「水戸学」カテゴリーアーカイブ

久留米天保学派分裂の真相─真木和泉・木村三郎と村上量弘

 幕末の久留米藩士として先駆けて水戸に遊学したのは、木村三郎だった。天保12(1841)年、彼は水戸に遊んで「南街塾」で学び、久留米に戻ると私塾「日新社」を開いて子弟の教育に当った。この木村と刎頸の交りがあったのが、真木和泉である。
 真木は木村から『新論』を示され、正志斎の真価を聞くにおよび、水戸遊学への思いを募らせ、弘化元(1844)年7月に水戸に赴いた。 実は、真木に先立つ天保13(1842)年に水戸に学んだ久留米藩士がいた。それが、村上量弘(守太郎)である。木村、村上、真木の三人は天保学の三尊とも称せられていた。ところが、村上と真木は対立するに至り、嘉永5(1852)年には久留米の水戸学派は弾圧されるにいたる。いったいに何が起こったのか。
 『久留米人物誌』の「村上量弘」の項を引く。 Continue reading “久留米天保学派分裂の真相─真木和泉・木村三郎と村上量弘” »

大楽源太郎の私塾「西山書屋」規則、授業内容

 大楽源太郎は慶応二年に私塾「西山書屋」(敬神堂)を開設した。塾規則、授業の日割は以下の通り。

●西山塾規則
一、第一君公の御主意を相守り、寮中親睦致し、練武学文懈怠なく勉強肝要之事
一、喧嘩口論高声堅く禁止之事付而俗曲同断之事
一、猥に外出堅く禁止の事但し難容用事之れ有候節は頭役座元へ相届外出致すべく侯
一、朔日十の日休日の事
一、朝六ツ時より五ツ時まで撃剣稽古の事
一、六ツ時より七ツ時まで読書稽古の事
一、暮六ツ時より四ツ時まで同断の事
一、二四六九日銃陣稽古のこと、但し四九日は九ツ時より七ツ時迄の事 其の余は諸稽古勝手次第の事
   正月    敬神堂
 右の条々堅相守侯事

●授業の日割
 朔 日 休業
 ニノ日 会読(論語、弘道館記述義)
 三ノ日 同(外史)
 四ノ日 同(靖献遺言、新論)
 五ノ日 同(論語、弘道館記述義)
 六ノ日 同(弘道館記述義)
 七ノ日 同(外史)
 八ノ日 同(靖献遺言)
 九ノ日 同(弘道館記述義、新論)
 十ノ日 休業
 十一日/二十一日 詩文国詩随意 

西海の勤皇志士・松浦八郎と蒲生君平①

 『西海忠士小伝』や『稿本八女郡史』に収録された勤皇志士・松浦八郎は、元治元年7月21日、真木和泉とともに自刃し、天王山の露と消えた人物である。彼が蒲生君平の孤高の戦いを継ぐかのように、山陵荒廃について警鐘を鳴らしていた事実は、君平の精神が水戸─宇都宮─久留米で共有されていたことを物語っているようだ。松浦が大橋訥庵に師事していた事実が注目される。
 以下、拙著『GHQが恐れた崎門学』に書いた大橋訥庵に関わる一節を引く。

●崎門派と共鳴した大橋訥庵の尊皇攘夷論
 天保十二(一八四一)年の烈公による建白からおよそ二十年後の文久二(一八六二)年、君平の出身地である宇都宮藩によって再び山陵修補事業が建白されます。(中略)
 嘉永三(一八五〇)年に宇都宮藩四代藩主忠温の招きにより、江戸藩邸において儒学を教授するようになったのが大橋訥庵です。彼は、『言志四録』で知られる佐藤一斎に師事し、天保十二(一八四一)年に日本橋で思誠塾を開き、子弟に儒学を指導していました。
 訥庵の学問は朱子学と陽明学の折衷でしたが、嘉永五(一八五二)年頃には、朱子学一本に定まります。『大橋訥庵先生伝』を著した寺田剛は、訥庵が到達した朱子学は林羅山の朱子学とは異なり、むしろ崎門派に酷似していると評しています。寺田はまた、訥庵が特に闇斎を尊敬していたことは、諸所に見えていると指摘しています。実際、秋山寒緑、楠本端山・碩水、小笠原敬斎等、訥庵に入門した崎門の士、訥庵の門から出て崎門に入った者も少なくありません。
 訥庵は安政六年には、養子の陶庵を肥後に送り、崎門派の月田蒙斎に学ばせています。蒙斎の家は、代々、熊本の野原八幡宮の宮司の家系で、京都で千手旭山から崎門の学を学んでいました。
 訥庵が高山彦九郎に傾倒し、『山陵志』に込められた君平の志に思いを寄せたことは自然のなりゆきでした。もともと訥庵の実父清水赤城は、君平とともに『武備筌蹄』という兵学書を著そうとしたほど君平と親しい関係にあったのです。
 ペリー来航以来、訥庵は尊皇攘夷論を鮮明にしていきます。安政四(一八五七)年には『闢邪小言』を刊行し、激しい尊皇攘夷論を唱えました。『日本外史』を著した頼山陽の三男で、安政の大獄において処刑された頼三樹三郎の遺体が埋葬もされずに打ち捨てられていることを見かね、南千住にあった小塚原刑場まで行き、遺体を棺に納め埋葬しています。
 そして尊皇攘夷を目指した訥庵は、君平と幽谷の盟友関係を再現するかのように、水戸の尊攘派との関係を深めていくのです。
 安政七(一八六〇)年の桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺された後、老中安藤信正は老中久世広周と共に幕閣を主導します。安藤・久世は、井伊の開国路線を継承する一方、公武合体によって幕政の統制を図ろうとします。そこで、皇女・和宮降嫁を実行に移すべきと判断し、朝廷に対して、和宮降嫁を願い出たのです。しかし、和宮の兄・孝明天皇は、降嫁を要請する幕府に対し、断固として断り続けていました。
 尊攘派の志士達は安藤に対する反発を強めていきました。水戸藩の西丸帯刀は、万延元(一八六〇)年七月、長州藩の桂小五郎らと連帯して行動する密約を結びます。これに基づき安藤の暗殺や横浜での外国人襲撃といった計画が立てられました。しかし、この頃長州藩内では長井雅楽の公武合体論が藩の主流を占めるようになり、藩士の参加が困難となります。そこで、水戸の尊攘派志士らは、訥庵一派と連携して、安藤の暗殺計画を進めたのです。
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『GHQが恐れた崎門学』書評(平成29年7月)

 
 『敗戦復興の千年史』(展転社)の著者、山本直人氏が『表現者』平成29年7月号に、「歴史を動かす原動力とは」と題して、拙著『GHQが恐れた崎門学』の書評を書いてくださった。誠にありがたい事だ。
 〈マルクスの思想がレーニンのロシア革命を生み、北一輝の思想が二・二六事件の青年将校を動かした様に、或る特定の思想が思いがけない原動力となる例はそう多くはない。歴史とは様々な偶然が重なりあって、予期せぬ方向に発展するのが常だからだ。では七百年もの武家政治を終わらせた明治維新の原動力とは何であったか。それは黒船来港の外圧の結果や関ヶ原の西軍勢力の巻き返しのみで説明しうるものなのか。そうした中、本書では、幕末の志士たちの「自らの思想と行動を支える教科書」、「聖典」として、浅見絅斎の『靖献遺言』をはじめとする五冊の書物を取り上げている。一見何の脈絡もないこれらの書物の点と線とを結ぶ接点は何であったか。それが「明治維新を導いた國體思想」としての「崎門学」である。
 「崎門学」とは、垂加神道の提唱者として知られる山崎闇斎の門流から発展した思想である。「君臣の大義と内外(自国と他国)の別」を強調した闇斎は、江戸幕府初期にあって既に天皇親政の理想を掲げていたというのだ。つまり明治維新よりも百年以上も昔に、「朝権回復」を目指したのが、崎門学派だったことになる。
 例えば安政の大獄で命を落とした梅田雲浜、宝暦事件で朝廷を倒幕に導こうとしたとされる竹内式部、楠公精神を継いで討幕に向かった真木和泉、それらの思想背景には、大義のために命をものともしなかった中国の烈士たちを描いた『靖献遺言』の思想があった。また吉田松陰を討幕派に導いたものこそ、明和事件で処刑された山県大弐の『柳子新論』に他ならない。その志は高山彦九郎を経て、昭和維新の権藤成卿にまで引き継がれている。そして歴代天皇の山陵修補を提言した『山陵志』。その源流は、朝権衰退を憂えた栗山潜鋒の『保建大記』にあった。蒲生君平の遺志は、水戸学と合流し、藤田東湖の国体思想へと発展する。さらには、徳川氏を賛美したとされる頼山陽の『日本外史』の底流にも幕政批判があり、頼家三代における崎門学派との交流があったことを忘れない。
 平成三十年で明治維新百五十年を迎えるが、「明治」といえば文明開化以降の日本における近代化の出発点と見做されがちである。それどころか『明治維新という過ち』という書物にも象徴される様に、未曾有の国難を乗り越えた先哲たちを過剰な表現で貶める現象までが生じ始めている。「尊王攘夷」や「王政復古」の思想の源流については、これまでは国学や水戸学といった近世思想が注目されてきた。しかしながら、崎門学とは何か、初学者向けに解説した本は皆無だったといっていい。「明治」とはいかなる時代であったのか、さらに踏みこんで、「維新」の源流はどこに見出せるのか。本書はその解明に一つの手がかりを示してくれるだろう。〉

尊皇思想を鼓吹した『新葉和歌集』

 平泉澄先生門下の鳥巣通明先生は、『恋闕』において、「久しきに亘って醸成された上代思慕に基く尊王論が倒幕論に発展するには、熱と力を与へる他の契機が必要であつた」と指摘し、その一つとして考えるべきものが吉野時代の回顧だと説いた。そして、吉野時代の回顧として重要なものとして、太平記、神皇正統記とともに新葉和歌集を挙げ、次のように書いている。
 〈最後に新葉和歌集について考へよう。これは 後醍醐天皇の皇子 宗良親王が撰集し給ひしもの、「かみ元弘のはじめより、しも弘和の今にいたるまで、世は三つぎ、年はいそとせのあひだ」吉野の 朝廷に仕へて、滅私奉公の誠を捧げた人々の歌を含んでゐる(序文)。内容については親しく繙くべきであり、多くの解脱もなされて居るから、こゝでは佐々木信綱博士の雄渾適切なる一文を引用するに止めよう。
 新葉集をとつて一首を高唱すると、切つて離した弓弦の高鳴る響が聞える。馬上の武士の草摺に触れて錚鑅たる佩剣の響が聞える。更に暝目して当時を想像すると御簾あらはに板敷寒き行宮の夜、嵐に瞬く燈火の下に侍してもとの都にかへさずらめやと憤り歌つたおもかげが現はれる。皇事に痩盡せる白髪の准后が、敵中ふかき孤城の一室に史筆をとるさまもうかぶ。新葉集は熱烈の作に富んで浮華の調がない、云々。(改造社版『頭註 新葉和歌集』序文)
 その立場の相違の故に、新後拾遺集、新続古今集撰集の際には、事大主義の「心なき撰者」により門戸を鎖され、足利政権下を通じて不遇であり、わづかに書写せられて伝はつたが、近世になると、承応二(一六五三)年、寛文二(一六六二)年、宝暦元(一七一五)年と開板せられ、承応二年板と同板で年月不明の版本もあり、ひろろく流布することになつた。そしで光圀卿が扶桑拾葉集を集めた時、二十一代集と同格に待遇されたのであつた。このことについて吉田令世がいみじくも「大日本史に南朝を正統と立給へると、この新葉集を勅撰の中に入れたまへるとはやがておなじ趣」である(歴代和歌勅撰考)と指鏑してゐるのは人のよく知るところである。応永三十二(一四二七)年兵部卿師成親王が「斯書は南朝慶寿院法皇御在位の時、予が叔父中務卿宗良親王に詔して撰せしめらるゝ所なり云々(富岡氏本 新葉集奥書)」と仰せられてゐることを思へば、新葉集は、こゝにはじめて正しき地位を与へられたと云ふべきであらう。然してこの光圀卿と相前後して吉野時代の修史の業を企てた加賀侯前田綱紀が、宗良親王賛辞を作り、その中より今日人口に膾炙せる御歌
  君のため世の為なにか惜しからむ 捨ててかひある命なりせば
を抽出し「命を委ねるの志節、所謂君に身を忘れ、国に家を忘れる語にも叶へり」と云つたのは本書が単に史料乏しき吉野時代研究の資料としで重用されたばかりでなく、その内容をなす悲歌が尊王思想鼓吹に役たつー径路を示すものであらう〉

高須芳次郎の会沢正志斎評

 高須芳次郎は『近世日本儒学史』(越後屋書房、昭和18年)において、会沢正志斎について次のように評している。
 〈就中「新論」は……日本國體の尊厳を理論の上から詳しく説いた最初の書であつた。それと共に農本主義を叫んで、士民の経済的行詰りを打開し、忠孝一本主義を唱へて、国民の思想的立場を強力ならしめることにつとめた。その国防論の如きも、軍事科学の知識を本にして、詳しく陸海軍の新設備を論じ、頗る当時に適切だつた。
 それ故天下の志士、国士を以て任ずる人々は争うて「新論」を読んだのである。真木和泉、平野次郎、安達清風らはいづれも「新論」から少からぬ感銘を得た。その他、薩長と土肥諸藩の人々のうちには「新論」愛読者が多かつたのである。かうして「新論」一篇は正志斎の名を全日本に伝へ、彼の風采を想望して水戸へくる有為の青年がなかなか多かつた。吉田松陰も亦正志斎を崇拝してその教へを受け「会沢先生は、人中の虎だ」と感嘆した。
(中略)
 正志斉はまた文章に長じ、精力に富んで頭脳が明快であつたから、水戸学精神を世に普及するために年々著述を出した。中にも「下学遺言」「及門遺範」の二書は、水戸政教学の本旨をよく伝へ、後人を感奮せしめる力が強い〉

真木和泉の真髄①

 いま、幕末の志士・真木和泉が、奇妙な歴史解釈を売り物にする書物の中で貶められている。そろそろ、本格的な反撃に出なければならない。
 「一切の私心なし! 一族ともども理想の為に殉ずる覚悟」。それが真木の真髄である。
 「とゝ様の打死悲しくは候へども、皇国の御為と思へばお互ひにめでたく……」
 これは、真木の天王山自刃の報に接した、真木の娘・小棹が発した言葉だ。真木が討幕運動に挺身した時代、畏れ多くも孝明天皇の御意志は揺らいでいたという説もある。それでも、真木は信ずる道を突き進んだ。それは、決して己のためではない。なぜならば、彼は自らの死、一族の死を覚悟して事に臨んだからである。拙著『GHQが恐れた崎門学』の一節を引く。
 〈真木が遺書として書いたのが、「何傷録」です。冒頭に「楠子論」を掲げ、さらに「楠子の一族、三世数十人、一人の余りなく大義に殉死せられしこと、大楠公の只一片の誠つき通りて、人世の栄辱などは、塵ほども胸中に雑らず」と、楠公精神を称えました。そして、十年の謫居を余儀なくされ行動できなかった自らの心情を吐露し、今や身を挺する覚悟を綴り、次のように一族に訴えかけたのでした。
 「ゆめ吾子孫たるもの楠氏の三世義に死して、心かはらぬあとな忘れそ」 Continue reading “真木和泉の真髄①” »

教育勅語と崎門学・水戸学

 以下、『GHQが恐れた崎門学』補論「明治維新後の國體思想」の教育勅語に関する部分を紹介する。

文明開化路線との対決
 一方、教育勅語に結実する元田永孚(東野)らの運動は、文明開化路線に抗し、維新の原動力となった國體思想の回復運動という側面を持っていました。
 中沼了三の後任として明治天皇に御進講することになった東野は、明治五(一八七二)年に学制が制定されて以来の教育の在り方に批判を強めていました。学制に示されている教育観は、社会学者の副田義也氏が指摘している通り、福沢諭吉が『学問のすすめ』で説いた「一身独立」のための教育とほぼ等しく、極めて個人主義的色彩が強いものでした。
 明治七年には、岩倉遣外使節に随行して欧米の教育事情を調査した田中不二麿が文部大輔に就き、知識才芸主義の教育を推進します。彼は、明治九年に再度渡米してアメリカ各州の教育制度を調査しています。
 明治天皇は明治十一年夏から秋にかけて、東山・北陸・東海の諸地方を御巡幸になり、各地の小学校、中学校、師範学校に臨幸され、施設や教育方法、内容に関して詳細に御覧になりました。東野はこの視察について次のように記しています。
 「北越御巡幸諸県学校ノ生徒ヲ御覧セラルゝニ英語ハ能ク覚エタルニ之ヲ日本語ニ反訳セヨト仰セ付ケラレタレハ一切ニ能ハサリシナリ。或ハ農商ノ子弟ニシテ家業モ知ラス高尚ノ生マ意気ノ演述ヲナス等皆本末を愆ルノ生徒少ナカラス。是全ク明治五年以来田中文部大輔カ米国教育法ニ據リテ組織セシ学課ノ結果ヨリ此弊ハ顕ハシタルナリト進講ノ次ニ御喩アラセラレ誠ニ御明鑑ニアラセラレタリ……亦聖賢道徳ノ学ヲ御講究アラセラルゝノ補益ニ因テ然ルヘシト竊ニ存シ奉レバ…」
 明治天皇から対策を求められた東野がただちにまとめたのが、「教学聖旨」です。「教学聖旨」は、教学の基本を述べる「教学大旨」と具体的方法・内容を指示する「小学条目二件」の二つの文書から成っていました。
 「教学大旨」は、「教学ノ要、仁義忠孝ヲ明カニシテ、知識才芸ヲ究メ、以テ人道ヲ尽スハ、我祖訓国典ノ大旨、上下一般ノ教トスル所ナリ、然ルニ輓近専ラ知識才芸ノミヲ尚トヒ、文明開化ノ末ニ馳セ、品行ヲ破リ、風俗ヲ傷フ者少ナカラス」と、学制以来の教育の在り方を厳しく批判したのです。また、「故ニ自今以往、祖宗ノ訓典ニ基ツキ、専ラ仁義忠孝ヲ明カニシ、道徳ノ学ハ孔子ヲ主トシテ」と述べています。
 こうして、伊藤博文との論争の火ぶたが切られたのです。伊藤は、「教学聖旨」に対抗して、ただちに井上毅に「教育議」を執筆させます。
 「教育議」は、「其足ラサル所ヲ修補セハ、文明ノ化猶之ヲ数年ノ後ニ望ムヘシ」とし、「高等生徒ヲ訓導スルハ、宜シク之を科学ニススムヘク」とし、「子弟タル者ヲシテ高等ノ学ニ就カント欲スル者ハ、専ラ実用を期シ…」と主張したのです。 Continue reading “教育勅語と崎門学・水戸学” »

「明治維新」と「明治という時代」の切断

二つの明治─大久保路線と西郷路線

 「明治の時代」と一口に言うが、明治維新の精神は、西郷南洲が西南の役で斃れる明治10年までに押し潰されてしまったことに注意する必要がある。
 明治維新の原動力となった思想は、本来明治時代の主役になるはずであった。ところが、実際にはそうならなかった。拙著『GHQが恐れた崎門学』にも書いた通り、早くも明治4(1871)年には、崎門派の中沼了三(葵園)、水戸学派の栗田寛、平田派の国学者たちが新政府から退けられている。
 こうした新政府の姿勢について、崎門学正統派を継ぐ近藤啓吾先生は「維新の旗印であつた神道立国の大旆を引降して、外国に認めらるべく、文明開化に国家の方針を変じ、維新の功労者であつた崎門学者、水戸学者、国学者(特に平田学派)を中央より追放せざるを得なくなった」と書いている。
 さらに、明治6年には、対朝鮮政策(敢えて征韓論とは言わない)をめぐる対立によって西郷南洲が下野する。それをもたらした明治政府内部の対立の核心とは、野島嘉晌が指摘している通り、維新の正統な精神を受け継いだ南洲と、維新の達成と同時に早くも維新の精神を裏切ろうとした大久保利通の主導権争いだった。 
 明治7(1874)年2月には、南洲とともに下野した江藤新平によって佐賀の乱が勃発している。さらに、西南の役に先立つ明治9年には、大久保路線に対する反乱が各地で続いた。まず10月24日に熊本県で神風連の乱が、同月27日に福岡で秋月の乱が、さらに同月28日に山口で萩の乱が起こった。
 神風連の乱の引き金となったのは、明治9年3月に布達された廃刀令とそれに追い打ちをかけるように同年6月に発せられた断髪令である。文明開化の名の下に、神州古来の風儀が破壊されるという反発が一気に爆発したのである。
 萩の乱で斃れた前原一誠は、政府の対外政策にも不満を抱いていたが、特に彼が問題視していたのが、地租改正だった。彼は、地租改正によって、わが国固有の王土王民制が破壊されると反発していた。南洲とともに下野した副島種臣らも、王土王民の原則の維持を極めて重視していた。そして、明治10年に南洲は西南の役で斃れ、大久保路線は固まる。
 大東塾の影山正治は、「幕末尊攘派のうち、革命派としての大久保党は維新直後に於て文明開化派と合流合作し、革命派としての板垣党は十年役後に於て相対的なる戦ひのうちに次第に文明開化派と妥協混合し、たゞ国学の精神に立つ維新派としての西郷党のみ明治七年より十年の間に維新の純粋道を護持せむがための絶対絶命の戦ひに斃れ伏したのだ」と書いている。
 つまり、明治国家は明治10年までには、大きく変質したということである。むろん、欧米列強と伍してわが国が生き残っていくためには、大久保的な路線が必要であった。しかし、それは維新の精神を封じ込める結果をもたらした。この悲しみを抜きに「明治の栄光」を語るべきではない。 Continue reading “「明治維新」と「明治という時代」の切断” »

幕末志士の学問─鳥巣通明『明治維新と志士』

 明治維新を導いた幕末の志士とはいかなる存在だったのか。彼らが極めんとした学問とはどのようなものだったのか。それを知るための貴重な一冊がある。平泉澄門下の鳥巣通明が、明治維新100年に当たって著した『明治維新と志士』(神社本庁 明治維新百年記念叢書 2、昭和41年)である。
 鳥巣は「志士の性格」の一節で、次のように書いている。
 〈おそらくマス・コミの影響によるものであらう、志士と云へば、世間ではとかく花柳の巷に出入りしては新撰組や幕府側の捕吏と血斗する姿を連想する人が多いやうである。テレビ・映画や小説をすべてフイクションと云ふのではない。牒報網や密偵をまくために、彼等は料亭や遊廓を利用して会合することが多かつた。明日をもはかられぬ生命である、時に生活が奔放に流れる者がゐたのも事実であつた。そこに、明治から今日まで跡を絶たない待合政治の源流がある、と説く人もゐるほどである。だが、それは志士たちの生活の一コマにすぎない。しかも彼等の間には、そのやうな生活を自戒する雰囲気が強かつたのである。例へば、長州の志士井上聞多が高杉晋作と一緒に京都三条通りの旗亭に投宿した時、同じく松下村塾で学んだ野村和作・入江九一が訪ねて行つて、
 朝廷でも憂慮せられ、藩公も日夜国事に奔走してゐる時勢だから、われわれも妓楼や旗亭で国事を談ずることはつつしむべきだ。同志一同協議した結果、今後妓楼・旗亭に登るのをやめることにし、違反する者があれば、詰腹を切らせることにした。貴君等もこの盟約に加入されたい。
と申入れてゐることを注目しておこう。岩倉が云つたやうに志士と市井の放蕩無頼の徒との間には、はつきり一線を画して論ずべきであらう。 Continue reading “幕末志士の学問─鳥巣通明『明治維新と志士』” »