「皇道」カテゴリーアーカイブ

遠藤友四郎『国体原理天皇親政篇』目次

 以下、遠藤友四郎『国体原理天皇親政篇』(錦旗会本部、昭和8年)の目次を紹介する。

 序文
 序篇 世変の前兆たる世相と我等の危惧
 一、 明治維新には王政復古の形式獲得・昭和維新には皇国日本への復帰完成
 二、 世の大多数者は常に前兆を前兆として感知し得ぬ
 三、 前兆は必ず心ある者をして危機を思はしむ
 四、 罪人に対する昔の拷問・国民全部に与へられる今の生存苦
 五、 我が日本には今や毎日平均百人以上の自殺者がある
 六、 徳川時代の日本と仏蘭西と露西亜の虐政ぶり
 七、 今の生存苦は果して社会的拷問に非ざる乎?
 八、 学校はカントの倫理を教えて社会はマルクス指摘の通り
 九、 恐るべき片手落ち!今の我が滔々たる外国化の風潮
 十、 幕末の大義名分!日本にのみ有つて外国に無きもの
 十一、 忠義の的は天子様の外に何者も無いと云ふ不動の信念
 十二、 ああ「陛下の赤子」が「資本の奴隷」とは何事ぞ!
 十三、 昭和維新そのものの前に先づ精神的に「日本人の日本」の獲得 Continue reading “遠藤友四郎『国体原理天皇親政篇』目次” »

「明治維新」と「明治という時代」の切断

二つの明治─大久保路線と西郷路線

 「明治の時代」と一口に言うが、明治維新の精神は、西郷南洲が西南の役で斃れる明治10年までに押し潰されてしまったことに注意する必要がある。
 明治維新の原動力となった思想は、本来明治時代の主役になるはずであった。ところが、実際にはそうならなかった。拙著『GHQが恐れた崎門学』にも書いた通り、早くも明治4(1871)年には、崎門派の中沼了三(葵園)、水戸学派の栗田寛、平田派の国学者たちが新政府から退けられている。
 こうした新政府の姿勢について、崎門学正統派を継ぐ近藤啓吾先生は「維新の旗印であつた神道立国の大旆を引降して、外国に認めらるべく、文明開化に国家の方針を変じ、維新の功労者であつた崎門学者、水戸学者、国学者(特に平田学派)を中央より追放せざるを得なくなった」と書いている。
 さらに、明治6年には、対朝鮮政策(敢えて征韓論とは言わない)をめぐる対立によって西郷南洲が下野する。それをもたらした明治政府内部の対立の核心とは、野島嘉晌が指摘している通り、維新の正統な精神を受け継いだ南洲と、維新の達成と同時に早くも維新の精神を裏切ろうとした大久保利通の主導権争いだった。 
 明治7(1874)年2月には、南洲とともに下野した江藤新平によって佐賀の乱が勃発している。さらに、西南の役に先立つ明治9年には、大久保路線に対する反乱が各地で続いた。まず10月24日に熊本県で神風連の乱が、同月27日に福岡で秋月の乱が、さらに同月28日に山口で萩の乱が起こった。
 神風連の乱の引き金となったのは、明治9年3月に布達された廃刀令とそれに追い打ちをかけるように同年6月に発せられた断髪令である。文明開化の名の下に、神州古来の風儀が破壊されるという反発が一気に爆発したのである。
 萩の乱で斃れた前原一誠は、政府の対外政策にも不満を抱いていたが、特に彼が問題視していたのが、地租改正だった。彼は、地租改正によって、わが国固有の王土王民制が破壊されると反発していた。南洲とともに下野した副島種臣らも、王土王民の原則の維持を極めて重視していた。そして、明治10年に南洲は西南の役で斃れ、大久保路線は固まる。
 大東塾の影山正治は、「幕末尊攘派のうち、革命派としての大久保党は維新直後に於て文明開化派と合流合作し、革命派としての板垣党は十年役後に於て相対的なる戦ひのうちに次第に文明開化派と妥協混合し、たゞ国学の精神に立つ維新派としての西郷党のみ明治七年より十年の間に維新の純粋道を護持せむがための絶対絶命の戦ひに斃れ伏したのだ」と書いている。
 つまり、明治国家は明治10年までには、大きく変質したということである。むろん、欧米列強と伍してわが国が生き残っていくためには、大久保的な路線が必要であった。しかし、それは維新の精神を封じ込める結果をもたらした。この悲しみを抜きに「明治の栄光」を語るべきではない。 Continue reading “「明治維新」と「明治という時代」の切断” »

天皇政治の中に生きている民主主義(谷口雅春「生命体としての日本国家」)

 谷口雅春は「生命体としての日本国家」(『理想世界』昭和四十四年一月号)において、次のように書いている。
 〈君民の利益が一致しているのが、天皇政治下の民主主義なのである。
 そこで思い出されるのは、仁徳天皇が当時の日本国民が貧しくなっているのをみそなわせられて、三年間租税を免除し、皇居が朽ちて所々がぼろぼろになって雨漏りしても、それを補修し給うことさえ遠慮され、三年目に高殿に登り給うて眼下に街を見渡されると、国民の経済状態は復興して、炊煙濠々とたち騰って殷富の有様を示しているので、皇后さまを顧みて、「朕は富めり」と仰せられた。そして。
  高き屋にのぼりて見れば煙たつ 民の竈は賑ひにけり
 というお歌をお詠みになったというのである。天皇は、自己が貧しくとも、国民が裕かであれば、「朕は富めり」であらせられる。これが天皇政治の中に生きている民主主義なのである。これを民主政治下の代議士が、汚職をもって自分を富ませながら、そして自己の貰う歳費の値上げを全員一致で議決しながら、国民のたべる米の価格や、国民の足である交通料金その他の公共料金の値上げに賛成するのと比較してみるならば、いわゆる現代の民主政治は一種の特権階級政治であり、天皇政治こそかえって民主政治であることがわかるのである〉

難波田春夫─わが神話に日本経済の本質を捉えた

マックス・シェーラーと神話の知

 『翼賛国民運動史』(昭和二十九年)には、小泉純一郎元首相の父小泉純也が、昭和十六年一月の衆議院予算委員会で次のように語ったと記録されている。
 「革新政策の名の下に赤化思想を日本に植付けんとするコミンテルンの陰謀を十分警戒する必要がある。……後藤(隆之助)局長が多年主宰している昭和研究会は、共産主義的思想との世人の非難の故に、ついに解散のやむなきにいたつたのである。また中には一連の関係者が同志と共に入り、翼賛会の各局部を固めていることは、一種の不安をもたざるを得ない」
 この発言には、大政翼賛会をめぐる、財界・資本主義擁護派、国体明徴派、統制経済派(あくまで便宜的な呼び方)の複雑な駆け引きの一端が示されている。日本主義経済学者として注目を集めていた難波田春夫は、この時代にいかなる主張を展開したのだろうか。
 難波田春夫は、明治三十九年三月三十一日、兵庫県に生まれた。大阪高校に入学した大正十四年頃から、西田哲学に関心を強めていたという。昭和三年に大阪高校を卒業、東京帝国大学経済学部に入学する。初めて手にした経済学の本が、スウェーデンの経済学者グスタフ・カッセルの『理論経済学』であった。ちょうどその頃、衆議院議員の小寺謙吉の寄附をファンドとした懸賞論文の論題が「グスタフ・カッセルの理論体系について」と発表された。そこで、難波田はどうせ読むのならば、論文を書き、懸賞論文に応募しようと思い立った。彼はカッセルに関わる多数の学術論文を読破し、経済現象の全体を貫くものが市場メカニズムの論理であるという近代経済学のエッセンスを見出したのである。こうして、難波田は三百枚ほどの論文を書き上げ、見事に入選した。
 二年生になって早々の昭和四年春、友人に連れられて経済原論担当の教授のところに遊びに行くと、教授は「大学に残って教授への道を歩んではどうか」と難波田を勧誘した。こうして、経済学者としての難波田の人生が始まったのである。
 彼は、昭和六年三月に東京帝大を卒業、翌昭和七年に兵役についた。だが、一カ月足らずで病気になり、淡路島の病院で療養するようになる。それまで、彼は理論経済学、特に景気変動の理論を研究していたが、療養中の瞑想を契機として、資本主義経済がどのように動くかよりも、いかに導かれるべきかということが問題だと気づいたのである。
 同年六月に除隊となり、八月に助手として大学に戻ると、難波田は「国家と経済」の研究に没頭した。国立大学文科系が西洋思想のヒューマニズムの思想に傾き、我が国独自の思想を阻害する傾向が強まることを憂慮し、文部省が国民精神文化研究所を設立したのは、ちょうどその頃である。むろん、難波田の研究志向は、こうした国家レベルでの思想立て直しの動きと無縁ではなかったろう。 Continue reading “難波田春夫─わが神話に日本経済の本質を捉えた” »

田村謙治郎『日本主義経済学:ユダヤ主義経済の排撃』

 戦前には皇道経済学、日本主義経済学が提唱されていた。以下、その代表的論者の一人である田村謙治郎の『日本主義経済学:ユダヤ主義経済の排撃』(東風閣東京事務所、昭15年)の「第一章 ユダヤ主義経済と日本主義経済」を引く。
 〈予の敢て呼ぶ「ユダヤ主義経済」とは何であるか。それは現代経済学が、アダム・スミスに出発して、マルクス、エンゲルスの共産主義経済にまで発展し、或は純正経済学として、フィツシヤ、セリグマン、ジイド等に依つて、其の理論的発展が遂げられたのであるが、斯の如き学的大事業を完成したる以上の学者は、何れもユダヤ人だからである。而して現代経済学の殆んど全部は、それが正統経済学たると、社会主義乃至は共産主義経済学たるとを問はず、何れも「物」を基礎とする経済学であり金」を土台とする経済学である。故に物質本位、金本位の経済学は、即ち「ユダヤ主義経済学」となる。ラスキンの如き幾分気色の違つた極めて少数なる例外はあるにしても、欧米の経済学は凡で此の「ユダヤ主義経済学」なる一色によつて塗りつぶされてゐる。従つて斯の如き経済学に基礎を置く限り、如何にそれが修正せらるゝとも、そは恰も衣服装飾を変へたるユダヤ人に過ぎないのである。又此の経済学に基礎付けられたる資本主義経済は勿論のこと、それが今日流行する統制主義経済であつても、依然としてユダヤ経済であることに於ては、何の変りもないのである。 Continue reading “田村謙治郎『日本主義経済学:ユダヤ主義経済の排撃』” »

皇道経済論基礎文献

 

著者 タイトル 出版社 刊行年 備考
佐藤信淵 『復古法概言』 1845年刊行 (『日本経済大典』第19巻、啓明社、昭和4年)
大国隆正 『本学挙要』 1855年 (『日本思想大系 50』岩波書店、昭和48年)
佐藤信淵 『経済要録』 1859年刊行 (滝本誠一編纂『日本経済大典』第18巻、啓明社、昭和4年)
福住正兄記 『二宮翁夜話』 報徳社 明治17-20年
遠藤無水 『財産奉還論』 遠藤友四郎 大正8年
水野満年 『現人神と日本』 霊響社 昭和5年
長沢九一郎 『生産権奉還』 先進社 昭和7年
永井了吉 『皇道経済概論』 日本主義評論社 昭和8年
神野信一 『日本主義労働運動の真髄』 亜細亜協会出版部 昭和8年
昭和神聖会 『皇道経済我観』 昭和神聖会 昭和9年
作田荘一 『経済生活に於ける創造者としての国家』 日本文化協会 昭和10年
栗原白嶺 『金銀為本経済の世界的行詰りと皇道経済』 青雲荘 昭和10年
山口鋭之助 『世界驀進の皇道経済』 本学会 昭和13年
難波田春夫 『国家と経済 第三巻』 日本評論社 昭和13年
田辺宗英 『皇道経済の確立』 報国新報社 昭和13年
田村謙治郎 『日本主義経済学』 東風閣東京事務所 昭15年
石川興二 『新体制の指導原理』 有斐閣 昭15年
古川義春 『報徳生活の実践 : 肇国の精神に基く勤労・分度・推譲』 少国民社 昭和17年
皇道経済研究所 『日本主義労働』 目黒書店 昭和17年
岡本広作 『日本主義経済新論』 増進堂 昭和19年
茂木清吾 『皇道経済学』 文松堂書店 昭和19年
田崎仁義 『皇道経済』 (『史蹟叢談』大阪染料商壮年会、昭和19年)

 

長野朗の制度学─仮説「制度学と崎門学の共鳴」

昭和維新のイデオローグ権藤成卿は「制度学者」と称された。筆者は、その学問がいかなるものであったかを考察する上で重要な視点が、権藤の思想と崎門学の関係ではないかという仮説を立てており、権藤と崎門学の関係について「昭和維新に引き継がれた大弐の運動」(『月刊日本』平成25年10月号)で論じたことがある。
「制度学者」としての権藤の思想の継承者として注目すべきが、長野朗である。長野について、昭和維新運動に挺身された片岡駿先生が次のような記事を書き残されている。
〈制度学者としての長野氏は南渕学説の祖述者として知られる権藤成卿氏の門下であり、而も思想的には恐らく最も忠実な後継者であるが、然し決して単なる亜流ではなく、ある意味において先師の域を超えてゐる、特に例へば権藤学説に所謂『社稷体統』をいかして現代に実現するかといふ具体的経綸や体制変革の方法論について、権藤氏自身は殆ど何一つ教へることが無かつたが、長野氏は常に必ずそれを明示して来た。権藤成卿を中心とする自治学会に自治運動が起らず、長野朗氏の自治学会が郷村自治運動の中核となり得た理由も茲に在つた。郷村運動の中心的指導者だつた長野氏は亡くなられたが、故人が世に遺したこの『自治論』が世に広まれば、民衆自治の運動は必ず拡大するに違ひないと私は信ずる。
○民衆自治の風習は神武以来不文の法であつたが、その乱れを正して道統を回復し、且つそれを制度化して「社稷の体統」たらしめたものが大化改新でありそれを契機とする律令国家だつた。所謂律令制国家は大化改新の理想をそのまま実現したものではないが、而もこのやうな国家体制の樹立によつて、一君万民の国民的自覚が高められて行つたことは疑ひ得ない。その律令制国家体系も軈て「中央」の堕落と紊乱を原因として崩壊の過程を辿り、遂に政権は武門の手に握られることになつたが、然し、そのやうな政治的・社会的混乱の中においても、大化改新において制定された土地公有の原則と、村落共同体における自治・自衛の権は(一部の例外を除いて)大方維持せられ、幕末に至るまで存続した。而も此間自治共同体は次第に増殖し、幕末・維新の時点では実に二十万体に近い自治町村と、それを守る神社が存在したのである。大化以来千二百年の間に幾度が出現した国家・国体の危機を救ふた最大の力の源泉も、このやうな社稷の体統にあつたことを見逃してはならぬ。この観点から見るとき、資本主義制度の全面的直訳的移入によつて土地の私有と兼併を認め、中央集権的官僚制度の強化のために民衆自治の伝統を破壊して、社稷の体統を衰亡せしめた藩閥政治の罪は甚大である。 Continue reading “長野朗の制度学─仮説「制度学と崎門学の共鳴」” »

玉川博己氏「三浦重周の思想~とくに国体論を中心として」

2016年3月に、三島由紀夫研究会事務局編『決死勤皇 生涯志士の人 三浦重周を語るシンポジウム』を贈呈していただいた。
玉川博己氏(三島由紀夫研究会代表幹事)の基調講演録「三浦重周の思想~とくに国体論を中心として」は、三浦重周氏の国体思想のうち、「戦後、国体は維持されたのか」という問題意識、そして「国体と皇道の発展は国境を超えるのか」という問題意識の重要性を指摘している。玉川氏は、三浦氏が今泉定助の世界皇化の思想に注目していたことを指摘した上で、次のように語っている。
「このように三浦重周が理想とする皇道とは、決して排他的、独善的な偏狭思想ではなく、明治以来のアジア主義の伝統を受け継ぎつつ、日本の歴史・伝統・文化に根ざす天皇を中心とするわが国体の倫理性と普遍性をあまねく世界に宣布してゆこうというスケールの大きな考えに立脚するものです」
三浦氏の国体思想を改めて研究する必要があると痛感した。

忠臣和気清麻呂─宇佐八幡の神託

 天平宝字5(761)年、道鏡は、病を患った孝謙上皇(後の称徳天皇)の看病して以来、その寵を受けるようになった。天平宝字8(764)年には太政大臣禅師に任ぜられ、翌年には法皇となった。やがて、道鏡は天皇の位を狙うのではないかと見られるようになった。九州の大宰府で神事を担当していた習宜阿曽麻呂は、それに乗じて、道鏡に御機嫌を取っておこうと、「八幡の神のお告げがありました、道鏡が天皇の位につけば、天下太平であるとのこです」と言い始めた。
 称徳天皇は、心配されて、御信任の深い尼の法均を派遣し、八幡の神のお告げが本当かどうか確かめたいと思召された。ただ、女性の身で九州まで行くことは、容易でない。そこで、法均の代りに派遣されたのが、その弟の和気清麻呂である。以下、平泉澄先生の『物語日本史 上』から引用する。
 〈清麻呂は宇佐(大分県)へ参り、八幡の神前にぬかずいて、謹んで神意をうかがいました。忽然として、神が出現せられました。仰せられるには、
  我が国は、開闢以来、君臣の分、定まっているのだ。しかるに道鏡、何たる無道であるか。臣下でありながら天位を望むとは。汝、帰って天皇に上奏せよ。天位は必ず皇統をもって継承されよ、無道の者は、早く取り除くがよい。
 清麻呂は奈良へ帰り、ありのままに上奏しました。怒ったのは弓削の道鏡、清麻呂を印旛(鳥取県)へ追放しようとしましたが、また処分をいっそうきびしく変更して、清麻呂を大隅((鹿児島県)へ、姉の法均を備後(広島県)へ流しました。
(中略)
 (清麻呂は)宇佐へ向って出発する時、道鏡から、「ちょっと来るように」と言われました。行ってみると、「首尾よく大任を果したならば、大臣にしてやるぞ」と言いました。その誘惑や強迫をしりぞけて、神勅をありのままに報告し、「我が国は開闢以来君臣の分定まれり、無道の者はこれを排除せよ」と言ったのは、実に偉いといわねばなりません。道鏡は大いに腹を立て、大隅へ下る清麻呂を、途中で殺させようとしたが、果さなかったといいます〉
 清麻呂が大隅に流された翌年8月、称徳天皇はおかくれになり、光仁天皇が即位された。坂上苅田麻呂が、道鏡の陰謀を朝廷に報告し、道鏡は下野の国(栃木県)の薬師寺に追われた。

出口王仁三郎の租税制度廃絶論

 日本企業の国際競争力強化という美名のもとに、大企業優先の税制を是認することが、國體観念に合致するのか。そもそも國體に合致した税のあり方とはいかなるものなのか。それを考える上で、大正から昭和初期に皇道経済論を称揚した出口王仁三郎の租税制度廃絶論には見るべきものがあるのではないか。
王仁三郎は、昭和9年10月に刊行した『皇道維新と経綸』(天声社)において、次のように書いている。
 「皇道維新の要点は皇道経済の実施であり、租税制度の廃絶である。元来租税制度なるものは御國體の経綸的本義で無い事は、御遺訓の明白に的確に証明し給ふところである。租税徴収は実に蕃制の遺風であつて、又金銀為本を以て富国の要目と為し、生存競争を以て最終の目的と為す大個人主義制度である。然るに皇国の経綸制度なるものは、実に世界万民の幸福を目的とし給へる国家和楽の国家家族制度である。故に昭和の御代は、古今の汚らはしき租税徴収の悪性を根本より廃絶する事が神聖なる大日本天皇の御天職に坐します所の、経世安民の経綸を始めさせ給ひ、皇道経済を施行し給ふ第一歩たるべきものである」