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徳川慶勝の隠居謹慎─『名古屋と明治維新』より

●「幕義に従っては叡慮に反する」
 嘉永六(一八五三)年六月のペリー来航からまもなく、慶勝は斉昭へ宛てた書簡で、異国船の即時打ち払いを主張した。
 しかし、翌七月に慶勝が幕府の諮問に応じて提出した建白書では、アメリカの要求に対しては、手荒な対応は避け、信義を正してほどよく断るべきだとの考えを示した。ただし、万一アメリカが承服せず、攻め寄せてきた場合には、国力を尽くして一戦を交えることも致し方ないとした。また、「ご決着」は「天朝」へ奏達した上でなされるべきだと説いた。
 斉昭は、安政元(一八五四)年三月十日、海岸防禦筋御用を辞任した。慶勝が江戸城へ登城し、老中阿部正弘をはじめとする幕閣に面会し、詰問状を突き付けたのは、その直後の四月一日のことであった。慶勝は、外国勢力に対する幕府の弱腰を痛烈に批判し、斉昭の登用を強く要求した。ところが、幕閣たちは慶勝の要求を受け入れようとはしない。そこで、慶勝は同月十一日、十五日と立て続けに登城し、幕閣を繰り返し詰問した。
 これに対して、幕府は、慶勝の幕閣への謁見謝絶、外様諸大名への面会遠慮を命じる内諭を報いた。これに対して、慶勝と幕閣の間を取り持ってきた若年寄の遠藤胤統(たねのり、慶勝の父方の叔父遠藤胤昌の養父)は、正論とはいえ「御激論」は避けるべきであり、自身が尾張藩の正統(生え抜き)ではないことを自覚すべきだと慶勝をたしなめた(「嘉永・安政期の尾張藩」)。
 同年七月、慶勝は国元に戻り藩政改革に取り組もうとした。そこで早期の帰国を幕府に願い出た。ところが、幕府はこれを認めず、慶勝は翌安政二年三月に帰国した。 Continue reading “徳川慶勝の隠居謹慎─『名古屋と明治維新』より” »

徳川慶勝の藩主就任─『名古屋と明治維新』より

●押し付け養子に抵抗した金鉄党
 以下、羽賀祥二・名古屋市蓬左文庫編著『名古屋と明治維新』に基づいて、徳川慶勝が尾張藩第十四代藩主に就任する過程について整理しておく。
 慶勝は、高須松平家十代義建(よしたつ)の二男として、文政七(一八二四)年三月十五日に生まれた。
 高須松平家は、尾張藩二代藩主の光友が二男の義行に作らせた分家だが、義建の父義和(よしなり)は、水戸藩六代藩主の治保(はるもり)の二男である。また、慶勝の母もまた、水戸藩第七代藩主治紀(はるとし)の娘である。つまり、慶勝の血筋は水戸徳川家とつながっていたということである。水戸藩第九代藩主の斉昭は、慶勝の叔父にあたる。
 尾張藩では、九代藩主・宗睦(むねちか)が寛政十一(一七九九)年十二月に没し、初代義直から続く男系の血統が絶えた。
 尾張藩十代藩主・斉朝(なりとも)は、徳川十一代将軍家斉(いえなり)の弟・一橋治国(はるくに)の息子である。ここで、血縁関係による大名統制強化を意図した家斉の意図に注目する必要がある。家斉には、五十三人の子供(息子二十六人、娘二十七人)がいた。昭和女子大学講師の山岸良二氏によると、家斉には正妻である第八代薩摩藩主、島津重豪(しげひで)の娘の広大院を筆頭に、側室が二十四人、彼女らの使用人として働く女性の中からも「お手付」がさらに二十人以上いたとされる。
 文政十(一八二七)年に尾張藩第十一代藩主に就いた斉温(なりはる)は家斉の十九男、天保十(一八三九)年に第十二代藩主に就いた斉荘(なりたか)は家斉の十二男であり、家斉の実父・一橋治済(はるさだ)の五男・田安斉匡(なりまさ)の養子である。そして、弘化二(一八四五)年に第十三代藩主に就いた慶臧(よしつぐ)は、田安斉匡の十男だ。つまり、尾張藩では約五十年間、四代にわたって、将軍家の系統からの養子が藩主を独占していたのである。
 この間、第十一代斉温が死去した天保十(一八三九)年三月、即日斉荘が後嗣に決まった際、大番組や馬廻組など、国元の中堅藩士らの不満が一気に高まった。
 同年四月、馬廻組の大橋善之丞は上書を提出し、水戸家の先例を引きながら、尾張家が押し付け養子を受け入れれば、家中の「武威」が失われると嘆いた。さらに、田安家から「付人」が多く尾張家に入れば、家中の出費が嵩み財政に悪影響を及ぼすとした(木村慎平「嘉永・安政期の尾張藩」『名古屋と明治維新』所収)。
 こうした不満が、慶勝擁立運動を支えていたのである。同年六月十四日には、四十七名が連署で竹腰正富に上書を提出している。連署に名を連ねた国学者の植松茂岳は、六月二十二日に慶勝擁立を周旋するために江戸に出発している。このときの慶勝擁立派が「金鉄」と呼ばれるようになっていく。
 木村慎平氏は、植松宛の書簡にある「養君の件が真の目的なので、火中までも願い出るべきだと金鉄に心懸けている人もおります」を引いて、「信念や決意を曲げない意志の固さを表したものであろう」と書いている。
 ただ、慶勝擁立運動は、まもなく急速にしぼんでいった。斉荘擁立を主導した成瀬正住が蟄居となり、これ以上幕府と事を構えるのは好ましくないという判断もはたらいた。さらに、かつて幕府による謹慎処分を受けたまま死去した七代藩主・宗春が赦免され、慶勝擁立派は不問に付されたため、騒動は一旦は収束した。
 その後、弘化二(一八四五)年、斉荘は没し、第十三代藩主に就いた慶臧も嘉永二(一八四九)年に没した。江戸の年寄衆は将軍家近親から跡継を探そうとしたが、人材に乏しく、御三家同士の養子嗣の前例もなかったため、跡継は高須家当主の義建か慶勝にしぼられていった。結局、義建が五十一歳と高齢であったことから、慶勝継嗣が決定したものと考えられる。
 塚本学・新井喜久夫著『愛知県の歴史』では、「嘉永二年(一八四九)、慶臧が病死すると、またしても幕府は斉荘の弟への相続をはかった。これにたいして、いまや一部の町人や村々の名望家たちをもふくんだ金鉄党の反対運動がおこなわれた」と書いている。

君山学派の真価

●孝経尊重の精神─君山学派の真価
 尾張藩初代藩主・徳川義直(敬公)は、亡くなる直前の慶安三(一六五〇)年五月に『初学文宗』を撰した。そこで強調されたのが、「孝を以て人倫の第一義」とすることであった。
 孝を重視した敬公の姿勢を受け、独自の学問樹立を目指したのが松平君山(くんざん)(一六九七~一七八三年)である。『徳川義直公と尾張学』は、「君山から初まつて連綿と孝経第一尊重の意を伝へてきたところ、学会の美事であるが、また尾張教学の面目を語るものといへよう」と記している。
 君山の学問は、岡田新川(しんせん)らの門人を経て脈々と継承され、幕末の徳川慶勝の活躍を支える勤皇志士たちが輩出した。「尾張学概説」を著した鬼頭素朗は「君山の此精神は後世永く裨益して維新の原動力となり、此学派より、日比野秋江・田宮如雲(じょうん)・国枝松宇(しょうう)・阿部伯孝(みちたか)・丹羽花南(かなん)・田中不二麿・長谷川敬(けい)・千賀信立(せんがのぶたつ)等の志士を多く出して居る」と書いている。
 君山は、元禄十(一六九七)年、尾張藩家臣・千村作左衛門秀信の子として生まれた。母は、初代藩主の敬公の師・堀杏庵(きょうあん)の孫である。君山は、幼い頃から母の薫陶を受けて育ち、十七歳頃から盛んに漢詩を作り始めている。
 宝永六(一七〇九)年、同藩家臣・松平九兵衛久忠の娘婿として松平家に入った。享保二(一七一七)年には、六代藩主・徳川継友(つぐとも)に拝謁を許されている。寛保二(一七四二)年に著した『年中行事故実考』などが高く評価され、翌寛保三年に藩の書物奉行に任じられた。
 延享四(一七四七)年、私撰地誌『岐阜志略』を著し、宝暦二年には八代藩主・宗勝の命を受けて千村伯済らと共に編纂した『張州府志』三十巻を完成させた。『張州府志』は尾張で初めての官撰地誌で、以降の地誌の模範となった。明和七(一七七〇)年には漢詩集『幣帚集』を刊行している。
 君山は博覧強記と呼ばれるにふさわしく、様々な学問に通じていたが、医薬の分野でも功績を残している。彼が安永五(一七七六)年に著したのが『本草正譌(ほんぞうせいか)』である。同書は、その後尾張藩で発展した本草学のさきがけを成した。
 君山は、朱子学・陽明学・古学・折衷学のいずれにも属さなかった。彼が儒学を受容したのは、わが国の「神皇の道」を強化するためにほかならない。鬼頭素朗は、次のように書いている。
 〈君山は常に門弟に、「我は日本人なり。曾て聖教を学び文字に通暁するは我国の為にこれを為し、他邦の為に之を為さず」と教へて居る。君山の国家観が窺はれるのみでなく、彼の精神が那辺にあつたかが想像される。元来君山は儒学を採用せるものゝ、わが国の神皇の道の羽翼たらしめる為であつた。たゞの漢学ではなく、わが国の史実、法制、典故に即した学だつたことは明白である。これ等の学派の人々の著述もその通りであつた。即ち漢文漢籍を主としたがそれは手段であつて、その目的はわが国家の学であつたことが明白である〉
 君山の門下からは、岡田新川をはじめ、優れた学者が出た。その新川の門を叩いたのが、後述する河村秀根の二男・河村益根である。そして、君山門下を特徴づけるものこそ、孝経尊重の精神だったのである。
 孝経は、孔子の言動を曽子の門人が記したものとされている。秦の始皇帝による焚書坑儒の煽りを受け、一時その所在が不明となったが、前漢に入り、二種類の系統の本が再発見された。その字体から、古文・今文と呼ばれた。後に古文には孔安国による、今文には鄭玄による注釈が付けられた。古文は二十二章、今文は十八章から構成され、各章末尾に詩経・書経の文句が引かれている。朱子は各章末尾の詩経・書経からの引用を後世の追加と見て、削っている。
 君山はこの孝経を教えの基本とした。『徳川義直公と尾張学』には、「常に孝経を以て治家の本となし、弟子に授けるにはまづ孝経を以てしたといふことであり、孝経直解の著もある」と書いている。一方、鬼頭もまた次のように記している。
 「彼(益根)の漢学の師岡田新川にしても亦その師松平君山にしても、孝経に意を注ぎ、而も実行に移して、何々学派と判然と区別することは出来ないにしても明治維新の原動力となり、殆んどこの思想の影響によつて、我が尾張に於ては勤皇の志士を多く輩出して居るのは豈に偶然ならんや」

●君山門下の岡田新川・恩田蕙楼・磯谷滄洲
 君山の門下のうち、岡田新川は「詩」で、恩田蕙楼(おんだけいろう)は「学」で、磯谷滄洲(いそがいそうしゅう)は「文」で知られた。
 新川が作った詩は、二万余首に上る。彼は、元文二(一七三七)年に生まれ、幼い頃から君山に師事した。天明年間(一七八一~一七八九年)に、藩校明倫堂の教授に就任、また同時期、藩の歴史編纂所・継述館の総裁にも就いた。寛政四(一七九二)年には、明倫堂の督学に就任している。その後、自ら督学の職を辞し、明倫堂教授の立場で教え続けた。寛政十一年三月に死去している。
 新川は、君山と同様に孝経を第一として弟子を指導した。彼が、孝経を自ら刊行したきっかけは、唐代の功臣・魏徵(ぎちょう)らが編纂した古代政治文献撰集『群書治要(ぐんしょちよう)』の刊行だった。
 『群書治要』は、中国では早くに失われてしまったが、わが国にのみ残っていた。元和二(一六一六)年正月、徳川家康は『群書治要』の銅活字を補鑄して開版するよう、林道春、僧崇伝らに命じた。しかし、家康は竣工を見ずして、同年四月に薨去。翌五月に版行事業は完成した。ただ、刷り上った書物は紀州家に保存されていたが、広く流布されることはなく、八代将軍吉宗がその一部を幕府へ収めた。
 そして天明七(一七八七)年、尾張藩九代藩主・宗睦が家康の遺志をつぎ、幕府から借り受けて、細井平洲に統督させて開板したのである。鬼頭素朗は、これを「尾張学芸史上不朽の業績」と評価している。
 この書の存在は、清国にも知られて、四庫未収書目にも採録された。新川は、寛政六(一七九四)年、『群書治要』から『鄭註孝経』を取り出して、別に刊行したのである。

 一方、「学」で知られた、君山門下の恩田蕙楼は、新川の弟であり、寛保三(一七四三)年三月に生まれている。藩主近侍などを経て、享和二(一八〇二)年、継述館総裁兼明倫堂教授に就任している。蕙楼は、『尾張略志』、『史記考』など多数の著作を残した。
 そして、「文」で知られた滄洲は、元文二(一七三七)年生まれ。君山に師事し、明和元(一七六四)年、朝鮮使節の南秋月と詩を唱和し、藩主宗睦に賞されて留書頭に任ぜられた。著作に『尾張国志』などがある。

●幕末の志士への影響
 岡田新川門下として注目されるのが、河村秀根である。彼の父・河村秀根は、前回紹介した天野信景門下で、十一歳にして七代藩主・宗春の嫡子国丸の小姓として召し出され、江戸に勤務した。三年後、国丸の早世により、宗春の表側小姓となった。
 秀根は当初、卜部神道を学んだが、やがてそれに疑問を抱き、有職故実家多田義俊に師事し、さらに吉見幸和の門に入った。そして、『日本書紀撰者考』『撰類聚国史考』『日本書紀撰者弁』『神学弁』『首書神祗令集解』などを書き上げた。彼は、神道、有職故実、和歌等に関する知識を総合して「紀典学」という学問を組織した。
 益根は、この父の学風を継ぎ、その遺業として『書記集解』を完成させている。また、寛政六(一七九四)年には、光格天皇まで百二十代の天皇について、諱や諡、院号その他の尊号や、系譜や改元、没年、山陵などについてまとめた『帝号通覧』を刊行している。
 新川に師事した益根は、孝経尊重の姿勢を鮮明にし、その随筆「偶談」冒頭では、「人の行実は孝悌の道より外なし、此道にかけたる人は万事一も成がたし」と書いている。
 しかも益根は、師の新川に先立つこと三年、寛政三(一七九一)年、『群書治要』から『鄭註孝経』を取り出して刊行している。盆根の『鄭註孝経』は当時それ程有名でなかったが、後に水戸の弘道館で会沢正志斎、藤田東湖らに師事した内藤恥叟(ちそう)によって見出されて有名になった。
 一方、新川門下から出た人物として重視すべきは奥田鶯谷(おうこく)である。鶯谷は、宝暦十(一七六〇)年五月に美濃不破郡笠毛村で生まれた。文化元(一八〇四)年に明倫堂教授に就き、その後右筆組頭を務めた。そして、鶯谷に学んだのが、幕末の徳川慶勝の活躍を支える田宮如雲である。
 そして、如雲の同門として活躍したのが、国枝松宇である。松宇は、寛政八(一七九六)年四月に生れた。少年時代の文化五(一八〇八)年には、「母に孝である」ことを賞され、銭三貫文を官から与えられている。彼は、赤穂義士を欽慕し、その遺聞を収集し、『義人録補正』二巻を著した。彼は、如雲らと尊攘運動で連携するとともに、丹羽花南や田中夢山らの勤皇志士を育てた。

小出侗斎に始まる尾張崎門学

●小出侗斎に始まる尾張崎門学
すでに、尾張崎門学は、第二代藩主・光友の時代に、浅見絅斎門下の小出侗斎(とうさい)(一六六六~一七三八年)によって始まっていた。吉見は、侗斎の門下でもある。また、侗斎に師事した須賀精斎の門人堀尾秀斎は、垂加神道を玉木葦斎に学び、尾張垂加神道の祖となった。秀斎が著したのが『名分大義説』である。
『円覚院様御伝十五ヶ条』には、秀斎の『名分大義説』も収められている。例言には「円覚院様御伝十五ヶ条、並に名分大義説は、孰れも尾張藩に於ける勤王説の濫觴(らんしょう)と目すべきものにして、維新の当時徳川慶勝卿の勤王は実に前者に啓発せられるところ多しと伝へらる。後者は、又名古屋に於ける崎門派の勤王説を尤も明瞭に発表したるものといふべし」と記されている。
立公の幼少時代、それを薫陶補佐したのが、敬公の孫に当たる美濃高須の藩祖松平義行であった。義行が師事していたのが、天野信景(一六六三~一七三三年)である。信景は、伊勢神道の再興者・度会延佳に学び、さらに吉見の門人でもあった。
尾張藩第三代藩主綱誠(一六五二~一六九九年)は、元禄八(一六九八)年に『尾張風土記』の編纂を命じていたが、吉見や信景とともに、その任に当たったが真野時綱である。
真野家は尾張の津島神社の神職の家系で、時綱は信景と同様に度会延佳に師事し、神道研究に励んだ人物である。

●敬公の南朝正統論
  注目すべきは、信景が寛永年間(一六二四~一六四五年)に、畝傍御陵の所在を探求しようとし、その荒廃に心を痛めていた事実である。彼の随筆『塩尻』(二十七巻)には、「神武天皇は草昧をひらき中洲を平らげ百王の基を立て帝業を万歳に垂たまへり、其廟陵我君臣億兆尊信を致すべきに、今荒蕪(こうぶ)して糞田となり纔(わずか)に一封の小塚を残して農夫之れに登り恬(てん)として恠(あやし)とせずとかや 陵は奈良東南六里慈明山の東北也」とある。
「山陵の荒廃は、古の理想の乱れ、衰えを示す一現象であり、わが國體の根幹を揺るがす由々しき問題である」。そう確信した蒲生君平は、寛政八(一七九六)年、山陵探索に着手し、その孤高の調査活動は享和二(一八〇二)に『山陵志』に結実するが、信景はそれに先立つこと百五十年以上前に山陵荒廃を由々しき問題と指摘していたのである。
さらに、義行が信景に贈った書状からは、敬公がすでに南朝正統論を唱えていたことが窺えるのである。書状によれば、当時、幕府は羅山の子春斎に本朝通鑑編纂を命じていたが、春斎は編纂にあたり、大友皇子を正統に仰ぎ、吉野の帝を皇統に備えようと願っていた。このとき、春斎は杏庵の子に、「もし、義直卿が在世ならば、協力を仰げるのに、いまは頼りになる人はいない」と述懐したという。あるいは、春斎は敬公と南朝正統論について語り、意見の一致を見ていたとも推測される。敬公の先駆性は、ここにも示されている。
「王命に依って催される事」に凝縮される敬公の尊皇思想は、その後尾張藩で維持され、大政奉還における第十四代藩主慶勝の活躍となって花開くのである。

近松茂矩『円覚院様御伝十五ヶ条』

●立公によって記された「王命に依って催される事」
敬公はまた、兵法の書『軍書合鑑』を撰していた。その末尾に設けられた一節が「依王命被催事(王命に依って催される事)」であった。ところが、その詳しい内容は歴代の藩主にだけ、口伝で伝えられてきた。その内容を初めて明らかにしたのが、第四代藩主・徳川吉通(立公、一六八九~一七一三年)である。『徳川義直公と尾張学』は次のように書いている。
 〈四代吉通といへば、元禄の末から寛永正徳にかけての頃で、幕府の権力の最も強かつたとき、尊皇論はまだ影も見せなかつた頃であるから、……当時としては実に驚くべき絶対勤皇の精神であるが、尾張に於ては夙に義直以来はつきりと伝統し来つたところであつたのである。この内容は歴代藩主から継嗣に口伝されてきたものであつて藩主以外に知る者なかつたのであるが、吉通薨ずるに臨み、嗣五郎太まだ三歳の幼少であつたため、ここに茂矩に伝へてあとに残したのであるといふ。義直の精神はここ吉通に至つて顕露明白に発揮せられて一藩の指導原理となつたのであり、これを残さしめた吉通の功大なるものありとせざるを得ぬ〉
 ここにある「茂炬」とは、吉通の侍臣近松茂矩のことである。茂矩は、吉通の遺訓を筆記し、それを『円覚院様御伝十五ヶ条』に収めた。
 「御意に、源敬公御撰の軍書合鑑巻末に、依王命被催事といふ一箇条あり、但し其の戦術にはそしてこれはと思ふ事は記されず、疎略なる事なり、然れどもこれは此の題目に心をつくべき事ぞ、其の仔細は、当時一天下の武士は皆公方家を主君の如くにあがめかしづけども、実は左にあらず。既に大名にも国大名といふは、小身にても公方の家来あいしらひにてなし、又御普代大名は全く御家来なり、三家の者は全く公方の家来にてなし、今日の位官は朝廷より任じ下され、従三位中納言源朝臣と称するからは、是れ朝廷の臣なり、然れば水戸の西山殿(光圀)は、我等が主君は今上皇帝なり、公方は旗頭なりと宣ひし由、然ればいかなる不測の変ありて、保元・平治・承久・元弘の如き事出来て、官兵を催さるゝ事ある時は、いつとても官軍に属すべし、一門の好を思ふて、仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず、此一大事を子孫に御伝へ被成たき思召にて、此一箇条を巻尾に御記し遺されたりと思ふぞ」
 立公が遺訓を記録させたのは、五郎太が幼少だったことがきっかけではあった。しかし、立公には尾張尊皇思想を顕現せんとする明確な志があったのではあるまいか。
 立公は、敬公の尊皇思想を継承するとともに、自ら学問を深めていた。彼が学問を学んだ一人が、崎門派の吉見幸和(ゆきかず)(一六七三~一七六一年)である。
 吉見家は、代々名古屋東照宮の祠官であり、立公の時代には尾張藩の多くの名流が吉見の門を叩いたという。吉見の『学規の大綱』の第一条には、〈一、神道は我国天皇の道、尊敬せずんばあるべからず。開闢以来、神聖治国の功労を以て、君臣の道厳に、祭政の法正しき事、国史官牒を以て事実を考るもの、国学の先務たり。俗学の輩、正偽を弁ぜずして、偽書妄撰の造言を信じ、偽作の神託、自作の古語、付会夭妄の説をまじへ説く者ゆべからざる事〉とある。
 彼が力を尽くした著作の一つが『神道五部書説弁』であった。しかし、彼の考証重視の姿勢には弊害もあったのではなかろうか。近藤啓吾先生は、「大山爲起著『倭姫命世記榊葉抄』」(『続々山崎闇斎の研究』所収)で、次のように指摘している。
 〈『倭姫命世記』の調査、そして解釈は、この後、垂加の学者や伊勢の神道家の間に盛大となる。しかしそれは、調査が進むにつれて次第に考証の面が強くなり、つひに元文元年成立の吉見幸和の『五部書説弁』や、文化七年具稿の伴信友の『倭姫命世記私考』の出現となり、『世記』の本文はずたずたに切断せられてその各条の原拠と綴合の実体が明らかにせられ、同書成立の事情も推察せられるに至つたが、同時に嘗ての『世記』に対する尊崇も一時に減衰し、それのみでなく、神道そのものが、信仰としてでなく考証考古の対象として考へられるやうになり、合理実証のみが学問であるとする弊が生じて来た〉
 吉見の学問には、こうした問題もあったが、彼の門人の中からは尾張藩の尊皇思想発展に貢献する人物が出たことも否定し難い。『円覚院様御伝十五ヶ条』を筆記した茂矩もまた、吉見の門人である。

「王命に依って催される事」

●「幕府何するものぞ」─義直と家光の微妙な関係
 名古屋城二の丸広場の東南角に、ある石碑がひっそりと建っている。刻まれた文字は、「依王命被催事(王命に依って催される事)」。この文字こそ、尾張藩初代藩主の徳川義直(よしなお)(敬公)の勤皇精神を示すものである。
江戸期國體思想の発展においては、ほぼ同時代を生きた三人、山崎闇斎、山鹿素行、水戸光圀(義公)の名を挙げることができる。敬公は、この三人に先立って尊皇思想を唱えた先覚者として位置づけられるのではなかろうか。
敬公は、慶長五(一六〇一)年に徳川家康の九男として誕生している。闇斎はその十八年後の元和四(一六一九)年に、素行は元和八(一六二二)年に、そして義公は寛永五(一六二八)年に誕生している。名古屋市教育局文化課が刊行した『徳川義直公と尾張学』(昭和十八年)には、以下のように書かれている。
〈義直教学を簡約していひ表はすと、まづ儒学を以て風教を粛正確立し、礼法節度を正し、さらに敬神崇祖の実を挙げ、国史を尊重し、朝廷を尊び、絶対勤皇の精神に生きることであつた。もつともこの絶対勤皇は時世の関係から当時公然と発表されたものではなく、隠微のうちに伝へ残されたものである〉
「隠微のうちに伝へ残されたものである」とはどのような意味なのか。当時、徳川幕府は全盛時代であり、しかも尾張藩は御三家の一つである。公然と「絶対勤皇」を唱えることは、憚れたのである。その意味では、敬公は義公と同様の立場にありながら、尊皇思想を説いたと言うこともできる。
「幕府何するものぞ」という敬公の意識は、第三代徳川将軍家光との微妙な関係によって増幅されたようにも見える。
敬公は家光の叔父に当たるが、歳の差は僅か四歳。敬公は「兄弟相和して宗家を盛りたてよ」との家康の遺言を疎かにしたわけではないが、「生まれながらの将軍」を自認し、「尾張家といえども家臣」という態度をとる家光に対して、不満を募らせずにはいられなかった。 Continue reading “「王命に依って催される事」” »

浅見絅斎著・近藤啓吾訳注・松本丘編『靖献遺言』(講談社学術文庫)

 平成29年12月25日に逝去された近藤啓吾先生の『靖献遺言講義』が再編集され、講談社学術文庫として、平成30年12月に刊行された。
 『靖献遺言』は山崎闇斎の高弟浅見絅斎が貞享4(1687)に著した書。中国の忠臣義士8人(屈平・諸葛亮・陶潜・顔真卿・文天祥・謝枋得・劉因・方孝孺)の事跡と、終焉に臨んで発せられた忠魂義胆の声を収めている。

 絅斎は「『靖献遺言』の後に書す」で以下のように書いている。
 「古今の忠臣義士の平生に於いて心のうちに確立しているところの規範、死に臨んでいい置いた遺言、いずれも君国の大変の際にあらわれて、史伝のうちに明らかに記されているのである。わたくしはそれを拝読しさらにくり返して考えるたびに、その純粋にして確乎、しかも已むに已まれぬ深き思いに満ちた心、一点の曇りも蔭もなく、鉄壁を破らんばかりの傑出した気象に触れ、まさしくわが身も当時にあってその人々の風采に接した思いを生じ、感激敬慕奮起、已めんとして已むるあたわざるを覚えるのである。まことに尊いことといわねばならない。
(中略)
 まことに箕子逝きて久しくなるが、その、みずから靖じみずから先王に献じた精神は、万古を貫いて彼此一体、後世の忠臣義士の精神とへだてなきこと、本書に見て来た通りである。されば後世のこの書を読む人々よ、自己の心の何たるかを知らんとするならば、これを遠くに求めることを必要とせぬ。わがうちなるこの靖献の一念、これこそわが心の本体に外ならぬのである」

 再編集の任に当たられた皇學館大学教授の松本丘先生は、「学術文庫版刊行にあたって」を以下のように結んでいる。
 「本書に登場する忠臣義士の、壮烈あり、憂憤あり、自若あり、さまざまなかたちで道義を貫いた姿、それとは逆に暴戻あり、追従あり、保身あり、後世に汚名を残した奸邪の人々の態度、現在の我々にとっても、そこから学び取ることは少なくない。最後に、前掲した「靖献遺言講義に題す」に記された近藤先生の語を掲げて拙文を終えることとする。

 我等が本書からいかなる教へを得るかは、我等みづからの志のいかんによつて定まることで、漠然と本書に対しても本書は何も語らぬであらう。されば本書より教へを得るためには、我等みづからが今日何をなすべきかといふ目標を持たねばならぬ。その目標を持つて本書を繙く時、本書は我等に重大なる道を指示せられるのである。」

尾張藩・徳川慶勝による楠公社造立建議

 幕末の尾張藩では、楠公崇拝の気運が高まっていた。こうした中で、文久二(一八六二)年、同藩の国学者である植松茂岳が、現在の中区天王崎町の洲崎神社境内に、楠公、和気清麻呂、物部守屋を合祀して三霊神社と称する社を設けた。
 一方、慶応元(一八六五)年九月には、尾張藩士表御番頭・丹羽佐一郎が、東区山口町神明神社境内に楠公を祀りたいと寺社奉行所に願い出て、許可を得た。こうして、神明神社に湊川神社が設けられた。慶応三年には、佐一郎の子賢、田中不二麿、国枝松宇等、有志藩士発起の下に改築されている。
 その勧進趣意書は次のように訴えている。
 「夫れ人の忠義の事を語るや、挙坐襟を正し汪然として泣下る。是れ其の至誠自然に発する者、強偃する所有るに非るなり。楠公の忠勇義烈、必ずしも説話を待たず、其の人をして襟を正し、泣下せしめるものは則ち、唱誘の力なり。今公祠を修し、天下の人と一道の正気を今日に維持せんと欲す。あゝ瓶水の凍、天下の寒を知る。苟も此に感有るもの、蘋繁行潦の奠、その至誠を致し、以て氷霜の節を砥礪すべし」(原漢文、『湊川神社史 景仰篇』)。
 こうした藩内の楠社創建を経て、慶應三年十一月八日、尾張藩藩主・徳川慶勝は、楠公社造立を建議した。将軍徳川慶喜が大政奉還を願い出てから二十日あまりのタイミングである。 Continue reading “尾張藩・徳川慶勝による楠公社造立建議” »

浅見絅斎の謡曲「楠」と尾張勤皇派

 慶應三年十一月、尾張藩の徳川慶勝は楠公社造立を建議した。その背景には、尾張藩における楠公崇拝の一層の高まりがあった。それを牽引したのが尾張の崎門学派である。森田康之助の『湊川神社史 景仰篇』によると、以下に掲げる浅見絅斎の謡曲「楠」は、崎門学派蟹養斎門下の中村習斎の家に伝わっていた。『子爵 田中不二麿伝』には、「楠」が掲げられている。

 正成、その時、肌の守りを取出だし、是は一とせ都攻めの有りし時、下し給へる令旨なり、よも是までと思ふにそ、汝にこれをゆづるなり、我ともかくも成ならば、芳野の山の奥ふかく叡慮をなやめ給はんは、鏡にかけてみるごとし、さはさりながら正行よ、しばしの難を逃れんと、家名をけがすことなかれ、父が子なれは流石にも、忠義の道はかねて知る、討ち漏らされし郎等を、あはれみ扶持し、いたはりて、流かれ絶たせぬ菊水の、旗をふたゝなびかして、敵を千里に退けて、叡慮を休め奉れ。

 この「楠」を習斎門下の細野要斎が写し、富永華陽に贈った。華陽はそれを田中寅亮(田中不二麿の父)に示した。寅亮は、楠公崇拝者で知られ、楠流兵法にも精通していた。寅亮の弟でかつ門下生の神墨梅雪(富永半平)は、「八陣図愆義」二十九巻の著し、熱田文庫に奉納していたという。寅亮はまた、楠公の旗じるしの文「非理法権天」の文字の意義を解説した刷物を知友に配ったこともあったらしい。
 そんな寅亮であったから、絅斎の「楠」に大変感動し、要斎に跋を請うた。安政三年に、名古屋市中区門前町にある長福寺は、この要斎の跋文を付して、絅斎の謡曲「楠」を一枚刷で発行している。要斎の随筆『葎(むぐら)の滴』には、以下のように書かれている。
 〈(安政三年)五月十四日午後、田中寅亮来臨して曰く、往時君が蔵せし浅見(絅斎)先生作の楠の謡曲の詞を写して珍玩せしが、音節に伝写の誤りありて謡ひ難かりしを、甲寅の年(安政元年)東武に官遊して金奏秦安茂に改正せしめ、一本を写して高須(義建)少将の君へ呈せしに、御手つから鼓の手を朱書して賜へり。こゝに於て又先哲叢談中の先生の伝を後に加へて邦君(徳川慶勝)へも献りしに、邦君も殊の外賞し給ひ、御酒宴の時にはしばしば楠を謡へとて歌はしめ給ふ。この謡は世に流布せざれば人未だこれを学ばず、助音するものなかりきと、金春の声律を協(ととの)へし一冊を示し、又毎年五月二十五日は楠河州(正成)の忌日なれば、曽て長福寺に納めし楠氏の肖像(田中氏往年志貴山に蔵せしを、写して同寺に納む)を掲げて、同好の士相会して神前に楽を奏して遺徳を敬仰す〉

久留米尊攘派・池尻茂左衛門(葛覃)─篠原正一『久留米人物誌』より

 池尻茂左衛門(葛覃)は、高山彦九郎と親密な関係にあった樺島石梁に師事し、久留米尊攘派として真木和泉とともに国事に奔走した人物である。大楠公一族、真木一族同様、池尻も一族挙げて国事に奔走して斃れた。権藤成卿の思想系譜を考察する上で、父権藤直が池尻に師事していたことに注目しなければなない。
 以下、篠原正一氏の『久留米人物誌』を引く。
 〈米藩士井上三左衛門の次男として庄島に出生。母方の池尻氏が絶えたので、その跡を嗣ぎ池尻を姓とした。兄は儒者井上鴨脚。本名は始また冽ともいい、字は有終、通称は茂左衛門、号は紫海また葛覃、樺島石梁に学んだのち、江戸留学九年、先ず昌平黌に学び安井息軒・塩谷宕陰と交わり、転じて松崎慊堂の門に入った。天保九年十一月、藩校明善堂講釈方となり、嘉永ごろから池尻塾を開いて門弟を育てた。安政六年十二月、明善堂改築竣工の際は、特に命ぜられて「明善堂上梁文」を草した。
 早くより勤王攘夷の思想を抱き、特に攘夷心が強かった。天保十五年七月、和蘭軍艦「パレンバン」が入港し人心動揺すると、秘かに長崎に行き、その情勢を探り、事現われて譴責を受けた。これより真木保臣の同志として国事に奔走し、特に京に在っては公卿の間に出入し、三条・姉小路などの諸卿や長州藩主毛利敬親の知遇を受け、また朝廷と米藩との間の斡旋に力を尽くした。 Continue reading “久留米尊攘派・池尻茂左衛門(葛覃)─篠原正一『久留米人物誌』より” »