「アジア伝統文化」カテゴリーアーカイブ

神への感謝とタイ舞踊

タイ舞踊は、約1000年前にクメール人によってインドから輸入されたとされる。タイ古典舞踊の80%は、ラマキェンというラーマーヤナから取材した内容とそれに付随した挿話である。
インドからもたらされた舞踊は、タイ王宮の保護を受け、タイ国民の温和な性格などに培われて、独自の舞踊として発展した。仏塔をイメージした金の冠をかぶり、絢爛豪華な衣装を身に着けて踊るタイ舞踊について、かつて榊原帰逸は、インドほど急調の強いものでもなく、中国のように喧噪なものでもなく、優雅な静けさを持ったものであるということができると指摘していた(榊原帰逸『アジアの舞踊』わせだ書房新社、1965年、133、140頁)。タイ舞踊では、タン(Tun)という親指だけをはなし、他の指を揃えてそらした形と、チープ(Cheep)という親指と人差指をつけ、他の3本をそらして1本1本離した形の2種を使い、体全体で意味を規定する。
「タイ舞踊」(秋元加代子タイ舞踊団)は、次のようにその宗教性を強調している。
「タイの舞踊は元来、神に感謝を表す儀式で踊りを捧げるのを目的として踊られてきました。タイの民衆は山や川、森などの自然界に宿る神々を信じ、神々を喜ばせるために踊ったり歌ったりしていたと言われています」(秋元加代子タイ舞踊団)

女神との交感とジャワ舞踊

ジャワの伝統舞踊は、マタラム王国の宮廷舞踊と密接に関わっている。王の即位記念日にしか見ることのできない秘儀として伝えられたブドヨ・クタワン(Bedoyo Ketawang)の神秘性は、「ニャイ・ロロ・キドゥル」の伝説と深く結びついている。
「ニャイ・ロロ・キドゥル」は、物質的富よりも精神的価値を追求して宮殿から追放された中部ジャワの王女デウィ・ラトナ・スウィディが、南海を護る女神となったもので、マタラム王国の初代の王、スノパティ(Senopati)王は、彼女から国家の危機を救う神秘的な力をもたらす舞踊として、ブドヨ・クタワンを伝授されたという。
ブドヨ・クタワンは、大編成のガムランをバックに、花嫁姿の9人の踊り手による神秘的な舞踊である。
王は踊り手の中央に座り、女神と交感したという。そして、女神の化身でもある9人の娘の中から側室を選んだ。戦前までは、この踊りの踊り子は幼時から王宮に隔離して育てられたともいう(『日本経済新聞』1992年7月6日付夕刊)。 続きを読む 女神との交感とジャワ舞踊

自然と儀式と音楽の関係

フィリピンの作曲家で、民族音楽学者のホセ・マセダ氏は、東南アジア音楽の特徴である「音の連続性の概念」と密接に関わる東南アジアの時間論について、次のように述べている。
「東南アジアの大部分では、一日の時間は時計の時間では測られない。太陽年は知られてはいるが、それは一年ずつ加算することはしない。惑星や恒星の動きとは別に、時間は鳥の渡りや、植物の開花、乾季の虫の声といった自然事象で測られる」(『ドローンとメロディー』新宿書房、1989年、14頁)
この自然事象で測られる時間概念こそ、リズムや反復の用法、音楽形式の長さやその終わり方、終止形に反映しているというのだ。つまり彼は、アジアにおける人間と自然の関係に注目しているのである。 続きを読む 自然と儀式と音楽の関係

「神と人間の交霊」としてのアジア舞踊

一口にアジアの舞踊といっても、極めて多様である。ジャワやバリのみならず、それぞれの地域で伝統的舞踊は様々な形で発展を遂げてきた。それでも、東南アジア、アジアの舞踊には、一つの重要な特徴が見られる。それは、神と人との交感の手段という側面にほかならない。
東南アジア史の権威アンソニー・リード氏は、「インドの影響がなかった地域でも舞踏は精霊や神々と交信し祭への参加を誘う手段であった。…ジャワの人間が王の前に出る場合またはそこを退出する場合、ブギス人が誓いを立てる場合、戦争が布告される場合、アモク(amok)をかける場合などには踊りが伴った。これらから見れば、舞踏はおそらく感情を高め、エネルギーを集中し、日ごろ劇場で表現されているような神々や精霊の力を身につける手段と見なされていたと考えられる」と指摘している(Anthony Reid著、平野秀秋・田中優子訳『大航海時代の東南アジア〈1〉貿易風の下で』法政大学出版局、平成14年、273頁)。 続きを読む 「神と人間の交霊」としてのアジア舞踊

タイ舞踊②

タイ舞踊の種類

舞踊の種類としては、孔雀の羽を両手に持って、お祝いのために2人組みで踊る「プラレーン」(Plaleng)、右手に金の花を、左手に銀の花を持って、男性の服装で踊る「金銀の花踊り」、両手に花の形をした壷わ持ち、王宮の夜の儀式に踊る「フラワー・ポット・ダンス」(Flower Pot Dance)、両手に一本ずつランタンを持ち、手首をひねって二つのランタンをぐるぐる回天させる「ランタン・ダンス」(Lantan Dance)、両手の指の間にロウソクをはさんで持ち、火を消さないように手首をひねって回転させながらゆっくり踊る「キャンドル・ダンス」(Candle Dance)、薄い布を持ってスピーディーに踊る「マン・ヌイ・シンタ」(Man Nuy Sinta)、親指以外の両手の指に長い爪をはめ、手首をぐるぐる回して、ゆるやかに踊る「フォーン・レップ」(Boun Lep)、武士が馬に乗って槍を持って戦うさまを舞踊化した「ランス・ダンス」(Lance Dance)、農民の豊年踊りで、二本の長い桿に足をはさまれないように通りぬけるように踊る「クラ・トップ・マイ」(Kra Top Mai)などが挙げられる。また、ジャワからマレーを経由してタイに入った舞踊として、クリス・ダンス(Kris Dance)がある。これは左手に布切れを持ち、右手に短剣を持って踊る剣舞である。ジャワのスリンピーとよく似ている(『アジアの舞踊』135~139頁)。 続きを読む タイ舞踊②

タイ舞踊①

宗教と不可分の発展

多くの舞踊は、もともと宗教と不可分のものとして発展してきた。タイ舞踊も例外ではない。
タイ舞踊は、およそ1000年前にクメール人によって、インドからもたらされたとされている。その8割は、ラマキェンというラーマーヤナから取材した内容とそれに付随した挿話からなる。
インド起源の舞踊は、タイ王宮の保護を受けながら、タイ国民の温和な性格などに培われて、独自の舞踊として発展した。「タイ舞踊」(秋元加代子タイ舞踊団)は、次のようにその宗教性を強調している。
「タイの舞踊は元来、神に感謝を表す儀式で踊りを捧げるのを目的として踊られてきました。タイの民衆は山や川、森などの自然界に宿る神々を信じ、神々を喜ばせるために踊ったり歌ったりしていたと言われています」 続きを読む タイ舞踊①

ジャワ伝統文化関連文献

書籍

著者 書籍写真 書名 出版社 出版年 備考
NHK「アジア古都物語」プロジェクト (編集) NHKスペシャル アジア古都物語 ジョグジャカルタ―支えあう王と民 日本放送出版協会 2002年
福岡 まどか ジャワの仮面舞踊 勁草書房 2002年
伊藤ふさ美、小笠原小枝 ジャワ更紗―いまに生きる伝統 小学館 1999年 ショトル・ミュージアム
吉本 忍 ジャワ更紗 平凡社 1996年
風間 純子 ジャワの音風景 めこん 1994年 めこん選書 (3) 続きを読む ジャワ伝統文化関連文献

アジア伝統音楽CD(2)

CDイメージ タイトル 発売日 発売
インド メディテーション・インド 2002/7/24 ビクターエンタテインメント
インド 幻影綺譚マハーバーラタ 2000/8/2 ビクターエンタテインメント
インド シタール絢麗~北インドの巨星パルト・ダースの妙技 2000/7/5 ビクターエンタテインメント
インド シタールの神技 2000/7/5 ビクターエンタテインメント
インド ヴィーナの女王 / 南インドの至宝ラージェスワリ・パドゥマナバーン 2000/7/5 ビクターエンタテインメント 続きを読む アジア伝統音楽CD(2)

アジア伝統音楽CD(1) 東アジア

CDイメージ タイトル 発売日 発売
中国シルクロードの音楽 絲綢之路 1999/8/6 キングレコード
中国 決定版 中国名曲集 2003/5/16 キングレコード
中国 シルクロードの音楽~中国の旅~ 2003/4/23 コロムビアミュージックエンタテインメント
中国 〈中国の笛1〉雁楽沙灘~管子、流麗無辺の調べ 2000/8/2 ビクターエンタテインメント
中国 蒼梧謡天 2000/8/2 ビクターエンタテインメント
中国 中国の音楽 2000/7/5 キングレコード 続きを読む アジア伝統音楽CD(1) 東アジア

異教寛容の風土が育てた唐代文化

 正倉院には、聖武天皇の遺品や東大寺大仏の開眼供養献納品を中心にした宝物が伝世されている。調度品、仏具、遊戯具、楽器、文房具、服飾品、武器など、その数は9000点を超える。
この正倉院宝物は、中国唐代の美術を反映している。西谷正・九大文学部教授(考古学)は「宝物は、遣唐使などが利用した鴻臚館を経由して、正倉院に運ばれたと考えて間違いない」と指摘している。鴻臚館は、唐や新羅などの外国使節を迎えた大宰府政庁の外交施設(旧名称は筑紫館)で、跡地は福岡市の平和台球場付近。
唐代には、美術・建築だけでなく文学や音楽など、さまざまな文化が花開いた。日本の雅楽にも大きな影響を与えた中国伝統音楽の基礎ができ、才能のある女性たちを集めて楽器や歌、踊りも学ばせるための教坊ができたのもこの時代である。
鴻臚館跡地
http://www.port-of-hakata.or.jpより 続きを読む 異教寛容の風土が育てた唐代文化