「『日本外史』」カテゴリーアーカイブ

中野正剛の天皇親政論─『建武中興史論』序文

 中野正剛は、頼山陽の思想を通じて天皇親政の理想を追い求めていた。『建武中興史論』の序文(昭和18年春)では、次のように書いている。
〈『日本外史」全篇を通読いたしますと、頼山陽の理想は、天皇親政のむかしに還ることを憧れているのであり、きびしく武門政治を非難しておりますが、それは武門であるがためにこれを憎むのではなく、特殊の権力階級が分を乱すことを憤つているのであります。
彼は、北条氏、足利氏を排撃するとともに、藤原氏 蘇我氏を排撃し、天皇親政のむかしに還ることを理想としているのです。しかし、山陽の理想とする天皇親政は、単に天皇が単独で随意に政治を行うというのではなく、天皇と国民との間を阻隔する世襲的権力階層の存在をゆるさないのであります。親政と申しましても、政治であるからには、万民を対象としなければなりません。一国を統治し、万民を支配するためには、どうしても社会を、民衆を、正確に認識しなければなりません。それも上から一方的に認識するのではなく、日本全民族の中心に立ち、人民の中で、人民と脈搏をともにし、人民の体温を感じながら、義は君臣にして、情は父子という政治を行うというのが、山陽の理想とする天皇親政の意味であります。
山陽の親政とは、天皇を人民からかけはなれた雲の上の存在として、あがめ奉つておくことではなく、天皇は民とともにあつて、その間に何ものの介在をもゆるさないことでなければなりません。古代の氏族政治、それから下つて相門政治、武門政治と歴史は変動し、世の中は変つたが、日本民族が膨張して社会が複雑になつて来れば、天皇親政も、一君万民の大義を秩序だてる政治の様式がなければならず、頼山陽の天皇親政論は、社会の変遷を通観して、徳川時代の末期に当つて、やがて生れ出ずべき明治の親政を示唆しているものといえます。中世の封建時代の勢力に対抗して、古代を理想とするロマン主義が、フランス革命の原動力となつたように、頼山陽の勤王思想は、革命勢力の心の糧として、明治の志士たちを力づけたのです。フランス革命にたいするヴオルテールの役割を、山陽が日本ではたしたといつてはいいすぎでしようか。
日本の武門政治は、建久三年(一一九二年)に源頼朝が、鎌介幕府を開いてから、慶應三年(一八六七年)に徳川慶喜が政大を奉還するまで、六百七十六年つづいておりますが、このながい覇道政治を中断しているのは、年月からいえば、わずかに三年六ヵ月の建武中興時代であります。この時代は、源氏、北条氏とつづいた武門政治が打倒され、一たびは天皇親政のもとに全国が統一されましたが、やがてすぐに足利の反逆となり、足利時代が生れ、さらに諸国の武士が争う戦国時代となり、織田、豊臣、徳川時代を経て、ついに明治維新となりましたが、この中途で現われた建武中興がどうして成立し、どうしてまた敗れたか──これについて、頼山陽の書いた筆の跡をたどつて読んでみると、あまりりくつをならべないで、すべてこの日本人の胸底に眠る国民的感情をゆり起し、自覚を呼び、そこに信念を生じ、期せずして、眼前の国難に殉ずべきわれわれの態度を決定させるものがあります。
(中略)
建武中興は輝かしい日本精神の発露であるとともに、悲壮な天皇政治失敗の歴史であります。しかし、明治維新は建武中興の試錬を経て、その成敗の跡を学んだからこそ成就したのであります。しかもなお、明治民権政治の歴史も、官閥、軍閥、財閥、藩閥など、閥族政治と民衆との闘いの歴史であり、今日また難局に直面しているのは、閥族政治を払拭しきれなかつた明治維新の不徹底によるのであります。われわれが歴史に学びたいのは、歴史を動かしている真の力が何であるかを身をもつて体得し、実践して行くこととであります〉

大楽源太郎の私塾「西山書屋」規則、授業内容

 大楽源太郎は慶応二年に私塾「西山書屋」(敬神堂)を開設した。塾規則、授業の日割は以下の通り。

●西山塾規則
一、第一君公の御主意を相守り、寮中親睦致し、練武学文懈怠なく勉強肝要之事
一、喧嘩口論高声堅く禁止之事付而俗曲同断之事
一、猥に外出堅く禁止の事但し難容用事之れ有候節は頭役座元へ相届外出致すべく侯
一、朔日十の日休日の事
一、朝六ツ時より五ツ時まで撃剣稽古の事
一、六ツ時より七ツ時まで読書稽古の事
一、暮六ツ時より四ツ時まで同断の事
一、二四六九日銃陣稽古のこと、但し四九日は九ツ時より七ツ時迄の事 其の余は諸稽古勝手次第の事
   正月    敬神堂
 右の条々堅相守侯事

●授業の日割
 朔 日 休業
 ニノ日 会読(論語、弘道館記述義)
 三ノ日 同(外史)
 四ノ日 同(靖献遺言、新論)
 五ノ日 同(論語、弘道館記述義)
 六ノ日 同(弘道館記述義)
 七ノ日 同(外史)
 八ノ日 同(靖献遺言)
 九ノ日 同(弘道館記述義、新論)
 十ノ日 休業
 十一日/二十一日 詩文国詩随意 

『GHQが恐れた崎門学』書評(平成29年7月)

 
 『敗戦復興の千年史』(展転社)の著者、山本直人氏が『表現者』平成29年7月号に、「歴史を動かす原動力とは」と題して、拙著『GHQが恐れた崎門学』の書評を書いてくださった。誠にありがたい事だ。
 〈マルクスの思想がレーニンのロシア革命を生み、北一輝の思想が二・二六事件の青年将校を動かした様に、或る特定の思想が思いがけない原動力となる例はそう多くはない。歴史とは様々な偶然が重なりあって、予期せぬ方向に発展するのが常だからだ。では七百年もの武家政治を終わらせた明治維新の原動力とは何であったか。それは黒船来港の外圧の結果や関ヶ原の西軍勢力の巻き返しのみで説明しうるものなのか。そうした中、本書では、幕末の志士たちの「自らの思想と行動を支える教科書」、「聖典」として、浅見絅斎の『靖献遺言』をはじめとする五冊の書物を取り上げている。一見何の脈絡もないこれらの書物の点と線とを結ぶ接点は何であったか。それが「明治維新を導いた國體思想」としての「崎門学」である。
 「崎門学」とは、垂加神道の提唱者として知られる山崎闇斎の門流から発展した思想である。「君臣の大義と内外(自国と他国)の別」を強調した闇斎は、江戸幕府初期にあって既に天皇親政の理想を掲げていたというのだ。つまり明治維新よりも百年以上も昔に、「朝権回復」を目指したのが、崎門学派だったことになる。
 例えば安政の大獄で命を落とした梅田雲浜、宝暦事件で朝廷を倒幕に導こうとしたとされる竹内式部、楠公精神を継いで討幕に向かった真木和泉、それらの思想背景には、大義のために命をものともしなかった中国の烈士たちを描いた『靖献遺言』の思想があった。また吉田松陰を討幕派に導いたものこそ、明和事件で処刑された山県大弐の『柳子新論』に他ならない。その志は高山彦九郎を経て、昭和維新の権藤成卿にまで引き継がれている。そして歴代天皇の山陵修補を提言した『山陵志』。その源流は、朝権衰退を憂えた栗山潜鋒の『保建大記』にあった。蒲生君平の遺志は、水戸学と合流し、藤田東湖の国体思想へと発展する。さらには、徳川氏を賛美したとされる頼山陽の『日本外史』の底流にも幕政批判があり、頼家三代における崎門学派との交流があったことを忘れない。
 平成三十年で明治維新百五十年を迎えるが、「明治」といえば文明開化以降の日本における近代化の出発点と見做されがちである。それどころか『明治維新という過ち』という書物にも象徴される様に、未曾有の国難を乗り越えた先哲たちを過剰な表現で貶める現象までが生じ始めている。「尊王攘夷」や「王政復古」の思想の源流については、これまでは国学や水戸学といった近世思想が注目されてきた。しかしながら、崎門学とは何か、初学者向けに解説した本は皆無だったといっていい。「明治」とはいかなる時代であったのか、さらに踏みこんで、「維新」の源流はどこに見出せるのか。本書はその解明に一つの手がかりを示してくれるだろう。〉

先帝陛下の御学問─杉浦重剛「倫理御進講草案」大義名分

 先帝陛下(当時皇太子殿下)が学習院初等科をご卒業されたのを機に、大正3(1914)年5月、東宮御学問所が設立された。歴史担当・白鳥庫吉、地理担当・石井国次など、16科目の担当が決まったが、肝心の倫理の御用掛が決まらなかった。帝王学を進講する倫理担当には、和漢洋の知識に通じ、高い識見人格を備えていることが求められた。
 東郷平八郎総裁、波多野敬直副総裁らが慎重な協議を続け、元第一高等学校長として名声の高かった狩野亮吉の名が挙がったが、狩野はその任務の重さを恐れ辞退した。このとき、杉浦重剛の真価を知るものは、御進講の適任者として彼のことを考え始めていたのである。御教育主任の白鳥庫吉から相談を受けた澤柳政太郎は「杉浦さんがよいではないか」と杉浦の名を挙げた(『伝記』二百六頁)。これに白鳥も賛同、東郷総裁の意を受けて小笠原長生子爵が改めて杉浦の人物について調査した結果、「杉浦といふ人は命がけで事に当る人だと思ひます」と報告した。東郷は「それだけ聞けばよろしい」と言って、直ちに決定したという。 Continue reading “先帝陛下の御学問─杉浦重剛「倫理御進講草案」大義名分” »

幕末志士の学問─鳥巣通明『明治維新と志士』

 明治維新を導いた幕末の志士とはいかなる存在だったのか。彼らが極めんとした学問とはどのようなものだったのか。それを知るための貴重な一冊がある。平泉澄門下の鳥巣通明が、明治維新100年に当たって著した『明治維新と志士』(神社本庁 明治維新百年記念叢書 2、昭和41年)である。
 鳥巣は「志士の性格」の一節で、次のように書いている。
 〈おそらくマス・コミの影響によるものであらう、志士と云へば、世間ではとかく花柳の巷に出入りしては新撰組や幕府側の捕吏と血斗する姿を連想する人が多いやうである。テレビ・映画や小説をすべてフイクションと云ふのではない。牒報網や密偵をまくために、彼等は料亭や遊廓を利用して会合することが多かつた。明日をもはかられぬ生命である、時に生活が奔放に流れる者がゐたのも事実であつた。そこに、明治から今日まで跡を絶たない待合政治の源流がある、と説く人もゐるほどである。だが、それは志士たちの生活の一コマにすぎない。しかも彼等の間には、そのやうな生活を自戒する雰囲気が強かつたのである。例へば、長州の志士井上聞多が高杉晋作と一緒に京都三条通りの旗亭に投宿した時、同じく松下村塾で学んだ野村和作・入江九一が訪ねて行つて、
 朝廷でも憂慮せられ、藩公も日夜国事に奔走してゐる時勢だから、われわれも妓楼や旗亭で国事を談ずることはつつしむべきだ。同志一同協議した結果、今後妓楼・旗亭に登るのをやめることにし、違反する者があれば、詰腹を切らせることにした。貴君等もこの盟約に加入されたい。
と申入れてゐることを注目しておこう。岩倉が云つたやうに志士と市井の放蕩無頼の徒との間には、はつきり一線を画して論ずべきであらう。 Continue reading “幕末志士の学問─鳥巣通明『明治維新と志士』” »

神宮皇学館惟神道場『日本精神』目次

 昭和15年に刊行された神宮皇学館惟神道場『日本精神』(惟神叢書 第5編)の目次を紹介する。崎門系あるいは崎門の影響を受けた著書には★。

 一 天神の詔命(古事記)
 二 伊邪那岐命の詔命(古事記)
 三 三種の神器と天孫降臨の神勅(日本書紀)
 四 神武天皇帝都の御経営(日本書紀)
 五 調伊企儺の勇武(日本書紀)
 六 文武天皇即位の宣命(続日本紀)
 七 大伴家持の長歌並に短歌(万葉集)
 八 火長今奉部与曽布の歌(万葉集)
 九 大伴家持の歌(万葉集)
 一〇 蟻通し明神の故事(清少納言枕草子)
 一一 藤原光頼の意見(保元物語)
 一二 平重盛の諌言(平家物語)
 一三 朝敵素懐を遂げず(平家物語)
 一四 夙夜忠(宴曲抄)
 一五 大日本は神国なり(神皇正統記)
 一六 日本と印度・支那との比較(神皇正統記)
 一七 楠木正成の奉答(太平記)
 一八 楠木正行最後の参内(太平記)
 一九 承久変に対する批判(増鏡)
 二〇 日本記(舞の本)
 二一 白楽天(謡曲)
 二二 鷺(謡曲)
 二三 弓箭とりの心得(竹馬抄)
 二四 君に仕へたてまつる事(竹馬抄)
 二五 中朝事実著述の由縁(中朝事実)
★二六 山崎闇斎と門人との問答(先哲叢談前編)
★二七 方孝孺の精忠(靖献遺言)
 二八 源親房伝賛(大日本史賛薮)
★二九 正名論(柳子新論)
★三〇 神州は太陽の出づる所(新論)
 三一 本居宣長の長歌(鈴屋集)
★三二 楠氏論(日本外史)
★三三 筑後河を下る(山陽詩鈔)
★三四 封冊を裂く(日本楽府)
 三五 侠客伝著述の主旨(開巻驚奇侠客伝)
 三六 皇国が万国に優れる理由(大道或問)
★三七 國體の尊厳(弘道館述義)

『GHQが恐れた崎門学』書評6(平成28年12月5日)

 皇學館大学教授の松本丘先生に『神社新報』(平成28年12月5日)で、拙著『GHQが恐れた崎門学』の書評をしていただきました。心より感謝申し上げます。

受け継がれる崎門学 現代的な意義も詳述
 崎門学、すなはち江戸前期の儒学者で、垂加神道を唱へた山崎闇斎の学問と、GHQといふ取合せに、やや意外の感を受ける向きもあるかも知れないが、本書を読み進んでゆけば、すぐにその理由が理解されるであらう。それほどにわが国の歴史における崎門学の存在感が大きいといふことである。
 著者の坪内氏は、これまで『月刊日本』誌上にて、近代志土たちの評伝や、明治維新の先駆となった先哲たちについての記事を長く連載され、また、崎門学研究会を開いてその顧問を務め、崎門重要書の精読を続けられてゐる。
 さて本書では、「志士の魂を揺さぶった五冊」として、浅見絅斎の『靖献遺言』、栗山潜鋒の『保建大記』、山県大弐の『柳子新論』、蒲生君平の『山陵志』、頼山陽の『日本外史』が取り上げられてゐる。それぞれの内容はもとよりであるが、これらの書に崎門学が如何に滲透してゐるのかが明快に説かれてゐる。その記述には、高山彦九郎、真木和泉、吉田松陰をはじめとする勤王家はもちろん、近代の高場乱、権藤成卿といった人物まで登場してをり、明治の王政復古は、崎門学無くしては成らなかったことを改めて認識させられる。
 これは、著者が説かれるやうに「君臣の大義の貫徹に支えられるわが國體が、自らの覚悟と実践に宿る」と信ずる崎門学徒の辛苦の営みによってもたらされたものであった。
 著者は、本書にて強調せんとしたことを「大義によって時代が切り開かれた歴史であり、先人の行為を高みに立って批評家として論うのではなく、その尊さを仰ぎ見る謙虚な姿勢、さらに言えば國體護持に挺身した先人に自ら連なるうとする日本人としての自覚です」と纏められてゐる。かうした著者の真摯なる筆致からは、崎門の学脈が現代にも確乎として受け継がれてゐることを確信することができる。
 なほ、補論では大宅壮一氏や最近の原田伊織氏の明治維新観が俎上に上げられ、痛烈な批判が展開されてゐる。さらに、著者と共に崎門学を研究されてゐる崎門学研究会代表の折本龍則氏による「いま何故、崎門学なのか」も附載されてゐて、崎門学の現代的意義も述べられてゐる。
 本書の発刊に同学の一人として敬意を表すると共に、多くの有志によって繙れんことを祈る次第である。

志士の魂を揺さぶった五冊

『GHQが恐れた崎門学 明治維新を導いた國體思想とは何か』(展転社) 拙著『GHQが恐れた崎門学』では、浅見絅斎の『靖献遺言』、栗山潜鋒の『保建大記』、山県大弐の『柳子新論』、蒲生君平の『山陵志』、頼山陽の『日本外史』の五冊に焦点を当てた。
 この五冊の概要について紹介した箇所を引く。
①浅見絅斎の『靖献遺言』は、君臣の大義を抽象的な理論ではなく、歴史の具体的な事実によって示そうとしたものです。中国の忠孝義烈の士八人(屈平・諸葛亮・陶潜・顔真卿・文天祥・謝枋得・劉因・方孝孺)の事跡と、終焉に臨んで発せられた忠魂義胆の声を収めています。その一人、明の建文帝側近として活躍した方孝孺(一三五七~一四〇二年)は、建文帝から権力を簒奪した燕王・朱棣(永楽帝)に従うことなく節を貫き、壮絶な最期を遂げました。『靖献遺言』には、口の両側を切り裂かれ、耳まで切りひろげられ、七日間にわたって拷問されてもなお、死の瞬間まで永楽帝を罵り続けた方孝孺の姿が描かれています。『靖献遺言』は、梅田雲浜、有馬新七、橋本左内、真木和泉、吉田松陰らの志士に強い影響を与えました。

②闇斎門下の桑名松雲に師事した栗山潜鋒の『保建大記』は、後白河天皇践祚から崩御に至る、久寿二(一一五五)年から建久三(一一九二)年までの三十八年間を扱い、皇室の衰微と武家政治の萌兆をもたらした戦乱の根源を究明した書物です。もともと、同書は、潜鋒が後西天皇の皇子尚仁親王(一六七一~一六八九年)に献上した『保平綱史』を増補したものです。

③闇斎の高弟・三宅尚斎に儒学を、また玉木正英に垂加神道を学んだ加賀美光章に師事した山県大弐の『柳子新論』は、「正名、得一、人文、大体、文武、天民、編民、勧士、安民、守業、通貨、利害、富強」の十三編からなり、天皇親政の理想回帰を訴えました。國體の理想が武門政治によって踏みにじられてきた歴史を、大弐は次のように書いています。
 「わが東方の日本の国がらは、神武天皇が国の基礎を始め、徳が輝きうるわしく、努めて利用厚生の政治をおこし、明らかなその徳が天下に広く行きわたることが、一千有余年である。(中略)保元・平治ののちになって、朝廷の政治がしだいに衰え、寿永・文治の乱の結果、政権が東のえびす鎌倉幕府に移り、よろずの政務は一切武力でとり行なわれたが、やがて源氏が衰えると、その臣下の北条氏が権力を独占し、将軍の廃立はその思うままであった。この時においては、昔の天子の礼楽は、すっかりなくなってしまった。足利氏の室町幕府が続いて興ると、武威がますます盛んになり、名称は将軍・執権ではあるが、実は天子の地位を犯しているも同然であった」(西田太一郎訳)

④蒲生君平の『山陵志』は、山陵荒廃は、國體の理想の乱れ、衰えを示す一現象ととらえた彼が、自らの生活を擲って敢行した山陵(天皇陵)調査の結果をまとめたものです。君平は、『山陵志』のほか、『神祇志』『姓族志』『職官志』『服章志』『礼儀志』『民志』『刑志』『兵志』、あわせて「九志」の編纂を目指していました。國體の理想の衰えを嘆き、往古の善政を回復することが彼の志です。『山陵志』を編纂することによって、山陵を大切にする気風を取り戻し、正名主義を確立することが君平の願いだったわけです。

⑤全二十二巻から成る、頼山陽の『日本外史』は、『靖献遺言』とともに志士の聖典と並び称されてきました。特に楠公の事績の部分は、志士の心を強く揺さぶりました。平泉澄は「大義の為に万丈の気を吐いて、数百年の覇業を陋なりとするところ、読む者をして、國體の尊厳にうたれ、自ら王政復古の為に蹶起せしめずんばやまない力がある」と絶賛しています。
 山陽は、広範な読者を得るために、細かな考証よりも、一般の読者が面白く読めるように、文章に急所と山場を作ることに力を注ぎました。彼はまた、『史記』を書写し、音読することによってそのリズムを自分のものとし、見事な漢文を書いて、読者を感動させたのです。

頼山陽・三樹三郎墓参

 平成26年12月23日、頼山陽・三樹三郎墓参のため、円山公園(京都市東山区)の奥にある「長楽寺」を訪れた。ここには、鵜飼吉左衛門・幸吉ら水戸烈士の墓もある。
 『日本外史』「楠氏論賛」の一節を読み返した。
 〈楠氏あらずんば、三器ありと雖も、将た安くに託して、以て四方の望を繋がんや。笠置の夢兆、ここにおいて益々験あり。而るに南風競はず(南朝の気勢があがらない)。倶に傷き共に亡び、終古以てその労を恤むなし。悲しいかな。抑々正閏は殊なりと雖も、卒に一に帰し、能く鴻号を無窮に煕む。公をして知るあらしめば、亦た以て瞑すべし。而してその大節は巍然(高大なさま)として山河と並び存し、以て世道人心を万古の下に維持するに足る。これを姦雄(北条・足利)迭に起り、僅に数百年に伝ふる者に比すれば、その得失果して如何ぞや〉

國體についての国民的合意が求められている─中村武彦氏『尊皇攘夷』

 対米従属から脱し、國體を回復するための本物の維新が、いま求められている。その際、重要になってくるのが、國體についての国民的合意にほかならない。
 民族派の重鎮中村武彦氏は『尊皇攘夷』(今日の問題社、昭和44年)において、次のように指摘していた。
 〈尊攘派と対立した形の開国論者及び佐幕派の人々も、尊皇攘夷の基本精神においては共通していた。意見として対立したのは、開国へ持って行く時期、順序、方法の違いだけであった。当時の日本人はみな常識として日本の歴史を知り、国体観念を持っていた。頼山陽の日本外史や会沢正志斎の新論は、幕末、書物を読むほどの者なら、武士だけでなく、全国の農民商人の間でもひろく読まれ、共鳴されていた。
 幕末の尊攘維新運動の背後には、このような、いわば広汎なる国民的合意のあったことを見落してはならない。さればこそ、一たび大政奉還から皇政復古への道が決定するや、待っていましたとばかりに国を挙げて維新開明の大行進が始まり、全世界が瞠目する明治の奇蹟的な飛躍発展が行はれたのである。現代日本との根本的な違いが此処にある。
 現代日本には頼山陽なく、水戸学なく、ただ圧倒的なる共産主義の宣伝と、所謂三S政策の影響のみがある。占領下に植民地教育を強制されて以来、今なお日本人、殊に若い世代の歴史と国体に関する無知には、救い難いものがある。肇国の神話も明治維新の歴史も教えられず、楠正成も乃木希典も知らない。世界の何処にこのような自虐的な教育をしている国家があろう〉
 中村氏がこう書いてから45年あまりを経た現在も、状況は変わっていない。