史 2019-04
楽 星 帝国日本の大乗的使命 : 大正期における大谷光瑞とアジア主義 近代仏教 2019-05
李 凱航 高山樗牛と人種・黄禍論 : アジア主義への接近 史学研究 2019-10
戴 國煇 アジアの中の日本 : 「脱亜論」と「大アジア主義」を重ねて読み直し、再考したら!? myb 2019-10
滝口 剛 東方文化連盟 : 一九三〇年代大阪のアジア主義 阪大法学 2019-11-30
浦田 義和 オリエンタリズムとアジア主義 比較文化研究 2020
呉 舒平 孫文のアジア主義と新中国(1)日中提携の模索と中国興業会社の設立 法学論叢 2020-06
呉 舒平 孫文のアジア主義と新中国(2)日中提携の模索と中国興業会社の設立 法学論叢 2020-09
高埜 健 近現代日本のアジア主義に関する一考察 : 征韓論から東アジア地域主義まで(2・完) アドミニストレーション 2020-11
呉 舒平 孫文のアジア主義と新中国(3・完)日中提携の模索と中国興業会社の設立 法学論叢 2020-12
川上 哲正 日中の狭間にアジア主義を考える 初期社会主義研究 2021
シナン レヴェント 戦後日本の対中東外交にみる民族主義 : アジア主義の延長線 国際政治 2021-03
モルヴァン・ペロンセル 日清戦争以前の政教社の言説におけるアジア主義 ―国粋主義との関連について― 中京大学国際学部紀要 2021-03-19
アドム ゲタチュー アジア主義からナショナリズムへ : アジアにおける革命運動の変遷 Foreign affairs report 2021-09
呉 舒平 辛亥革命前の犬養毅のアジア主義(1)中国保全と経済的日中提携論 法学論叢 2021-12
劉 金鵬 1960年代における革命理想とアジア主義 : 竹内好のアジア論を中心に 広島大学文学部論集 2021-12-25
玉置 文弥 「宗教統一」とアジア主義 : 大本教と道院・世界紅卍字会の連合運動「世界宗教連合会」の活動実態から 宗教と社会 2022
何 金凱 近代日本アジア主義とその中国における受容と再解釈 ─李大釗の「新アジア主義」を中心に─ 愛知論叢 2022-02-01
呉 舒平 辛亥革命前の犬養毅のアジア主義(2)中国保全と経済的日中提携論 法学論叢 2022-02
呉 舒平 辛亥革命前の犬養毅のアジア主義(3・完)中国保全と経済的日中提携論 法学論叢 2022-03
劉 重越 大阪アジア主義の理想と現実 : 1934年清水銀藏の中国旅行を中心に 東アジア文化交渉研究 2022-03-31
堂園 徹 中華からの風にのって(224)アジア主義 Verdad 2022-05
小野 耕資 風土と共同体に基づく経済(30)古神道の歴史(5)田中逸平の信仰とアジア主義 国体文化 2022-07

坪内隆彦「日本は、アジアの声に耳を澄ませ」(『伝統と革新』2020年5月)

■フィリピンの自主独立路線
 「米国と中国のどっちに味方する?」
 昨年シンガポールの研究機関が、東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟十カ国で、研究者や政府機関の職員、ビジネスマンらを対象とした調査を実施し、そう質問した。この質問に対して、「米国に味方する」との回答が多かったのは、十カ国のうちシンガポール、フィリピン、ベトナムの三カ国だけだった。ラオス、ブルネイ、ミャンマー、マレーシア、カンボジア、タイ、インドネシアの七カ国では、「中国に味方する」との回答の方が多かった。このうちラオスとブルネイでは約七割が「中国に味方する」と回答している。
 東南アジアの親中化は、中国の「札束外交」によってもたらされているとの主張がある。カネの力にモノを言わせて東南アジア諸国を靡かせているという見方だ。しかし、東南アジアの親中化は、それだけではとらえ切れない。そこを見誤ると、日本はアジアにおける影響力をさらに失うことになるのではなかろうか。筆者は今こそアジアの声に耳を澄ます必要があると考えている。
 八割以上が「米国に味方する」と回答したフィリピンにおいても、状況は激変しつつある。同国のドゥテルテ大統領は、二月十一日、「訪問米軍に関する地位協定」(VFA)を破棄すると米政府に通知したのだ。この決定の直接的な引き金は、アメリカがドゥテルテ大統領の側近に対して入国ビザの発給を拒否したことだが、フィリピンの自主独立志向に注目すべきである。
 フィリピンは一六世紀後半からスペインによる支配を受けていたが、一八九八年に勃発した米西戦争の結果、アメリカの植民地となった。一九四六年に独立した後も、基本的に親米政権が続き、アメリカ支配から脱却することができなかった。日本と同様、フィリピンにもスービック海軍基地、クラーク空軍基地などの米軍基地が置かれていた。ただし、一九六六年に改定された米比軍事基地協定は米軍基地の駐留期限を一九九一年までと定めていた。そこで、米比両政府は、基地存続を可能とする米比友好協力安保条約に調印したが、一九九一年九月十六日 フィリピン上院は同条約批准を反対多数で否決したのである。この日、上院周辺は、まるで独立宣言を行ったかのような熱気に包まれた。こうして米軍はフィリピンから完全撤退したのである。ところが、一九九八年にVFAが結ばれ、米軍の駐留に道が再び開かれた。
 我々は、ドゥテルテ大統領が目指しているものが真の主権回復とアイデンティティティの確立であることに注意する必要がある。獨協大学教授の竹田いさみ氏が指摘しているように、ドゥテルテ大統領の対米自立路線の原点には、自らの体験がある。ドゥテルテ氏が大学時代、ガールフレンドがいるアメリカへ渡ろうとした際に、入国ビザが発給されなかった。また、ドゥテルテ氏には、外交パスポートを持参していたにもかかわらず、ロサンジェルス空港で書類の不備を指摘され、空港係官に別室で尋問された経験がある。一方、アメリカ人はビザなしでフィリピンに自由に入国することができる。ドゥテルテ大統領は、こうした自らの体験から米比関係の不平等性を実感し、アメリカ優位の構造を変えなければならないと確信したのであろう。
 また、ドゥテルテ大統領は、「フィリピン」という国名が宗主国だったスペインのフェリペ国王に由来する名前だとして、国名変更に意欲を示している。国名の候補として「マハルリカ(高潔)」などが候補に挙がっている。ドゥテルテ大統領が共感するマルコス元大統領も、かつて「マハルリカ」を新たな国名に挙げたことがある。
 東西冷戦下で西側陣営に入った東南アジアの国は、概して親米的だった。しかし、植民地支配に喘いだ民族の記憶は容易には消えない。その記憶が自立志向に向かわせているのである。

■興亜論を共有した日本人とアジア諸民族
 かつて、日本人は欧米列強の植民地支配に苦しむアジア諸民族の解放に手を貸そうとした。少なくとも、在野のアジア主義者、興亜論者たちは、アジアの独立運動家を支援し、アジア諸民族の団結を目指した。例えば、興亜論の精神的支柱であった玄洋社の頭山満翁は、中華民国の孫文、朝鮮の金玉均、インドのビハリ・ボースだけではなく、東南アジアの志士たちを支援した。ベトナムのクォン・デ侯、フィリピンの志士アルテミオ・リカルテ、ベニグノ・ラモス、ビルマ(ミャンマー)の志士ウ・オッタマらである。一方、玄洋社出身の代議士中野正剛は一九四二年に『世界維新の嵐に立つ』を著し、次のように述べた。
 「帝国主義侵略は今日の人類世界では過去の迷夢である。日本は大東亜の新秩序を建設し、その指導者として、功労者として、永久の先行者として、大東亜全民族の幸福と栄誉の源泉とならねばならぬ。これこそ大和民族として生き甲斐のある存立を確保する所以である」
 かつて日本人は独立不羈の気概を持ち、植民地支配に苦しむアジア諸民族に共感していた。だからこそ、多くのアジアの志士たちが日本を頼り、日本との連携を模索したのだ。フィリピンの興亜論者ピオ・デュラン(Pio Duran)博士もその一人である。彼は弁護士として活躍し、日本人との関係を強め、一九三二年に『比国独立と極東問題』を刊行して宗主国アメリカを震撼させた。一九四二年には『中立の笑劇:フィリッピンと東亜』で、「幾世紀かの如何とも為し難い服従の間に強制的に押附けられた、厚く塗られた西洋文明の上塗りは、これを引剥いで、現在及び将来永遠に東洋諸国住民の生命の中に根本的影響を残す古き東洋文化の栄光を明るみに出さねばならぬ」と書いた。
 しかし、大東亜戦争に敗れたわが国はアメリカに占領され、興亜の理想はわが国においては封印されてしまった。だが、興亜の理想はアジア人の心に残されていた。一九五一年、サンフランシスコ対日講和会議で演説したスリランカのジャヤワルダナ大統領は「往時、アジア諸民族の中で、日本のみが強力かつ自由であって、アジア諸民族は日本を守護者かつ友邦として、仰ぎ見た。…当時、アジア共栄のスローガンは、従属諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、インド、インドネシアの指導者たちの中には、最愛の祖国が解放されることを希望して、日本に協力した者がいたのである」と語った。 続きを読む 坪内隆彦「日本は、アジアの声に耳を澄ませ」(『伝統と革新』2020年5月)

「いま『大アジア』を問うことは時代錯誤だろうか」─松岡正剛『千夜千冊エディション 大アジア』

松岡正剛『千夜千冊エディション 大アジア』(角川ソフィア文庫)

 令和2年7月、松岡正剛氏の『千夜千冊エディション 大アジア』(角川ソフィア文庫)が刊行された。「大アジア」というタイトルに驚き、筆者の問題意識と重なる多くの書物が手際よく紹介されていることもあり、熟読した。
 さて、同書において、12年も前に書いた拙著『アジアの英雄たち』(展転社)を圧倒的ページ数(287~353頁)で取り上げていただいたことに、心より感謝申し上げる。
 〈著者は日本経済新聞出身のジャーナリスト兼ライターの坪内隆彦で、「月刊日本」連載の『アジアの英雄たち』をもとに充実させた。タイトルに『アジア英雄伝』とあるように、あからさまな大アジア主義称揚の視点で綴られている。冒頭に頭山興助の「推薦の辞」が飾られているのだが、この人は頭山満のお孫さんだし、あとがきには田中正明の『アジア独立への道』(展転社)からの影響を記している。田中は松井石根の私設秘書から近現代アジア史の著述に向かい、『パール博士の日本無罪論』(小学館文庫)、『東京裁判とは何か』(日本工業新聞社)などを書いた。
 そういう一冊ではあるのだが、当時の大アジア主義にかかわった人物を点検するには浩瀚かつ便利な一冊になっている〉
 松岡氏が「そういう一冊ではあるのだが」と、わざわざ前置きされたことについては、いろいろ考えるところがあるが、筆者が「大アジア主義称揚の視点」で綴っていたことを否定するつもりはない。
 ただ、大アジア主義といっても、在野のアジア主義と政府のアジア主義には違いがある。筆者は一貫してアジアの亡命志士たちが日本政府の政策に失望した事実を強調してきた。拙著の中でも次のように書いている。 続きを読む 「いま『大アジア』を問うことは時代錯誤だろうか」─松岡正剛『千夜千冊エディション 大アジア』

日中の不幸なすれ違い─小泉菊枝『東亜聯盟と昭和の民』

小泉菊枝『東亜聯盟と昭和の民』東亜聯盟協会、昭和15年
 小泉菊枝は『東亜聯盟と昭和の民』(東亜聯盟協会、昭和15年)で、以下のように書いている。
〈漸く封建社会の諸制度を清算し、資本主義経済への発展により活発な国富増進へ歩み出した世界の後進国日本は、商品を売りさばく海外市場として残されてゐる所を支那大陸に求めるより仕方がありませんでした。日本は列強に追随しながら友邦支那の中に利権を確立して行きました。かうして一人殖民地と化し去らうとする東亜に於ける唯一の独立国家日本はぐんぐん国力を充実させ、列強の間に伍して進みました。かゝる日本の発展を、列強はたゞ侵略的・野心的進出としてだけ解釈し、東亜のユートピアとして「愛すべき日本」と呼んでゐた人々も「恐るべき日本」からやがて「恐るべき日本」と称してひたすらその成長を抑圧しようとするやうになりました。列強は競つて亜細亜の宝庫を分割しようとし、又この間に割り込む日本を牽制しようとしました。門戸開放・機会均等が屡々支那に要求されましたが、これは取りも直さす、搾取と侵略の自由平等を大亜細亜殖民地の上に確立しようといふ意志表示だつたのです。列強の利権が増大すればする程、利権擁護に名を借りた東亜諸問題への彼等の発言権は強硬になるばかりでした。日本は必死となつてこの間に立ちました。若し日本が支那大陸に利権を確守出来す、発言権を持たなかつたならば、亜細亜大陸は列強の欲するまゝに動かされるより他はなかつたのです。 続きを読む 日中の不幸なすれ違い─小泉菊枝『東亜聯盟と昭和の民』

『維新と興亜』第2号刊行

 令和2年4月、崎門学研究会・大アジア研究会合同機関誌『維新と興亜』第2号が刊行された。
 目次は以下の通り。

『維新と興亜』第2号

 【巻頭言】グローバリズム幻想を打破し、興亜の道を目指せ
 歴史から消された久留米藩難事件
 尊皇思想と自由民権運動─愛国交親社の盛衰②
 金子彌平―興亜の先駆者④
 新しい国家主義の運動を起こそう!②―津久井龍雄の権藤成卿批判
 江藤淳と石原慎太郎②
 金子智一―インドネシア独立に情熱を捧げた男
 重光葵と「大東亜新政策」の理念―確立すべき日本の国是を問う
 田中角榮の戦争体験
 『忠孝類説』を読む
 若林強斎先生『絅斎先生を祭る文』
 菅原兵治先生『農士道』を読む⑤
 首里城の夢の跡
 書評 拳骨 拓史『乃木希典 武士道を体現した明治の英雄』
 書評 浦辺 登『勝海舟から始まる近代日本』
 表紙の写真─片岡駿の生涯と思想
 活動報告・行事予定

政府の覇道主義的傾向を戒めた石原莞爾─「東亜連盟建設要綱」

石原莞爾
 明治期のわが国においては、興亜論、アジア主義が台頭した。アジア諸民族が連携して欧米列強の侵略に抵抗しようという主張であり、欧米の植民地支配を覇道として批判するものだった。しかし、国家の独立を維持するためにわが国は富国強兵を推進し、列強に伍していかねばならなかった。その結果、日本政府の外交は覇道的傾向を帯びざるを得なかった。
 そのことを在野の興亜論者たちは理解していた。ところが、やがて在野の興亜論者たちも政府の政策への追随を余儀なくされていく。こうした中で、その思想を維持した興亜論者もいた。例えば石原莞爾である。彼が率いた興亜連盟は、戦時下にあってもその主張を貫いていた。大東亜戦争勃発後に改定された「東亜連盟建設要綱」は以下のように述べている。
 〈明治維新以来、他民族を蔑視し、特に日露戦争以後は、急激に高まれる欧米の対日圧迫に対抗するため、日本は已むなく東亜諸民族に対して西洋流の覇道主義的傾向に走らざるを得なかった結果、他の諸民族に対する相互の感情に阻隔を来したのは、躍進のための行き過ぎであり、日本民族の性格からいえば極めて不自然のことである。日本民族が、国体の本義に覚醒し、かつ国家連合に入りつつある時代の大勢を了察するならば直ちにその本性に復帰すべく、東亜諸民族の誤解を一掃することは、極めて容易であると信ずる。そうなれば一つの宣伝を用いることなく、東亜諸民族が歓喜して天皇を盟主と仰ぎ奉ること、あたかも水の低きに流れるが如くであろう。
 しかし、遺憾ながら東亜諸民族が心より天皇を仰慕することなお未だしとすべき今日、日本は東亜大同を実現する過程に於て、聖慮を奉じて指導的役割を果す地位に立つべき責務を有する。ただしこの指導的地位は、日本が欧米覇道主義の暴力に対し東亜を防衛する実力を持ち、しかも謙譲にして自ら最大の犠牲を甘受する、即ち徳と力とを兼ね備える自然の結果であらねばならぬ。権力をもって自ら指導国と称するは皇道に反する。(中略)
 今や大東亜戦争遂行過程にあり、我が国民が急速に英米依存を清算して、肇国の大精神に立帰りつつあることは、誠に喜ぶべきところであるが、ややもすれば時勢の波に乗じて、軽薄極まる独善的日本主義を高唱するものが少なくない。
 天皇の大理想を宣伝せんとする心情やよし。しかれども日本自らが覇道主義思想の残滓を清算する能わず、外地に於ては特に他民族より顰蹙せられるもの多き今日、徒に「皇道宣布」の声のみを大にするは、各民族をして皇道もまた一つの侵略主義なりと誤解せしめるに至ることを深く反省すべきである。「皇道宣布」の宣伝は「皇道の実践」に先行すべきでない。〉

康有為─もう一つの日中提携論

康有為
日清両国の君主の握手
 「抑も康有為の光緒皇帝を輔弼して変法自強の大策を建つるや我日本の志士にして之れに満腔の同情を傾け此事業の成就を祈るもの少なからず、此等大策士の間には当時日本の明治天皇陛下九州御巡幸中なりしを幸ひ一方気脈を康有為に通じ光緒皇帝を促し遠く海を航して日本に行幸を請ひ奉り茲に日清両国の君主九州薩南の一角に於て固く其手を握り共に心を以て相許す所あらせ給はんには東亜大局の平和期して待つべきのみてふ計画あり、此議大に熟しつつありき、此大計画には清国には康有為始め其一味の人々日本にては時の伯爵大隈重信及び子爵品川弥二郎を始め義に勇める無名の志士之に参加するもの亦少からざりしなり、惜むべし乾坤一擲の快挙一朝にして画餅となる真に千載の恨事なり」
 これは、明治三一(一八九八)年前後に盛り上がった日清連携論について、大隈重信の対中政策顧問の立場にあった青柳篤恒が、『極東外交史概観』において回想した一文である。永井算巳氏は、この青柳の回想から、日清志士の尋常ならざる交渉経緯が推測されると評価している。両国の志士たちは、日本は天皇を中心として、中国は皇帝を中心として、ともに君民同治の理想を求め、ともに手を携えて列強の東亜進出に対抗するというビジョンを描いていたのではあるまいか。
 変法自強運動を主導した康有為は、一八五八年三月に広東省南海県で生まれた。幼くして、数百首の唐詩を暗誦するほど記憶力が良かったという。六歳にして、『大学』、『中庸』、『論語』、『朱注孝経』などを教えられた。一八七六年、一九歳のとき、郷里の大儒・朱九江(次琦)の礼山草堂に入門している。漢学派(実証主義的な考証学)の非政治性・非実践性に不満を感じていた朱九江は、孔子の真の姿に立ち返るべきだと唱えていた1。後に、康有為はこの朱九江の立場について、「漢宋の門戸を掃去して宗を孔子に記す」、「漢を舎て宋を釈て、孔子に源本し」と評している。 続きを読む 康有為─もう一つの日中提携論