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【書評】 折本龍則『崎門学と「保建大記」―皇政復古の源流思想』(三浦夏南氏評)

 崎門学研究会代表の折本龍則氏の『崎門学と「保建大記」―皇政復古の源流思想』の書評が、大東塾・不二歌道会の機関紙『不二』(令和元年8月号)に掲載された。ひの心を継ぐ会会長・三浦夏南氏による堂々たる書評だ。
 〈新しき御代の訪れとともに、明治維新という大業の精神的支柱となった崎門学の入門書が発刊されることは、維新より時の流れること百五十年、表層の雑論より飛躍して、我が国の淵源に着目し、根本的な研究と実践が求められる我々令和の皇民にとって、誠に得難き手引きとなるものと思う。崎門学が土台とするところの朱子学は、哲学的、宇宙論的内容を多分に含み、一般に難解とされ、崎門学の必読書とされる『靖献遺言』、『保建大記』等も漢文で記されていることから、現代の日本人にとって、重要とは知りつつも親しみ難いものとされて来た。本書は著者一流の解説により崎門学の持つ「難解」の固定概念に風穴を開け、崎門先哲の求道の炎を現代に再燃させる発火点となる一冊である。
(中略)
 底の浅い保守思想、国体解釈が横行する現代にあって、己の魂の深奥に沈潜して練成された真の国体学とも言うべき崎門学が持つ影響力は計り知れない。崎門の先生方が強調された「己の為の学」に背かぬよう、自らが学び続けることを誓うとともに、この入門書を通して多くの日本人が崎門の純烈なる精神に直接されることを切望する。最後に浦安市議会議員として崎門の学を政界に体現されている著者の折本氏に敬意と感謝を表して擱筆させて頂きたいと思う〉

裕仁親王殿下に伝授された『中朝事実』

 乃木希典大将は自決する二日前の明治四十五(一九一二)年九月十一日、東宮御所へ赴き、皇太子裕仁親王殿下(後の昭和天皇)にお目にかかりたいと語った。殿下は御年満十一歳、学習院初等科五年生だった。そのときの模様を大正天皇の御学友、甘露寺受長氏の著書『背広の天皇』に基づいて紹介する。
 乃木は、まず皇太子殿下が陸海軍少尉に任官されたことにお祝いのお言葉をかけ、「いまさら申しあげるまでもないことでありますが、皇太子となられました以上は、一層のご勉強をお願いいたします」と申し上げた。続けて乃木は、「殿下は、もはや、陸海軍の将校であらせられます。将来の大元帥であらせられます。それで、その方のご学問も、これからお励みにならねばなりません。そうしたわけで、これから殿下はなかなかお忙しくなられます。──希典が最後にお願い申し上げたいことは、どうぞ幾重にも、お身体を大切にあそばすように──ということでございます」
 ここまで言うと、声がくぐもって、しばらくはジッとうつむいたきりだった。頬のあたりが、かすかに震えていた。
 顔をあげた乃木は、「今日は、私がふだん愛読しております書物を殿下に差し上げたいと思って、ここに持って参りました。『中朝事実』という本でございまして、大切な所には私が朱点をつけておきました。ただいまのところでは、お解りにくい所も多いと思いますが、だんだんお解りになるようになります。お側の者にでも読ませておききになりますように──。この本は私がたくさん読みました本の中で一番良い本だと思いまして差し上げるのでございますが、殿下がご成人なさいますと、この本の面白味がよくお解りになると思います」
乃木の様子がなんとなく、いつもと違った感じなので、皇太子殿下は、虫が知らせたのだろうか、「院長閣下は、どこかへ行かれるのですか」とお尋ねになった。
 すると、乃木は一段と声を落して、「はい──私は、ただいま、ご大葬について、英国コンノート殿下のご接伴役をおおせつかっております。コンノート殿下が英国へお帰りの途中、ずっとお供申し上げなければなりません。遠い所へ参りますので、学習院の卒業式には多分出られないと思います。それで、本日お伺いしたのでございます」と、お答えした。
 それから六十六年を経た昭和五十三年十月十二日、松栄会(宮内庁OB幹部会)の拝謁があり、宮内庁総務課長を務めた大野健雄氏は陛下に近況などを申し上げる機会に恵まれた。大野氏が「先般、山鹿素行の例祭が宗参寺において執り行われました。その際、明治四十年乃木大将自筆の祭文がございまして、私ことのほか感激致しました。中朝事実をかつて献上のこともある由、聞き及びましたが……」と申し上げると、陛下は即座に、「あれは乃木の自決する直前だったのだね。自分はまだ初等科だったので中朝事実など難しいものは当時は分からなかったが、二部あった。赤丸がついており、大切にしていた」と大変懐しく、なお続けてお話なさりたいご様子だったが、後に順番を待つ人もいたので、大野氏は拝礼して辞去したという。

スメラ学塾①─日本的世界観を目指して

 『日本百年戦争宣言』で知られる孤高のエリート軍人・高嶋辰彦に思想的影響を与えた人物の一人が、仲小路彰である。高嶋が仲小路と初めて会ったのは、昭和十三年十月二十七日のことであった。
 独自の「日本世界主義」思想を展開していた仲小路らは、昭和十五年に「スメラ学塾」を立ち上げた。その講義の中核を担ったのは、国民精神文化研究所に所属していた小島威彦である。小島は、日本中心の独創的な世界史を講じた。

 仲小路は、昭和十七年に『米英の罪悪史』を著し、以下のように書いている。ここには、欧米的価値観に基づいた政治システムに対する鋭い批判が示されている。
 〈思へば、英米の議会主義政治、政党主義的政治は一時全く世界政治の理想の如く宣伝され、その自由主義的民主政治は、実に政治的体制の典型として偶像化されました。これを以て進歩的なりとし、それに反対するものを悉く反動的保守的として排撃し、英米はその政治的偶像をもつて他のすべての諸国を、その政治的統制の下に独裁するのでありました。あらゆる植民地国は、自らの伝統的なる政治組織をもつて全く旧きものとして廃棄し、英国的政治の体制下に編入され細胞化されるのでありました。しかももし一国が強大となるや、これを抑圧するために、米英には適し、その国には不利なる米英的憲法、法律等を制定せしめ、さらにそれを英米的世界の現状維持のみを擬護する国際法をもつてしめつけ、全くその自由を剥奪することを以て、自由主義政治と称せしめ、彼等をして全く英米化し、米英依存せしめるのでありました。しかもすでに民主主義的なる米英的世界秩序は、それ自らの中に矛盾を激化し、末期的没落に瀕するのであります。
 かくして今次の大戦こそ、それ等一切の旧き民主主義的米英勢力圏を徹底的に粉砕すべき戦争であります。もしそれを為さずして、たゞ従来の米英的支配権を排撃して、それに代るに再び自らが米英的地位を占め、その搾取を繰返すことあるか、それともまた米英的なる近代国家体制、民主主義政体を植民地の独立として実施するか、或はまたソヴエート的なる民族解放理論がいかなるものなるを認識せず、帝国主義侵略を避けんとして、東亜の解放を実現せんとする如きあらば、これは全く皇軍の赫々たる戦果を無にするのみならず、却つて大東亜民族は不統一のまま殆ど救はるることなく、遂に克服すべからざる禍根を残すこととなるでありませう。まさに近代民主国家を根本的に否定し、海月なす、たゞよへる国々を修理固成するすめらみくにの国生みとしての日本世界史建設の大東亜皇化圏、すめら太平洋圏の復興を実現し、かくて大御稜威の下、アジアは渾然として、その根源的なるものに帰一するは、それ自らの本質的運命であります〉
 この仲小路の言説は、英米型民主主義を絶対視する、わが国の戦後言論空間においては、理解し難いものかもしれない。しかし、我々は改めて英米型民主主義が絶対なのかを問い直すべきではないか。

頼山陽『日本外史』論賛①─足利氏

 頼山陽は、『日本外史』「足利氏論賛」において、以下のように書いている。
 〈外史氏曰く。源氏は王土を攘(ぬす)み、以て王臣を攘(ひ)く者なり。足利氏は王土を奪ひ、以て王臣を役する者なり。故に足利氏の罪を論ずれば源氏に浮(す)ぐ。而して源氏は再伝して亡び、足利氏は乃ちこれを十三世に延(ひ)くを得たる者は、蓋し源氏は宗族を剪除(せんじょ)して、孤立自ら斃る。而して足利氏は子弟・旧臣を封建し、以て相ひ維持するに足る。故に遽(にわか)に滅びざるのみ。然れども其の封建するや、本末軽重の勢を制するを知らず。ここを以て、纔(わずか)に能く一時を偽定すれども、而も反者蝟毛(いもう)の如くにして起る。その中葉以後に至つては、天下禽奔獣遁(きんぽんじゆうとん)し、而して復た制すべがらざるなり。……漫然割与し、動(やや)もすれば一姓をして三四州(赤松・細川・畠山氏らの類)に踞(きよ)するを得しむ。甚しきは、天下六分の一(斯波氏の場合)に居りて、これを能く制するなし。其の鎌倉に封ずるに至つては、室町と二君の如し。遂にその子孫、猜疑相ひ図る(室町の義教と鎌倉の持氏との争ひの類)を致す。而してこれを終ふるに、鎌倉は上杉氏の覆す所となり、室町は細川氏の弱むる所となる。皆所謂る尾大にして掉(ふる)はず、末大にして必ず折るゝ者なり。然れども其のこれをなすは、故あり。彼、其の王家中興の業を奪はんことを計る。故に濫賞侈封、務めてその欲を充て、復たその後を計らず、以て苟も天下を取れり。天下已に集(な)れり。而して裁抑すべからず。一たび問ふ所あれば、眦(まなじり)を裂いて起ちしは、怪しむに足る者なし。彼の欲を充てて、以て我の私を済(な)す。彼、我が私を知つて、その功を以て我に邀(もと)む。我れ何を以てこれを制せんや。蓋し足利氏は、土地・人民を以て天下の豪俊に餌(じ)し、而してこれを掣する能はず。その餌を并せてこれを失ふ。亦た哀むべし。……外史氏曰く、噫、是れ足利氏を助けて虐をなす者なり。夫れ天下、名あり、実あり。昔、我が王家、海内を統馭(とうぎよ)し、租に食(は)み税に衣(き)、而して爵秩(しやくちつ)を以て功労に酬ゆ。この時に当つて、名実の権、並に朝廷に在り。その後に及んで、その名を盗んで敗るゝ者あり。平将門是なり。その実を窃んで成る者あり。源頼朝是なり。その名実を并有せんと欲して、これを両失する者あり。則ち足利氏是なり。……義満に至つては、驕侈(きようし)跋扈、乗輿(天子)に僣擬し、信を外国に通じ、日本国王と称し、旧臣・門族を分ち、以て摂籙(せつろく)・清華に倣ふ。豈に名実を并有せんと欲するに非ずや。朝廷、その贈号を擬するに、太上天皇を以てす。無稽の甚しき、笑を千古に貽(のこ)すと雖も、而も義満の素心の蓄ふる所、亦た以て見るべし。其の早世して志を終へざる、我が邦の幸と謂はざるべけんや。……而して其の旧臣(三管領・四職・七頭を定め、朝廷における五摂家・七清華に倣ったこと)・門族を分つや、所謂る三管管領は皆大封に拠る者なり。既にこれに与ふるに、土地・人民の富を以てし、またこれに仮すに、官号の崇きを以てし、これに授くるに、権柄の要を以てす。是れ奚ぞ虎に伝(つ)くるに翼を以てするに異ならんや。応仁の乱、是れその由つて起る所なり。而して終に上将(足利氏)も亦た虚器を擁すること王室に同じきを致す。その極や、その位号を并せてこれを喪へり。豈に計の失へる者に非ずや。

国体の閑却から復活へ─国史の中軸『神皇正統記』

 平泉澄先生は『国史学の骨髄』において、以下のように書いている。
 〈我国家創造の昔、天照大神が、将に降臨せられんとする皇孫、天津彦々火瓊々杵尊に勅して、
 「葦原の千五百秋の瑞穂の国は是れ吾が子孫の王たるべき地なり。よろしくいまし皇孫 就いて治せ、行矣、宝祚の隆まさん事、まさに天壌と窮なかるべし。」
と宣言せられ、乃ち八坂瓊曲玉、八咫鏡、及び草薙劔を賜はつた事は、今日に於いてこそ、三尺の童子も猶よく之を知つてゐるけれども、そのこゝに至るまでには、閑却より復活への注意すべき変遷があつたのである。即ち奈良時代に在つて、日本書紀を編纂した当時には、この神勅の意義は、未だ十分に認識せられずして、書紀の本文には之を欠き、僅に参考として掲げられた一書の中に見えてゐるのみであつた。而して古事記や古語拾遺には、或は神勅を記して詳でなく、或は神器を挙げて悉してゐない。もしそれ扶桑略記愚管抄等に至つては、末世末法の思想に惑溺したるもの、天壌無窮の確信がないのは、むしろ当然であつた。しかるにこの神勅と神器とは、北畠親房によつて燦然として光彩を放ち来りた。彼はその著神皇正統記に於いて、この神勅を大書し、この神器を重視し、之を以て天皇の御位の印証とし、又之を以て百王説を打破つた。
(中略)
神皇正統記一度出でゝ、建国の精神は生き生きとこゝに復活し来つた。而してこゝに一度復活しては、大日本史再び之を伝承し、幕末に及んで、この精神全国民に普及するや、こゝに明治維新の大業は成つたのである。神皇正統記は一巻の書籍よく国家を支へたるもの、前に遠く建国創業をのぞみ、後に遥に明治維新を呼ぶ所の、国史の中軸である〉

尾張藩藩校・明倫堂の歴史②─『愛知県立明和高等学校 二百年小史』より


尾張藩國體思想の発展は、藩校・明倫堂の歴史と密接に関わっている。この明倫堂の伝統を受け継いだ明倫中学校と愛知県第一高等女学校を前身とし、昭和二十三年に設立されたのが、愛知県立明和高等学校である。以下、『愛知県立明和高等学校 二百年小史』(昭和五十八年)に掲載された年表を引く。
[前回から続く]〈●天明五(一七八五)年六月十三日、明倫堂東隣に聖堂を建つ。
「先聖殿」の額はここに移された。額はいま徳川美術館にある。

●寛政四(一七九二)年四月十九日、岡田新川、明倫堂督学となる。
この年、秦鼎(はたかなえ)教授となる。

●寛政七(一七九五)年七月二十三日、石川香山、督学並びに経述館総裁。
新川・香山の時、学生七十名程、朱子学を講じた。(典籍秘録)

●享和元(一八〇一)年六月十日、冡田大峰、御儒者として召出さる。
大峰が御儒者となってから、恩田薫楼、奥田鴬谷(仝二年)、高田権之丞、秦世寿(四年)、林南涯、児玉一郎兵衛、能井東九郎(六年)教授となる。

●文化八(一八一一)年五月十八日、冡田大峰、督学となる。
冡田大峰は寛政異学の禁以来用いられた朱子学を廃め古学に復し、平洲の学を継ぎ、治道と学問とを一致させようとした。平洲歿(享和元)時、弔文を書いたのは大峰である。明倫堂出身者の登用のため撰挙科目、読書次第を制す。(明治二年まで)「学問の用心、孝悌忠信を本とし、政事之道を心得て、もし一官一職に任ぜらるれば、其官職相応の謀慮を発し、治安の一助をなさんと志し、本業と助業とを分ちて孝経・論語をはじめ、経義を研究するを本業とし、史子、百書に博渉して、其時世の興廃、人物の得失を弁ずるを助業とする也。」 Continue reading “尾張藩藩校・明倫堂の歴史②─『愛知県立明和高等学校 二百年小史』より” »

浅見絅斎著・近藤啓吾訳注・松本丘編『靖献遺言』(講談社学術文庫)

 平成29年12月25日に逝去された近藤啓吾先生の『靖献遺言講義』が再編集され、講談社学術文庫として、平成30年12月に刊行された。
 『靖献遺言』は山崎闇斎の高弟浅見絅斎が貞享4(1687)に著した書。中国の忠臣義士8人(屈平・諸葛亮・陶潜・顔真卿・文天祥・謝枋得・劉因・方孝孺)の事跡と、終焉に臨んで発せられた忠魂義胆の声を収めている。

 絅斎は「『靖献遺言』の後に書す」で以下のように書いている。
 「古今の忠臣義士の平生に於いて心のうちに確立しているところの規範、死に臨んでいい置いた遺言、いずれも君国の大変の際にあらわれて、史伝のうちに明らかに記されているのである。わたくしはそれを拝読しさらにくり返して考えるたびに、その純粋にして確乎、しかも已むに已まれぬ深き思いに満ちた心、一点の曇りも蔭もなく、鉄壁を破らんばかりの傑出した気象に触れ、まさしくわが身も当時にあってその人々の風采に接した思いを生じ、感激敬慕奮起、已めんとして已むるあたわざるを覚えるのである。まことに尊いことといわねばならない。
(中略)
 まことに箕子逝きて久しくなるが、その、みずから靖じみずから先王に献じた精神は、万古を貫いて彼此一体、後世の忠臣義士の精神とへだてなきこと、本書に見て来た通りである。されば後世のこの書を読む人々よ、自己の心の何たるかを知らんとするならば、これを遠くに求めることを必要とせぬ。わがうちなるこの靖献の一念、これこそわが心の本体に外ならぬのである」

 再編集の任に当たられた皇學館大学教授の松本丘先生は、「学術文庫版刊行にあたって」を以下のように結んでいる。
 「本書に登場する忠臣義士の、壮烈あり、憂憤あり、自若あり、さまざまなかたちで道義を貫いた姿、それとは逆に暴戻あり、追従あり、保身あり、後世に汚名を残した奸邪の人々の態度、現在の我々にとっても、そこから学び取ることは少なくない。最後に、前掲した「靖献遺言講義に題す」に記された近藤先生の語を掲げて拙文を終えることとする。

 我等が本書からいかなる教へを得るかは、我等みづからの志のいかんによつて定まることで、漠然と本書に対しても本書は何も語らぬであらう。されば本書より教へを得るためには、我等みづからが今日何をなすべきかといふ目標を持たねばならぬ。その目標を持つて本書を繙く時、本書は我等に重大なる道を指示せられるのである。」

尾張藩の明倫堂と崎門学①

 斎藤悳太郎『二十六大藩の藩学と士風』(全国書房、昭和19年)は、尾張藩の明倫堂について、以下のように書いている。
〈嘉永六年、尾張徳川家十四代の君主慶勝は、藩学明倫堂における文武修業について、藩士に対しこれを激励する九箇条の直書を発したが、武技稽古場に貼り出されたものは次のごときものであつた。
一、方今皇国の形勢不容易厄運に当り日々切迫に趨り不安之時節に候。然ば当家之儀は随一の親藩として諸藩の標的共可相成国柄に候処、昇平年久しく殊更四通八達之地故に自然之習士林之風気
柔情に移り易く、義勇発奮之武断は却而諸藩に謨候様相成侯而は、皇武祖先に奉対、忠孝之瑕瑾、万世不磨之恥辱と可相成誠以国家之苦心此事に止り候。就夫学校は一国士風之亀鑑に付先是より流弊一新之源を可開申存念侯間、何も此主意を身に体し発奮可有之事。
一、尾籍国校学生たる者、天下に押出して、夫程の人体に無之侯ては、可恥之至也。以来は文武之嗜、其格に叶侯者ならでは、学生は取立間敷侯。―─
時に明倫堂の督学は阿部松園であつたが、前年江戸に出て水戸の弘道館総裁となつた。前年督学正木梅谷の頃から校運やや振はず、一藩の士風また因循して進取の気を欠くものがあるので、慶勝座視するに忍びず、つひに直書を下して藩学を督励し、士気を鼓舞せんとしたものである〉
同書はまた、外国船が日本に頻繁に来るようになった文化年間(一八〇四~一八一八年)の明倫堂について、次のように書いている。
〈近年外国の艦鉛が来航して以来、物情騒然人心沸騰、天下漸やく事有んとする形勢になつたので、一藩の士人はいふに及ばず、学内の生員でも、すでに壮年以上のもの、また心ある教師らもひそかに『靖献遺言』や『新論』を読まざるものなきにいたつた

中野正剛の天皇親政論─『建武中興史論』序文

 中野正剛は、頼山陽の思想を通じて天皇親政の理想を追い求めていた。『建武中興史論』の序文(昭和18年春)では、次のように書いている。
〈『日本外史」全篇を通読いたしますと、頼山陽の理想は、天皇親政のむかしに還ることを憧れているのであり、きびしく武門政治を非難しておりますが、それは武門であるがためにこれを憎むのではなく、特殊の権力階級が分を乱すことを憤つているのであります。
彼は、北条氏、足利氏を排撃するとともに、藤原氏 蘇我氏を排撃し、天皇親政のむかしに還ることを理想としているのです。しかし、山陽の理想とする天皇親政は、単に天皇が単独で随意に政治を行うというのではなく、天皇と国民との間を阻隔する世襲的権力階層の存在をゆるさないのであります。親政と申しましても、政治であるからには、万民を対象としなければなりません。一国を統治し、万民を支配するためには、どうしても社会を、民衆を、正確に認識しなければなりません。それも上から一方的に認識するのではなく、日本全民族の中心に立ち、人民の中で、人民と脈搏をともにし、人民の体温を感じながら、義は君臣にして、情は父子という政治を行うというのが、山陽の理想とする天皇親政の意味であります。
山陽の親政とは、天皇を人民からかけはなれた雲の上の存在として、あがめ奉つておくことではなく、天皇は民とともにあつて、その間に何ものの介在をもゆるさないことでなければなりません。古代の氏族政治、それから下つて相門政治、武門政治と歴史は変動し、世の中は変つたが、日本民族が膨張して社会が複雑になつて来れば、天皇親政も、一君万民の大義を秩序だてる政治の様式がなければならず、頼山陽の天皇親政論は、社会の変遷を通観して、徳川時代の末期に当つて、やがて生れ出ずべき明治の親政を示唆しているものといえます。中世の封建時代の勢力に対抗して、古代を理想とするロマン主義が、フランス革命の原動力となつたように、頼山陽の勤王思想は、革命勢力の心の糧として、明治の志士たちを力づけたのです。フランス革命にたいするヴオルテールの役割を、山陽が日本ではたしたといつてはいいすぎでしようか。
日本の武門政治は、建久三年(一一九二年)に源頼朝が、鎌介幕府を開いてから、慶應三年(一八六七年)に徳川慶喜が政大を奉還するまで、六百七十六年つづいておりますが、このながい覇道政治を中断しているのは、年月からいえば、わずかに三年六ヵ月の建武中興時代であります。この時代は、源氏、北条氏とつづいた武門政治が打倒され、一たびは天皇親政のもとに全国が統一されましたが、やがてすぐに足利の反逆となり、足利時代が生れ、さらに諸国の武士が争う戦国時代となり、織田、豊臣、徳川時代を経て、ついに明治維新となりましたが、この中途で現われた建武中興がどうして成立し、どうしてまた敗れたか──これについて、頼山陽の書いた筆の跡をたどつて読んでみると、あまりりくつをならべないで、すべてこの日本人の胸底に眠る国民的感情をゆり起し、自覚を呼び、そこに信念を生じ、期せずして、眼前の国難に殉ずべきわれわれの態度を決定させるものがあります。
(中略)
建武中興は輝かしい日本精神の発露であるとともに、悲壮な天皇政治失敗の歴史であります。しかし、明治維新は建武中興の試錬を経て、その成敗の跡を学んだからこそ成就したのであります。しかもなお、明治民権政治の歴史も、官閥、軍閥、財閥、藩閥など、閥族政治と民衆との闘いの歴史であり、今日また難局に直面しているのは、閥族政治を払拭しきれなかつた明治維新の不徹底によるのであります。われわれが歴史に学びたいのは、歴史を動かしている真の力が何であるかを身をもつて体得し、実践して行くこととであります〉

葦津珍彦の山県大弐論

 
 葦津珍彦は「万世一系と革命説─日本思想史における放伐論の展開」(『天皇─日本のいのち』所収)において、明治維新の原動力としての山県大弐『柳子新論』について、次のように書いている。
 〈山県大弐は、激烈な放伐論の主張者として名著『柳子新論』を書いた。かれは天の民とその志を同じうし、天の民を救ふがために、国君を放伐するのは義であると断じた。しかもかれは、それを抽象的な政治哲学上の理法としてではなく、当時の社会情勢の現実が、人民を苦しめてゐる実情を大胆に列記し指摘して、正義の士が決起して放伐のために行動すべきことを訴へたのである。大弐の放伐論は、明らかに孟子の流れをくむものではあるが、その論は、孟子よりもさらに精鋭に理をつくし、さらに烈々たる実践的情熱に燃え立ってゐる。かれは明和四年に捕へられて死罪となった。あたかも明治維新をさかのぼること満百年、討幕のために一命をささげた最初の人となった。この山県大弐の『柳子新論』は、日本の政治思想史の上で、異彩を放つものである。それは、民と志を同じうする者の放伐を義としたのみでなく、あらゆる点で、新しい世代への予告を暗示する多くの思想をしめしてゐる。……それは権力の実際的行使者(幕府の征夷大将軍や藩の国君)に対する放伐を痛論してゐるのであって、皇位に対する尊王の大義は、厳としてこれを固守してゐる。これは公然たる尊王討幕の先駆的宣言である。
 江戸時代には封建武士的な意味での忠義の意識が強固であった。尊王の意識は大きくとも、武士は藩主に対して忠、藩主は将軍に対して忠、将軍も亦天朝に対して忠との系列において忠が考へられた。それ故に幕末の政局が動揺し、幕府の政策に対する批判の声が高まった時代になっても、先覚者たちもほとんどが、幕府の天朝に対する忠誠的協力を要望するいはゆる「公武一和」のイディオロギーの上に立って、幕政の改革を主張するにとどまって、幕府への放伐(討幕)を主張する思想は、なかなかに生じなかった。
(中略)
 私は、幕末の志士の中で『柳子新論』の読者が、どの程度の範囲に及んだかは詳かにしえないけれども、この書が公武一和的なイディオロギー教条の中に低迷してゐた封建武士を、断固として討幕へと踏みきらせた力は、大きかったと思ふ。
(中略)
 明治維新といふ大きな変革の史的意味は、複雑であって必ずしも一概には断じがたいものがあるけれども、これを王政復古、討幕であったとすれば、その討幕とは、まさに大弐が主張したところの権力行使者(幕府)に対する放伐以外のなにものでもないといふことができるであらう〉