「国体思想」カテゴリーアーカイブ

尊皇思想を鼓吹した『新葉和歌集』

 平泉澄先生門下の鳥巣通明先生は、『恋闕』において、「久しきに亘って醸成された上代思慕に基く尊王論が倒幕論に発展するには、熱と力を与へる他の契機が必要であつた」と指摘し、その一つとして考えるべきものが吉野時代の回顧だと説いた。そして、吉野時代の回顧として重要なものとして、太平記、神皇正統記とともに新葉和歌集を挙げ、次のように書いている。
 〈最後に新葉和歌集について考へよう。これは 後醍醐天皇の皇子 宗良親王が撰集し給ひしもの、「かみ元弘のはじめより、しも弘和の今にいたるまで、世は三つぎ、年はいそとせのあひだ」吉野の 朝廷に仕へて、滅私奉公の誠を捧げた人々の歌を含んでゐる(序文)。内容については親しく繙くべきであり、多くの解脱もなされて居るから、こゝでは佐々木信綱博士の雄渾適切なる一文を引用するに止めよう。
 新葉集をとつて一首を高唱すると、切つて離した弓弦の高鳴る響が聞える。馬上の武士の草摺に触れて錚鑅たる佩剣の響が聞える。更に暝目して当時を想像すると御簾あらはに板敷寒き行宮の夜、嵐に瞬く燈火の下に侍してもとの都にかへさずらめやと憤り歌つたおもかげが現はれる。皇事に痩盡せる白髪の准后が、敵中ふかき孤城の一室に史筆をとるさまもうかぶ。新葉集は熱烈の作に富んで浮華の調がない、云々。(改造社版『頭註 新葉和歌集』序文)
 その立場の相違の故に、新後拾遺集、新続古今集撰集の際には、事大主義の「心なき撰者」により門戸を鎖され、足利政権下を通じて不遇であり、わづかに書写せられて伝はつたが、近世になると、承応二(一六五三)年、寛文二(一六六二)年、宝暦元(一七一五)年と開板せられ、承応二年板と同板で年月不明の版本もあり、ひろろく流布することになつた。そしで光圀卿が扶桑拾葉集を集めた時、二十一代集と同格に待遇されたのであつた。このことについて吉田令世がいみじくも「大日本史に南朝を正統と立給へると、この新葉集を勅撰の中に入れたまへるとはやがておなじ趣」である(歴代和歌勅撰考)と指鏑してゐるのは人のよく知るところである。応永三十二(一四二七)年兵部卿師成親王が「斯書は南朝慶寿院法皇御在位の時、予が叔父中務卿宗良親王に詔して撰せしめらるゝ所なり云々(富岡氏本 新葉集奥書)」と仰せられてゐることを思へば、新葉集は、こゝにはじめて正しき地位を与へられたと云ふべきであらう。然してこの光圀卿と相前後して吉野時代の修史の業を企てた加賀侯前田綱紀が、宗良親王賛辞を作り、その中より今日人口に膾炙せる御歌
  君のため世の為なにか惜しからむ 捨ててかひある命なりせば
を抽出し「命を委ねるの志節、所謂君に身を忘れ、国に家を忘れる語にも叶へり」と云つたのは本書が単に史料乏しき吉野時代研究の資料としで重用されたばかりでなく、その内容をなす悲歌が尊王思想鼓吹に役たつー径路を示すものであらう〉

真木和泉の真髄①

 いま、幕末の志士・真木和泉が、奇妙な歴史解釈を売り物にする書物の中で貶められている。そろそろ、本格的な反撃に出なければならない。
 「一切の私心なし! 一族ともども理想の為に殉ずる覚悟」。それが真木の真髄である。
 「とゝ様の打死悲しくは候へども、皇国の御為と思へばお互ひにめでたく……」
 これは、真木の天王山自刃の報に接した、真木の娘・小棹が発した言葉だ。真木が討幕運動に挺身した時代、畏れ多くも孝明天皇の御意志は揺らいでいたという説もある。それでも、真木は信ずる道を突き進んだ。それは、決して己のためではない。なぜならば、彼は自らの死、一族の死を覚悟して事に臨んだからである。拙著『GHQが恐れた崎門学』の一節を引く。
 〈真木が遺書として書いたのが、「何傷録」です。冒頭に「楠子論」を掲げ、さらに「楠子の一族、三世数十人、一人の余りなく大義に殉死せられしこと、大楠公の只一片の誠つき通りて、人世の栄辱などは、塵ほども胸中に雑らず」と、楠公精神を称えました。そして、十年の謫居を余儀なくされ行動できなかった自らの心情を吐露し、今や身を挺する覚悟を綴り、次のように一族に訴えかけたのでした。
 「ゆめ吾子孫たるもの楠氏の三世義に死して、心かはらぬあとな忘れそ」 Continue reading “真木和泉の真髄①” »

遠藤友四郎『国体原理天皇親政篇』目次

 以下、遠藤友四郎『国体原理天皇親政篇』(錦旗会本部、昭和8年)の目次を紹介する。

 序文
 序篇 世変の前兆たる世相と我等の危惧
 一、 明治維新には王政復古の形式獲得・昭和維新には皇国日本への復帰完成
 二、 世の大多数者は常に前兆を前兆として感知し得ぬ
 三、 前兆は必ず心ある者をして危機を思はしむ
 四、 罪人に対する昔の拷問・国民全部に与へられる今の生存苦
 五、 我が日本には今や毎日平均百人以上の自殺者がある
 六、 徳川時代の日本と仏蘭西と露西亜の虐政ぶり
 七、 今の生存苦は果して社会的拷問に非ざる乎?
 八、 学校はカントの倫理を教えて社会はマルクス指摘の通り
 九、 恐るべき片手落ち!今の我が滔々たる外国化の風潮
 十、 幕末の大義名分!日本にのみ有つて外国に無きもの
 十一、 忠義の的は天子様の外に何者も無いと云ふ不動の信念
 十二、 ああ「陛下の赤子」が「資本の奴隷」とは何事ぞ!
 十三、 昭和維新そのものの前に先づ精神的に「日本人の日本」の獲得 Continue reading “遠藤友四郎『国体原理天皇親政篇』目次” »

「賊臣」となった明治政府─萩の乱・前原一誠檄文

 明治9年10月24日、熊本県で神風連の乱が、同月27日に福岡で秋月の乱が、そして同月28日に山口で萩の乱が起こった。萩の乱を指導したのは、前原一誠ら維新の精神を守らんとする志士たちであった。鎮圧直後の11月10日付の『朝野新聞』には、前原の檄文が掲載されていた。
 この檄文は、昭和6年に梅原北明が編んだ『近世社会大驚異全史』(白鳳社)の附録「近世暴動反逆変乱史」に収められていた。40年余りを経た昭和48年、海燕書房が同書新装版を刊行。もとの檄文はすべて漢文。海燕書房編集部が付した大意を引く。

○前原一誠檄文(徳山有志諸君宛て、日付不明)
 「昔、我が忠正公(第十二代長州萩藩主、毛利敬親。一八一九~七一)は、朝廷が政権を失っていることを歎き、徳川の遺命に憤り、薪に坐し、胆を嘗め、戈に枕して時代の夜明けを待った。藩士もまた藩主の誠心に感じ、血をすすり、誓いを立てあって、死を決意して我身をかえりみずに(王政復古のために)働き、ついに国内を一つに安定させ、諸事を天皇の手に返すことに成功した。このような時になって、○○○○等の者たちは、天子のそば近くに出入りし、くらべようもなく高い位を得て、先君の偉業を自分の功績とし、自分の思う通りを通し、祖宗の土地をすべて天皇に献じ、そのやっていることといえば、法律をもって詩経・書経となし、収奪をもって仁義とし、文明を講じて公卿を欺き、外国の力を借りて朝廷を脅かす。これを要するに、外国人が幅をきかし、国内は疲弊し、神国日本の安危は、朝に夕も量り難い有様である。(○○○○等は)単に先君(忠正公)に対する反逆人であるばかりでなく、朝廷に対する賊臣でもある。最近、熊本の人人が、正義によって万事を断じ、一戦して鎮台の兵を殲滅し、その余勢が九州を風靡したことは、荒廃した世の中にあって実に一大事であった。諸君は先君の賜った衣を衣とし、朝廷より賜わる食を食として、長年を生きてきた。乱賊の人が誅されないままで、それを心の中で耐え忍ぶことがどうしてできようか。事を起こす点では、すでに他県の人々におくれをとりはしたが、成功を収めるかどうかは、まだこれからで、諸君次第である」

 このように、前原は明治6年の西郷南洲下野以降の明治政府の姿勢を、「収奪をもって仁義とし、文明を講じて公卿を欺き、外国の力を借りて朝廷を脅かす」と厳しく批判し、「朝廷に対する賊臣」と断じている。

山陵復興と烈公─藤田東湖「回天詩史」

 蒲生君平の山陵復興の志は、もともと義公の志を継いだものだった。そして、君平の思いを継承したのが、彼の盟友藤田幽谷であり、その次男の東湖だった。そして、彼らの期待に応えて山陵復興を幕府に建議したのが烈公であった。東湖の「回天詩史」には、それが明確に示されている。以下、村上寛『回天詩史 評釈』(嵩山堂、明44年)の評釈を引く。
 〈この事に考へが及ぶと、歎息痛恨の情に堪へないのである。因つて公(烈公)の禍を幕府からうけられたわけや、諸臣が公の大志を忌みきらふわけをさぐつて見ると、久しい前からであつて、決して、一朝一夕に始まつたことではないのである。公はかつて天皇のみささぎのあれすたれたるをなげかれて、その修覆をはかられた。而して、まづ先きに、畝傍の神武御陵を修めて、漸次、他の陵に及ぼうとせられた。下野の処士の蒲生君蔵のこしらへた山陵志を見て、その方角だとか、土地の遠近だとか、高低だとかいふことを知つた。適、桑原信敬が、京都に祗役したとき、みづから、畝傍の御陵に往つて、土人にとうたり、ふるい記録を参考としたりして、貝原篤信の説を尤もよるべきものと知つて、始めて、山陵志のあやまりを弁じた。蓋、篤信の時には、山陵は廃してゐたが、其の趾になほのこつてをつた、しかし、君蔵の時になつては、其の趾もなくなつた。これそのあやまつたわけである。信敬は早速その説を書いて一巻の書物にして自分によつて、之れを上らしめた。時に公は既に幕府に建議してゐられたので、是に至つてたびたび之れを催促せられたのである。
 その説はかうである。神武天皇が御即位になった辛酉元年から今日に至るまで二千四百九十余年であつて、庚子の歳には二千五百にならうとしてゐる。よろしくこの時に及んで、その山陵を修めて、以つて忠孝を天下に明にすべきものである。いま、議者は天朝を尊んだならば、幕府が戚権を失ふに至るであらうといふものがあるが、ああ是れ何といふことであらう。山陵があれすたれたことは久しき以前からである。天下の義を知れるものはだれでも、一にぎりの土でもまして、国恩に報じやうと思はないものがあらうか。けれども、之れをしないものは幕府に遠慮してゐるからである。もし、不法の民があつて、わぎはひを仕出来してまづまつさきに山陵を修めて、大義を以つて天下に唱道するやうなことがあつたならば、まことに幕府の大耻といふべきものではないか。して見ると天朝を尊ぶといふものは忠孝の道を明にし、以つて非望の念をたたしめるものであつて、天下の人民はまさに益々幕府の義に服しやうとするのである。どうして威を失ふなどのことがあらうぞといつたが、幕府のものは、とうとう、公のこと説を用ゐることができなかつたのであつた〉

「明治維新」と「明治という時代」の切断

二つの明治─大久保路線と西郷路線

 「明治の時代」と一口に言うが、明治維新の精神は、西郷南洲が西南の役で斃れる明治10年までに押し潰されてしまったことに注意する必要がある。
 明治維新の原動力となった思想は、本来明治時代の主役になるはずであった。ところが、実際にはそうならなかった。拙著『GHQが恐れた崎門学』にも書いた通り、早くも明治4(1871)年には、崎門派の中沼了三(葵園)、水戸学派の栗田寛、平田派の国学者たちが新政府から退けられている。
 こうした新政府の姿勢について、崎門学正統派を継ぐ近藤啓吾先生は「維新の旗印であつた神道立国の大旆を引降して、外国に認めらるべく、文明開化に国家の方針を変じ、維新の功労者であつた崎門学者、水戸学者、国学者(特に平田学派)を中央より追放せざるを得なくなった」と書いている。
 さらに、明治6年には、対朝鮮政策(敢えて征韓論とは言わない)をめぐる対立によって西郷南洲が下野する。それをもたらした明治政府内部の対立の核心とは、野島嘉晌が指摘している通り、維新の正統な精神を受け継いだ南洲と、維新の達成と同時に早くも維新の精神を裏切ろうとした大久保利通の主導権争いだった。 
 明治7(1874)年2月には、南洲とともに下野した江藤新平によって佐賀の乱が勃発している。さらに、西南の役に先立つ明治9年には、大久保路線に対する反乱が各地で続いた。まず10月24日に熊本県で神風連の乱が、同月27日に福岡で秋月の乱が、さらに同月28日に山口で萩の乱が起こった。
 神風連の乱の引き金となったのは、明治9年3月に布達された廃刀令とそれに追い打ちをかけるように同年6月に発せられた断髪令である。文明開化の名の下に、神州古来の風儀が破壊されるという反発が一気に爆発したのである。
 萩の乱で斃れた前原一誠は、政府の対外政策にも不満を抱いていたが、特に彼が問題視していたのが、地租改正だった。彼は、地租改正によって、わが国固有の王土王民制が破壊されると反発していた。南洲とともに下野した副島種臣らも、王土王民の原則の維持を極めて重視していた。そして、明治10年に南洲は西南の役で斃れ、大久保路線は固まる。
 大東塾の影山正治は、「幕末尊攘派のうち、革命派としての大久保党は維新直後に於て文明開化派と合流合作し、革命派としての板垣党は十年役後に於て相対的なる戦ひのうちに次第に文明開化派と妥協混合し、たゞ国学の精神に立つ維新派としての西郷党のみ明治七年より十年の間に維新の純粋道を護持せむがための絶対絶命の戦ひに斃れ伏したのだ」と書いている。
 つまり、明治国家は明治10年までには、大きく変質したということである。むろん、欧米列強と伍してわが国が生き残っていくためには、大久保的な路線が必要であった。しかし、それは維新の精神を封じ込める結果をもたらした。この悲しみを抜きに「明治の栄光」を語るべきではない。 Continue reading “「明治維新」と「明治という時代」の切断” »

先帝陛下の御学問─杉浦重剛「倫理御進講草案」大義名分

 先帝陛下(当時皇太子殿下)が学習院初等科をご卒業されたのを機に、大正3(1914)年5月、東宮御学問所が設立された。歴史担当・白鳥庫吉、地理担当・石井国次など、16科目の担当が決まったが、肝心の倫理の御用掛が決まらなかった。帝王学を進講する倫理担当には、和漢洋の知識に通じ、高い識見人格を備えていることが求められた。
 東郷平八郎総裁、波多野敬直副総裁らが慎重な協議を続け、元第一高等学校長として名声の高かった狩野亮吉の名が挙がったが、狩野はその任務の重さを恐れ辞退した。このとき、杉浦重剛の真価を知るものは、御進講の適任者として彼のことを考え始めていたのである。御教育主任の白鳥庫吉から相談を受けた澤柳政太郎は「杉浦さんがよいではないか」と杉浦の名を挙げた(『伝記』二百六頁)。これに白鳥も賛同、東郷総裁の意を受けて小笠原長生子爵が改めて杉浦の人物について調査した結果、「杉浦といふ人は命がけで事に当る人だと思ひます」と報告した。東郷は「それだけ聞けばよろしい」と言って、直ちに決定したという。 Continue reading “先帝陛下の御学問─杉浦重剛「倫理御進講草案」大義名分” »

幕末志士の学問─鳥巣通明『明治維新と志士』

 明治維新を導いた幕末の志士とはいかなる存在だったのか。彼らが極めんとした学問とはどのようなものだったのか。それを知るための貴重な一冊がある。平泉澄門下の鳥巣通明が、明治維新100年に当たって著した『明治維新と志士』(神社本庁 明治維新百年記念叢書 2、昭和41年)である。
 鳥巣は「志士の性格」の一節で、次のように書いている。
 〈おそらくマス・コミの影響によるものであらう、志士と云へば、世間ではとかく花柳の巷に出入りしては新撰組や幕府側の捕吏と血斗する姿を連想する人が多いやうである。テレビ・映画や小説をすべてフイクションと云ふのではない。牒報網や密偵をまくために、彼等は料亭や遊廓を利用して会合することが多かつた。明日をもはかられぬ生命である、時に生活が奔放に流れる者がゐたのも事実であつた。そこに、明治から今日まで跡を絶たない待合政治の源流がある、と説く人もゐるほどである。だが、それは志士たちの生活の一コマにすぎない。しかも彼等の間には、そのやうな生活を自戒する雰囲気が強かつたのである。例へば、長州の志士井上聞多が高杉晋作と一緒に京都三条通りの旗亭に投宿した時、同じく松下村塾で学んだ野村和作・入江九一が訪ねて行つて、
 朝廷でも憂慮せられ、藩公も日夜国事に奔走してゐる時勢だから、われわれも妓楼や旗亭で国事を談ずることはつつしむべきだ。同志一同協議した結果、今後妓楼・旗亭に登るのをやめることにし、違反する者があれば、詰腹を切らせることにした。貴君等もこの盟約に加入されたい。
と申入れてゐることを注目しておこう。岩倉が云つたやうに志士と市井の放蕩無頼の徒との間には、はつきり一線を画して論ずべきであらう。 Continue reading “幕末志士の学問─鳥巣通明『明治維新と志士』” »

神宮皇学館惟神道場『日本精神』目次

 昭和15年に刊行された神宮皇学館惟神道場『日本精神』(惟神叢書 第5編)の目次を紹介する。崎門系あるいは崎門の影響を受けた著書には★。

 一 天神の詔命(古事記)
 二 伊邪那岐命の詔命(古事記)
 三 三種の神器と天孫降臨の神勅(日本書紀)
 四 神武天皇帝都の御経営(日本書紀)
 五 調伊企儺の勇武(日本書紀)
 六 文武天皇即位の宣命(続日本紀)
 七 大伴家持の長歌並に短歌(万葉集)
 八 火長今奉部与曽布の歌(万葉集)
 九 大伴家持の歌(万葉集)
 一〇 蟻通し明神の故事(清少納言枕草子)
 一一 藤原光頼の意見(保元物語)
 一二 平重盛の諌言(平家物語)
 一三 朝敵素懐を遂げず(平家物語)
 一四 夙夜忠(宴曲抄)
 一五 大日本は神国なり(神皇正統記)
 一六 日本と印度・支那との比較(神皇正統記)
 一七 楠木正成の奉答(太平記)
 一八 楠木正行最後の参内(太平記)
 一九 承久変に対する批判(増鏡)
 二〇 日本記(舞の本)
 二一 白楽天(謡曲)
 二二 鷺(謡曲)
 二三 弓箭とりの心得(竹馬抄)
 二四 君に仕へたてまつる事(竹馬抄)
 二五 中朝事実著述の由縁(中朝事実)
★二六 山崎闇斎と門人との問答(先哲叢談前編)
★二七 方孝孺の精忠(靖献遺言)
 二八 源親房伝賛(大日本史賛薮)
★二九 正名論(柳子新論)
★三〇 神州は太陽の出づる所(新論)
 三一 本居宣長の長歌(鈴屋集)
★三二 楠氏論(日本外史)
★三三 筑後河を下る(山陽詩鈔)
★三四 封冊を裂く(日本楽府)
 三五 侠客伝著述の主旨(開巻驚奇侠客伝)
 三六 皇国が万国に優れる理由(大道或問)
★三七 國體の尊厳(弘道館述義)

『神皇正統記』─『保建大記』─『山陵志』の思想継承

 崎門学・水戸学の展開を考える際、北畠親房─栗山潜鋒─蒲生君平・藤田幽谷─藤田東湖という思想継承に注目する必要がある。著書で示せば、『神皇正統記』─『保建大記』─『山陵志』・『正名論』─『弘道館記述義』という継承の流れである。
 拙著『GHQが恐れた崎門学』でも指摘したように、万世一系の天皇を戴く國體の尊厳、三種の神器に基づく正統論、名分論という点における継承・発展が重要である。また、謚停止の重大性の指摘においても、『神皇正統記』、『保建大記』、『山陵志』には、著しい共通点がある。
 「此御門(冷泉院)より天皇の号を申さず。又宇多より後、諡をたてまつらず。遺詔ありて国忌、山陵をおかれざることは君父のかしこき道なれど、尊号をとどめらるることは臣子の義にあらず。神武以来の御号も皆後代の定なり。持統・元明より以来避位或は出家の君も諡をたてまつる。天皇とのみこそ申しめれ。中古の先賢の義なれども心をえぬことに侍なり」(『神皇正統記』)
 「宇多帝諡を停め、朱雀帝皇号を停めてより…大典を闕き、國體を損なうこと、これより大なるはなし。源親房の以て臣子の道に非がと為すは当れり」(『保建大記』)
 「宇多より以降、謚を停む。しかして朱雀以降は、院を尊号に代えて天皇と曰わざること、けだし此に原る。後世、その阼を終える者、また崩ずれば院と曰う。後一条を始めとなす。(中略)それ謚を停むるに説あり。かならず、臣は敢て君を議せず、子は敢て父を議せずと曰い、諱む所ありと謂わば、似たり、天子の尊をもって、天皇と曰わず。これ果たして何の意ぞや。ああ、大典を闕き、國體を損なうこと、これより大なるはなし。源親房、もって臣子の道に非ずとなす。その言当たれり、後世謚を奉り、崇徳と曰い、安徳と曰い、順徳と曰うは、廑々これのみ」(『山陵志』)